無色透明人間
朔
プロローグ
「透明を染める」というのは、おかしいだろうか。
そもそも「状態」である「透明」を「染める」ことは可能なのか。例えば、同じ「状態」である「広い」は染められない。だったら――。
身体を押されるような突風と、冷たい音で我に返った。頭上には透明な風鈴。そこから透けて、みずみずしい青空と重々しい入道雲が目に入る。学校の屋上というのは、どこもこんな具合に風鈴を取りつけているものなのだろうか。
長い階段を登り、屋上の扉を開けたところにそいつは吊り下がっている。数日前まではなかったのに、夏休みが始まって二日経った今日来てみたら、音を鳴らしていた。柄はなく、紐と短冊以外がすべて透明の硝子でできており、短冊には達筆で「透明は染められたか」と書かれている。
フェンスがなく、手すりだけのこの屋上は、危険だからという理由で立ち入り禁止だ。教職員ですら入ることは許されていない。そんな誰も来ない場所に、こんな意味のわからない短冊をぶら下げて、持ち主にはどんな意図があったのだろうか。
湿度の高い風が風鈴を鳴らしている。どうして日本はこんなに蒸し暑いのか。陽射しは全身を刺し、風鈴の音が蝉の声と街の騒音を窘め、夏の匂いが鼻腔を満たした。汗は、蒸発して体温を下げるという役目も忘れてひたすら溢れかえり、服にしみる。
俺は屋上の端まで進み、さっき通ったドアと向かい合うように手すりにもたれかかった。そして後ろに反って顔と空を平行にした。ちょうど太陽が真上にいたため、一度目を細め、しかしすぐに慣れた。
このままこうしていたら、太陽に呑まれそうな気がした。
「そんな危ない体勢で、投身自殺でもするつもりか?」
ドアの方から声がして体を起こすと、にやついた男、須藤
「……するわけないだろ」
「そんなに睨むなよ」
笑顔で物騒な話をふっかけてくるこの男は、端正な顔立ちをしているせいか、不気味だ。だが彼に限らず、美しいものは大抵が不気味なのだ。仕方ない。
乱雑に切られた須藤の髪が風に揺れ、少し伸びたな、と思う。
そんな彼は、なぜか紺色のスラックスを履いていた。
「なんで制服?」
「だってここの生徒だし?」
「そういう意味じゃないよ。……まあいいや。それより、手伝ってくれ」
「はいはい。それより、思ったんだけど」
「……何」
「ここ立ち入り禁止だろ?どうやって入ったんだ?」
「五月に先生たちが鯉のぼりを上げるのを手伝って、そのときに鍵の型とって合鍵作った」
「えげつないなお前」
「………」
俺は無視して須藤に背を向けた。
「それじゃあ早速、手伝い頼む」
そして、手すりを超えて前に倒れた。
まず息を飲む音と、須藤が俺の名前を叫ぶ声が聞こえた。次に視界の端で慌てて駆け寄る青ざめた顔が見え、遥か遠い校庭が見え、心臓が一度、大きく跳ねた。最後は腕を掴まれ、投げ飛ばされた、気がした。しかし須藤の力は見た目通り弱く、二人して屋上の床に叩きつけられた。
須藤は頭を打ったようで、患部を抱え、息を切らせて悶えていた。
「……大丈夫か?」
心配になって声をかけると須藤は不機嫌な顔になり、しかし怒りを抑えてため息交じりに返事をした。
「ああ、おかげさまで久々に走ったよ。病室に引きこもる病人には実にいい運動だった」
「悪かったって。でも俺には必要だったんだ。それに、いつもはこっちが振り回されてるんだから、たまにはいいじゃないか」
「それにしたって限度ってものがあるだろ。自殺ごっこが必要っていうのも意味不明だ」
「正確には、死まで追いこまれた人間の気持ちが必要。心理士を目指してるんだから当たり前じゃないか?」
須藤の顔色は戻ってきたが、代わりにどんどん不機嫌な色になっていく。
「心理士がみんな自殺未遂を起こしたことがあるなら、オレは何があっても絶対に受診しないね」
「――お前に受診する必要はないだろ。『宝石病』を発症しても、今尚平然としてるんだから」
須藤の瞳が長い前髪の奥で一瞬揺れ、こちらを見る、笑顔で。
「そりゃそうだ」
それがやっぱり不気味で、目をそらしそうになり、堪えた。
「お前の方こそ精神科でも受診するべきだ。あんな笑顔で嬉々として飛び降りようとする奴が、まともなわけない」
「そんなことない。俺はいたって正常だ」
「それが正常なのがすでに正常じゃないんだよ。それに普通、友人が不治の病気にかかったなら、それを治すために内科医でも目指さないか?」
「……それは関係ないだろ。俺、こっちの方が得意なんだよ」
「ああ、そうだったな。高校生の分際で研究室に入れてもらえるくらいには天才だったな。普段はこんななのに」
「だから悪かったって。……あと、研究室は知り合いの紹介で入れてもらってるんだ。あんまり言わないでくれ」
一拍おいて須藤が聞く。
「それで?『追いこまれた人間の気持ち』はわかったのか?」
須藤は呆れながらも、興味があるようだった。顔ににやつきが戻ってきた。
「……だめだった。やっぱり原因がそこにないからかな」
「じゃあ、もうすぐ死ぬオレにでも聞いてみるか?」
「………」
こういうことを、笑顔で言ってくる彼が、たまにわからない。
「――笑えないよ」
須藤の身体は『宝石病』に侵されている。名前の通り、体が宝石になる病気だ。感染源は不明だが、人から人に移ることはない。宝石の色はその人間の心を映すと言われ、心の純度が高いほど、宝石は無色透明に近づくという。とても珍しい病気で、わかっていないことが多い。ただ今までの患者は子供ばかりで、発症から早くて一年、遅くても十年以内に全身が完全に結晶化し、死んでいるらしい。彼は十二歳で発症し、四年かけて症状はゆっくりと進行している。
彼も最初は爪の端が結晶に変化しただけだった。しかしそれも今では転移して体のあちこちが結晶化している。結晶化した部分は感覚がなくなる。だからそのたびに薬を打ち、結晶を溶かして進行を食い止める。薬は強く、心身ともに疲弊しているはずなのだ。今までの患者だって、その多くが心を荒らしていた。宝石病は、精神的におかしくなる患者が多い。患者が幼いのと、進行の遅さ、あとは結晶を他人に見られることで心を覗かれている気になる。それらが原因だと言われている。
俺だってそれを見越して、何か助けにならないかと心理学の勉強を始めた。それなのに、この笑顔。俺が誰の気持ちを知りたくて今日飛び降りようとしたと思っているんだ。
「それに、もうすぐ死ぬとは限らない……」
「まあ、そうなんだけどさ」
――お前は死ぬのが怖くないのか。
「……そうだよ」
いっそ聞いてしまいたい。
「さっきは、本当に悪かった。もうしない」
「そうしてくれると助かる。そろそろ中に入らないか?暑さで今すぐ死にそうだ」
陽気に話す須藤はいつの間にか機嫌を戻していた。
いつも通りの須藤。この景色を俺は、いつまで見ることができるだろうか。
「そうだな」
立ち上がってズボンを手ではらっていると、こづかれた。
「まあ、もしものときはお前が治してくれよ。将来有望な春川先生?」
「――その皮肉は、一体どこで磨かれてるんだ」
「ん?皮肉のつもりはなかったんだけど」
その、本当にわからないという顔に、ため息がもれる。
空は馬鹿みたいに青くて、風鈴を通すと水のように揺らいでいた。
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