第2話 真の幸福を知るために
窓の外を見ると、それまで青々としていた空が、ほんのり赤みがかっていた。
四月も下旬に近付き、ずいぶん日が長くなったとはいえ、午後五時を過ぎれば一日の終わりを感じさせる情景にもなる。
小乗先輩が窓を開け、下界の様子を見る。
遠くからガヤガヤとお祭りめいた音が聞こえてくる。
「ふむ。まだ部活見学をしている新入生がいるようだな。勧誘活動も終わっていない。また校門辺りで声をかけてみようか」
部室から出ようとする小乗先輩を、僕は引き止めた。
「待ってください。その前に、僕たちが男子哲学部だって一目で分かるようにしないと。他の部が使っているプラカードみたいなものはないんですか?」
「ないな」
なぜこの人はこんなに危機感がないのだろうか? 肝が据わっているのか、ある種の鈍感なのかは分からないが、ここは僕がしっかりしなくては。
「じゃあ、簡単なものでいいから作りましょう。画用紙に〝男子哲学部〟と大きく書けばそれだけでもアピールになります」
「そうだな。では購買で画用紙を買ってこようか」
というわけで急ぎ画用紙を購入し、太めのサインペンで即席看板を作る。
地味ではあるが、ないよりはずっとマシだ。
「ふむ、悪くないな。では、君はそれを持って付いてきてくれ。声かけは私が担当しよう」
先輩は自分の胸に手を当て、そう申し出てくれた。
引っ込み思案の僕にとってはありがたい提案だが、一つ不安がある。
「あの、どうやって声かけするつもりですか? まさか、また僕の時みたいに『君は何のために生きている?』って尋ねるつもりですか?」
「そのつもりだが、何か問題でも?」
こんなことを真顔で言う。
やっぱりこの人、基本いい人だけどちょっと変だ。
「それはやめた方がいいと思います。正直、意味分かんなかったです」
「そうか? 哲学らしさをアピールするには良い質問だと思ったのだが……。では、どうすればいい?」
「普通に、哲学に興味があるか尋ねればいいと思います」
「それでは面白味に欠けるな」
不満そうに視線を落とす先輩。
そんな真面目な顔で面白味を追及されてもな……。
とにかく、先輩だからといって今は遠慮などしていられない。
「いえ、尋ねられる方は面白くないですから。それより分かりやすさが大事です」
ハッキリ意見すると、先輩は軽く息をついてから小さく言った。
「勧誘される側の気持ちが分かっている君の意見だ。他の方法を考える時間もない。それでいこう」
僕は小乗先輩と共に、あのお祭り騒ぎの中へと戻る。
あれから一時間近く経って多少人数は減ったが、タイムリミットが迫っているせいで先輩方のテンションがさらに上昇し、かえって賑やかさが増しているほどだった。
やっぱり、こういうノリは苦手だ。と思っていたのだが、今度は勧誘する側として来たからか、さっきとはずいぶん景色が違って見えた。もう映画のようには見えない。今、自分が当事者なのだという確かな実感があった。
なにせ今日中に最低二人の新入部員を見つけなければ、入部して一日も経たないうちに部が存続の危機に陥ってしまうのだから無理もない。人間、追い込まれれば嫌でも現実を直視しなくてはならなくなる。それがこの実感の源だろう。
僕は〝男子哲学部〟と書かれた即席看板を胸の前に持ち、声かけをする小乗先輩に付いて回る。
「そこの君、ちょっといいかな?」
一人で歩いていた一年生男子に、先輩は声をかける。
「我々は男子哲学部の者だが、哲学に興味はないかな?」
立ち止まった男子は「え?」と声を漏らし、少し驚くように目を開いた。
おそらくは僕と同じ、小乗先輩があまりに大人っぽいことと、聞き慣れない部活名だったからだろう。
男子の目が、僕の持つ即席看板に向く。
そして、あからさまにつまらなさそうな表情をした。
「あのー、男子部ってことは、女子は一人もいないんですよね?」
「そうだ」
「じゃあ、やめときます」
男子は短く告げて、あっさりと去っていった。
胸がズキッと痛む。
これはキツいな。さすがに一人目から上手くとは思ってなかったけど、仮にも同じ学校の生徒にこうも冷たくあしらわれるとは……。
「光流君、気にするな」
小乗先輩が静かに言う。
「向こうも時間がないのだから、なるべく興味のない部に関わりたくないのは当然だ。むしろ長々と話し込んだあげく、結局断られるよりはいい。次へ行こう」
すごい……。こんな状況でも相手の気持ちを考られるなんて。さっきほんの少しでも、この人のことを鈍感だなんて思った自分が恥ずかしい。
小乗先輩は、まだ入部が決まっていない一年生男子に積極的に声をかけていく。
しかし、次の男子も、その次の男子も、似たり寄ったりの反応だった。
どうも女子のいない文化部は不人気らしい。
みんな恋愛目的なのだろうか? だとしたら、なんて不純な!
――と言いたいところではあるが、僕だって男だ。彼らの気持ちは分かる。
それに、ちょうど良いフィルターにもなっている。この状況で入部してくれる人がいるとすれば、間違いなくやる気のある人だ。頭数ではなく本物の仲間を欲する男子哲学部にとっては好都合とも言える。
慌てる必要はない。たった二人でいいのだ。一人で部活見学する人より友達と一緒の人の方が多いのだから、来る時は一瞬だ。
とはいうものの、即席看板だけではアピール力が弱いのか、なかなか向こうからはやってこない。
僕も大声を張り上げた方がいいのだろうか。
いや、文化部でそんなことをやっている人はいない。
どの部も、この日のために、それぞれの衣装や道具を用意して決戦に臨んでいる様子だ。
それに対し、こちらは明らかな準備不足。
どうすれば……。
そういえば、女子哲学部の人たちはどうしてるのだろう? 確か抜けたのは三人と言ってたし、どこで勧誘しているかもしれない。
もしいるなら参考にしたいので、ちょっと探してみる。
そうして少し目を離した隙に小乗先輩を見失ってしまった。
僕は慌てて首を振る。
幸い先輩の背が高いおかげですぐに見つかった。
ただし、先輩の周囲には新入生と思われる女子数人が群がっていた。
「先輩は何部ですか?」
「今、勧誘してるんですよね?」
「わたしたち、まだどこにも決まってなくて、良さそうなところを探してるんです」
女子たちから矢継ぎ早に言葉が飛ぶ。
困った表情の小乗先輩が僕の姿を見つけると、ホッとしたような顔で手招きしてきた。
それから、僕が持つ即席看板を女子たちに見せて、申し訳なさそうに言う。
「すまないが、見ての通りうちは男子部なのだ。もし哲学に興味があるなら女子哲学部の方を訪ねてほしい」
女子たちは残念そうな顔で去っていった。
……なんてことだ。せっかく向こうから来てくれたというのに、みすみす逃すしかないなんて。もっとも、あの様子だと小乗先輩がカッコいいから近付いてきたというだけで、哲学に興味はなさそうだったが。
そうこう考えている間にも、新入生らしき女子たちが小乗先輩に声をかけてくる。
小乗先輩モテるなぁ。
でも今は女子が来ても意味がない。男子に来てほしいのだ。
もったいなくはあるが、女子に対しては丁重にお断りするしかない。
それからしばらく、周囲を見回しながら祭りの中を歩く。
すると、こちらをジッと見ている男子生徒が目に付いた。
校章の色は僕と同じ緑。一年生だ。
見ているだけでなく、声をかけたそうにしているのが分かる。
「先輩、あの人」
「ふむ。どうやら我々に少なからず興味があるようだな」
小乗先輩はその男子に近付き、柔らかな口調であいさつする。
「はじめまして。我々は男子哲学部の者だ。もしかして、君は哲学に興味があるのかな?」
「はい、実はけっこうあります」
よし、勘違いじゃなかった。
見た感じも真面目そうな人だし、これはいけるかもしれないぞ。
一年生男子が小乗先輩に聞く。
「哲学部って、具体的にどんな活動をするんですか?」
「主な活動は議論だ。人間の存在意義や社会に対する疑問など、様々な議題について皆で意見を出し合い、理解を深めていく」
「へえー、面白そうですね」
おお、好感触だ。これは、ひょっとしなくともいける?
だとすれば同じ部活の一年生同士、この人が僕の高校最初の友達に――
そんな妄想を抱き始めたところで、一年生男子から予想外の質問が飛ぶ。
「それで、哲学部にはコンクールみたいなものはあるんですか?」
そんな話は聞いていない。どうなんだろう?
小乗先輩の方に目を向けると、小さく首が横に振られた。
「いや、哲学には高校生向けのコンクールはないな。そもそも哲学に勝敗や優劣はない。議論を重ねることと、考えを実践すること。それによって、人間的成長を追い求めるのが我が部の方針だ」
「え、じゃあ部内で議論するだけで、その成果を発揮する本番みたいな場がないってことですか?」
一年生男子は驚きの表情を見せた。
対して、小乗先輩は冷静に言葉を返す。
「本番ならある。哲学は、生きている間がずっと本番だ」
その堂々とした意見に、一年生男子は戸惑った。
「あ、いや、そういうのじゃなくて、ちゃんと形に残るものがほしいんです」
「例えば?」
「記録とか賞とか、そういうものです」
「それにどんな意味が?」
「そんなの、がんばった証がほしいからに決まってるじゃないですか。それに実績を残せば進学や就職で有利になりますし」
「そうか……」
先輩は力なく肩を落とし、暗い顔をした。
どうやら目的が違ったようだ。
結論から言うと、午後六時半まで粘っても入部してくれる人は見つからなかった。
一時間少々の間に三十人以上は声をかけたはずだが、哲学にある程度の興味は示してくれても、入部まで検討してくれる人は一人もいなかった。
間もなく日が沈む。
お祭りの喧騒はすっかり鳴りを潜め、片付けをする生徒がわずかに残っているのみ。
それも、あと数分で消え失せるだろう。
小乗先輩はうつむき加減で嘆く。
「なぜだ? なぜ誰もこの世の真理を探求しようとしない? 皆、自分の置かれた現状に疑問を抱いていないのか?」
真理についてはともかく、僕にとってもこの結果は残念だった。
なにせ、大々的に勧誘活動ができるのは今日だけだ。今日捕まらなかった以上、あとは掲示板に張り紙でもして待つしかない。あるいは個人的なツテに頼るかだが、僕にそんなものはない。
だんだんと日が沈んでいく。
あと三十分もすれば真っ暗になる。これ以上ここにいたら先生に注意されそうだ。
小乗先輩は気持ちを切り替えるように息を付いた後、僕を見て言う。
「仕方がない、今日のところはここまでにしよう。明日の昼休みに部室で作戦会議をしたい。四時限目が終わったら昼食を持ってすぐに来てほしいのだが、どうかな?」
「はい、大丈夫です」
むしろありがたい。入学してから昼休みはずっと一人だった。
できるなら毎日でも部室に行きたい。部室を僕の居場所にしたい。
そのためには残り部員二人、なんとしても確保しなければ。
翌日、昼休み。
僕は部室で小乗先輩と昼食を共にする。
昨日議論した時と同じように向かい合って座り、弁当箱を開ける。
「いただきます」
小乗先輩は学校でもちゃんと食前のあいさつをする人らしい。
丁寧に手を合わせ、それから箸を手にする。
「い、いただきます」
僕だけ黙って食べ始めるわけにはいかないので、少し声を詰まらせながらも後に続いた。
さて、本日のおかずは、と。
玉子焼きにミートボール、ウインナーにプチトマト。玉子焼きは母の手作り、あとは出来合いのものを詰めた定番メニューだ。やや動タンパクが多い気はするけど文句はない。
弁当箱の半分が白いご飯。その上に、小袋に入った海苔塩ふりかけをかける。
ちょっとマナー違反かなと思いつつも、小乗先輩のお弁当が気になるので見てみる。
醤油で炒めたような淡褐色のご飯に、卯の花、きんぴら、たくあん、煮豆。
質素な和風弁当だ。
せっかくの会話の機会なので、思い切って声を出してみる。
「先輩のお弁当、質実剛健って感じがしますね」
「ん、そうかな?」
先輩は箸を止めて、こちらを見る。
「はい。とても健康的そうです」
「まあ、健康は何物にも変えられない宝だからね」
嬉しそうな表情だ。良い反応をしてもらえて僕も嬉しい。
ついでに、気になったので尋ねてみる。
「そのご飯は醤油で炒めたんですか?」
「いや、これは玄米だよ」
先輩は弁当箱をこちらに少し傾け、中身を見せてくれた。
色以外は違いがないように見える。いや、お米の先に小さな粒みたいなものがある?
「玄米……。玄米って、あの白米にする前のお米ですか?」
「そうだよ。そんなにめずらしいかな?」
「あ、はい。それ食べてる人、初めて見ました」
身体に良いと聞いたことはあるが、玄米食を実践する人は非常に稀であろう。
ましてや高校生がお弁当に詰めてくるなど誰が予想できようか。
小乗先輩は少し寂しそうな表情で言う。
「よく言われるよ。玄米を食べるなんて健康マニアか修行僧くらいのものと思っている人が多いみたいだからね。こんなにおいしいのにね」
「え、おいしいんですか?」
「よかったら一口食べてみるかね?」
「いいんですか?」
「何事も経験だ。試してみなさい」
小乗先輩が弁当箱をこちらに差し出してくる。
「で、では、一口だけいただきます」
すでに口を付けた箸で取っていいものかと一瞬迷ったが、先輩は気にしていないようなので角の部分から一口分もらい、口に運ぶ。
味は白米とそんなに変わらない。食感は炒飯やピラフに近く、ちょっと固い。
微妙にプチプチする食感が特徴といえば特徴だ。
「どうかな、初めて玄米を食べた感想は?」
「う~ん、まずくはないですね……。絶対無理ってほどじゃないです。たまにならいいかもって気はします」
正直に言うと、小乗先輩は小さく苦笑した。
「まあ、そんなところだろうね。私に言わせれば、玄米こそが普通の米であって、白米は贅沢品なんだがね」
「どうしてですか?」
「単純な話さ。玄米の胚芽の部分にはビタミンやミネラルなど貴重な栄養分が豊富に含まれている。それをわざわざ手間暇かけて削ぎ落としてしまうのだぞ。これを贅沢と言わずしてなんと言う?」
「はぁ……」
確かにそのとおりではあるが、米といえば白米というのが常識すぎて、すんなりとは受け入れられない。これも固定観念なのかな。
先輩の眼鏡の奥にある目が、昨日議論をした時のようにキリッとする。
「そもそも、庶民が白米を食べるようになったのは江戸時代の後期、歴史的にはまだ最近のことだ。それなのに、まるで玄米食を忌避するかのような現代の風潮はどうにも理解し難い。あと何十年かして飽食時代が終われば、人々の意識も少しは変わると思うが・・・・・・」
お弁当の話をしていて歴史とか風潮とか未来に対する発言が出てくるとは、この人はいったいどんな目で世界を見ているのだろう? 僕のような凡人とは明らかに何かが違う。これが哲学者というものなのだろうか。
「おっと、失礼。愚痴みたいになってしまったね。食事を続けよう。大事な会議が控えているからね」
先輩は表情を緩め、再び箸を動かし始めた。
そうだ。長々と食の話をしている場合ではない。今は部員の確保が最優先事項だ。
作戦と言えるほどのものではないが、僕も一応は考えてきた。既に昨日のような勧誘活動はできず、個人的に声をかけられる相手がいない僕に考えられる方法は、たった一つ。
食事を終え、弁当箱をしまった後、それを話す。
「元哲学部だった女子の人たちと和解するというのはどうでしょう?」
「残念だが無理だ」
一刀両断だった。
「ど、どうしてですか?」
「女子哲学部は既に四人揃って登録も済んでいる。今さら解散させることはできない。女子部として登録してあるから向こうに入れてもらうことも不可能だ」
そっか。確か離反した女子部員は三人と言っていたから、向こうは新入部員を見つけたんだ。
「では、やめた男子二人は? そっちも和解できそうにないんですか?」
「和解もなにも、彼ら二人とは仲違いしたわけではない。二人とも他にやりたいことがあると言ってやめたのだ」
「他の部に入部したってことですか?」
「いや、部活ではなく個人的なことだ」
「それなら、なんとか説得して戻ってもらうことはできないでしょうか?」
「難しいだろうな。いや……」
小乗先輩の鋭い目が、ジッとこちらを見つめてくる。
「ど、どうしました? 僕に何か?」
「光流君の協力があれば、上森(うえもり)君は連れ戻せるかもしれない。彼がやめた理由が理由なだけにな」
少し呆れた感じの口調だった。どうやら、あまり真面目な理由ではないらしい。
「どんな理由か聞いてもいいですか?」
「女の子がいなくなってつまらないと言って出ていったのだ」
「お、女の子目当てだったんですか?」
「ああ。去年、入部したての頃、『今度は真面目系女子を攻略したい』と言っていたよ」
息をつき、肩をすくめる先輩。
その言葉からすると、既に何人もの女子を攻略した経験があるようだ。
つまり女ったらしだ。
「そんな理由で哲学部に……」
「結局、一年間で一人も攻略できなかったがね。だが、彼の哲学にも頷けるところはあった。彼の目的も一概に不純とは言い切れないのだ。そう思わせるだけの説得力が、彼にはあった」
小乗先輩にそこまで言わせるとは、上森という先輩もなかなか侮れない人物のようだ。
「性格に少々難はあるが、彼の哲学から学ぶことは多い。可能なら連れ戻したいと思っていたところだ。光流君、協力してもらえるかな?」
「もちろんです。僕にできることなら何でも協力します」
「ふふ、頼もしいな。では放課後、二人で上森君のところへ行こう」
「はい。……あ、一つ教えてください」
「なにかね?」
「上森先輩の哲学というのは、どんな哲学ですか?」
協力するからには、少しでも彼のことを知っておいた方がいい。それに、女の子を攻略することが、どう哲学とつながるのか気になる。
「あえて言えば快楽主義に近いか」
なんか、すごい言葉が出てきたぞ。
「か、快楽ですか?」
「そうだ」
冗談を言っている顔ではなかった。
いったいどんな主義なんだろう?
快楽っていうと、なんだかすごく怪しい響きがするんだけど……。
先輩が淡々と説明してくれる。
「快楽主義といっても、彼が貪るように欲望を満たしているわけではない。ただ無理な禁欲はせず、自然と発生する欲求を自然に満たそうと考えている程度のことだ。加えて、彼は目先の肉体的快楽よりも精神的快楽を重要視する傾向がある。例えば同じ快楽でも、惰眠を貪るのと努力して志望校に合格するのとでは、ずいぶんと意味合いが違うだろう? 彼が求める快楽は主に後者ということだ」
「じゃあ、女の子を攻略することも哲学と無関係でない、ということでしょうか?」
「そういうことになるな。彼は彼なりの方法で、人が幸福を感じる条件を探求している。彼もまた哲学者なのだ」
この人がそう言うのなら、たぶん間違いないのだろう。
どうやら、哲学とは僕が思っていたよりも、ずっと奥深いもののようだ。
放課後、僕と小乗先輩は元哲学部員の上森先輩に会いに行く。
小乗先輩が言うには、彼は二年生になってから放課後は毎日のように屋上で女子とおしゃべりをしているらしい。しかも、相手は元哲学部ではなく別の女子だとか。
真面目系女子を攻略するという目標は諦めたのだろうか。それとも保留にしただけか。
どちらにしても哲学的なイメージからは程遠い。
屋上に到着する。ここに来るのは初めてだ。
学校案内に載っていたとおり、四棟ある校舎のうち一棟の屋上はちょっとした庭園のようになっており、生徒たちの憩の場となっていた。今も何組かのグループが、それぞれベンチのあるところでおしゃべりをしている。
小乗先輩はその一角に目を付けた。
「いたぞ。上森君だ」
視線の先に目を向けると、見るからにチャラチャラした感じの男子と、これまたいかにもギャルっぽい感じの女子二人が、ベンチに腰かけて楽しそうにおしゃべりしていた。
ある程度予想はしていたが、上森先輩の見た目は哲学のイメージとかけ離れていた。
制服は着崩し、肩まで伸ばした髪は薄茶色に染まり、開いた胸元には金属製のアクセサリー。典型的なチャラ男だ。
そんな彼らに小乗先輩は平然と歩み寄り、職質でもするかのように声をかける。
「失礼、上森君に話があるのだが、よろしいかね?」
女子二人が奇異な視線を向けてくる。
上森先輩も――と思いきや、
「よう、龍ちゃん。めずらしいな、龍ちゃんがここに来るなんて」
意外にもフレンドリーな態度で返してきた。
龍樹だから龍ちゃんか。間違ってはいないが妙な違和感だ。
どう見ても小乗先輩は〝ちゃん〟で呼ばれるキャラじゃない。
小乗先輩は意に介することなく応じる。
「あまり好きな場所ではないがね。君に用があって来た」
「へえー、なに? 見てのとおり今この子たちとお話し中だからさ。手短に済ませてくれる?」
「では単刀直入に言おう。哲学部に戻ってほしい」
「なんだ、その話か……」
上森先輩は、つまらなさそうな顔でガックリと肩を落とした。
「悪いけど、今は哲学するよりこの子たちとおしゃべりする時間の方が大事なんだわ。他当たってくれるか?」
期待はずれだ。小乗先輩が認めているくらいだから、見た目に反して中身は真面目な人かと思っていたのに、これでは見た目どおりだ。
女子二人が「早くあっちいって」と言いたげな目で見てくる。
これはもう無理っぽいな。
早くも諦めかけた僕とは対照的に、小乗先輩はフッと不敵な笑みを浮かべる。
「上森君、本居(もとおり)先輩のことはもういいのかね?」
途端、上森先輩の肩がビクンと跳ねる。
「おっと、本命は熊楠(くまぐす)さんだったかな? いや、『新井(あらい)さんは俺の嫁』と言っていた時期もあったな」
「ぐっ……!」
呻きにも似た声を漏らし、大きく目を開く上森先輩。
女子二人が驚きと軽蔑の混じった視線を上森先輩に向ける。
「ねえ、どういうこと?」
「本命ってなに? 嫁ってなに? 誰なの、その人たち?」
問い詰められている本人に代わり、小乗先輩が不敵なまま答える。
「その三人は、彼と同じ元哲学部の部員だ。それ以上は言わなくても察しがつくのではないかな?」
な、なんて卑劣な。今攻略中の女子の前でそれ言うのか。
上森先輩は手をぶんぶんと横に振り、必死に否定する。
「ま、待て! 昔のことだ。彼女たちのことは、もう何とも思ってない!」
だが、返ってくるのは失望の声。
「ふーん。でも、好きな相手がそんだけコロコロ変わるってことは、あたしのこともすぐ昔のことになるんじゃない?」
「っていうか、そんなに慌ててる時点でアウトなんですけど?」
女子二人は「行こ」「うん」とやり取りをして、あっけなく去っていった。
「な、なんてこった……」
残された上森先輩はガックリと顔を落とす。
やがて女子二人の姿が屋上から消えると、顔を上げて小乗先輩をキッと睨みつけた。
「やってくれたな。せっかくいい雰囲気になってきてたのに、どういうつもりだよ!」
今にもつかみかからん剣幕でベンチから立ち上がる。チャラ男から不良にクラスチェンジしたような様変わりだ。
上森先輩は身長こそ小乗先輩より十センチ近く低いが、なかなか筋肉質な身体付きをしていて迫力がある。もし、ケンカになったら……。
そんな僕の心配を余所に、小乗先輩は平然と言い返す。
「どういうつもりも何も、君を哲学部に連れ戻すためだ。先ほど言っただろう?」
「だからって人の恋路を邪魔するこたねえだろ!」
「恋? どちらの女性とかね?」
「うっ……」
上森先輩は声を詰まらせる。
「まさか二人の女性を同時に攻略していたわけではあるまい? 本命はどちらかね?」
「いや、それはまだ……」
「決まっていなかったか」
「そりゃ、今はそうだけど、これから新しい恋が芽生えたかもしれなかったじゃないか。それをお前が邪魔したんだ!」
上森先輩が噛み付くように追及するも、小乗先輩の平然とした態度は変わらない。
「そうか。しかし解せんな」
「何がだよ?」
「君は以前、ああいう派手なタイプの女子はもう飽きたと言っていたではないか。気が変わったのか?」
「いや、違うんだよ」
上森先輩は首を大きく横に振った後、急に真面目な表情で語り出す。
「いいか、よく聞け。世の中にはな、ああいう感じで見た目は派手なのに、中身はびっくりするくらい奥手な子が稀にいるんだよ。そのギャップがたまらねえんだよ。そう思わねえか?」
なに言ってるんだろう、この人?
小乗先輩も僕と同じ心境なのか、眉を潜めて小さく首を傾げる。
「よく分からないな……。あの二人のどちらかが君の言う『実は奥手』なタイプだったのかね?」
「分からねえよ。だから探ってたんだ。それを邪魔しやがって……」
上森先輩はベンチにドカッと腰を下ろし、腕と足を組んで拗ねたようにそっぽを向いてしまった。
ひとまず暴力沙汰にはならずに済みそうだが、もはや彼を説得できる空気ではない。
やはり諦めて他を当たるしかないのだろうか……。
小乗先輩は、なおも余裕の表情をしている。
その表情のまま、意外にも謝罪の言葉を口にした。
「すまなかったな。そんなに深い事情があるとは知らなかった」
「今さら遅せえんだよ」
「代わりと言ってはなんだが、君に新しい可能性を提供する用意がこちらにはある」
「はぁ? どういうことだよ?」
上森先輩が組んでいだ手足を解き、こちらに顔を向ける。
しかめっ面ではあるが、興味はありそうな様子だ。
「お答えしよう」
まさか、ここからの逆転を可能にする秘策があるのか?
いったいどんな言葉が出てくるのかと期待に胸を膨らませていると、小乗先輩は僕の背後に回り込み、両肩に手を置いた。
そして、自信ありげに言う。
「紹介しよう。男子哲学部の新入部員、鹿内光流君だ。今、入部すれば、この光流君とお近づきになれるぞ」
「ええ!?」「はぁ!?」
僕と上森先輩が同時に声を上げた。
「ちょっと待て、どういう意味だよ?」
上森先輩がベンチから身を乗り出すようにして尋ねる。
「そのままの意味だ。上森君、あの女子二人の代わりに今度は光流君を攻略してみないか?」
「ちょ、先輩、なに言ってるんですか!」
「男じゃねえか!」
僕も上森先輩も当然の抗議。
いくらなんでもこれはおかしい。予想外にもほどがある。
「言っとくが、俺にそっちの趣味はねえぞ」
よかった、僕もだ。
こればかりは上森先輩に同意したい。
「果たしてそうかな?」
小乗先輩は僕の肩に手を置いたまま、意味深なことを言う。
「上森君、君は真の幸福を知るために、あらゆる恋愛経験をしてみたいと言ったはずだ。それなのに目の前の可能性を見過ごしてしまって良いのかな? それは君の哲学に反するのではないのかな?」
「いや、だからって男は……」
「そう言わずに、この光流君をよく見てみるといい。君の想像力をもってすれば分かるはずだ」
「はぁ……」
上森先輩は困惑の表情で息を吐き、こちらを見つめてくる。
いったい何が分かるの? 何を想像するの?
「ん……!」
突如、天啓を得たかのように上森先輩の目付きが変わる。
「こいつは、もしかして……」
つぶやきながら、まるで品定めをするように僕を足元から頭の天辺まで見てくる。
そして、ニヤリと邪悪っぽい笑みを浮かべた。
「なるほど、逸材だな」
なにが?
「そうだろう。さあ、どうする?」と小乗先輩。
だからなにが?
僕を差し置いて、二人は勝手に話を進めていく。
「いいだろう。哲学部に戻ってやるよ」
え、いいの?
「その代わり、光流ちゃんには毎日コスプレしてもらおう。それが条件だ」
え……?
思考がフリーズする。
光流ちゃん? コスプレ?
なんでそうなるの?
「というわけだ。協力してもらえるね?」
背後、というより身長差があるからほとんど頭上といっていい位置から、小乗先輩が尋ねてきた。
「あ、え、いや、なんで、僕がコスプレしなきゃいけないんですか?」
「素材がいいからに決まってんじゃん」
上森先輩が喜々として答えた。
「俺の見立てでは、光流ちゃんは一流のコスプレイヤーになれる素質があるぞ」
さっきの想像って、僕がコスプレした姿を想像していたのか。
「い、いったいどんなコスプレをさせるつもりですか?」
「まずはやっぱり制服だな。先月卒業した姉貴の制服を借りてきてやるよ。それからウィッグだ。光流ちゃんにはロングが似合いそうだな」
「それ女装じゃないですか!」
「そりゃそうだろ。光流ちゃん、よく見ると可愛い顔してるし、小柄だし、声も高いし」
「嫌ですよ、恥ずかしい!」
確かに小さい頃はよく女の子に間違えられもしたが、断じてそういう趣味はない。女装なんかしようものなら一生もののトラウマになりそうだ。
「だいたい、男に興味はないって言ったじゃないですか!」
「男に興味はない。だが、女装男子は別だ」
ワケの分からない理論を真顔で返してくる。
「何が違うんですか!?」
「全然違う」
真顔がぶれない。
「だから何が!?」
話が通じない。
僕は助けを求めるべく、小乗先輩の方を見ようとするが――動けない。
「光流君、昼休みに、『僕にできることなら何でも協力します』と言っていたね?」
両肩に置かれた手のひらに圧力を感じる。
「い、言いましたけど、いくらなんでも女装は……」
「安心しなさい。女装して外を歩けとまでは言わない。部室の中だけでいい。そうだろう、上森君?」
「ああ、それで充分だ。光流ちゃんのコスプレ姿を拝めるのは男子哲学部員の特権にしとこうぜ」
上森先輩は期待に満ちた表情でグッと親指を立てた。
この二人、ついさっきまで対立していたというのに、いつの間にか息がぴったりだ。
何だかんだ言っても、一年間一緒に過ごしただけのことはあるんだな。
対する僕は孤立無援。
もはやこれまでか。
「ううう、分かりました……」
こうして、二年生の上森和(かず)先輩が仲間に加わった。
男子哲学部発足まで、あと一人。
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