第8話 自分にとって一番大事なものは?

 黒いワンピースの上に純白のエプロン、頭にはドレスカチューシャ。

 漫画やアニメの世界によく出てくるコスプレの定番衣装、メイド服だ。

 シンプルなデザインながら、清楚な印象と可愛らしさの双方をあわせ持つこの衣装は、僕も好きではあったが……。まさか自分が着ることになるとは思わなかった。

 女子の制服とはまた別の意味で恥ずかしい。だって、女子の制服なら女子と間違われるだけで済むけど、この格好では何者と思われるか。絶対に部室から出られない。

 もちろん、僕にこれを着るよう要求したのは彼――

 真の幸福を探求する高校二年生、上森和先輩だ。

 その上森先輩に、電子ポットで沸かしたお湯で紅茶を淹れてあげる。

 砂糖は小匙に半分、ミルクはなしだ。

「ど、どうぞ」

「ありがとう、ひかるちゃん」

 あれから上森先輩は少し変わった。

 金髪に近かった茶髪が黒髪に近い茶髪になり、服装もユルユルとキッチリの中間くらいにはなった。胸元のアクセサリーもない。言ってみれば、ちょいユルの男子高校生だ。以前のような、あからさまなチャラ男ではない。

 態度も微妙に変わった。

「俺が見込んだとおり、やっぱりひかるちゃんには清純系の衣装がピッタリだ。次は修道服か巫女服あたりがいいかもな。いや、あえてビジネススーツというのも悪くないな。もちろん、下はタイトスカートでな」

「ぅぅ……。や、約束は忘れないでくださいね!」

「分かってるよ。ひかるちゃんを攻略するまで、俺は他の女の子を口説いたりはしない。今は君だけに専念するぜ」

言ってることは相変わらずだが、手当たり次第ということはなくなった。

つまり一応、少しは誠実になった。

 だからといって、この人に攻略される日は一生きませんが。どんな口説き文句を駆使しようとも僕は難攻不落です。男ですから。

 でも、これで当面の時間稼ぎはできる。上森先輩の幼馴染みにしてコスプレ部二年、今井真尋さんの言うとおり、ご褒美による躾は効果てきめんだった。

 その今井さんが言う。

「ひかるちゃん、わたしにも紅茶淹れてくれる?」

「それはいいんですけど……。なんでまだいるんですか?」

 今井さんがここに来たのはメイド服を届けるためだ。つまり用事はとっくに済んでいるというのに、なぜか小乗先輩の席でくつろいでいる。

「今日は小乗君が休みって聞いたから、代わりに来てあげたの」

「代わりって、議論に参加するつもりですか?」

「ううん、わたしはひかるちゃんのメイド姿が見たくてここにいるだけ」

 ニコニコ顔で、しれっと言う。

「じゃあ代わりでもなんでもないじゃないですか」

「そうでもないよ。――えい!」

「あー、また邪魔したー」

 文句を言ったのは下倉先輩だ。

 携帯カメラでこっそり僕を撮影しようとしたところを、今井さんが手をかざして阻止したのだ。

「勝手に撮っちゃダメって何度も言ってるでしょ! 本人の許可なしの撮影はご法度よ! あなたもコスプレ愛好家なら最低限のマナーは覚えておきなさい!」

「いや、愛好家ってわけじゃないんだけど……」

「だったら今すぐ愛好家になりなさい!」

 ギャグでもなんでもなく、本気で言っているとしか思えない今井さんの表情。

 なぜそうなるの?

 ほんとこの人の言動は上森先輩と同じくらい意味不明だ。

 でも、今のところは助かっているので紅茶くらいは淹れてあげよう。

 下倉先輩と自分の分もついでに淹れて、席に着く。

 メイド姿で座るのは落ち着かないな。ずっと立っていたい気分だ。服装が変わると気持ちも変わる。図らずも自分で言ったことを自分の身で実感してしまった。

 それから、しばらく雑談が続く。

 部長がいないせいか誰も議論を始めようとしない。

 きっかけになればと思い、僕は尋ねてみる。

「そういえば、小乗先輩のことは聞いてますか? 昼休みに何も言ってなかったのに、急に帰るなんて……。もしかして具合が悪くなったんでしょうか?

「具合が悪いのは本人じゃなくて母親だよ。で、看病するために早く帰るんだとさ」

 上森先輩が答えてくれた。

 直接知らない人のこととはいえ、少し胸が苦しくなる。

 大事に至らなければいいのだけど……。

 下倉先輩がめずらしく真面目に言う。

「去年も月一くらいであったんだけどねー。小乗君のお母さん病弱みたいで、他に家族がいないから、小乗君が看病するしかないんだよー」

「そうだったんですか……」

 小乗先輩の家庭が少々複雑なのは知っている。水澄さんの時もそうだったが、本人がいないところであれこれ詮索はしたくないので、それ以上は聞かなかった。

 先輩たちもこの時ばかりは空気を読み、明るい話題に変えてくれた。

 結局、この日は議論をせず雑談だけで終わった。



 翌日、昼休み。

 お弁当を食べるため皆が部室に集まったところで、小乗先輩が申し訳なさそうに言う。

「すまないが、今日も部活を休ませてもらう。理由は昨日と同じだ。母の看病と家事をしなくてはならないのでね」

「ん」

「りょうかーい」

 上森・下倉両先輩は乾いた返事をした。慣れているのだろう。 

 何かしてあげたらなと思いつつも、何もできることはないので、僕もただ返事をするしかなかった。

 ところが、さらにその翌日。今度は母親に続いて小乗先輩まで具合を悪くしたと聞き、居ても立ってもいられなくなった。

 僕は先輩たちに提案する。

「あの、みんなで小乗先輩の看病に行きませんか?」

「俺もそう思ってたところだ。二人しかいない家族が互いに病気じゃ、家事やら何やら大変だろうからな」

「まー、小乗君が調子悪いままじゃ交流会にならないし、こういう時くらいはねー」

 よかった。決して無関心なわけではなかったんだ。

 きっと僕よりも付き合いが長い分、踏み込むタイミングをよく知っているのだ。

 普段おかしな言動が目立つ二人ではあるけど、やっぱり先輩は先輩だな。

 というわけで、放課後に家にお邪魔するというメッセージを小乗先輩に送ると、次のような返信がきた。


《気を遣ってくれてありがとう。だが、看病には智莉が来てくれる。気持ちだけ受け取っておくよ》


 こう返されては遠慮するしかない。

 上森先輩も下倉先輩も肩透かしをくらったような表情をした。

 でも、ちゃんと看病してくれる家族がいてよかった。これでひと安心だな。

 ――と思いきや。

 夜、金山ひかりの方のメールアドレスに、水澄さんから相談のメッセージが送られてきた。


《今日、龍樹君と龍樹君のお母さんが具合悪くしたから看病に行ってきたの。それで、まだ治るのに二、三日はかかりそうだから、わたしが泊まり込みで看病するって言うと、お父さんに猛反対されてね……。どうしよう。せめて夕方だけでもお世話しに行けたらいいんだけど。反対されても行くべきなのかな?》


 なんて父親だ。別居中とはいえ、自分の子供が大変な思いをしているというのに、看病すら許さないのか。

 水澄家と小乗家の間に何があったのかは知らないが、これは放っておけない。

 今、僕が金山ひかりとして打てる最善の手は、これだ。


《男子哲学部の人たちに頼んでみたらどうかな? みんな仲間想いの人たちだから、きっと相談に乗ってくれると思うよ》


 水澄さんの父親は娘が小乗家に行くことを禁止したが、僕たちが行くことまで禁止にはできない。どうせ今日行くつもりだったのだ。事情を話せば、上森先輩と下倉先輩は乗ってくれるはずだ。

 しばらくして、水澄さんから《ありがとう。そうしてみるね》という返信がきた。

 これで明日やることはほぼ決定だな。



 水澄さんが男子哲学部の部室にやってきたのは昼休みのことだった。

 部室には上森先輩、下倉先輩、僕の三人。当然、僕は女装していない。

「はじめまして。女子哲学部の水澄智莉です」

 水澄さんのあいさつに対し、まずは上森先輩が爽やかに返す。

「俺は二年の上森和。君とは初めてだったね。よろしく」

「はい、よろしくお願いします」

 水澄さんは丁寧にお辞儀した。上級生に対する常識的な態度だ。

 次に、下倉先輩が少し緊張した面持ちで言う。

「ええと、前にショッピングモールで会ったはずだけど、覚えてるかなー?」

「はい、覚えてます。あの時は素っ気ない態度ですみませんでした。わたし、金山さんと会えたのが嬉しくて、全然周りが見えてなかったもので……」

 嘘だ。あの時、邪魔って言ってたし。

 そんな裏事情を知るはずもいない下倉先輩は柔らかく微笑む。

「いいよー、気にしないで。二人でお話できて楽しかったー?」

「はい! とっても楽しかったです。先輩のおかげです」

 水澄さんはパッと華やぐような笑顔で感謝を告げた。

 やっぱり女の子は怖いなぁ……。

 もちろん、ここは知らぬが仏ということで余計な突っ込みはしない。

 最後は僕だ。前に教室で金山ひかりのことを聞かれたのは通りすがりの偶然みたいなものなので、男子部の鹿内光流として水澄さんと会うのは実質これが初めてとなる。

「はじめまして。一年の鹿内光流です」

 少しでも疑いを逸らすよう声を低くして言った。

 前にバレなかったのだから、今日もバレないと思うけど……。

 水澄さんは返事をせず、ジッとこちらを見つめてくる。金山ひかりに対するような親しみの籠った目ではなく、何かを探るような目だ。

 猛烈に目を逸らしたくなる。でも、下手に逸らすと余計に疑われる。

 ややあって、水澄さんの小さな口が開く。

「あの、前にどこかで会わなかった?」

 ギクッ、という音が聞こえてきそうなくらい心臓が跳ねた。

 僕は必死で動揺を隠し、不自然でない発言をする。

「ええと、それって教室でちょこっと話した時のことかな? 確か朝のホームルーム前だったと思うけど。誰か探してたんだっけ?」

「あ、そうそう!」

 運良く、水澄さんはすぐに得心してくれる。

「金山さんのこと聞いたんだ。確かF組の一番後ろの席の――」

「そうそれ!」

「そっか、じゃあよろしくね」

 最後は少し素っ気ない感じのあいさつ。

 バレずに済んでよかったとはいえ、金山ひかりの時とずいぶん態度が違って寂しい。

 ともあれ、心臓に悪い自己紹介が終わり、本題に入る。

 小乗先輩とその母親は、どちらも風邪で熱を出しているそうだ。インフルエンザのような重い症状ではないが、休んでいなければ悪化は免れない。無理に家事をするべきではない。特に母親の方は病弱なため症状が長引くらしいから尚更だ。

 やはり誰かが行ってあげるべきだ。

 だというのに、水澄さんの父親は「医者を行かせたから、お前が行く必要はない」とだけ告げて、まともに話を聞いてくれないという。

 家に医者を呼ぶとは、いかにもお金持ちらしい発想だが、家事のことには頭が回らないらしい。水澄さんはそんな父親に逆らうことも考えたが、その前に良い方法が見つかればと思って金山ひかりに相談したというわけだ。

 そして、不幸中の幸いにも、水澄さんの父親の支配力が及ばない人間がここにはいる。

「身内の問題に巻き込むような形になってしまいますが、龍樹君のこと、どうかお願いできないでしょうか?」

 水澄さんは申し訳なさそうに深く頭を下げた。

 もちろん、僕たちの返事は決まっている。上森先輩が代表で答える。

「安心しな、龍ちゃんは俺たちの仲間だ。家庭の問題だろうが何だろうが、困ってる仲間を見捨てたりはしないぜ!」

 とても頼りになる力強い言葉だ。やっぱり、上森先輩は仲間想いの人だな。



 放課後。男子三人で小乗先輩の家に向かう。

 場所は学校から徒歩二十分ほどなので、そんなに遠くない。

 途中、買い出しをするためドラッグストアに寄っていく。最近のドラッグストアは食料品も充実しているから便利だ。しかもコンビニより値段が安い。

 水澄さんから受け取った買い物リストの品を揃え、再出発。リストに書いてある住所に着くと、こぢんまりとした木造二階建てのアパートがあった。

 ボロくはないが、お世辞にも立派とは言えない。少なくとも大企業の社長の息子が住んでいるとは思えない庶民的なアパートだ。向こうは息子と思っていないのかもしれない。

 目的地は二階、一番奥の部屋だ。

 もちろん、家に行くというメッセージは送ってあるので突然の訪問ではない。眠っているところを起こしてしまう心配はないだろうと思い、インターホンを押そうとした瞬間、中からガチャリと音がした。

 僕は反射的に手を引っ込める。

 扉を開けて出てきたのは、グレーのビジネススーツを着た中年男性だった。

「ん、君たちは……?」

 四十代後半くらいだろうか。背が高く、細身の体型で、小乗先輩とも水澄さんとも似た吊り上がった感じの目付き。

 一目でわかった。この人が例の父親だ。

 どうしてここに?

「もしかして、男子哲学部の子たちかな?」

 こちらが口を開く前に、男性が低く威厳のある声で問いかけてきた。

「あ……はい、そうです」

 たまたま先頭にいた僕が答える。突然のことで少し声が裏返ってしまった。

「おお、やっぱりそうか。でも、せっかくお見舞いに来てくれたところすまないが、二人とも今寝付いたところでね」

 男性は口の前で人指し指を立て、静かにするよう促してきた。

 いったいどうなってるんだろう? まさか、この人が看病を?

「二人が寝ている間に買い物に行こうかと思っていたが、何か買ってきてくれたみたいだね」

 上森先輩の持つビニール袋に男性の目が向く。

「お見舞いっていうか、俺たち看病しに来たんで、食べ物とか買ってきました」

「そうだったのか。では、ありがたく受け取っておこう。お礼と言ってはなんだが、近くの喫茶店でコーヒーでも奢らせてもらえないかな? ついでに、龍樹の学校での様子を聞かせてもらえるとありがたい」

 威厳のある声だが、とても穏やかな口調。

 確かこの人、大企業の社長さんだったはずだけど、威張っている感じが全くしない。ましてや、病気になった息子を見捨てるような鬼には見えない。言ってみれば、少し上品なおじさんだ。

 どうやら、僕たちは父親のことを誤解していたらしい。



 水澄孝樹(みすみこうき)と名乗った男性は、僕たち三人をアパートのすぐ近くにある喫茶店へと案内した。いかにも地元人の溜まり場といった、クラッシックな雰囲気のお店だ。客は高齢者が多い。

 高校生がいるので禁煙席に着き、四人で向かい合う。

 コーヒーの注文をした後、孝樹氏は話を切り出した。

「もし間違っていたらすまないが、君たちに龍樹の看病をするよう頼んだのは智莉ではないかな?」

 バレていたのか。

「そうすね。つっても、頼まれなくても俺ら行く気満々したけどね」

 上森先輩が答えた。少々ラフだが一応敬語だ。

「それを聞いて安心したよ。無理に頼んだわけでないのだな」

 フッと表情を緩ませる孝樹氏。

 僕は気になっていたことを尋ねる。

「あの、どうして智莉さんが看病に行くのを止めたんですか?」

「あの子も、決して身体の強い子ではないのでね。看病を続ければ風邪を移される可能性が高い。だから止めたのだよ」

 そうだったのか……。

 しかし、まだ腑に落ちない点がある。

「じゃあ、どうして自分が代わりに行くって言わなかったんですか? 智莉さん、すごく心配してましたよ? せめてひとこと言ってあげれば……」

「そうだろうな……。あの子には悪いことをした」

「だったら、どうして?」

 僕の質問に対し、孝樹氏は少しはにかんだ表情で答える。

「まだ智莉には話していないのだよ。私と彼女――龍樹の母親が再婚を考えていることをね」

「え、再婚……!?」 

 それは、おめでたい話なのかな?

 上森先輩は「おぉー!」と声を上げる。下倉先輩は小さく拍手をした。

 二人とも明るい話として受け止めたようだ。

 それから僕たちは、コーヒーをいただきながら孝樹氏の話を聞く。

 小乗先輩の母親とは結婚後一年あまりで離婚してしまったこと。

 その後、再婚した水澄さんの母親は二年ほど前に病気で亡くなってしまったこと。

 そのショックから立ち直ることができたのは、偶然再会した小乗先輩の母親のおかげであること。

 そして、十数年の時を経て、再び恋に落ちてしまったことも。

「いやぁ、智莉は私が彼女の看病に行くなんて夢にも思ってないだろうから、言えば勘繰られると思ってね。もちろん、正式に再婚が決まったら言うつもりだったんだけど、こんなに急では心の準備というものがだね……」

 要するに、このお父さんはただの恥ずかしがり屋さんだったということだ。

 まったく人騒がせな。

 でも、大きな問題にならなくてよかった。

 期せずして小乗先輩の家庭事情を聞いてしまったわけだが、父親がこの様子なら心配はなさそうだ。問題は確実に良い方向へと進んでいる。

 もっとも、下倉先輩にとってはそういうわけにもいかないようで――

「あのー、つかぬことをお聞きしたいのですが、小乗君のお母さんと再婚したら、やっぱり小乗君が会社の後継者になったりするんですかねー?」

「私はその方向で考えているよ。残念だが、智莉は経営に興味がないみたいだからね」

「そうですかー。そうですよねー」

 すごい棒読み口調だ。なぜそんなに残念がるんですか? 

 まさか、水澄さんと結婚して将来は水澄製菓の社長に――とか浅ましいこと考えてたんじゃないでしょうね!

 孝樹氏は、それとは別の意味で残念そうに言う。

「もっとも、龍樹も今は哲学に夢中で、経営を継いでくれるかどうかは微妙なところだがね。まったく哲学とは厄介なものだよ。水澄家がこれまで築いてきた地位も財産も、すべて一時の幻想に過ぎないと言い切ってしまうのだからね。そんなあの子を納得させるだけの理由を考えることが、今の私にとって最大の課題だよ」

 誰もが欲しがって止まない地位や財産も、真理の探求には敵わない。

 さすがは男子哲学部部長・小乗龍樹先輩だ。

 もっとも、同じ哲学部員でも考え方が真逆の人間もいるが……。

「あのー、もし息子さんが説得できなかったら、ここに後継者になりたいなーって思ってる若者が――」

「お前は黙っとけ。空気読め」

 下倉先輩の発言を上森先輩が強引に遮った。

 その様子に孝樹氏は苦笑する。

「ハハハッ、私の後継者を目指すのなら、私のような人間になってはいけないよ。地位や財産を背景に女性を口説くような男にはね。昔それで痛い目を見た私が言うのだから間違いない」

「ですよねー」

 下倉先輩はいつもの眠た顔で、独り言のように小さくつぶやいた。

「やっぱ男はハートっすよね!」

 上森先輩は無駄に暑苦しかった。

 僕はどうなんだろうな?

 地位や財産にも目が眩まないくらい、やりたいことが見つかるかな?



 翌日、放課後。

 すっかり元気になった小乗先輩が、いつもどおり部室にやって来た。

「皆、心配をかけてすまなかった。それから、わざわざ家まで来てくれてありがとう。私はこのとおり平気だ。母のことは、遺伝学上は私の父である水澄氏が看てくれるので、今日からは通常どおり議論に参加させてもらう」

 遺伝学上って……。

 素直じゃないなぁ、この人も。そういうとこ、しっかり受け継いでるじゃないですか。

 ちなみに昨日、孝樹氏は再婚の話を娘の水澄さんに打ち明ける決心を表明した。今ごろ水澄さんは安心して部活に集中できているはずだ。

 小乗先輩が続ける。

「さて、皆も知ってのとおり女子哲学部との交流会が間近に迫っている。交流会の目的は言うまでもなく哲学の議論をすることだ。議題は男子部と女子部でそれぞれ一つずつ用意することになった。よって、今日はその議題を話し合って決めようと思う」

 それも議論のうちか。いつもながら、ごく身近な内容だ。世間一般で言う哲学の印象とはずいぶんかけ離れている。

 でも、思った。

 ひょっとして間違っているのは世間の認識の方ではないかと。本来、哲学は堅苦しいものではなく、僕たちにとって身近なものではないかと。

「まずは私の意見を言おう。私が女子部との議論にふさわしいと思う議題は『哲学の素晴らしさをいかにして広めるか』だ。全校生徒一二〇〇人の我が校で哲学部に所属する人間が八人しかいない。これは由々しき事態だ。哲学の素晴らしさは、もっと広く認知されなければならない」

 うん、僕もそう思う。

「共通の課題に取り組むことで、男子部と女子部の融和を図るのも目的のうちだ。この課題を通して、来年度には哲学部を再び一つにまとめる話を進めていきたいと思っている」

 相変わらず、高校生とは思えないほど堂々とした態度だ。

 しかも、もう来年のことまで考えているのか。やっぱり小乗先輩はすごいな。

「次に、上森君はどうかな?」

「フッ、龍ちゃんの意見も悪くねえが、ちと堅苦しいな。せっかく女子と議論するんだ。もっと楽しい議題でいこうぜ!」

 こっちも相変わらず、女子のこととなるとやる気満々だ。

「まずは女の子たちの最新情報を入手したい。どこへ行きたいか? 何が食べたいか? どんな男と付き合いたいか? 去年何度か議論してある程度は把握しているが、人の興味関心は日々移ろいゆくものだからな。彼女たちの今の気持ちを知る。それが女子部との融和を図る第一歩だ! そうは思わねえか?」

 こんな意見でも一応は筋が通っているから、この人はある意味ですごい。

 また調子に乗って女子に嫌われないでくださいよ?

 小乗先輩は軽く受け流して、話を進める。

「下倉君の意見はどうだろう?」

「う~ん、『勝ち組の定義』について話し合うのはどうかなー?」

 出た、また勝ち組の話だ。

「個人的には、お金を持ってることが勝ち組の絶対条件だと思うんだけどー、女の子はどう思ってるか気になるんだよねー。お金で女の子を囲うのは真の勝ち組とは違う気がするしねー」

 この人にも金銭で割り切れないことがあるらしい。ニヒリストなのにトコトン負けず嫌いなのだ。

「ひかるさん、君の意見はどうかな?」

 先輩に〝さん〟付けで呼ばれるのは、まだ違和感がある。小乗先輩は紳士だから呼び捨てにはしないし、当分はこのままなのかな。

 それはそうと、こういう時のために考えておいた議題ならちゃんとある。

「ええと、『自分にとって一番大事なものは何か』というのはどうでしょう?」

「ほう、それは興味深い。参考までに、ひかるさんにとって一番大事なものを聞いても構わないかな?」

「はい。それは――」

 ほんの一ヶ月前まで、僕には一番大事と言えるものがなかった。

 でも、今はある。

「それは〝今〟です。僕にとっては今が一番大事なんです。もちろん、今が良ければ先のことはどうでも良いという刹那主義とは違います。未来だって大事です。でも、未来のために今を犠牲にするのは間違ってると思うんです。どんな時でも、今を大事にしなきゃもったいないと思うんです」

 そう、僕の人生は今が一番充実している。

 だからこそ見出だすことができた、僕の哲学だ。

 もちろん、初心者の僕が考えた哲学など欠点だらけの穴だらけに違いない。

 それでも今の僕にとっては、これが僕の哲学なのだ。

「さすがひかるちゃん、いいこと言うぜ! やっぱ人生、楽しむなら若いうちじゃねえとな!」

 上森先輩が力強く同意してくれる。

「そうそう。来るかどうかも分からない未来のために、貴重な青春時代を受験戦争で浪費するとかあり得ないよねー」

 下倉先輩も、まったり口調で同意してくれた。

 ちょっと意味合いが違う気もするが……。

 そして、小乗先輩はというと――

「ふむ、良い哲学だな」

 短く、だけどハッキリ、今の僕にとって最高の褒め言葉を送ってくれた。

 その表情は、愛弟子の門出を祝う師匠のような、慈しみのこもった微笑みだった。

 やっぱりこの人は大人っぽすぎる。本当に高校二年生なのかな?

 実は何らかの理由で留年とか浪人とかしてて二十歳過ぎてるとか……ないよね?



 春が終わり、夏の気配が近付くこの季節。六月の初頭。

 男子哲学部の部室に八人の哲学者が集まった。

 いや、哲学者は言い過ぎかな。哲学生くらいがちょうどいいかもしれない。

 元々男女混合の哲学部が使っていた部室だからか、八人が揃ってもそれほど狭いとは感じない。むしろ、これこそが哲学部本来の姿という気がするのは、僕が女子部の皆さんともそれなりに関わってきたからに違いない。

 男子四人、女子四人が席に着き、向かい合う。

 緊張感はない。みなリラックスした様子だ。

 勝敗のある試合でもなければ成績に関わるわけでもない。先生も審判もいない。

 さらには、ここにいる全員が顔見知りだ。

 何も気負うことはない。

 自分の意見を素直に言うだけのことだ。

 議論が始まり、八人の意見が飛び交う。

 みなそれぞれの意見を持っている。どれも一概に正しいとは言えないし、間違っているとも言えない。

 ひょっとしたら、今は間違っていても未来の世界では正しいかもしれない。

 逆もしかり。

 何が正しくて何が間違っているかなんて誰にも分からない。   

 だからこそ、考え、議論することで、自分にとって一番大事なものを見つける。

 それが哲学。



 完

 

 


 続編

 →https://kakuyomu.jp/works/1177354054886746296

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