第7話 自分のことは自分で決めるんだ

 今にも雨が降ってきそうな曇り空の放課後。

 元引きこもりにして、将来は勝ち組になるという野望を持つ高校二年生、下倉宗先輩は部室の机の上でぐったりと突っ伏していた。

 昨日、水澄さんに空気扱いされたことが余程ショックだったらしい。

「分かってた、分かってたよ……。水澄のお嬢様が一般人を相手にするわけないことくらい。どうせ勝ち組は同じ勝ち組しか眼中にないんだよ……。革命でも起きない限り負け組は永遠に負け組なんだよ……」

 いつものまったり口調ではなく、棒読みみたいな口調だ。

 完全にニヒリストモードに入ってるな。

「あーあ、もう終わりかな……。せっかく勇気を振り絞って行動起こしたのに、あんな一瞬でフラれるんだもんな……。終わりかな……、人生終わりかな……」

 さっきからずっとこの調子だ。ただでさえ雨が降りそうで気が重たいというのに、まるで示し合わせたかのように悪い意味で相乗効果を発揮してくれる。

 でも、昨日の件に関しては僕も無関係ではないので、励ましの言葉くらいはかけてあげる。

「先輩、そんなに落ち込まないでください。そのうちいいことありますよ」

 今は部活中なので僕は女装姿だ。口調も女子っぽくとはいかないが精一杯優しくした。

「いいことって、それはいつ? どこで?」

 下倉先輩は顔も起こしてくれない。ずっと机に突っ伏したままだ。

「そ、それは分かりませんけど、人生山あり谷ありと言いますから、いいことだってあるはずです」

「その根拠は?」

「ぅぅ……」

 しまった、またいい加減なことを言ってしまった。

 落ち込んではいても彼は哲学部員。根拠のない発言は通じない。

「す、すみません……」

 僕が謝ると、下倉先輩は机に伏したまま顔だけ上げ、こちらを見てきた。

「謝るんだったら、ひかるちゃんのコスプレ姿、撮影させてくれるー? 一緒にビジネスしてくれるー?」

 口調が微妙に戻っている。現金だな。

「い、いや、さすがにそれは……」

「ほらぁ、やっぱりダメじゃーん」

 腕枕に顎を乗せ、そのまま液化するんじゃないかというくらい脱力してしまう下倉先輩。

 もうどうしようもないな……。

 助けを乞うように二人の先輩を交互に見ると、上森先輩が立ち上がってくれた。

 そして、怒鳴るように言う。

「おい下倉、いつまでぶつぶつ言ってやがる! だかが一回フラれたくらいでなんだ! 俺が何回フラれたと思ってる?」

「数の問題じゃないよー。こっちは人生かかってたんだからさー。これじゃ勝ち組になれないよー」

「馬鹿野郎、今回は間が悪かっただけだ! 日を改めて、もういっぺん挑戦してみろ」

「えー」

 下倉先輩は脱力したまま唸るだけだ。

 今度は小乗先輩が言う。

「上森君の言うとおりだ。今にして思うと、昨日のダブルデートには少々無理があった。智莉の目的は金山ひかりであって、君ではなかったのだからな」

「だからって、あんな態度はおかしくなーい?」

「すまない。それは兄である私が、あの子に代わって謝罪しよう」

 妹と違って兄は神妙な態度だ。

 ……あ、今、兄って言った。前は単に血縁者としか言わなかったのに。

 部員になった以上、隠し事はしないってことか。

「だが、あの子の気持ちも分かってやってほしい。智莉は、良くも悪くも普通の立場ではいられない子だ。出世のために、あの子に近付こうとする男は多い。まだ高校生になったばかりの娘に、遥か年上の男が隙あらば声をかけてくるのだ。必然、警戒心は強くなる」

 やっぱりいるんだ、そういう人が。大人の話は生々しくて嫌いだ。

「同じ高校生の君なら良い話し相手になると思っていたが、どうやら私の読みが甘かったようだ。それは認めよう。だが、君の行動が勇み足だった面もある。ここは必要以上に悪く考えず、次の機会を待った方が良いのではないかな?」

 下倉先輩はジトッとした目つきで問う。 

「次っていつー?」

「女子哲学部との交流会の時だ。元々そういう約束だっただろう?」

「じゃあ、その交流会はいつやるのー? 絶対やるのー?」

「絶対ではないが努力する。時期についてはもう少し先だ。今はその時ではない」

「えー、先延ばしー? それ責任を取りたくない責任者の常套句だよー?」

 まるで子供がワガママ言ってるみたいだ。

 さすがの小乗先輩も少し呆れ口調になる。

「そうではない。その前に、我々にはやらなければならないことがあるだろう?」

「えー、なんだっけ?」

「テストだ」

 そうだった。もうじきテスト期間が始まる。期間中、部活動は禁止だ。

「テストなんかどうでもいいよぉー。あんなのいくらがんばっても勝ち組にはなれないって言ったじゃーん」

 なおもふて腐れる下倉先輩。

 これはもう処置なしだな。でも、こうして部室に来てくれたということは部をやめる気はなさそうだし、しばらくはそっとしておいて方がいいかもしれない。

 小乗先輩もそれを察したのか、昨日の件についてはさらっと流し、今日の話を進めた。

 下倉先輩は、なんだかんだいっても議論にはしっかり参加した。



 テストなんてくだらない――とは言わないが、テストの結果が人間の価値まで決めてしまう社会はさすがに馬鹿げている。哲学を学んだことで、その思いはいっそう強まった。

 とはいえ、下倉先輩のように「落第さえしなければ良い」と割り切ることはできないので、とりあえずがんばる。それなりにがんばる。

 結果は中学までと同じく平均より少し上くらいだった。それでいい。

 無理して良い成績を収めたところで、その成績を維持するにはまた無理をしなければならない。そんなことをずっと続けるのは身体にも心にも毒だ。

 高校生になって初めての定期テストが終わり、男子哲学部の活動が再開される。

今日も四人全員が集まった。基本自由参加のはずだが、今のところはだいたいみんな来ている。

 喜ばしいことだ。女装に慣れないのは相変わらずだけどね。

 全員が席に着いたところで、小乗先輩が話を始める。

「まずは今後の予定だが、五月の間はこの四人で議論を重ねていこうと思う。議題は各自用意しておいてほしい。それから、女子部との交流会は六月の初頭に行えるよう交渉していくつもりだ。ひかるさんには、それまでに議論に慣れてもらわなければな」

「が、がんばります」

 僕は胸の前でギュッと両手を握った。

「その意気だ。君が持つ新たな可能性には期待しているよ」

 こうして、先輩たちと共に僕は議論の経験を重ねていく。交流会に試合のような勝ち負けはないが、最低限恥ずかしくない発言はできるようにならなければならない。

 議論において特に大事なのが根拠だ。だから、自分がなぜそう思うのかをハッキリさせた上での発言を心がけるよう努めた。おかげで、はじめの頃に比べれば幾分まともな発言ができるようにはなってきた。

 ところが数日後、小乗先輩から残念な報告があった。

「すまないが女子部との交渉が難航している。というのも、二年生の二人が交流会の実施に反対していてね」

 女子哲学部二年の二人といえば、熊楠歩巳先輩と新井惺香先輩だ。

「俺の本命と嫁が? なんでまた?」

 首を傾げる上森先輩に対し、部長が鋭い視線を飛ばす。

「原因は君だ」

「は? 俺?」

「君の女性に対する態度に問題があるのだよ」

 やっぱりそうか。熊楠先輩も新井先輩も、上森先輩の軽薄さには呆れていた。

 しかし、当の本人には全く悪気がなく、

「どこに問題があんだよ? 言っとくが、俺ほど女の子に優しい男はいないぜ?」

むしろ得意げな様子。

 小乗先輩は、さらに目を吊り上げる。

「そう思っているのは君だけだ。でなければ、熊楠さんと新井さんはなぜ交流会に反対する?」

「う~ん、俺の愛が足りなかったってことか?」

 また的外れなことを言う。やはり、この人の恋愛観はおかしい。

「足りないのは配慮だよ」と小乗先輩。

「配慮? 俺は歩巳ちゃんにも惺香ちゃんにも精一杯の愛を振り撒いてきたんだぞ。手抜きは一切してねえ」

「そういう問題ではない。複数の女性を同時に恋愛対象とすることが間違いなのだ」

「ん……あ、そうか!」

 上森先輩はポンと手を叩く。

「要するに、二人とも『わたしだけを見てほしい』と思ってるわけか。ふふ、悪い子たちだ、この俺を独占しようだなんて」

 話が通じてない。

 小乗先輩は大きくため息をつき、黙ってしまった。

 めずらしく諦めが早い。たぶん去年、似たようなやり取りを何度もしたのだろう。こうなるともうお手上げだと悟っているような表情だ。

 下倉先輩が不満を漏らす。

「えー、これじゃあ交流会ができないよー。なんとかしてよー」

 機嫌が悪い時の癖なのか、また腕枕に顎を乗せている。

 水澄さんとのコネクションを望む下倉先輩にとって、女子部との交流会は唯一にして最大のチャンスだ。こんなくだらない理由で話が飛んでしまうなど納得できまい。

 小乗先輩は気を取り直すように背筋を伸ばした。

「では、今日はそれについて議論しようか。去年、何度議論しても解決には至らなかった難題だが、今年はひかるさんがいる。新たなメンバーが加わったことで、今まで思いつかなかった先鋭的な意見が出てくるかもしれん。改めて議論してみる価値はあるだろう」

「おう、望むところだ。俺の恋愛観は間違っちゃいねえ。今日こそ、それを証明してやるぜ!」

 上森先輩はやる気満々だ。

「ひかるちゃん、がんばってねー」

 下倉先輩はぐったりしたまま他力本願モードだし。

 そんな期待されても困るんだけどな……。

 でも、これまで議論を重ねてきたことで、僕だって成長してんるだ。期待に応えられるかどうかは分からないけど、できるだけがんばってみよう。

 小乗先輩の顔がこちらを向く。

「まずは、ひかるさんの意見を聞かせてもらおうか。女子部の二人に納得してもらうには上森君が今のままではまずいわけだが、どうすればいいと思う?」

 いきなり僕か。

 でも、そのパターンはすでに学んだので、さっき先輩たちが話をしている間、僕は僕なりに頭を働かせておいた。おかげで思い付いたことがある。

「まず見た目から入るというのはどうでしょうか? 服装と髪型を正せば気分が引き締まって考えも変わるかもしれません」

「ほう、オーソドックスながら良い意見だ。この短期間でずいぶん成長したな」

 小乗先輩が感心した表情で褒めてくれる。

だが、それを喜ぶ間もなく、上森先輩が疑問を投げかけてくる。

「ひかるちゃん。今、服装と髪型を正せばって言ったけど、そりゃあおかしくねえかい? 俺にとってはこの格好が正しいんだ。最初から正しいものを、それ以上正すことはできねえと思うんだけどな」

「でも、髪を染めるのは校則で禁止されてますし、制服だって胸元開けすぎですよ」

「確かに厳密に言えば校則違反かもしれねえ。だが現実はどうだ? 俺はこの格好のまま一年間乗り切ってる。つまり、このくらいはセーフなんだ。間違っちゃいねえんだ」

「それは言い逃れです。服装検査の時その格好してたら完全にアウトです」

 上森先輩は一息入れた後、熱の籠った表情で諭すように言う。

「いいか、ひかるちゃん。規則がすべてじゃねえ。現実を見るんだ。すべての規則をきっちり守ってる大人なんかどこにもいやしねえ。みんなうまーく切り抜けてやがる。それに規則の方が間違ってることだってあるんだ。だからな、何が正しくて何が間違ってるかの判断を他人に丸投げしちゃいけねえ。自分のことは自分で決めるんだ!」

 なんか格好いいこと言ってるけど、要は校則違反を正当化しているだけだ。

 僕は負けじと反論する。

「上森先輩の言うとおり、規則に縛られ過ぎるのも良くないかもしれません。でも、仮に違反じゃなかったとしても、今の上森先輩はとても誠実なタイプには見えません。そういう派手な格好が好きな女子もいるでしょうけど、熊楠先輩と新井先輩は明らかにそうじゃありません。もし二人のことが好きなら、彼女たちの気持ちは無視できないはずです」

 すると、上森先輩は反論をせず、椅子に深くもたれて腕を組んだ。

 それから、しばらく視線を落として考え込む。表情からすると、怒っているわけではなさそうだ。普通に真面目な顔をしている。僕の意見を吟味してくれているのだろうか。

 やがて、小さく口が開く。

「……なるほど、確かに一理あるな。愛する女の子の好みにはちゃんと応えてやらないとな。ひかるちゃんも言うようになったじゃねえか。考えとくぜ」

 ニッと白い歯を見せる上森先輩。

 よかったぁ、どうやら僕の言葉が伝わったようだ。普通なら、熱くなって単なる言い合いになるところを、ちゃんと立ち止まって考えてくれた。

 さすが男子哲学部の二年生だ。やはり上森先輩は単なるチャラ男なんかじゃない。

 それにしても、熊楠先輩と新井先輩のこと今でも好きなんだな。フラれて諦めたんじゃなかったんだな。ということは本居先輩も……。追求するのはよそう。

 一区切りついたところで、小乗先輩が話を進める。

「早くも実のある議論になってきたな。では次に下倉君、意見を頼む」

 あれから二週間が経って、ようやく立ち直ってきた感じの下倉先輩は、いつものように猫背の姿勢でまったりと言う。

「個人的には、誠実さをアピールするには経済力が一番大事だと思うんだよねー。複数の女の子を口説きたいなら、複数の女の子を養うだけの経済力がなきゃ無責任じゃないかな? 今の上森君はー、種だけ撒き散らして後は知ったこっちゃないっていう生き物と一緒なんだよー」

 うわ、この人もハッキリ言うなぁ。

 しかし、率直な意見には慣れているのか、上森先輩は冷静さを失うことなく言い返す。

「下倉、その論法だと金さえ持ってればいくら女の子を囲ってもいいってことにならねえか?」

「いい悪いの問題じゃなくて、人間社会ってそういうものなんだよー。お金さえ持ってれば、おじいさんが自分の孫より若い女の子を囲うことだってできちゃうんだよー。一見、平和そうに見える社会の裏では――」

「そこまでだ」

 小乗先輩が急に発言を止めた。とても威圧感のある声だ。

 一瞬ビクッとしたが、止めて正解だと思った。それ以上は言ってはいけない。

「次は私の番だな」

「えー、ちょっと待ってよー。まだ言い終わってないよぉー」

下倉先輩は不満げに訴えるが、部長は毅然としてこれを跳ね返す。

「ならば議論に関係ない話は慎んでもらおう。今日の議題は女子部との交流会を実現するためのものだ。社会の闇について議論をしているのではない」

「じゃあ、もういいよぉ……」

 下倉先輩は机に突っ伏してしまった。

 せっかく立ち直ってきたというのに、また逆戻りだ。

 でも、今回ばかりはそれでよかった。あれ以上生々しい話は聞きたくない。知りたくない。

「さて、続けようか」

 部長が仕切り直す。

「まずは上森君に聞きたい。君は今、ひかるさんを攻略中のはずだが、本人の目の前で他の女性への愛を語ることに罪の意識はないのかね?」

「なに言ってんだ? 女子と女装男子は別枠なんだから罪なわけねえだろう?」

 キョトンとする上森先輩。

 いや、なに言ってるか分からないのはあなたの方です。

 小乗先輩は表情を変えることなく質問を続ける。

「では仮にひかるさんが誰か女性と付き合ったとして、それは罪ではないのだな?」

「ん……まあ、そうだな。悪くねえ。なんならひかるちゃんと付き合ってる女の子も一緒に愛してやるぜ」

 意味が分からない。なぜそうなる?

「では、ひかるさんが君以外の男性と付き合うとしたらどうかな?」

 何その質問?

「それは許せねえな」

 何その答え!?

 この人たちはいったい何を話してるの?

 しかし、小乗先輩は至って真面目な様子だ。

「どうやら上森君の中では、女装男子は男性より女性に近いようだな」

「それがどうしたんだよ? 言っとくが女装すれば誰でも女装男子ってわけじゃねえぞ。可愛いから女装男子なんだ。可愛くなかったら、ただの変態野郎だかんな」

「ほう、それは初耳だな。では反対に、女性が男装した場合はどうなる? 例えば熊楠さんはいわゆるボーイッシュなタイプだが、彼女が男装したら、どちらかというと男性になるのか?」

「んなわけねえだろ。歩巳ちゃんはどんな格好してたって女の子だよ」

「ほう、女性の場合はそうなるのか……」

 長々と続く質問に、上森先輩は苛立ちを隠せなくなる。

「なんなんだよ、さっきから? 早く龍ちゃんの意見を言ってくれよ」

「ふむ……」

 小乗先輩は顎に手を当てて黙り込んだ。

 めずらしいな、小乗先輩が答えに詰まるなんて。

 ずっと騒がしかった部室内が、しんと静寂に包まれる。

 遠くから運動部の声が聞こえてくる。

 カキンと金属音。

 今のは野球部だな。いい音がしたから、きっとナイスバッティングだ。

外は平和だなぁ。

 やがて、小乗先輩の口が小さく開く。

「……すまない、今回はパスだ」

 なんと! 男子哲学部史上、初めてのパスだ。しかも第一号が部長とは!

 っていうか、パスってありなんだ……。

 その後、どれだけ話し合っても上森先輩の恋愛観を変える方法は見つからなかった。下倉先輩はお金で解決する話しかしないし、小乗先輩は恋愛の話がどうも苦手なようだ。

 結局、最初に僕が出した『見た目から入る』という意見を除いては、何の成果も得られないまま終わってしまった。

「すまない、私が不甲斐ないばかりに……」

いつものように僕が着替え終わった後、図書室で合流し、廊下に出たところで、小乗先輩が気落ちした様子で言葉を発した。こんなに落ち込む姿を見るのは初めてだ。

「そんな……! 先輩は悪くありませんよ」

 どう考えても悪いのは上森先輩だ。だが、本人に悪いという意識がなければどうにもならない。まさにお手上げだ。

 職員室で部室の鍵を返した後、小乗先輩は言う。

「こうなったらやむを得まい。本人たちと直接話をつけに行こう」

「ええと、熊楠先輩と新井先輩にですか?」

「そうだ。できれば光流君も一緒に来てほしい。私一人で行くよりは印象が良くなるかもしれない」

「分かりました。じゃあ、一緒に行きます」



 翌日、昼休み。

 僕と小乗先輩は昼食を済ませた後、女子哲学部の部室に向かう。

 女子部は僕たちと違って昼休みに部室を使わないらしいので、あらかじめ約束を取り付けた上で部屋を開けてもらった。

 熊楠先輩と新井先輩に男子の姿で対面するのは初めてだ。女装した時と今とでは雰囲気が違うからバレることはまずないと思うけど、やはり緊張する。

「はじめまして、男子哲学部一年の鹿内光流です。よろしくお願いします」

 僕がお辞儀をすると、

「あたしは二年の熊楠歩巳。こちらこそよろしくね」

 ショートヘアの活発そうな先輩が明るく返してきた。

 次に、二つ結びのおしとやかそうな先輩が丁寧にお辞儀を返してくれる。

「同じく二年生の新井惺香。今後ともよろしくね」

 どうやら、二人とも僕の正体には気付いていないようだ。本居先輩に見破られた前例があるだけに冷や汗ものだったが、ひとまず安心した。

 自己紹介が無事に済んだところで、二対二で向かい合って席に着く。

「で、話ってなに?」

 熊楠先輩が腕を組んだ状態で切り出す。早くも警戒の色が伺える。

 新井先輩も膝に手を置いて行儀よく座ってはいるが、決して無警戒な感じではない。

 そんな二人に対し、小乗先輩は冷静に問いかける。

「前に話をした、男子部と女子部の交流会実施の件について交渉がしたい。よろしいかな?」

 先輩女子二人は互いに顔を見合わせた後、コクっと頷いた。

 とりあえず話し合いには応じてくれるみたいだ。

「では、まず確認したい。君たちが交流会に反対する理由は上森君で間違いないかな?」

「うん、間違いないよ。上森マジでウザいし」

「わたしも上森君とまた議論するのはちょっと……」

 熊楠先輩も新井先輩も苦々しい顔でハッキリ答える。これは一筋縄ではいきそうもないぞ。

 小乗先輩は続ける。

「では仮に上森君がいなかったとしたら、交流会に反対ではないのだな?」

「う~ん、正直、下倉もけっこうウザいんだけど……反対するほどではないかな」

「わたしは交流会自体には賛成だよ。鹿内君の意見も聞いてみたいしね」

 あまり乗り気でない熊楠先輩に対し、新井先輩は若干肯定的なようだ。

「そうか。だが、こちらとしても、できれば上森君を除外するような真似はしたくない。なんとか意見を擦り合わせた上で交流会を行いたいと思うのだが、どうだろう?」

「じゃあ、あたしらの条件聞いてくれる?」

「もちろんだ。聞こう」

 さすが小乗先輩。いつも司会をしているだけあって、話の進め方が上手い。

 元々反対していた人たちを相手取って、どんどん核心に切り込んでいく。

「そうだなぁ……」

 少しの間を置いた後、熊楠先輩が腰高に言う。

「じゃあこういうのはどう? 上森の発言は一切禁止ってことで。ただ席に座ってるだけなら許してあげる」

 全く容赦ないな。

 つまり、こんなになるまで上森先輩はウザい発言を繰り返したということか。

 小乗先輩は困った表情をする。

「それでは除外するのと同じだ。もう少し譲歩してもらえないだろうか?」

「だったら上森の態度をなんとかしてよ。ほんと困るんだよね。口開くたびに口説き文句ばっか言ってさ」

「では、口説き文句を言わなければ良いということかな?」

「ん……。まあ、そうかな」

 熊楠先輩の口から初めて肯定的な言葉が返ってきた。固く組まれていた両腕が解かれ、表情も微かに緩む。

「新井さん、君の意見はどうかな?」

 小乗先輩の視線が横へ移る。

 新井先輩は、困ってはいるものの、怒ってはいない感じの様子だ。

 彼女の穏やかな性格からして、熊楠先輩ほど厳しいことは言わないと思うけど……。

「わたしも歩巳ちゃんと同じかな。上森君が軽々しく結婚とか嫁とか言うのを控えてくれるなら、交流会には反対しないよ」

 やはりそうなるか。

 厄介なのは、上森先輩の発言が冗談ではなく常に本気なことだ。

 本気だから悪気がなく、悪気がないから説得が通じない。

「鹿内君は交流会についてどう思ってる?」

 新井先輩が急に話を振ってきた。

「え、僕ですか?」

「せっかく来たんだから、鹿内君の意見も聞かせて?」

「あ、はい。ええと……」

 交渉みたいなことはできなくとも、自分なりの意見くらいは持っている。

 今の僕にできることは、それを素直に言うだけだ。

「交流会は、ぜひ行うべきだと思います。もちろん、上森先輩も一緒に。上森先輩はちょっと変な人だけど、悪い人ではないんです。だから、除外する以外の方法が見つかればいいなって思います」

「そうだね。できたら、みんなで一緒に議論したいね」

 新井先輩は菩薩のように慈悲深い笑みを送ってくれた。

 でも、「できたら」だ。上森先輩が今のままでは「できない」。

 小乗先輩が言う。

「実は昨日、そのことについて上森君を交えて議論したのだが、我々男子部では解決策を見出だすことができなかった。だから君たちに相談したいのだ。上森君の考えを改めるためには、どうすればいいと思う?」

「えー、それあたしらに聞く? 去年何回も議論したじゃん。解決できなかったじゃん」

 熊楠先輩は両手で頬杖を付き、めんどくさそうな顔をした。

 そんな彼女を宥めるように、新井先輩は前向きに言ってくれる。

「歩巳ちゃん、せっかく鹿内君が来てくれたのに、先輩のわたしたちが簡単に諦めちゃダメだよ。わたしたちに無理なら、他に相談できそうな人を紹介してあげればいいんじゃないかな?」

「そんな人いたっけ? 惺香、心当たりあんの?」

「うん、今井さんはどうかな? 確か上森君とは小学校からの同級生って聞いたけど」

「ああ、今井ちゃんかぁ。あの子ならいけるかもしんないね。ちょっと頭が〝あれ〟な者同士、毒をもって毒を制すってヤツね」

 ニヤリと不穏な笑みを浮かべる熊楠先輩。

 嫌な予感しかしないぞ。嫌な予感しかしないぞ。



 予感は的中した。

 放課後、男子哲学部の部室にやってきたのは、あのコスプレ部の先輩女子だった。

 本名、今井真尋(いまいまひろ)。二年生。

 男子哲学部員と本居先輩以外で唯一、僕の正体を知る人物だ。この人には女子制服の着方とウィッグのつけ方、コンタクトレンズのつけ方を教えてもらった。

 女子としては背が高めで、ぽっちゃり系の体型。緩い三つ編みヘアーに銀縁メガネと、外見は真面目そうだが中身はちっとも真面目じゃない。

「やっ、久しぶり。コスプレイベント参加の件、考えてくれた?」

 第一声がこれだ。不安にならない方がどうかしている。

 とはいえ、今は大事な助っ人さんなので無下に扱うわけにはいかない。

「どうも、お久しぶりです。今日は来てくれてありがとうございます」

 イベント参加の話をさらりと流しつつも、丁寧に対応する。

「そんなお堅いあいさつしないでよ。わたしとは知らない仲じゃないでしょ?」

 ニコニコしながら、気安く肩に手を置いてくる。身体の距離が近い。

 僕のことをまるで男だと思ってないな。

「ところで、今日は女装しないの?」

「あ、はい。上森先輩と下倉先輩が欠席するそうなので」

 そう、今日はめずらしく小乗先輩と二人だけの日なのだ。

 よって女装する必要はない。ないはずなのに――

「ダメよ! そんなことじゃ真のコスプレイヤーにはなれないわ! たとえ一人でもギャラリーがいる限り手抜きは許されない。すぐに着替えなさい!」

すごい剣幕で肩を揺すってくる。ううう、三半規管が……。

相変わらず何を言っているのかよく分からないが、今この人の機嫌を損ねるわけにはいかない。

「は、はい……」

 僕は力なく返事をし、潔く着替えることにした。

 というわけで、少し遅れてやってきた小乗先輩を交え、三人で席に着く。

 小乗先輩が状況を説明すると、今井さんはすぐに対応策を教えてくれた。

「要するに、和君のことは犬みたいなものと思えばいいわ。放っておくと本能のままに行動するけど、ちゃんと躾をすれば言うこと聞くから」

 うわ、言い切ったよ、この人。

「でも躾なんて、どうやってするんですか? 一応人間ですよ?」

「人間も動物も基本は同じ、ご褒美をあげれば言うことを聞くわ。だからね、ひかるちゃん。和君と約束して。ちゃんといい子にしてたら、ご褒美をあげるって」

「え、僕がですか?」

「他に誰かいる?」

「そう言われましても……。何をあげれば?」

 聞くと、今井さんは当然かのように言う。

「なに言ってるの、ひかるちゃんの最大の武器はコスプレでしょ? だから、和君の好きな衣装を着るって言ってあげるの。そしたらイチコロよ」

 いつの間に僕の最大の武器がコスプレになったんだろう?

 でも翌日、上森先輩にその話をしたら本当にイチコロでした。

 そして、今から一週間後、六月の初頭に男子哲学部と女子哲学部の交流会を行うことが無事決まりました。

 僕はこれからどんな衣装を着せられるのか、不安で眠れなくなりました……。

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