第2話

 入院病棟と一般病棟との境目となる場所に、患者情報広場というフロアがある。この病院では、患者と家族が病気に対して向き合えるよう、学習スペースを設けてあるのだ。情報広場には、誰でも自由に持ち帰ることができる各種病気に対するパンフレットが置かれているのに加え、様々な医学書やDVDを自由に見ることができ、情報収集の場として機能している。カウンターの職員さんに言えばネット検索のためのタブレット端末も貸し出してもらえるようになっていた。広場には長いすが置かれて患者と家族、あるいは患者同士が、そのフロアを情報交換の場として利用できるようになっていた。


 広場のあるフロアの奥にある、自動ドアで区切られた一角にある会議室のうちの一つが、僕の通っている教室だ。食事の片付けを終えた僕が、午後の時間を過ごすために目指している場所だ。入院病棟からは広場を通らなくても行けるようになっていて、僕は広場を横目にしつつ目的の教室のドアの前に到達した。そしてドアの脇の机に置いてある、アルコール消毒液で一度手を消毒する。手を揉みしだいてアルコールをあらかた揮発させた後に、ドアの取っ手に手をかけた。僕は少し早めに院内教室に入室し、後ろ方の席に陣取った。どうやら教室に一番乗りをしたようで、先生役の大人も生徒である子供も誰もいなかった。まだ集まっていないクラスメイト達を待つなか、それとはなしに辺りを見回す。


 この部屋は院内教室として使われていない時には、病院のカンファレンスルームとして使われていて、そのためのプロジェクターや書画カメラ、インタラクティブホワイトボードが部屋の隅に置かれていた。もちろん必要があれば、院内教室の授業でそれらの機器を使って良いことになっていた。特にインタラクティブホワイトボードは粉塵が出ないため、呼吸器の疾患を抱えた子供でも安心して使えるので、ここでは普通のホワイトボードよりも授業で重宝されている。何と言っても落書きし放題なのが、年少のクラスメイト達にているようだった。


 基本的には医師と看護師が、カンファレンスをやる部屋なのだが、院内教室として使われているために、壁には入院している子供達が描いた絵や習字、年少者の目を楽しませるためのアニメのキャラクターの切り抜き、子供向けの啓発ポスターや時間割表や世界地図など、色々なものが貼られている。ロッカーの上にはぬいぐるみが並んでいて、その脇には小学校の算数で使う巨大な分度器や三角定規が置いてあった。子供のスペースと大人のスペースが渾然一体となった、ユニークな風景となっている。最初は違和感ばかりある部屋だったが、いまやもうすっかりその光景に慣れてしまった。


 ここでは、病院内外のボランティアが教師役となって勉強を教えていた。時には手の空いた看護師や主治医も参加することがあり、もちろん勉強を教えてもくれるのだが、やはり最大の関心事は自分の病気のことなので、そうなると授業と言うよりは何でも質問教室となってしまう。どうやったら痛くなくなるのか、どうしたら苦しくなくなるのか、それは長い入院生活をする子供にとって最大の関心事だからだ。だから、広い意味での「勉強」をするのが目的の子供が、自然と多く教室に通っていた。そこは学びという、人間の基本的な欲求を満たすための場所でもあった。


 今日の僕はと言えば、学校の教科書は貰ったその日に全部読んでしまうような性分なので、実は学校で習う範囲はあらかた終えてしまっていたのだ。今日の午後は何をしようか、数独を解こうかそれとも和算の問題集でも解こうか、やはり『自分研究』でもしようかと、色々思案していた。そうこうしていると三々五々、年齢も学年も違うクラスメイト達が集まってきた。


 授業開始5分前頃だろうか、一人の年少のクラスメイトが僕に駆け寄ってきた。

「シン兄ちゃんこれ見て!僕がサインしたんだよ!」

 そう言って年少のクラスメイトが自慢げに書類を見せてきた。まるで、重要な契約を取ってきた営業マンにでもなったかのような、胸の張りようだった。

「僕が考えて、僕が決めたんだ!」

 彼が見せてくれたのは数枚の書類であった。この病院では子供の権利を十分に尊重するために、子供の理解度に応じて「インフォームドアセント」を取っていた。それを僕に見せてくれたのだ。

「へえ、たいしたものじゃないか。いっぱい考えたんだろう?すごいな」

 そう言って僕は年少のクラスメイトを讃えた。

 

 インフォームドアセントとは病気の治療で臨床試験を行う場合に、子供に分かりやすく臨床試験について説明し、理解をもって医師との合意文書を交わす事だ。インフォームドコンセントの子供版と言うべきか、医療従事者と子供が出来るだけ対等な立場になれるようにとの配慮のため、作成される文書である。

 僕もインフォームドアセントに記入したが、実に巧妙にという言いうと聞こえが悪いが、平易な文章であっても決して内容は子供だましではなく、子供の自尊心を上手く満足させるように出来ている。文面の作成に相当な時間と労力をかけたであろう事は容易にうかがうことができた。

 そしてインフォームドアセントを取ったと言うことは、臨床試験のような先進的な医療が必要であることを示していた。ということは、彼の病気もまた臨床試験的な医療を必要とする、難しい病気であることを示していたのだ。

 文書という形にすることで、否応となく自分の病気と向き合う決心をすることになる。病気を他人任せにするのではなく、「自分の問題として考えなければならない」と決心することも意味していた。

 「僕もその書類を書いたけど、色々悩んで考えて質問して、サインすることを選んだんだ。どうだい?重要書類にサインをした気持ちは?」

 「なんだか良い気持ちだよ。お父さんもお母さんも、なんだか喜んでくれたし、書いて良かったと思っているよ」


 そんな、ビジネスマンごっこで年少者の自慢話に付き合っていると、大学のボランティアで先生役を請け負ってくれたが教室に入ってきた。

 それはもうすぐ授業が始まる合図でもあったのだが、今度は別の小さな同級生が何人か、僕に話しかけてきた。

「勉強終わったらリバーシやろう!」

「いや、僕とショーギやろうショーギ!」

「ずるい!お前このあいだ遊んでもらっただろ!」

「わかった、わかった。順番だよ、後でね」

 僕ははここではゲームの上手い「シン兄ちゃん」なのだ。程度のいいゲームの対戦相手なのだ。

 知っているゲームはなるべく教えてあげるようにしている。一方で僕にゲームを教えようという子もいる

「シン兄ちゃんはカードゲームはやらないの?」

「僕はカード持っていないしなぁ」

「デッキ貸して上げるから今度一緒にやろうよ」

「今度ね」

 トレーディングカードゲームはずいぶん昔の小学生の頃に、周りの流行に合わせて少しやったが、無限とも言えるカード集めをしなければならず、気持ちが萎えてしまって今はすっかり卒業してしまっていた。戦略とか考えるのは楽しかったが、それほど熱中することはなく、途中でやめてしまった思い出がある。

「ほらほら、席に着きな。もうすぐ授業が始まるよ」

 僕は話しかけてくる年少の同級生に、会話を切り上げるようにうながす。様々な装いの……寝間着だったりスゥエットだったり、午後に何かの検査があるのだろうか、検査着だったり、車いすだったり松葉杖だったり、歩行器だったり、あるいはベッドのまま……そんな多様な格好で、午後の授業に参加する子供達が教室に集まっていた。


 そして、始業時刻となった。年齢も学年も基本的にバラバラなので、勉強は基本的に自主学習となる。僕は椅子を正すと、今日の午後はやはり『自分研究』をやろうと、前に主治医の先生から借りた、自分の病気の教科書的な本を机に出した。


 いつものように午後の授業を始めようとしたが、その日はすこしだけ普段と違うことが起こった。

 「それでは、午後の教室を始めます。その前にみなさんに紹介したい人がいます」

 授業開始の挨拶も早々に、そう言うとボランティアのお姉さんが入り口のドアを開けた。

 現れたのは大人の女性……ではなく、明らかに学生の制服を着た女性だった。

 すらりと手足が長く腰の位置が高い、身長も女性としては高めの170センチメートル以上ありそうに見えた。だから一瞬、大人が入ってきたと思ったのだ。

 違和感があるとしたら、制服姿にニットキャップを被っている所だった。その帽子一つで、彼女が何らかの病気を抱えていることを如実に示していた。


「明日から教室でお世話になります。武林愛美です。16歳の高校生です」

 そう話す彼女の顔は、お化粧はしていなかったが目鼻立ちがはっきりとしていて、美人と言って差し支えがない容姿をしていると思った。


 僕は少し驚いた。はっきりとは決まっていないが、だいたい小児医療の年齢上限が15歳くらいだったはずなので、高校生が来るとは考えてもいなかったのだ。だから今までは、僕が最年長で一番のお兄さんだった。

 僕の驚きを余所に、僕よりも年上の女性が挨拶を続けた。

「『タケバヤシ』ってなんかゴツくて勇ましい感じがするので、下の名前でアイミと呼んで下さい。今日は下見を兼ねて教室に来ました。よろしくお願いします」

 そう言って彼女ははにかんだ笑顔を見せた。

 --それが彼女との出会いだった--

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