第3話
須藤は翌日に目を覚ました。三日後には退院したと、その日の夕方に呼び出しのメールがきた。
スマートフォンを握りしめて高校まで走り、階段を二段飛ばしで駆け上がって屋上に出ると、須藤は柵に手をかけ、下を見ていた。その光景が先日の自分と、そして今の自分の立場が先日の須藤と重なって、寒気がした。
「須藤……?」
微笑みながら振り向いた須藤の、髪も瞳も、そして頰の結晶も、赤い陽の光で妖艶に輝いていた。全身に巻かれた包帯がなければ、映画のワンシーンにでもできただろう。頭上の風鈴が境界を分けていて、彼だけが俺たちとは違う世界に立っているような感覚。
そんな男を目の前に、俺は精一杯の強がりで笑った。
「ミイラかよ」
須藤も笑って答える。
「仕方ないだろ。起きたらこうだったんだ」
「……もう退院って早くないか?しかもそんな体で」
須藤の笑顔が苦笑に変わる。
「鋭いなあ。うん、退院は嘘。桐嶋さんとは話した?」
「うん」
「だったら知ってると思うけど、オレはもう長くない。というか、あと三日と持たない」
「………は……」
「今日呼び出したのはそれを伝えるためなんだ。実は今すごく無理してる。強い薬打って、それでも結晶が溶けなくて、進行を食い止めるので精一杯。筋肉とかは無事だけど、皮膚の表面はほとんどが結晶化してて感覚がない。だから急いで会う必要があった。医者には二時間だけでいいから外に出してくれ、って頼みこんで出てきた」
まだ大丈夫と思って直視するのを無意識に先送りにしてきた死は、この数日で随分と近くまでやって来た。幽霊に取り憑かれていながらもそれに気づかず、やっと今その気配に気づいた、みたいな、そういうべったりとした現実感。
「………――お前はそれ、知ってたのか」
「いや、あと二、三週間は大丈夫だと思ってた」
須藤はあまり動揺していないものの、少し焦って見えた。
「それでさ、オレ、病院に戻る気ないんだ」
「――は?」
何を言い出すんだ彼は。
「ずっと前から決めてたんだ。病室で家族に看取られて死ぬのなんて、嫌だから。死期が近づいたら遠くに行って、一人で死のうって」
俺はもう驚きとか辛さとか、色々と通り越して、呆れていた。
「戻らないって、じゃあどこに行くんだ」
「オレの好きな映画の舞台。聖地巡礼ってやつをやってみたい。家族には悪いけど、最後くらい、自由にさせてほしい。三日程度だったら見つからずに過ごせるだろうし」
「……見つかりたくないなら、どうして俺に話した。俺が黙って行かせると思ったのか?」
「うん。黙ってはいないだろうけど、最終的には行かせてくれるよ。だってお前、お人好しに加えてオレの友達だから。オレの体より、オレの気持ちを尊重するよ」
「………」
「図星だ」
須藤はどうしてこんなに楽しそうなのだろうか。本当にこれから死ぬのだろうか。俺の方がよっぽど、死にそうな顔をしているだろうに。
「行かせるよ。でも俺も連れて行け」
「は?」
「須藤はそれで満足なのかもしれないけど、俺は全然だ。全然、折り合いなんてついてない。聞きたいことがまだ山ほどある」
「いや、それは今聞けば――」
「それに須藤、金持ってるのか?」
「あ……」
「………一緒に行ってやるよ」
「………――頼む」
風に短冊が弄ばれ、風鈴はからからと笑っていた。
***
須藤を探しに誰かが来る前に、さっさとこの街をあとにする必要があった。俺は一度家に寄ってあるだけの貯金を掴み、数日間友達の家に泊まると親に伝えて出てきた。その次に須藤の包帯と結晶を隠すために駅の近くでパーカーを買い、羽織らせ、フードまで被らせた。これで電車には、じろじろと見られずに乗ることができた。
須藤の言っていた場所は幸いにも、電車を乗り継げば数時間で着く距離にあった。最初は人が多かった列車内も、駅に止まるたび、乗り継ぐたびに空いていった。須藤も最初は不本意そうだったが、次第に口を開いてくれた。
「俺、病気のこととか、死を受け入れるっていう感覚、やっぱりわかんないよ。でも、言ってることはわかるんだ。死ぬことを仕方ないって割り切れたら、あとは残った時間を楽しむしかないし、絶対そっちの方が楽だ。俺はただ、宝石病にかかった患者が、そんな考え方をできることが信じられない」
いつの間にか、揺れる電車には隅の方で寝ている酔っ払いと、俺たちしかいなかった。座席の真ん中に座る俺たちは、窓の奥の遠い夜を眺めていた。それはまるで映画を見ているような感覚で、知らない街に滲む夜は恐ろしかった。けれど須藤は、何度も見たお気に入りの映画を見ているような顔をしていた。
「オレは別に信じてもらわなくてもいいけどさ、オレを宝石病の患者じゃなく、お前の友人、須藤透として考えればいいんじゃないか?こんな能天気な人間が、心に闇を抱えているとでも思うのか?そりゃあ、発症したばかりの頃は不安にもなったよ。でも、オレは恵まれてる。いじけてる時間が勿体無いくらいに。家族も友人もいて、映画鑑賞っていう趣味もある。人生に満足していて、憂いなんてないオレの心が作る結晶は、見ての通り無色透明だ。これが証拠にはならないか?」
「……元凶のそいつを、信じる理由にしたくない」
「なんだ、それお前の意地じゃないか。信じたくないだけだろ」
その言葉がストンと落ちて、とてもしっくりときた。それが衝撃だった。その通りだ。
「そうか、これ、意地なのか」
「そうそう。お前は心理学を勉強してるくせに、自分の感情にはとことん鈍いね」
「じゃあ本当に、辛くないのか?」
「しつこいな。俺は逆に信じてもらえなくて辛いね。でもそれもどうでもいいくらいに、楽天的な性格だよ。こういう人間もいるんだ」
「………俺とは真逆だな」
俺は、まだ受け入れられない。
「そうだな、お前には悲観主義者の称号を授けよう」
「いらないよ」
外は相も変わらず真っ暗で、窓には俺たちが映っていた。
笑い声がこもる電車は、夏の夜をひたすら走る。
「……――なあ、須藤。桐嶋さんが好きじゃないっていうの、あれ、ほんと?」
須藤が驚いたような、探るような目を向ける。
「どうして?」
「いや、勘なんだけど、女子と喋ってみたいってだけで、わざわざあんなことするかなって。それに、須藤が俺に嘘を言ってる風には見えなかった」
「……お前、さっきの鈍さどこにいったんだ」
ため息をつく須藤に、理由を聞いた。
「最初は告白するつもりだった。でも、もうすぐ死ぬ自分がそんなことしても、困らせるだけだろうなって。もちろん、桐嶋さんは優しいから笑顔で受け止めてくれただろうけど、多分、そこまでして伝えたいって思うほど、好きじゃなかった。そこまで好きになる前の『好き』なんだと思う」
「うーん、そっか。俺は恋愛したことないからな。いまいちわかんないや」
「悲しい二人だな」
「気にしたら負けだ。それに、今夜は新月なんだから。夏目漱石も愛を語れないよ」
「なんだそりゃ」
ケラケラと笑う須藤は、いつもの顔に戻っていた。それに安心して、でも頰の結晶がちらついて、その安心はすぐに崩れる。そのたびに視線をそらして気持ちを整える。さっきからそればかり繰り返していた。
隅にいた酔っ払いは気づくといなくなっていて、俺たちだけが取り残されたみたいに座っていた。
今は何時だろうか。確認しようにも、携帯は着信が絶えなかったため、二人とも電源を切っていた。たくさんの人が心配している。死が近い病人が病院を抜け出して音信不通なのだ。当たり前だ。外を出歩けない程にぼろぼろなのだ。死ぬのだ、須藤は。今こうして話しているのに。四日後にはもう確実に、隣にはいない。一週間経っても、一ヶ月経っても、学校が始まっても、いない。だって、須藤は死ぬ。持って三日だ。そしたら二度と会えない。
「………――須藤、なんで死ぬんだよ」
言葉が溢れた。溢すつもりはなかった。
須藤はこちらを見ない。俺が泣いているからだ。
「………、もう、生きられないからだよ」
それはずるいと思いながらも、とどめを刺された気分だった。それだけな気がした。
彼が透明な理由を、全て説明する答えだった。
***
その後、目的地に着いた俺たちは辺りを散策しながら宿を探し、時間も遅かったので部屋に入るなりすぐに寝た。須藤は病院から盗んできたという薬を飲んで、飯も食べずに寝てしまった。まさか本当に盗んできたわけではないだろうが、どこまでが冗談なのかたまに聞きたくなる。
翌朝、外を走るバイクの音で目が覚めた俺は、いつもとは違う畳の匂いに一瞬戸惑い、隣で息をする須藤を見つけて息を吐いた。エアコンを入れていなくても十分に涼しい朝だった。街のはずれにある宿はとても静かで、というよりそもそも街自体にひと気がなかった。聞けば、彼の言っていた映画はかなりマイナーなため、舞台になった街もそれほど有名ではないらしい。
その日と次の日は須藤の行きたいと言った場所を周りつくし、満足したのか、翌朝俺が目を覚ますと須藤は息を引き取っていた。
透明な結晶は須藤を覆い、空の色を映していた。よく晴れた、雲ひとつない夏空だった。
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