おれの膵臓を食うな

 夏の昼下がり、某大学某文芸サークルの一室。部屋にはしがない七人の男子大学生。

 そのうち、自前のMacBook Airを操作していた男が、液晶画面に映し出されたそのタイトルを見てわざとらしくため息をついた。


「はあ、全く下らない」


 周囲の反応がないと見て、その太った男はもう一度、


「あー、全く下らないね、本当に下らない!」

 わざと周りに聞こえる大声で嘆いた。


「どうしたよ、おい」

 しばらくして、チェックシャツの男が太った男の元に歩み寄った。


「ああ、見てくれよ、これをさ。実に下らないと思わないか」

 太った男は口の端に失笑を浮かべながら、液晶に映る文字列を指し示す。


「『おれの膵臓を食うな』? なんだいこりゃ」

「さっきTwitterで見つけたネット小説さ。ははは、笑っちまうだろ」

 チェックシャツの男は何が面白いのか分からない。彼は普段あまり本を読まないくせに「本を読む男はカッコ良さそうだから」という理由だけでこの大学の文芸サークルに所属していた。


 だが、ここで何のことだ、と言ってしまっては恥をかく。そう思ってチェックシャツの男は、

「はは、確かにな」

 と軽く作り笑いを浮かべた。


「おい、お前も見てみろよ」

 太った男はチェックシャツの男の反応が薄かったことに不満を持ち、近くに座ってスマートフォンを操作していた馬面の男に声を掛けた。

 馬面の男はわざとらしく怠そうな態度で立ち上がり、チェックシャツの男の元へ歩いていった。そしてチェックシャツの男が示す画面を覗き込むなり、


「ああ、最近映画化で話題になった例の人気青春小説の、下らないパロディだな。話題作りのためだけにこんなタイトルを付けるとは、物書きとしてのプライドもへったくれもない野郎だ」


 と、すましたように言った。


 実はこの男、すでにTwitterで同じ作品を見つけていた。盛り上がっているところに自分から歩み寄るのは面白くないと思い、声が掛かるのを待っていたのだ。


「お前ら、このパロディの原作は読んだことあるか」

 馬面の男が、二人に尋ねる。

「いや。俺は流行り物はあんまり好きじゃないんでね」と太った男。

「お、俺もだ」と便乗するチェックシャツ。

「そうかい。俺は流行り物だからって敬遠するのは読書家の姿勢としちゃ二人前だと思うが」

 馬面の男は透かした風に言って、二人を嘲るような笑いを浮かべた。悔しそうな二人。


「まあ仕方ねえから説明してやるよ。原作では太宰治好きの男子高校生が主人公だ。こいつはある日クラスメイトの女子がこっそり書いてる闘病記を拾って、その女子が不治の病を抱えてることを知っちまうんだな。それをきっかけに知り合った二人は死ぬまでの間に二人でいちゃいちゃするんだ。いかにも太宰好きの男って感じだろ? で、最後に女は交通事故で死んで、男がわあああああって泣いておわり」

「なんだそりゃ。めちゃくちゃじゃないか」

「いいんだよ、そんなもんなんだから。ま、タイトルのパロディで筒井康隆風の短編を銘打っているってことは『膵臓が大好物の宇宙生物が地球に侵略してきて人間たちの膵臓を貪り食うグロテスクなSF小説』ってのが関の山だろうな。どうだ、筒井らしいだろう」

「え? あ、ああ。筒井らしいな」

 俳優の筒井道隆しか知らないチェックシャツ、またもや知ったかぶりで愛想笑い。


「あるいはこうかもしれないぜ」

 また近くに寄ってきたいかり肩の男がニヤニヤと笑いながら言った。

 

「原作の通りに額面通りの恋愛小説を始めてゆくんだ。甘いメロドラマのシーンなどを挟みながらね。そして最後、満願成就のシーンで恋人が牙をむき出しにして膵臓を貪り食う……っていう展開さ」

 この男も筒井康隆を知らず、先程Google検索をして用意してきたネタを披露する。


「ははは、そりゃいいや。それで『衝撃のラスト!』などと銘打つツモリなんだろうね」

「はははは、面白い。バカの浅知恵が透けて見えるな」

「最後の一文はきっとこうだぜ、『おれの膵臓を食うな!』」

「はははははは」

「当然、全部の文字にがついているんだろう?」

「はははははははは」

 皆がひとしきり笑った後、パイプ椅子に腰掛けていた幹事長らしき男が縁の太い紫色の眼鏡をずり上げながら言った。

「そもそもね、小説というものはね」

 この幹事長、何を言うにも「そもそも」という枕詞を付けねば気がすまぬ人種。


「小説というものはね、技巧で魅せる言語芸術なんだよ。ただ衝撃的な内容を盛り込むだけで読者に衝撃を与えられると思うのはまさに愚の骨頂。不治の病を負った恋人が死ねば感動するとか、腸がはみ出ればショックを受けるとか……セ、セ、セックスのシーンがあれば」

「勃起するとか?」

 わはははははは。

 幹事長の脇に控えていた背の低い男が茶々を入れ、場が再び湧き立つ。お察しの通り、この場の男ども、一人残らず女の身体を知らぬド童貞である。


 やや赤面しながら、幹事長は再び眼鏡をずり上げて始めた。

「そ、そもそも、そういう作者の惰性的な考えが全く読者を馬鹿にしているというんだ。特に最近のネット小説は酷い。全くどれも思考放棄の産物ばかりじゃないか」

「ああ、分かる分かる。転がってる作品はどれもワンパターンなライトノベルのなり損ないばかりだ。あんなもの、誰が喜んで読むんだろうか」

「そりゃあ文字がまともに読めない頭の悪い奴らさ。芸能ゴシップに興味津々で、読む本といえばマンガばかり。映画を観るのが趣味だが、話題になったものにしか興味がないという――いるよな、そういう文化的に低俗な奴」

 うんうん、と場にいる皆が頷く。


「まあいいさ、俺たちはそういう連中とは一線を画しているんだからな」と太った男。

「そうさ。物事をしっかり俯瞰できている」と馬面の男。

「俺たちだけはこの世界で正しいものを見定める目を持っているのさ」といかり肩の男。

 悲しいかな、ここで誰もが哲学者のアフォリズムを引き合いに出そうと狙っていたが、誰も肝心の哲学者の名前が出てこない。男たちの笑い声が虚しく部屋に響く。


「でも先輩方」

 部屋の中を虚無が覆い始めたところで、また別の声。

「作品を読まずに評価するというのはそれこそ惰性ではないですか」

 後輩らしい男が、おずおずと言った。


 幹事長の方はううむ、と唸った後で、

「そもそも、では、君はそいつを読む価値があると思うのかね」

「それは……読んでみなければ分かりません」

 いかにも幼稚な回答に、せせら笑う諸先輩方。

 しかし、流石の幹事長は一笑に付すことはしなかった。「それも、もっともだな」と一言。

「テクストに触れず周縁をなぞるだけで作品を判断するのは、まずい」

 場がややざわめく。


「でも、こんなネットに上がってるような作品、どうせ下らないだろうよ。時間の無駄だ」

 背の低い男が濁声で言う。


「だったら、こんなのはどうですか」

 幹事長の同意を得て少し元気が出た後輩、こんな提案を始めた。

 それは、我々文芸サークルの面々がこのタイトル――『おれの膵臓を食うな』というタイトルで作品を書いてみてはどうかというものだった。


「この試みは、単なる遊びである以上に、小説における間テクスト性を考える上でも面白い実験になると思うんです。あっ、僕がいま想定している間テクスト性はクリステヴァが編み出した原義的なニュアンスではなくて、ジュネットが『パランプセスト』でアップデートした概念に基づくものです。ああ、どちらかというとこの場合はハイパーテクスト性、あるいはイペルテクスト性と言った方が明快かな……」


 後輩が振るう熱弁が、次第に加速して場に異様な緊張感を醸し始める。


「すみません、まあ、その定義は少々曖昧かもしれませんが、今回のような『パロディ』と呼ばれるテクストを、仮にロラン・バルトに寄せて解釈して――つまり読者である我々が主体的にテクストを読み解くとき、そこに生まれる解釈は、参照元のテクストを知っている以上、パランプセスト的なものになりやすいでしょう。もちろんそれを利用して作品を組み立てていくのは技巧によるところで難しいなりにやり甲斐はあるでしょうが、僕としてはそこの箍を如何にして外すのかという試みから読者論に結びつける可能性を――」


 一見どうしようもないパロディに見えるタイトルの作品を、いかに面白く描くか。単純に共通のテーマに沿って創作をするよりも、作品と作品の関連性について、あるいはタイトルと作品の関連性について考える良い機会になるのではないか……。

 後輩の言っていることは大体、そういうことだった。


 しかし、他の六人の男たちはすっかり静まり返り、誰もが沈黙を貫いている。ただ黙って、喋り続ける後輩の言葉に耳を傾けるばかり――いや、話など聞いていない。正しくは、聞いてもことが、既に全員の共通見解となっていたのだ。

 もうお気づきであろう。この六人はみな、バカなのだった。


「下らないね。俺はやらないぞ」

 このままではまずい、と言わんばかりに、太った男がキンキンと耳に響く声で叫んだ。

「俺はパロディとか二次創作って奴は好きじゃないんだ、純粋さがない。作品は当然、自らの身体から湧き出してくるものでなければならない」

「俺も賛成だ。パロディってのは結局、盗作と同じようなものじゃないか。気に入らないね」

 太った男に続いて、馬面の男が同意する。

 あれほどバカにした手前、もし優れた大した作品が出来なければ、皆からの失笑を食らうのは必至――ここで自ら創作をするなどという危険を冒す訳にはいかない。


「そうだ、パロディなんてものは低俗だ。それに、他人の作ったタイトルのパロディを更に使って小説を書くだなんて……」

「時間の無駄、無駄」

 いかり肩の男と背の低い男も彼らの意見に賛同した。


「そ、そうだ。オマージュならまだしも、パロディじゃあ……」

 置いていかれてはなるまいと、慌ててチェックシャツの男も同意する。


 しかし、そこに食いついたのは太った男。

「おい、お前。オマージュならまだしも、と言ったな!」

「え? ああ、そうだが……」

「だったらこいつの提案通り書いてもいいということだな、タイトルさえ同じであれば、オマージュでも構わないんだろう? なあ?」

 太った男が鬼のような形相で後輩に確認をした。後輩は太った男のあまりの形相に怯えた様子でこくり、と頷く。


「ほら、そういうことだ、書いてみてくれよ。俺はお前がどんなものを書くのか読んでみたい」

 勝ち誇ったように、太った男はチェックシャツの男に詰め寄る。


「だ、だったら俺だけじゃなくて皆で書かなきゃ意味がないだろう。俺だけ書くというのでは、どうも、遊びの意味がない。なあ、そうだろう!」

 チェックシャツの男が声を荒げて必死に抵抗する。


「そうだぞ、おい、お前! お前はそうやっていつも人の作品にケチをつけるばかりでお前が書いた作品をほとんど見せようとしないじゃないか!」

 チェックシャツの男に呼応するが如く太った男に噛み付いたのは、いかり肩の男だった。

「な、なんだと! そ、それを言うなら、お前! お前だってこの前の同人誌で俺の作品のことをめちゃくちゃに言ってくれたな!」

「ふん、つまらないものをつまらないと言って何が悪い!」「だったらお前も書いてみろ!」「なにを!」「やるか!?」

 続く因襲のラリー。


 今にも掴み合いになりそうな太った男といかり肩の男、それを見てどうしたものかと困惑顔のチェックシャツの男。背の低い男は呆れ顔でそれを見つめている。


「ならば平等を期して全員が書くべきだ、おい、そうだろう!?」

 二人を止めに入った馬面の男が、後輩に恫喝じみた声を上げる。もはや後輩はただ首を縦に振ることしかできない。


 しかし、この発言により場は再び沈黙。

 そう、誰も、そんな無謀な挑戦などしたくないのだ。皆、自らの名誉と自尊心が大事……。


「おい、幹事長さんよ、お前はどうなんだよ」

 再び口火を切ったのは、背の低い男だった。


 視線の先に座っていたのは、じっと黙っている紫眼鏡の幹事長。日頃最も創作論を偉そうに語っている男であるから、ここで引き下がってしまっては幹事長としての名が廃る。しかし、もし書いたものが認められなければ、権威失墜は免れない。

 ――この文芸サークルの幹事長となるために、俺は随分と苦労をしたのだ。それはもう、言葉では表すことができないほどに……。

 責任、重責、重圧、圧迫、迫力。

 皆の注目が集まる中、幹事長が出した結論。


「そもそもバカバカしい!」


 パイプ椅子から立ち上がり、幹事長はあらん限りの声を絞り出して叫んだ。

 場の全員が仰天して幹事長を見上げる。


「そもそも、事の発端はお前! お前が訳の分からないことを言うからいけないんだ!」

 突然指を差された後輩が、目を白黒させ、他の皆も思わず目を丸くした。


「お前さえいなければこんなことにはならなかったんだ、そうだ、お前がいけないんだ!」


 パイプ椅子の上に立ち、大上段から非難の刃を振り下ろす。


「お前なんてだ!」


 人間失格。それは太宰治の小説のタイトルでもある、最高級の侮蔑。

 なんという言いがかり。まるで狂気の沙汰である。

 その空間に存在する誰もがそう思ったはずだった。


 狂気? ……果たして、それは狂気だろうか。

 

「人間失格」


 ぽつりと誰かが言った。

 狂気ではない。そう、それはもはや狂気ではなかった。


「人間失格だ」


 正気である。誰もが正気だった。


「人間失格だ!」


 そう、正気である。のだ。


「人間失格だ!」

「人間失格だ!」

「人間失格だ!」


 始めから分かっていたことではないか。


 豹変した六人の男たちは後輩を部屋の隅へ追い込み、暴行を始めた。殴る蹴るばかりではなく、唾を吐きかけたり、持っていたライターで肌を焼いたりもした。

 

 後輩はその場にうずくまり、ただ、暴行が終わるのを待つしかなかった。

 それは彼にとってあるがままの現実を受け入れるということであった。

 

 しかし、このままこの可哀想な後輩がリンチされた結果、呆気なく死んでしまうなどという展開は、からすれば到底受け入れられる訳もない。


 。デウス・エクス・マキーナという予定調和の神である。


 神は後輩に言った。

「貴様は人間失格だそうだな」

 後輩は俯いた。

「奴らが憎いか」

 後輩は顔を上げ、頷いた。

「復讐したいか」

 後輩はまた頷いた。

「ならば力を授けよう」

 しかし、この化物は本当の力を発揮するためには人間の膵臓を一つだけ食う必要があるのだ。

 化物は目の前で腰を抜かす貧弱な男どもをギロリと睨みつけた。

 六人の男どもは腰を抜かし、あたりに糞尿を撒き散らした。

 そうして彼らは奇しくも揃ってこう叫ぶのだ。


 おれの膵臓を食うな!

 おれの膵臓を食うな!

 おれの膵臓を食うな!

 おれの膵臓を食うな!

 おれの膵臓を食うな!

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