第3話
アイミと名乗るお姉さんは挨拶を終えると、ゆっくりと教室全体を見回していた。年少のクラスメイト達が銘々に騒ぎ立てている。
「武林さん、そうねぇ……それじゃあ、あそこにいる、一番お兄さんのいる席の隣に行ってくれるかしら」
「わかりました」
そう言って大学生の先生が指を指したのは、僕の隣の席だった。先生にそう指定された彼女は教室の真ん中を通って、僕の隣の席にまで来た。
「ほら、みんな静かに!授業を始めますよ!」
「はーい」
新たなクラスメイトの登場にざわめく教室を落ち着かせ、先生は午後の授業を始めた。授業とは言っても各々がやっている自主学習を見て回り、適時質問に答えると言った感じだが、それでも授業と言っているのは、一定の時間の区切りを持って学習に時間を費やしているからだろう。
そして僕の隣には、本日の最大のトピックスである人物が座っている。ちらりと目をやると彼女が僕に挨拶をしてきた。
「よろしくね。今日はみんなが何をやっているのか見せてもらうね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。武林さん」
「アイミでいいよ。さっきも言ったでしょう?」
彼女は子供に言い聞かせる母親のように若干眉根を寄せて、冗談ぽく僕に下の名前で呼ぶように促した。
「それじゃあ、アイミさん」
「そうそう」
彼女はそう言うと、にこりと笑顔をこちらに向けた。
「えーと、君の名前は?下の名前を教えてくれる?友達になりましょう」
「あっ、シンジロウです」
「ふうん、シンジロウくんね。何年生?」
「中学二年生です。14歳です」
次々とテンポ良く彼女は僕のことについて質問をしてきた。きっと彼女は外でも社交性が高く、相手との距離を縮めてすぐに友達を作るタイプなのだろう。
「あとタメ語でいいよ、ここでは堅っ苦しいるしいことは無しにしましょう?今までみんなに対してそうしてきたんでしょ。私にだけ敬語って言うのもなんか変だし。いいよ私はそういうの気にしないから」
「でも年上だし……」
僕は若干その口調の勢いに気圧されながら、もう既に彼女の言う「タメ語」になっていた。
「大丈夫大丈夫。たった二歳差なんて、誤差よ誤差」
彼女は目尻を下げながら、鼻息混じりに笑顔を作って僕にそう言った。その笑顔を見て、まったく元気な病人だな、との第一印象を僕は持った。入院していたら挨拶ですらおっくうになる時もあるのにと。喋り方も表情も穏やかで、人とあまり間合いを作らず、人見知りをしない人のようだった。
そんな彼女を見て、僕はどうしても気になったことがあったので、それをぶつけてみた。
「どうして制服を着てるの?」
今度は、僕が質問をする番だった。
「ああ、これね。何と言うかな、私は世の中から切り離されていないことの確認のためというか」
「切り離される?」
「普通の学校へ通うように、普通でいたかったからかな。これから先も」
僕はなんとなく納得した。たとえ長い入院生活になったとしても、日常を続けていたい、元気だった頃の生活を変わらず続けていたいのだ。それは僕も同じ気持ちだった。
「でも、かえって目立っちゃった」
そう彼女は照れ笑いを浮かべた。
「僕もわかる気がする」
心に浮かんだ言葉を素直に出してみた。
「わかっちゃう系?」
彼女は僕をちょっと茶化すように、そう答えると、
「あとね、どんな場所かわからなかったから、失礼がないように制服を着たって言うのがあるかな。意外とみんなラフな格好なままなのね。明日から私もそうしよう」
制服のブラウスの袖を引っ張るようにして、着ている物の堅苦しさを表しながら、少し安堵を浮かべた表情になった。
生活の基本が病気との闘いとなるため、入院生活を続けていると少しでも動きやすく楽な格好の方がいい。あと何かと検査などで腕をまくる場面が多いので、いつでも腕まくりが出来るような、ゆったりとした服装になりがちだった。
「ごめんね、おしゃべりばっかりで。一番年齢が近そうなのが君だったから、ついね」
彼女はそう言って笑顔で話を終わらすと、自分も勉強を始めようと言うことなのだろうか、ノートやら筆記用具を手提げから取り出した。
「シンジロウ君も、勉強始めていていいよ」
「ああ、うん、ありがとう。そうするよ」
年長者が、あまりお喋りを続けていては、ちょっと示しが付かないなと思っていたので、僕は今日の午後やろうと思っていた「自分研究」のための本とノートを取り出して、机にそれらを並べた。
「ここの子は、みんな自分で勉強するんだね」
「いちおう、自主学習だからね。年齢も学年もバラバラだから、普通の学校みたいに教壇に先生が立って、何かを教えるわけにはいかないからね」
「それもそうね」
彼女の言った下見に来る、と言うのはこういった特殊な環境を体験するという事でもあるのだろう。そもそも何ら義務性の無い院内教室にわざわざ通うというのは、それだけで普通の学校生活とは違うものだ。一回経験してみないと、わからないこともあるだろう。今日の教室の様子を見てから、彼女はここに来て闘病の中での「学び」をするのか、決めようと言うことなのだろうと思う。
「基本的には自習で、わからないことがあったら先生に聞く、家庭教師とかに近いかな」
「子供同士で教えっことかもするの?」
「時々、ね。小学校の勉強なら僕でも教えられるし、中学の勉強も自分の学年までだったら教えられるかな」
「ふうん。じゃあ、そう言う時はシンジロウくんは先生役が多いのかな?私も一応高校生だから、中学までの勉強なら教えられると思うけど……シンジロウくんには必要なさそうね?」
彼女の目には、僕がびっしりと書き込んだノートが目に入ったのだろう。確かにそれを見れば、自分で何でもできるように見えるのかもしれない。実際にはわからないことだらけなのだが。
僕は彼女とそんな事を話ながら、先日借りた自分の病気の教科書的な本をめくりはじめた。
「あれ?」
彼女が急に真面目な顔になったのが横目で見えた。
「シンジロウくんさ……」
そして小声で耳打ちをしてきた。
「君もCAEBVなの?」
僕はその言葉でぎくりと心臓が動いたのを感じた。
「え……なぜ知ってるの?」
彼女が「なぜ」そんなことを言ったのか、だいたいは予想ができたが確証が得られない。普通の女子高生がこんな語句に興味を持つはずがない、という想像から彼女の言った言葉の真意についていくつかの答えが、僕の頭の中を巡っていた。
「それ、私の病気。ひょっとしてシンジロウ君も?」
僕が刹那に予想した答えのうちの一つと、それは合致した。
「ここでは他人の病気を聞くのはタブーなんだけど……」
そして僕は、口ごもりながら「うん」と頷いた。
「聞いちゃダメなこと聞いちゃってごめんね」
彼女はそう言って、僕の目の前で両の掌を合わせていた。
「べつに僕はいいよ……でも他の子には気を遣ってあげてくれないかな?」
自称しない限り、病名を言うのは憚った方がいい、というのはなんとなく経験してきた。それは時には回復の見込みが無い、本人にとって聞きたくもない最も忌むべき名前である場合が多いからだ。ともすると、大人から本当の病名を教えてもらえていない子供もいる。だから、病名とは慎重に扱わなければならない話題だった。僕の病気もまた、決して回復が保証されているものではないのも事実であり、その病名を口にするのは重い。
「うん、気をつけるようにするよ。そうね、ここじゃ私が後輩ね。色々教えてくれるとありがたいかな」
彼女はそう言って謙遜した。
「うん、いいよ。それに僕も正直同じ病気の子がいるとわかって、ちょっと安心した所もあるんだ」
実際に安心したのは間違いない。年間二十人足らずしか現れない病気だ。同じ病気の人が同じ病院にいることすら、まれな事だ。僕が感じている苦しみを、本当の意味で理解してくれる人間は、同じ病気の人間だけだ。そう言う意味では、僕の病気の真の理解者が現れたのだと感じて、自然発生的に安堵を覚えたのだ。
「私が聞いたのはね、こどもがなりやすい病気なんだって。だからこの病気に詳しい先生は、こどもの血液の病気をよく診ている先生って話。だから私は、小児病棟へ入院することになったんだよ」
彼女も同じ病気の理解者が現れたと思ったのか、僕が尋ねたわけではなかったが、自分の事をわかってもらえるだろうという期待感からだろうか、簡単にここへ来た経緯を教えてくれた。
「そうか、なるほど。年齢的にも十代だから、この病気に詳しい先生の元で治療しようって事なんだね」
僕はなぜ高校生がこの教室に現れたのか理解した。小児に多い病気であることは、僕が読んでいた本にも書いてあった。治療には非常に専門的な知識が必要とされ、何人かこの病気を診たことがある医師でないと、治療を施すのが難しいであろうことも理解していた。だから彼女は、経験のある医師のいる、この病院に入院することになったのだとわかった。
「最初はクリーンルームにいて一切外を出歩けなかったけど、このごろは症状が良くなったので一般の小児病棟へ移って、ついでに勉強を再開しようと思ったんだ」
「そうか、どうりで見かけたことが無いはずだ」
「病棟移ったのは、ちょっと前なんだけどね。移ってからもしばらく様子見で、ほとんどベッドで寝ていたからね」
「なるほどね。それじゃ治療の効果が現れて、外に出られるようになったんだ」
「そうね。副作用がキツかったけど」
そう言うと彼女は自嘲気味に頭へと手をやった。制服姿に似合わないそれは、頭をすっぽり覆っていた。頭覆うニットキャップは、治療の副作用のせいで脱毛が酷かったことを暗に示していた。
「シンジロウくん、もしよかったら、副作用とかの愚痴も聞いてくれるかな?あんまり話せる相手がいなくてさ」
「僕でよかったら喜んで。僕も一人で物事を考えすぎてしまうことがあるから、アイミさんも僕の話を聞いてくれるかな?」
「いいよ。契約成立だね」
彼女ははにかんだ笑顔を浮かべ、右手を差し出した。僕は少し戸惑ったが、すぐに余計な考えを振り払って彼女の手を取った。
--『契約成立』それが同じ病魔を抱えた、僕たち二人の切ない関係の始まりだった--
この生命は誰のもの 石神三保 @k-on
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