甲辰園万歳!

【プレイボール】


 今年で記念すべき第100回目を迎えた扶桑国高校野球選手権大会の決勝戦は、まさに激戦であった。どれくらい激戦かというと、スコアボードの電光掲示板が余りのルーズヴェルト・ゲームでバグを起こしてぶっ壊れるほどの激戦であった。


【一回表】


 扶桑国高校野球選手権大会は、誇り高き扶桑国と共にその歴史を歩んできた、我が国最古の伝統的なスポーツ大会である。

 その名の通り、実際に行われるのは大規模な野球大会であるが、これはいわゆる職業野球と違って単にその勝ち負けを決めるだけの大会ではない。


 この日、おれは東都スポーツ新聞の記者として、リニアモーターカーで皇都に向かっていた。


 大会の前身となったのは、遥か昔、この国が民主主義ごっこをしていた頃に行われてい男子高校生限定の野球大会である。その大会は全日「甲子園」という場所で行われていたらしいのだが、頻繁に「甲子園の魔物」と呼ばれる化け物が現れて試合をめちゃくちゃにするので、とっくの昔に取り壊された。

 

 代わりにいまは、十二支の名前がつけられた59の地方球場(甲子園を除いたものだ)を一年ごとに持ち回りで使うことになっている。ちなみにこれらの球場は我が扶桑国の元首であらせられる大皇陛下の詔に感銘を受けた扶桑国中のボランティアたちが無給で造り上げた、汗と涙の結晶である。

 

 ともかく、そんな訳で大会の通称も毎年変わり、今年は「甲辰園」。

 

 去年は東北地方の千秋県にある癸卯園球場で行われていたから比較的涼しかったものの、100回目を迎える今年は扶桑園の皇都・甲辰園球場での開催ということで非常に暑い。

 

 ヒートアイランド現象などという言葉はとっくのむかしに死語となってしまったが、今年の皇都も暑い。今夏に記録された最高気温は48.2℃。冷却装置内臓の特殊スーツを着ていなければ死んでしまうような温度だ。


 それにしても今年は何人の死者が出るだろうか、とおれは他人事ながらに思う。なにせこれから始まる大会の選手たちはそんなスーツなど着ることを許されていないのだ。


 その理由は簡単である。野球は野球用のユニフォームを着てやるものだから。

 それに、大会に出場する球児たちは扶桑国の威信を掛けて「扶桑国高校野球選手権大会」という舞台に上る、いわば選ばれし人間たちなのだ。実際に死ぬかどうかは置いておいても、国を背負う者として生命を掛ける程度の覚悟を持つのは至極当然、というものだった。


 若い頃はおれも、球児として健全な精神と肉体を溌剌と振り絞っていたものだ――おれは冷房の効いたリニアモーターカーの車窓で在りし日の思い出に浸り、目を細めた。


【一回裏】


 甲辰園球場は、初日から大変な盛り上がりだった。

 開会式ではかつての「甲子園」と呼ばれる大会に倣い、極めて厳か、かつ儀式的に行われる。


 まずは大皇陛下による開会の勅がある。

 もちろん大皇陛下の玉体を直接拝謁することなどできず、玉音を拝聴するなどという畏れ多いことも出来ない。代わりに大皇陛下が自らボーカロイドに入力させ賜われたという機械音声を通じて、大皇陛下の玉音を拝聴する。


「――各校共二、扶桑国ノ誇リヲ胸ニ武士道精神ヲ以テ健闘スルコトヲ祈ル」


 勅を聴き終えた我々は改めて扶桑国の一員であることの幸せを強く感じて心を打たれ、嗚咽する。第100回大会という記念すべき大会を大皇陛下の御膝下である皇都で行えるという奇跡に、甲辰園は感涙にむせぶ人たちで溢れかえった。おれもまた、内野席の隣に座っていた見ず知らずの女子高校生と、大いなる父を持つことのできた幸福を確認し合い、抱き合った。我々扶桑国民はもはや八紘為宇の大家族なのだった。おれを含め人々の興奮が収まるまでには、三十分ほどの時間を要した。


 続いては、各校入場である。

「各校入場」のアナウンスが終わるや、場内に割れんばかりの大音量で勇ましい行軍曲が流れ始めた。我が扶桑国が誇る軍楽隊による生演奏で、場内の空気は一層高まりを見せた。

 プラカードを持ったマネージャーに先導され、一斉に各高校の選手たちが入場する。もちろん、マネージャーも男子部員である。銃後の存在に過ぎない女子などが、この聖なる甲辰園の土を踏んで良い訳がないからだ。

 左、右、左、右と一糸乱れぬ行進。どの選手も、真夏の焼けるような日差しと大気中に漂う有毒ガスに晒されて、すっかり真っ黒になっていた。黒い顔の中には鋭い眼光をたたえており、まさに扶桑国の魂を背負った武士の気迫である。


 場内の空気が若き侍たちの登場にぴりりと引き締まったところで、選手宣誓がある。

 今年の選手宣誓役は、皇都の神山農業高校という高校だった。

 毎年地元の選手が宣誓選手となることは決まっていたが、しかし、神山農業高校という名前はスポーツライターであるおれでもあまり耳にしたことがない。


「選手宣誓ぇええええ!!!!」


 皆が注目する中、神山農業高校の三島幸男キャプテンは慇懃に一礼をしてから宣誓台へと上り、海老反りになって喉が引きちぎれるのではないかという声量で雄叫びを上げた。もちろんマイクなどは与えられていないが、彼の魂の叫びは球場全体をしんと静まり返らせた。


「第百回といぅううう!記念すべき年にぃいいい! 大皇国のぉぉおおお!御旗の下で野球ができることにぃいいいい! 私はぁああぁああ!誠に! 誠に!感謝しておりまぁああああす! 武士道精神に則ってえええぇ! 全力のプレーを尽くしぃい! ひとつなぎの強い絆で結ばれたぁああぁあああ!!!全扶桑国民の皆々……げほぁっ! 皆々様にぃいいい! 至上の感動とぉお! 扶桑!国民としての誇りをぅぉおお! 改めて感じて貰うことの出来るようなぁあああ! 素晴らしい大会にぃいいいい! 私の! 私の生命に代えても!!! いたしまぁあああああああああああす! 」


 最後に「大皇陛下万歳!」を三唱し、三島キャプテンは血反吐を吐いてぶっ倒れた。

 場内からは、割れんばかりの大拍手。

 もちろん倒れた彼に駆け寄る者や、担架を持ち出そうとする者はいない。いるはずがなかった。彼は自らの意志で彼の生命を、高校野球の宣誓台に捧げたのだ。もしここで彼の生命を助ければ、彼の武士としての志を殺すことになる。彼の生き甲斐に泥を塗るような真似をする奴は、扶桑国民ではないのだ。

 

 神山農業ナインもまた、キャプテンの俠気に涙を堪え、晴れ舞台の上で彼が全身を痙攣させながら息を引き取るのを静かに見守った。

 

「敬礼ぃぃいいいいいい!」

 宣誓台の前に駆け寄った神山農業高校の選手が嗚咽交じりに叫び、最敬礼を取った。


 開幕のサイレンが鳴る。第一試合開幕の合図だ。

 ああ、今年の夏は必ず彼の死に報いる大会にしなければならない。

 俺もまた再三の涙を堪えながら、皇都の大きな空を見上げた。


【二回表】


 甲辰園球場で行われた第100回扶桑国高校野球選手権大会の一日目は、三島キャプテンの殉死により最高潮となったボルテージの中で始まった。

 午前中から始まった第一試合、対戦カードは義阜県の公立高校・義阜第一高校対天崎県の私立高校・白峯学院だ。

 球場内の気温は43.7℃。


 波乱の第100回選手権大会、早速驚くべきことが起こる。試合は白峯学院優勢のまま9回表が終わり、白峯学院が最後の守りにつこうというときのことだった。

 なんと、白峯学院の飯山・三塁手が、ベンチに水を持ち込んでいたというのだ。


「なんてことだ!」

 会場が一斉にどよめく。

 飯山・三塁手はこれまで四打数ノーヒット。しかも、今日の守備機会ではサードに打球が飛んだことは一度もなかった。つまり、彼はこの試合で最も疲労していないはずの男。開会式であれだけ壮絶な同志の死を目の当たりにしながら、自らが有利な状況でさえ、最後まで全力を尽くして戦おうという姿勢が見られない……。


「ふざけるな!」「恥知らずめ!」「友の死に報いようとは思わないのか!」

 球場内は一転、ブーイングの嵐となった。

 白峯高校の監督は慌てて飯山・三塁手をベンチから連れ出して平手打ちにしたが、それでも観客たちの興奮は収まらない。おれは他の者のように声さえ荒らげなかったものの、内心ため息をついていた。近頃の若者というのは、なんと情けないことか。


「プレイ!」


 しかし、ゲームはそのまま再開される。

 9回裏、義阜第一高校の攻撃。幸いにして水をまだ摂取している姿が確認されなかったということで飯山・三塁手はお咎め無しにそのまま守備についた。

 観客たちはすっかり失望してしまい、それまで白峯学院の応援をしていた者たちでさえ、義阜第一高校の応援に回った。飯山・三塁手をはじめとする白峯ナインに対する野次は飛び続け、結局、試合は彼のタイムリー・エラーでサヨナラ負けとなった。

 

「ざまあみろ」「当然の結果さ」「呆れたものだ」

 怒りを抑えきれない者、嘲笑する者、嘆く者……観客たちの反応はそれぞれだったが、試合が終わってみれば白峯学院に味方する観客は誰一人としていなかった。試合直後に監督が謝罪会見を開くと発表したが、そんなもので扶桑国民全員を裏切った罪が許される訳がない。


 その試合によって観客たちのテンションはすっかり下がってしまい、二試合目、三試合目では続いて熱中症で倒れる選手が出てきてしまうという失笑ものの出来事が重なった。

 たかが脱水ごときで倒れるとは、全く根性が足りない。おれは三試合目の途中で早々に席を立つと、その足で神山農業高校の選手たちが宿泊する旅館へと向かった。


【二回裏】


「我々にインタビュー、ですか」


 九畳ほどの和室で、おれは机を一つ挟んで神山農業高校野球部の錦野監督と対峙した。彼は眼鏡を掛けた初老の男で、おれと話している最中、ずっと目をしょぼつかせていた。


「しかし、我々は今日試合をしていませんよ」

「なにを仰る。貴方たちは今日、最も素晴らしい舞台を我々に魅せてくれたではありませんか。開幕式での三島キャプテンによる選手宣誓、あれは見事だった。彼はまさに皇国の誇りだ」

「ああ……彼のことですか」

 興奮気味のおれに対し、監督はやや疲れたように言った。


「私は、彼の行動を止められず本当に情けないのです。野球選手は、グラウンドで戦うべきなんだ……あんな場所で果ててしまってはならなかったのに」

「何を仰るんです。まさか彼の死が無駄だったとでも言うのですか」

「いえ、そういうことでは……」

「ふん。彼は自分の魂を掛けて宣誓台で果てたのですよ。選手を信頼すべき監督がそんなことでは、彼が浮かばれませんな。――もういい、例の彼と話をさせてください」

「し、しかし」


「監督」

 和室の襖がすっと開く。廊下には先程球場で最敬礼を取った選手の姿があった。


「俺、この人と話をします。あいつの思いを、果たさせてやってください」

 彼は土下座で、監督に頼み込んだ。こうなってしまっては仕方がない。錦野監督はため息混じりに席を外し、今度はおれとその選手が向かい合うこととなった。


 神山農業野球部の元副部長――既にキャプテンの座を譲り受けていた彼は難波大将という名前だった。彼はおれに自身をはじめとするチームメイトの思い、そして「栄誉の戦死」を果たした三島キャプテンの思いを切々と語った。


「俺たちがこうやって生きる意味を見い出せているのは、本当に大皇陛下の御蔭なんです。俺たち野球部の面々は元々みんな不良で……そこで出会ったのが、この扶桑全国野球選手権大会だった。俺たちはこの舞台に希望を見出したんです。だからこの三年間、一日も休まずに猛練習を続けた。三島が見せたのは、今年こそは俺たちが優勝するという命を懸けた気迫でした。三島は、事前に俺たちに対して『たとえ俺が宣誓台の上で生命を落としても、決して泣くんじゃない』と言っていました。だから俺たちも泣かなかった。三島の思いを裏切ることは、もはや出来ません。今年こそは、俺たちに希望を与えてくれた舞台で、大皇陛下に我々の扶桑魂を込めた本当の野球を見せなければならないんです」


 どもりながらも語る難波・新キャプテンの顔には、実に切実としたものがあった。


 おれは再び感涙する。この時世で、まだこれほど逞しい扶桑男児が生き残っていたものか。ならば俺も、彼らに報いなければなるまい。一人の元球児として、そして何より扶桑国民として。


【三回表】


 その後一時間ほどのインタビューを終え、おれは次の日の一面記事に「命懸け・神山農業キャップ、宣誓台で栄誉の戦死!――扶桑魂を叫んだ最期の二分間」という見出しをつけて神山農業の快進撃を予見した。


 一日目の他の試合が実に情けなく、注目に値するものではなかったことも大きく影響したのだろう。神山農業高校のことを取り上げたのは東都スポーツ新聞のみではなかった。東都スポーツ新聞の親会社である東都新聞をはじめ、皇都新聞、扶桑新聞、大中州新聞といった全国紙はもちろんのこと、テレビのワイドショーでも三島・元キャプテンの宣誓シーンと最期を何度も繰り返し流した。SNSでも今度の試合では神山農業高校を応援しようではないか、という激励の声がたくさんの「いいね!」を稼いだ。

 扶桑国中が彼らの生命を掛けた戦いぶりに期待をし、そしてそれは、その通りになった。


【三回裏】


 神山農業高校が初戦を迎えたのは、大会四日目の第三試合だった。

 相手は毎年必ずベスト4に名を並べるほどの強豪、水ノ浦実業高校である。無名の神山農業高校の勝ち目はほとんどないようにも思われた。

 実際、試合は水ノ浦実業のペースで進んでいった。先日からの報道もあって地元の神山農業野球部を応援する声は決して小さくなかったが、それでも、長い歴史を持つ水ノ浦実業野球部のファンは多い。


 事件が起こったのは、4対0と水ノ浦実業が4点のリードで迎えた7回裏、神山農業の攻撃。


 この回まで2安打に抑えてきた水ノ浦実業の先発投手が、ツーアウト満塁の場面で7番・高橋を迎えたところである。

 高橋に投じた初球はインコースの高めへ――そして、その球は彼の頭蓋骨に直撃した。


 当然ながら高橋は倒れ込む。動揺する水ノ浦投手。球場内もざわつき、デッドボールだ、押し出しだ、危険球だ、と騒ぎ出す。


 しかし、球審はデッドボールの判断を下さない。


 バッターボックスで高橋は、ボールを避ける素振りを全く見せなかった。バッターがボールを避けなかった場合、あるいはボールに当たりに行った場合はデッドボールと認められないのだ。

 カウントは、ワンボールノーストライク。

 騒然とする中、高橋が立ち上がりながら、再びバッターボックスに入ってバットを構えた。

 そして、何故か叫んだ。


「大皇陛下万歳!!」


 身体に速球を受けながら、なお、戦意を削がれることなく立ち上がるその姿に、


「うおおおおおおおおおおお」


 球場は、見事に盛り上がった。


【四回表】


 試合が再開される。


 動揺した水ノ浦実業の投手、コントロールが乱れて再びボールはインコースへ。

 再び高橋、ボールに当たる。臀部に直撃するボール。

 倒れ込む高橋、ざわつく球場、立ち上がる高橋、「大皇陛下万歳!」盛り上がる球場。


 チームのために、点を取るために、恐ろしいスピードで迫りくる硬球を避けようともせず、ぶつかることを厭わない命懸け特攻精神と献身の姿勢。痛みを堪えながらも大皇陛下万歳を叫び、ここで負ける訳にはいけないと奮起するチーム一丸の、大会に掛ける思い。


 その扶桑魂に、観客は熱狂した。


 唖然となるのは、水ノ浦実業の方である。


 3球目、高橋が今度は明らかにボールに当たりに行く。これもデッドボールになりそこないのボール、4球目、高橋がアウトコースのボールに飛び込む。デッドボールになりそこないのボール。これでフォアボール。

 押し出しで一点追加。

 次のバッターもまた「大皇陛下万歳!」を叫んでボールに特攻をかける。ボール。

 2球目「大皇陛下万歳!」ボール。

 3球目「大皇陛下万歳!」ボール。

 4球目「大皇陛下万歳!」これでフォアボール。

 押し出しで更に一点追加。


 どこへ投げても、デッドボールになりそこないのボール球。もちろんストライクゾーンの球に当たりに行ってしまえばストライクのカウントとなるのだが、球場内の異様な雰囲気に、グラウンド上の選手たちはもはや冷静な判断ができる状態になかった。


 こんなものは野球の試合じゃない! とマウンド上で水ノ浦実業の投手は叫ぶ。しかし、その悲鳴は無残にも球場内に轟く「万歳!万歳!」の大合唱にかき消されてしまう。

 水ノ浦実業の監督が抗議をしようとするが、それには内野スタンドから不条理な野次が飛ぶ。


「貴様! 彼らの特攻精神を否定するのか!」「彼らの勝利への執着に水を差すな!」

 もうこうなってしまっては滅茶苦茶である。


 後続のピッチャーも球場の雰囲気に呑まれてしまい、全くコントロールが定まらない。結局その後のバッターにはタイムリーを含めて打ち込まれ、九回に見事逆転を果たした神山農業がサヨナラ勝ちを収めた。


 試合後の会見で、難波・新キャプテンは取材を申し込むメディアに対して涙ながらに語った。


「不利な状況で、俺たちはほとんど諦めかけていた。しかし、あそこで高橋が決死の覚悟を見せてくれたことで我々は思い出したんです。これはただの野球の試合じゃない。どれだけ皇国民としての覚悟があるかを試されている試合なんだと。だから俺たちは手段を選ばなかった。確かに、俺たちの行動は侍としては情けないものだったかもしれない。でも、俺たちは農業高校――侍の心を持った百姓です。百姓にも皇国民としての魂が宿っていることを多くの人に知ってもらいたい。水ノ浦実業高校の無念の分も背負って、絶対に優勝します」


 おれはこの翌日の朝刊にも神山農業の試合を取り上げた。見出しはこうである。


「七回裏、決死の大特攻! 神山農業・優勝への思い――報国の百姓一揆は成就するのか」


【四回裏】


 この試合で、神山農業への注目度は更に上がった。メディアはこぞって神山農業という聞き覚えのない農業高校について取り上げ、その実態を詳らかにしようと努めた。


 神山農業高校には元々野球部がなく、開会式で名誉の死を選んだ三島キャプテンが一から作り上げた野球部であること。日々の練習量は他の強豪校並かそれ以上であること。部員は皆が皇都出身で、固い絆で結ばれていること。皇都の高校は実のところこれまでの百年間で一度も優勝したことがなく、皇都出身高校の初優勝という大使命をも背負っていること。


 頭部にデッドボールを受けた高橋源・一塁手が「俺はまだ戦わなければならない」と言って搬送先の病院で入院を断る場面が生中継で放映され、米農家の息子である小林多喜・二塁手が麦藁帽を被って鍬を振るいながら「将来の夢は大皇陛下に奉ることのできるような米を作って、家族の負担を軽くしてやること」と笑顔で話す動画がSNS上でバズを巻き起こしたかと思えば、医者の息子でありながら仲間と共に扶桑国高校野球選手権大会で優勝するために神山農業への進学を決めた大江健・三塁手の俠気が好感を呼んだ。


 しかし何といっても話題の中心にあったのは、新キャプテンの難波大将投手である。

 難波投手は神山農業のエースとして、大会の予選から実に千球以上を一人で投げ続けていた。そして捕手としてバッテリーを組んでいたのが、件の三島・元キャプテンである。しかも難波投手と三島捕手は幼馴染だったのだ。

 職業野球の先発投手が半年かけて投げるような量を、親友の死という出来事を経ながらも実質半月程度で高校生が投げるという、その半ば異常とも取れる事態に対して。


 扶桑国民は皆――感動した。


 こうして神山農業高校の名は一夜で扶桑国中に轟き渡り、「今大会最も注目される高校」の名をほしいままにした。神山農業野球部の活躍、扶桑国民の熱狂ぶりは「神農旋風」と呼ばれ、それは次第に「神風」と呼ばれるようになった。


【五回表】


 その「神風」の勢いに乗って、皇山農業野球部は勝ち続けた。


 甲辰園は皇山農業野球部の応援をしようと全国から駆けつけた人々で埋め尽くされ、相手のチームを応援しようとする者は白い目で見られた。


 皇山農業野球部はそうした声援を後押しに闘うのだから、自ずと気が強くなり、ナインの声も出る。積極的なバッティングや守備が目立つようになり、プレーでも相手を威圧する。対して相手チームはすっかり萎縮してしまい、攻撃機会では凡打を積み重ね、守備機会ではミスピッチやエラーが多くなる。


 何より神山農業にはピッチャーの投げるボールに対して当たりに行く決死のプレー――通称「神風アタック」という最終手段が残っていた。神山農業の選手が「神風アタック」をやると球場の雰囲気が殺気立つ。「大皇陛下万歳!」の声に気圧されて、相手チームはたまらず敗北の奈落へと落ちてゆく。


「神風アタック」によって当たりどころの悪い選手が死ぬこともあったが、選手が死んだ後には、残った野球部の面々は「彼の死を無駄にはしない。必ず優勝旗を彼の墓前に供える」と再結束し、メディアはその事実を大々的に報道をする。神山農業を応援する声は一層強くなり、マッチング・チームは試合前からすっかり戦意を喪失している、というスパイラルである。準決勝では相手野球部の監督が「我々も神山農業の扶桑魂に賭けたい」と言う謎の声明を発表し、神山農業はついに決勝のラウンドへと勝ち上がった。


【五回裏】


 決勝戦の前夜、神山農業の難波大将から「折り入って頼みがある」というメールを受けたおれは久方ぶりに神山農業高校野球部が宿泊をしている旅館を訪れていた。

 一体おれなどに何の頼みであろうか、と疑いながらも、もはや大官軍となった神山農業のキャプテンに頼られて悪い気はしない。

 

「お待ちしていました。さ、どうぞ」

 玄関で黒い顔を覗かせたのは、確か、佐々木・中堅手だったか。下の名前は忘れてしまったが、第三戦の神風アタックで打球を頭部に直撃させて死んでしまった選手に代わり、スターティング・メンバーに名を連ねている。


 おれが二週間ぶりに通されたのは、前と同じ九畳ほどの和室だった。おれが襖を開くと、床几に腰掛けた難波キャプテンが笑って会釈をした。


「決勝戦を観覧試合としてほしいのです」

 

 その言葉が彼の口から出たときは、流石のおれも驚いた。


「観覧試合というと、まさか、大皇陛下をお招きするということかね」

「その通りです。俺たちは野球を通して、大皇陛下に臣民たる我々の扶桑魂と、陛下に対する衷心を見てもらいたいのです」

「うむむ」

 おれは唸った。確かにここまで扶桑国に感動の嵐を巻き起こした彼らの戦いは、十二分にその価値があるだろう。しかし日頃山程の公務を御こなしあそばれる陛下に、畏くもそのようなことを御願い奉ることが出来るであろうか……。


「どうかお願いします!」

 その声に振り向くと、廊下には土下座を超えた五体投地で床に伏す野球部の面々がいた。土下座、更には五体投地まで……。その心意気に胸を打たれるおれ。ここで彼らの思いに応えられなければ、真の臣民ではない。


「よし分かった。俺も扶桑の男だ。なんとか掛け合ってみよう」

 

 おれはそう言って、旅館を後にした。

 連日45℃を超える酷暑が続くが、そんなことは若い扶桑の男たちであれば根性で乗り切れるので、試合は当然ながら毎日行われている。つまり、決勝戦は明日。明日までになんとか大皇陛下へと御請願を伝えねばならない。

 おれは昼下がりの皇都を駆け回って大皇陛下のあらせられる御宮廷で働く友人宅の玄関先で土下座と五体投地を繰り返し、その日の晩、辛うじて「御請願だけは奉り申し上げた」という返事を手に入れたのだった。


【六回表】


「神風吹き荒れる甲辰園――神山農業最終決戦・仇なす敵は由民高校」

 決勝当日朝の東都スポーツ新聞一面にはそんな題字が踊った。


 決勝戦で神山農業と対戦する由民高校は扶桑国高校野球選手権大会三年連続の優勝を果たしている超強豪校である。体罰を含めた苛烈な指導が有名で、一年前は彼らの扶桑魂に溢れた態度がまさに臣民の鑑である、と絶賛された。


 由民高校野球部に入った者はその後三年間、親元を離れた寮生活で野球に打ち込み、両親とは月に一度しか面会が許されない。交友関係にも制限がかけられ、当然ながら異性交友などはもってのほか。テレビやマンガといった娯楽も与えられない。練習量も並でなく、昼夜を徹して毎日十五時間行われ、大会前には二十時間にも及ぶのだという。


 扶桑国の魂を刻み込む洗練された教育によって、一年生のときから絶対的エースとしてチームを三年連続で優勝に導いてきた豪腕・近衛文明をはじめ、職業野球への切符を半ば手にしているようなスター選手が勢揃い。彼らの実力は折り紙付きで、国際野球大会の扶桑国代表として選出されている選手も半数を超えていた。


 彼らはまさに侍。煩悩を全て捨て、誠の道を往く彼らの目には一点の曇りもない。


 SNS上では、そんな彼らを応援する声も大きかった。


「世間は神山農業旋風で浮足立っているが、由民野球部が過酷な寮生活で積み重ねてきたのもまた扶桑男児として立派な俠気である。褒め称えられるべきだろう」


「弱小校が勝ち上がってくると強豪校をヒールとしちゃう傾向があるんだよなぁ。ほんと、みんな視野が狭いよね。俺だけは世の中のおかしさに気づいてるけど」


「由民高校の練習が凄いのは、練習に一滴も水を呑むことが許されていないこと。やはりこうした血の滲むような努力をしているチームに勝たせてやりたい」


「みんな神風神風って言ってるけど、よく考えて? 勝っても当たり前と思われている重圧の中で結果を残す方がすごいでしょ。神山農業を応援してるのはマジでにわか」


 彼らは良識派を名乗り、神山農業ばかりを応援する世間を痛烈に批判した。ただ、良識派を名乗りたいがために斜に構えた発言を繰り返すだけの人間も多かったので、彼らの八割以上は何も深く考えていない有象無象ばかりというのが内実だった。


 とはいえ、テレビをはじめとするマスコミの方もそうした声があるものだから仕方なく由民野球部の特集も組むこととなり、決勝戦はまさにお互いの全力を賭けた最高の舞台として用意されたのだった。


【六回裏】


 今年で記念すべき第100回目を迎えた扶桑国高校野球選手権大会の決勝戦は、まさに激戦であった。どれくらい激戦かというと、スコアボードの電光掲示板が余りのルーズヴェルト・ゲームでバグを起こしてぶっ壊れるほどの激戦であった。


 当日の観客席は神山農業を応援するファンと由民高校を応援するファンがすっかり二分され、球場内にはこれまでにない緊張感が漂っていた。

 由民高校が打てば神山農業も打ち、神山農業が守れば由民高校も守る。試合の形勢は何度も逆転、逆転を重ね、引き分けのまま気づけば延長戦へ。

 掲示板はなおも壊れたまま、試合は十五回の裏。

 ツーアウトでランナーはなし。最後のバッターの小林が三振に倒れてゲームセット。

 9対9。結局、引き分けである。


【七回表】


 試合は二日目に持ち越され、二日目の試合のスコアもまた、12対12で引き分け。


【七回裏】


 そしてついに三日目の試合――この試合で結果が出なければ、両者が優勝高校なしという、いかにもつまらない結果に終わってしまうという重要な最終決戦だった。

 

 いつものようにバックネット裏の座席に座ったところでグラウンドに目をやり、おれはあっ、と声を出した。バックスクリーンの一部が取り壊され、そこに大皇陛下のものと思われる特別座席が設けられていたのだ。


「本日の試合は、観覧試合です。大皇陛下がご入場あらせられます」


 荘厳なアナウンスに、湧き立つ観客たちが一瞬で静まり返る。黒服のボディ・ガードに寄り添われる形で大皇陛下がバックスクリーンの特別席に腰を掛けた。


 そう、神山農業念願の観覧試合が遂に現実のものとなったのである。


 おれは思わず身震いをした。自らの行動が結実したことに対する喜びと、神山農業部員たちの力になれた誇らしさ。

 何より、この試合で全てが決まるのだと思うと、身震いどころでは済まない。球場の空気は二日間の激戦の興奮ですっかり熱に浮かされており、一方でなおも決着がつかない両者の拮抗した戦いに、観客のフラストレーションはまるで爆発寸前の風船のように膨れ上がっていた。

 

 この試合はきっと大変なことが起こるに違いない。

 おれは喉奥から溢れてくる唾をぐいと呑み込んだ。


【八回表】


「三浦さん、三浦さん」

 ふいに、おれの隣から見知った声があった。


「どうも。凄い奇遇ですね」

「ああ、君か。久しぶりじゃないか」

 それは、元・東都スポーツ新聞の記者である山川だった。彼はおれの二つ下の後輩として同じ部署で共に働いていたが、十年前に退職。それ以来連絡を取っていなかったので、実に十年ぶりの再会ということになる。


「今は何をしているんだい」

「昔とそんなに変わってません。スポーツ雑誌のライターですよ。ああ、こんな感動の再会もあるもんだ。やっぱり今日は何か起こりそうですね」

「ああ、おれも同じことを考えていたよ。……どちらが勝つだろうか」

「ええ、どちらが勝ってもおかしくない試合ですよ。まあ……どちらが勝っても同じ、とも言えますけどね」

 山川の気になる発言に、おれは首を傾げる。

「どちらが勝っても同じ……って、君、それは球児たちに対して失礼だろう。不敬だぞ」

「あっ、いえ! そういう訳ではなくて。……弱ったな、つい口が滑った」

「君、何か隠し事をしているな! 焦らさずに早く喋りたまえ」

「わ、分かりましたよ。まあ、どうせすぐ出回る情報ですから喋ります」

 おれの剣幕に、山川は肩をすくませる。

「神山農業の野球部にまつわる噂の話です」

「……噂?」

「噂というか、うちのスジじゃ事実確定らしいですけどね。神山農業の野球部って、確か二年前に出来たばっかりでしょう。その初期メンバーは全員、由民高校野球部から転入してきた生徒かもしれないって話ですよ」

「なんだって! それじゃあ君、今日の、いや、昨日と一昨日の試合も……」

「はい、由民高校の野球部と元・野球部同士による因縁の対決ってことです。……同業者のよしみで喋ってますけど、あんまり簡単に漏らさないで下さいよ。試合が終わったら即、うちがスッパ抜くつもりなんで」

「あ、ああ……しかし、そうか。彼らは実質、同じ野球部なのか」


 どこか神山農業に肩入れしていたおれは、その事実に少なからずショックを受けていた。彼らは草莽崛起の集団だとばかり思っていたが、やはり、幻想というのはどこかで作られているものなのだ……。


【八回裏】


 試合開始のサイレンが鳴った。


 二週間前に聞いたのと、同じサイレン。

 甲辰園に吹く熱風に頬を撫でられながら、おれはふいに思う。


 ――もしも両校が内通しているとしたら。


 もしも両校が内通しているとしたら、昨日と一昨日の二試合をあれだけの熱戦に仕立て上げるのも、延長十五回の末の引き分けにすることも簡単だったのだろうな、と。


【九回表】


 この試合もまた、お互いにノーガードの乱打戦となった。表の攻撃で由民高校が点を取れば、その裏に神山農業が点を返す。同点、勝ち越し、逆転、再び同点……先の見えない勝負に球場の人々は一喜一憂し、エントロピーを増大させてゆく……。


「しかし、今日の試合はなんだか退屈ですね」


 七回の裏を終えて、山川が神妙な表情で言った。

 確かにそうだ、とおれも思った。確かに目の離せない試合展開ではあるものの、選手のプレイングにこれまでのような覇気がない。

 それこそ、まるで出来レースのような。じりじりと、最後の決められた結末へ結びつけるための準備を両校が結託しておもむろに進めているような、そんな感覚。


【九回裏】


 試合は9対9で同点のまま最終回へ。

 九回の裏・神山農業の攻撃。ヒット、レフトフライ、フォアボール、フォアボール、キャッチャーフライでツーアウト満塁。


「四番・ピッチャー・難波君」

 右のバッターボックスに、難波が入る。

 マウンド上にはなお、エースの近衛が立っている。


 エースと四番の対決。ここでようやく、試合に決着がつく。

 場内の雰囲気はもう、限界に近かった。


「押さえろ!近衛!」「終わらせろ!」「打て!難波!」「お前が決めろ!」「打てないなら当たれ!」「当てるな!」「扶桑魂を見せろ!」「神風アタックだ!」「大皇陛下万歳!」「殺せ!」「大皇陛下万歳!」「大皇陛下万歳!」「大皇陛下万歳!」


 狂気の渦が世界を覆う。タイムが取られ、由民ナインがマウンドに集まる。当然、これには球場全体から凄まじいブーイングの嵐。

 ベンチから静かな足取りで伝令が駆けてきて、何やら投手に話しかける。


「……おい、あれ」

 


 おれは確かに見た。バックネット裏から、選手たちが密集するマウンド上での、その僅かなやり取りを見い出したのだ。

 伝令が、投手に、何かを渡したのだった。


 そして何事もなかったかのように、試合は再開される。


 いけない、とおれは思った。けれども、おれはただ、それを見ているだけだった。

 舞台を荒らしてはならないことを知っている、良識ある観客として。


 一心にバットを振っていた難波が、再びバッターボックスに入る。

 近衛が頷き、セットポジションにつく。振りかぶってボールを投げる。

 難波に対する初球は真ん中高めのストレート――。


 カキィン!


 快音を響かせて、打球はセンター方向へ見事に弾き返された。


「わあああああああああああああああっ!」


 今大会一の歓声、立ち上がる人々、冷静に試合を眺めていた山川までもが立ち上がり、歓声を上げる。

 試合の終幕が、ついに訪れたのだ。


 しかしおれは一人、その恐ろしい現実に立ち上がれない。

 

 鋭い打球は、吸い込まれるようにセンターのバックスクリーンへと伸びて、伸びて、伸びて――大皇陛下の座る特等席へと、伸びて……。


「大皇陛下万歳!」「大皇陛下万歳!」

「大皇陛下万歳!」「大皇陛下万歳!」

 「大皇陛下万歳!」「大皇陛下万歳!」

  「大皇陛下万歳!」「大皇陛下万歳!」

「大皇陛下万歳!」「大皇陛下万歳!」

 「大皇陛下万歳!」「大皇陛下万歳!」

  「大皇陛下万歳!」「大皇陛下万歳!」

   「大皇陛下万歳!」「大皇陛下万歳!」


「革命万歳!」


 さよなら。


【ゲームセット】


「――」


 爆発。

 それは、世にも凄まじい爆発であった。

 ボールが、爆発したのだった。

 つい先ほどまであらせられた扶桑国大皇陛下は諸行無常の轟音と革命のビッグ・バンに御巻き込まれ、あっという間に黄泉の国へとお移りあそばされた。天上天下唯我独尊。要するに彼の小さな肉体は木っ端微塵に飛び散って、その麗しき龍顔をはじめとする玉体は血潮と共にライトスタンドとレフトスタンドで仰天する臣民たちの顔面へと平等に降り注いだ。


 壊れた電光掲示板が崩れ落ち、大皇陛下の特等席をグラウンドへと叩き落とす。


 神山農業高校、優勝。

 大皇陛下、崩御。


「わあああああああああああああああああああああああっ」


 観客たちの歓声、あるいは悲鳴。余りの出来事に失禁する山川の隣で、おれは席に座ったまま呆然自失としてグラウンドの光景を見つめていた。


 試合終了。スコアは9対13。

 神山農業高校と、由民高校の球児たちは示し合わせたかのように全員がベンチから飛び出して、グラウンド上で抱き合った。


 ああ、なんと感動的な光景であろうか。試合が終わった後は敵も味方もないのだ。

 ――あるいは、その場に最初から敵などいなかったのだから。


 ああ、そういうことだったのか。おれはがっくりと膝を落とした。

 奴らは最初から、この球場で大皇陛下を爆殺するつもりだったのだ。

 全ては革命の舞台を揃えるためだったのだ。全ては奴らの掌の上だったのだ。


 そしておれは、おれたちは、まんまと革命の片棒を担がされてしまったのだ。


 狂喜乱舞、欣喜雀躍。叫び回る球児――否、若き策謀家たちの口から溢れる歓喜の言葉。


「革命成功!」「革命成功!」「大皇崩御!」「大皇崩御!」

「社会革命!」「共産革命!」「万歳!」「万歳!」「万歳!」「万歳!」


 ヒーロー・難波大将投手が、ふとこちらに気づいたのか、最高の笑顔を見せた。


『ご協力、ありがとうございました』


 彼の口が本当にそう言っていたのかは、もう分からない。おれはそのとき、どんな表情をしていたのだろうか。そのときおれはなんだか、怒る元気も、涙を流す力さえ、すっかりなくしてしまっていたような気がするのだ。


 歓声、号泣、呆然、嬌声、逆上、悲鳴、失神、仰天、慟哭。球場内の人々が編み上げる悲喜こもごもの反応は、万歳万歳の掛け声と溶け合って狂気のクラスタへと変貌し、球場全体を駆け巡る。それは愚かな人々の悲しみを背負って、心と死を歌う。


 何度めかの、鳴り響くサイレン。


 嗚呼、甲辰園よ、感動をありがとう。球児たちよ、感動をありがとう。


 大皇陛下万歳!

   革命万歳!

  大皇陛下万歳!

    革命万歳!

   大皇陛下万歳!

     革命万歳!……………………

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筒井康隆風SS集 紫縁 @Yukari

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