第2話

 土曜日までの二日間、須藤からは場所など、当日の予定を送ったメールに対する返信以外、なんの連絡もなかった。また倒れたのではないかと心配していたが、杞憂に終わった。

「なんだ、その服」

「勝負服」

 一時十分前に現れた須藤は、この炎天下で、厚手の、しかも長袖のパーカーとズボンを身につけていた。それなのに汗ひとつ見せないのは、やはり気合が入っているということなのだろうか。

「こんにちは、春川さん。と、須藤さん?」

 同じく涼しげに現れた桐嶋さん。こちらもなぜか制服だった。

「そうです、初めまして、桐嶋さん。今日は来てくれてありがとうございます」

「いえ。揃いましたし、行きましょう」

「はい。そうだ、なんで制服なんですか?」

「学校に用事があって、その足でここに来たので」

「ああ、なるほど」 

 須藤はそれほど緊張していないようで、俺をよそにいつものリズムで会話が行われていた。これならば、俺がいなくなっても大丈夫だろう。

 建物の中には結構人がいて、加えてかなり広いようだった。芸術に興味のない俺が知っている画展なのだから、ここにある絵を描いたのはきっと有名な画家たちなのだろう。

 しばらく中を歩いていたが、俺は二人の後ろをついて回っているだけで、少々飽きていた。前の二人は一度も振り返らずに会話を弾ませ、と言っても桐嶋さんはにこりともしなかったが。とりあえず会話は途切れずに続いていて、それを見ているとなんだか虚しくなった。だいたい、俺はなんで幼馴染とその片恋相手を引き合わせるなんて悲しい役を買って出たのだ。でも、俺は須藤を病気から救いたくて、恋愛をすることで彼の心が満たされるなら、それでいいのか?

 考えていても切りがない。引き受けてしまったものは最後までこなそう。

 二階の展示に進もうとする二人に声をかけた。

「なあ、須藤。俺、もうちょっとこの階見て回りたいから、先に行っててくれ。桐嶋さんも」

「ああ、いいよ」

 須藤は俺の気遣いを察してわざと低いトーンで答え、桐嶋さんは視線だけ頷いてみせた。

「じゃあ、またあとで」

 二階に上がった二人を見届け、俺は側にあったソファーに腰を下ろした。あとは須藤次第だ。しかしさっきの調子を見ていると、勢いで告白して成功してしまいそうだ。そうなれば俺も報われるのだが、須藤のことだ。何かやらかして失敗するかもしれない。そのときに慰める台詞でも考えておくか。

 そんな適当なことを頭の隅に置いて顔を上げると、目の前の絵画と目が合った。とても鮮やかで、溢れるほどの色を使った、抽象画。俺にはやけくそに色を散りばめたようにしか見えなかったが、きっと作者には何か強い想いがあったのだろう。ずっと見ていると、何かを吸いとられそうだ。目を逸らそうとしてタイトルに視線を移すと、今度は違う意味で揺さぶられた。

 絵画の下にあるタイルには、『透明』と書かれていた。しかしこの絵の、どこにも『透明』らしさは感じられなかった。そして何より、先日の自分の考えが見透かされたようで気味が悪かった。

 「透明」という「状態」は染められない。だったら、「透明」に色を重ねればいい。三次元で考えればいいのだ。風鈴から空を見たときのように、「透明」な硝子と、それと隣り合う「露草色」の空。俺から見れば「透明」な硝子は「露草色」だ。これで透明は染まったと言えないだろうか。と、そう考えていた。しかしこの絵は、それが違うと、そもそも他のことを言っている気がした。

 タイトルの下の解説には、作者は宝石病で気を病み、苦しみの末亡くなった、と書かれていた。気を病んでいるかはわからないが、須藤と同じだ……。

 かなり考えにのめり込んでいたため、スマートフォンが震えたとき、その振動に驚いて変な声が出てしまった。取り出すとそれは須藤からだった。まさか、告白が成功したのか。それにしても、少し早すぎやしないか。

「もしもし、どうした?」

「春川さん、早く来てください!須藤さんが倒れました」

 聞こえたのは桐嶋さんの大きな声だった。その感情的な声と話の内容に息がつまった。

「え……?」

「はやく!係りの人に救急車を呼んでもらっていますけど、宝石病ならこういうときのために薬を持ち歩いているでしょう?それが見つからないんです。どこにあるか知りませんか?」

「あ、えっと、わからないけど、俺がひとつ持たされてます。すぐに行きます」

 跳ね上がる心臓の音が耳の中に篭り、聴覚を支配し、夢を見ているみたいに頭がぼうっとした。けれど脚は動いていて、俺はどうやら走っているらしい。

 怒鳴る桐嶋さんが視界の端に現れると、財布から取り出した薬を手早く渡し、須藤のもとに座りこんだ。脳が酸欠を起こしているみたいに痺れて、視界がはっきりとしなかった。耳も使い物にならないのだから、あとは触覚しかない。須藤の手を握ると、なんだか硬くて、ざらついていて、それが結晶だと気づくのに時間を要した。

「あ……っ」

 情けない声が漏れ、それに気づき、口を結んだ。一番不安なのは須藤のはずだ。周りがそれを煽ってどうする。冷静になれ。

「須藤、大丈夫だから。すぐに救急車が来る」

 大丈夫、大丈夫、と、半分くらい自分に言い聞かせるために言っていると、次第に視界が晴れてきて、苦しそうな須藤が目に入った。それにまた取り乱しそうになり、唇を噛んだ。

 そうしているうちに救急車は到着し、須藤は担架で運ばれた。俺と桐嶋さんも友人だと言って乗せてもらい、病院に着くと治療室の前で、ただ待った。

 治療は二時間ほどで終わり、どうやら須藤は助かったらしい。途中でよしこさんが到着して一緒に待っていたのだが、病室に寝かされる須藤の顔は家族である彼女以外、見ることすら許されず、俺たちは追い出されてしまった。

 病院の前で呆然と立ちつくしていると、桐嶋さんは無言で歩き出し、俺はなんの理由もなく、ただそれについて行った。



 ***



 着いた場所は小さな公園で、中心にある時計は五時十三分を指していた。その影が反対側のブランコに向かってまっすぐ伸びる。

 夏だからまだ日は昇っていたが、子供達は律儀に門限を守って帰っていった。自分たちにもそんな時期があったと思うと、泣きそうになった。

 桐嶋さんはベンチを見つけると座ろうとしたが、汚れていることに気づき、振り返ってブランコに向かった。右端の赤い席を選んで腰掛け、俺に隣に座るように促した。

 それに従って座ると、桐嶋さんはブランコを漕ぎだした。彼女の髪が揺れるたびにぎしぎしを鳴る音は、上手く動かないロボットの身体みたいだった。

 ロボットがついに停止すると、一息おいて、桐嶋さんが話し始めた。

「須藤さんは、死ぬことが怖くないわけじゃないらしいです。ただ、それを他の人より上手に受け入れている、と言っていました」

 彼女の言葉を選ぶような慎重な話し方は、俺を無性に苛立たせた。

「私、宝石病で父を亡くしました。私がまだ三歳の頃でしたから、父のことはほとんど覚えていません。でも、いつも笑っていたのは、なんとなく覚えています。父は十三歳で発症して、十年生きました。父も母も、それをわかっていて、覚悟もあって私を産みました。……私が今回の誘いを受けたのは、父と似た境遇の須藤さんの存在を知って、話してみたかったからです」

 黙りこんでいた俺は、須藤が連絡を寄越さなかった理由や、厚手の長袖の意味にやっと気づいて、もっと早く気づけなかった自分に腹が立っていた。

 俺がずっと俯いているから心配になったのだろう。桐嶋さんの声がおぼつかなくなってきた。

「須藤さんに聞きました。どうしてそんなに明るく振舞っているのか。父は、笑顔の絶えない人でした。でも、その亡き骸は、真っ黒でした。透明とは程遠いそれが、父の心でした。……父は無理をしていたんじゃないか、と、物がわかるようになってから思いました。それを須藤さんに聞くと、言われました。私の父がどんな心持だったかはわからないけど、少なくとも自分は、自分の人生に満足していると。自分は、素であれだけ明るいのだと」

「……――そんなわけないじゃないか。ただの友人の俺が、こんなに辛いのに。病気の本人が、辛くないわけないじゃないか」

 絞り出した声が予想以上に震えていて、糸が切れる音がした。

「だいたい、お前は何が言いたいんだ、さっきから!起こったことの説明もなしに、自分の話勝手にはじめて、それを俺に聞かせてどうしたいんだ!」

 桐嶋さんが何かを言おうとして、戸惑っているのがわかる。

「なんで、須藤は死ぬんだよ……」

 こんな、子供の癇癪みたいなことをしても、須藤の病気は治らない。須藤は死ぬ。多分、もうすぐ。俺には治せないし、何もできない。

 時計の影がさっきより伸びている。もうすぐ追いつかれそうだ。

「…………俺は、須藤に病気の話を持ちかけることすら怖かった。自分が病気で人より早く死ぬことを、どう思っているのか、本当はずっと聞きたかった。……だからそれを容易に聞き出した桐嶋さんに、苛ついてしまった。すみません」

 向き直って目を見る。

「もし、桐嶋さんにその意思があるなら、何があったのか、須藤が何を言っていたのか、詳しく聞かせてください」

 呆気に囚われていた桐嶋さんが微笑んだのは、俺の都合のいい幻覚だろうか。

「もちろん、そのつもりです。さっきは私も先走って、春川さんの気持ちを考えていませんでした。こちらこそごめんなさい」

「いえ、あの………はい」

「春川さんは優しいですね。幼馴染のデートにまでついてきて。しかも告白のタイミングを見計らって、離れて二人きりにするんだから」

「そうだ、告白。どうなったんですか?」

「されませんでした」

「……え?」

 わからないという顔をしていると、また笑われた。もしかするとこの人は、本当は少し意地悪なのかもしれない。

「だから、されなかったんです。須藤さんは、本当の意味で、私のことは好きじゃなかったんですよ」

 ますますわからない。どういうことだ。

「――須藤さんは、自分がもうすぐ死ぬと思っています。今日倒れたのは誤算だったのでしょうが、体調はもともと優れなかったみたいです。今日もかなり無理をして来たと言っていました。『私のこと、好きじゃないですよね?』って聞いたら、いろいろと話してくれましたよ」

「……須藤は貴方が好きじゃなかったけど、何か理由があってこのデートを企てた。しかし貴方はそれに気づいていて、でも話が聞きたかったから誘いに乗った?」

「そう。察しがいいですね。……須藤さんの体調が悪いのは知っていましたか?」

「……いえ。ただ、言われてみれば、色々と納得がいって」

 一呼吸置いて聞く。

「須藤は、どうしてこんなことを」

「――死期が近いとわかると、やり残したことをやっておこう、みたいな考えが頭をよぎるそうです。でも須藤さんは、本当に人生を受け入れて生活してきたから、あまり思い浮かばなかった、と言っていました。そんな中での数少ない思い当たりが恋愛だったそうです。でも相手はいないし、そもそも、そんな使命的に人を好きになれるわけがなかった。ならせめて、同い年の女子と話してみたい、となったらしいです。私を選んだ理由は、入学式で見たときに気になったから。そこは嘘ではなかったみたいです。ただ気になった理由は、私が須藤さんに似ているようで、でも根っこでは全然違う気がしたから、だそうです」

 あ、わかる。

「正直よくわかりませんが、それで彼は医者と両親を説得して、夏休みが始まってから、家で過ごすようになったそうです。――残り少ない時間、好きにさせてくれ、と……」

「………」

 要するに、少なくともあの屋上で俺が飛び降りようとしたときにはすでに、須藤は死ぬ覚悟ができていた、ということなのか。

「――桐嶋さん、俺は、あんな奇病で理不尽に、しかも十二のときから死ぬことを決められた人間が、あんな風に心から笑って過ごしているなんて、やっぱり信じられない」

「……私も、ずっとそう思ってきました。でも、自分の人生の中で病気というのはただの一要素で、主役じゃない、心に病むだけ時間の無駄だ、と言っていたんです。人生を楽しんでいると、死とちょうどいい関係で過ごせていると話す須藤さんを見ていたら、わからなくなりました。今も、わかりません。でも、須藤さんの結晶、すごく綺麗だったじゃないですか。春川さんも見たでしょう?」

「………見た」

 そう、俺は見た。不明瞭な視界で、はっきりと、須藤の腕を覆うそれを。

「……――透明だった。すごく綺麗な」

「そうですね」

「でも、そいつが原因なのに。それで須藤の心を、推し測りたくない……」

「……そうですね」

 もうすぐ六時になる。辺りはまだ明るく、蝉がうるさい。頰を伝う汗を、腕で拭う。

「俺、須藤と話します。彼が起き上がったら、聞きたいことが山ほどあるんです」

 ブランコから飛び降りると、反動でそれは揺れ、またぎしぎしと音を立てた。

「はい」

 桐嶋さんはそう言って、同じように飛び降りた。

「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」

「はい。今日は、色々とありがとうございました」

「それはお互い様です。私も、話せてすっきりしましたから」

 目を細めて笑う桐嶋さんは、やっぱり須藤に似ているかもしれない、とほんの少しだけ思った。

 俺たちが公園を出るまで、ブランコは揺れていた。

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