第5話 哲学には結論がない?

 男子哲学部が正式に設立してから二日目の放課後。

 例によってコスプレ(女装)をするため、僕は先輩たちより先に部室に入る。

もちろん、すぐに鍵をかける。

 まずは一人で女子の制服に着替えた後、昨日と同じくコスプレ部のぽっちゃり系先輩女子にカラーコンタクトをつけてもらう。最後にロングヘアのウィッグをつけて完成だ。

 鏡は見ない。もう見ないぞ。

 そう決意を確認した矢先――

「うんしょっと」

「え……!」

 先輩女子に背後から肩をつかまれ、スタンドミラーの前に無理やり連れていかれた。

 この人、繊細な手付きの割に力が強い。男子とはいえ非力な僕には抗えない。

「ほら見て、これが光流君だよ。可愛いでしょ? 可愛いよね? こんなに可愛いのに部室の中だけじゃもったいないよね? みんなにも見せてあげたいよね?」

 昨日断ったというのに、まるで僕を洗脳するように耳元で一方的にまくし立ててくる。

 でも、こればかりは譲れない。

「いや、無理ですって! 部屋の中でもこんなに恥ずかしいのに、外へ行くなんて絶対無理です!」

 断固として拒否すると、怪訝な表情で首を傾げる先輩女子の姿が鏡に映った。

「でも昨日、部室の外に出てたよね?」

「え……!」

 ビクンと僕の肩が跳ねる。

「み、見てたんですか?」

「うん、見てた。ポニテの子と一緒に廊下歩いてたよね」

 水澄さんだ! 女子哲学部に連れて行かれるところを見られていたのか。

「あ、あの、一応お伺いしておきたいのですが、見たのは先輩だけですよね?」

 鏡越しに問うと、先輩女子は真顔で首を横に振った。

「ううん、コスプレ部の友達も一緒だったよ」

 うあああ、見られてた! しかもコスプレ部の人に!

「な、何人くらい見たんですか?」

「わたしの他は二人かな。でも安心して。約束どおり男子とは言わなかったから。すっごく可愛いからコスプレ部でちょっとした話題にはなったけどね」

「お願いだからそれ以上は話を広めないでください、絶対に」

「わたしは広めないけど、勝手に広まるのは止めらんないよ? それわたしの責任じゃないし」

「ぅぅ……」

 確かに、この人に落ち度はない。

 今できるのは、変な噂が広まらないよう祈ることのみ。

「それじゃ、あんまり長居すると部活の時間なくなっちゃうから、わたしはこれで失礼するね。コスプレイベント参加の件、考えておいてね」

 昨日と同じことをニコニコ顔で言い残し、先輩女子は部室から出ていった。 

 あれは何度断っても諦める気なさそうだな……。

 彼女と入れ替わりに、男子哲学部の先輩三人が入ってくる。

 小乗先輩は昨日すでに僕の女装姿を見ているからか、特に表情は変えなかった。

 元引きこもりの下倉宗(しもくらそう)先輩は大きく目を開き、感嘆の声を上げる。

「わ、すごーい。ほんとに女子みたいだー」

 そして、このコスプレの発案者である上森和(うえもりかず)先輩はというと――

「……」

 こちらを凝視したまま、無言で固まっていた。

 あれ? 意外だな。きっと大声ではしゃぐと思ってたのに。

 数秒間の沈黙の後、上森先輩は小さく声を漏らす。

「ふ……」

 ふ?

「ふおおおおおおおおー!」

 突如、静から騒へと一転。両の拳を強く握り締め、猛獣のような雄叫びを上げた。

 なに!? なんなの!?

「光流ちゃん!」

 ずかずかとこちらに歩み寄り、両手で肩をつかんでくる。

「結婚してくれ!」

 なに言ってるの、この人!?

「む、無理ですよ! 離してください!」

「いいや、離さない!」

 上森先輩は僕の肩をがっしりとつんだまま、壁に追いやってきた。

「俺は君を離さない。法律なんかどうだっていい。結婚しよう!」

「だから無理ですって!」

「大丈夫だ。障害は一緒に乗り越えればいい。俺たちの愛は無限の力を持っている!」

 ワケが分からない。

 なんとかして自力で振り解こうとするも、僕の力では抗えない。

「上森君、その辺にしておけ」

 小乗先輩が呆れたような声で注意する。

 だが、上森先輩は聞き入れない。

「そうはいくか! 光流ちゃんは俺が守る。お前らなんかに邪魔はさせないぜ!」

 なんか無駄に格好いいこと言ってるし。なんなの、この人!? 

「やれやれ……」

 小乗先輩がつぶやいた後、

「いでででででで!」

 上森先輩の腕があっさりと僕を解放した。同時に身体も離れる。

 小乗先輩が上森先輩の耳を引っ張ったのだ。

「な、なんてことしやがる! ちぎれたらどうすんだ!」

「ちぎれないよう加減はした。いつまでも遊んでいる君が悪い」

「遊びじゃねえ! 俺は本気だ!」

 本気!?

 僕は耳を疑ったが、上森先輩は言葉通り今にも噛み付かんばかりの剣幕だ。

 対して、小乗先輩の冷静さは揺るがない。

「それなら尚更、光流君を大事にすべきではないのかね。ほら、そこに無断撮影をする輩がいるぞ」

「なんだと!」

 見ると、下倉先輩がこちらへ携帯カメラを向けてきていた。

「させるか!」

 上森先輩は必死の形相でカメラの前に飛び出す。

 直後、撮影の音が鳴る。

「あー、ざんねーん」

 表情は平坦だが、割と本気そうな声。

「下倉先輩まで何やってんですか!?」

「いやー、だって、高く売れそうだしー。せっかくだから光流君、二人で組んで大儲けしない?」

「それ僕の方が圧倒的に負担重くありません!?」

「ん~、じゃあ、ギャラは八対二でいいや。もちろん光流君が八ね」

「九九対一でも嫌です!」

「えー」

 不満そうに項垂れる下倉先輩に対し、上森先輩が吠える。

「てめー下倉、光流ちゃんを売り物にすんじゃねえ! 光流ちゃんは俺の天使なんだぞ!」

「勝手に決めないでよー。天使はみんなに祝福を与えるものでしょ。それに、お金が入ればいろんな衣装が買えるよー」

「それは…………そうか」

 納得した!?

 上森先輩は、いつかのようにニヤリと邪悪な笑みを浮かべる。

「おい、下倉。撮影は許可する。代わりに画像のデータ残さず寄越せよ」

「いいよー。じゃあ光流君、こっち向いてー」

 小乗先輩助けて……。

 哀願するように視線を送ると、「はぁ……」と大きなため息が返ってきた。

「そろそろ部活を始めるぞ。これ以上騒ぐなら約束はなかったことにするが、それでいいのか?」

 ただでさえ鋭い小乗先輩の眼光が、いっそう鋭く光る。

 上森・下倉両先輩は騒ぐのをピタッとやめた。

 そして、おとなしく席に着く。

 さすが部長だ。頼りになる。

 そう思ってホッとひと安心するも――

「仕方ねえ。だがチャンスは二年もある。これからじっくり攻略させてもらうぜ」

 上森先輩は、こちらを見てほくそ笑んだ。

「今や女装男子はビジネスチャンスだからねー。検討しておいてねー」

 下倉先輩は、さっきの先輩女子のようなことを小声で言った。

 ほんとなんなの、この人たち……。

 はぁ、女子哲学部に戻りたい。



 何はともあれ、ようやく、男子哲学部の活動が開始される。

 進行役を務めるのは部長である小乗先輩だ。

 今日もピンと背筋を張った姿勢で、説明を始める。

「まずは顧問の先生について報告する。顧問は昨年度の哲学部と同じ先生が受け持ってくれることになった。女子哲学部と兼任だ。基本的には部の活動に関与しない名ばかりの顧問ではあるが、我々が問題を起こせば少なからず責任が及ぶ。くれぐれも先生に迷惑をかけないよう、軽挙妄動は慎むように」

 問題ならすでに起きてるんですけどね。

「次に、活動日についてだが、平日の放課後は毎日とする。土日祝日は特別な事情がない限り活動はしない。参加については基本自由参加とする。必ずしも週五日とも出る必要はない。が、できれば週三日は出てほしい。もちろん、他に用事があったり気分が優れなければ、遠慮なく休んでもらって構わない。私は可能な限り毎日出るつもりだ」

 中学校の運動部と違って強制参加ではないんだな。

 でも、小乗先輩が毎日来るなら僕もできる限り毎日来よう。

「次に、男子哲学部の活動内容について説明する。始めに言っておくと、哲学部だからといって哲学の学習を強要することはない。既存の哲学を学ぶかどうかは個人の自由だ。興味があるなら、そこの本棚から好きな哲学書を選んで勉強するといい。貸し出しは自由だ」

 壁際にある二つの本棚には古今東西、初心者向けの哲学書が揃っている。分かりやすそうな漫画みたいな本もあった。気が向いたら読んで勉強しておこう。

 小乗先輩が続ける。

「活動の中心となるのが議論だ。哲学は議論をしてこそ発展するものだからな。議題は各自、考えておいてほしい。日々疑問に思うこと、不条理だと思うこと、自分のこと、世界のこと、なんでもいい」

 なんでもいいと言われると、かえって困るのは相変わらずだ。

 いつ指名されてもいいよう、あらかじめいくつか議題を考えておかなければ。

「それから年に二回、部の活動記録を学校に提出することを義務づけられているが、それについては光流君が活動に慣れてきた頃、改めて説明しよう。先日、下倉君の家で話した女子部との交流会についても現時点では未定なので、進展があれば追って通達する。説明は以上だ。何か質問は?」

 小乗先輩が全員を見回す。

 誰も発言しないことを確認した後、僕は小さく挙手した。

「あの、念のためお伺いしたいのですが、女子部との交流会の時は普通の格好でいいですよね?」

「いやいや、交流会だって部活動なんだから、当然コスプレは――」

「無論だ」

 上森先輩の発言を毅然とした声が遮った。もちろん小乗先輩だ。

「そもそも、女装して交流会に出れば、昨日のことが女子部の人間にバレてしまう。よって上森君の意見は却下だ」

 当然といえば当然の答えなのに、上森先輩はガックリ肩を落とした。

 だが、それも束の間。

 すぐに立ち直って「はいはーい」と挙手する。元気だな。

「質問ではないけど一ついいか?」

「なにかね?」

「光流ちゃんの呼び方についてだけどさぁ、その光流君ってのはやめにしねえか? こんな可愛い子に対して〝君〟はねえだろ?」

 またこの人はどうでもいいことを……。

 小乗先輩が真顔でこちらを見てくる。

「こう言っているが、どうかね? もし光流君という呼び方が不満なら変えるが?」

「いえ、不満じゃないです。今のままでいいです」

「よくねえよ!」

 上森先輩は眉を吊り上げ、力強く主張する。

「いいか、コスプレってのはなぁ、見た目だけ着飾ればいいってもんじゃねえんだよ。女装するからには、ちゃんと心まで女の子になりきらなくちゃいけねえんだ! なのに周囲が雰囲気作ってやらなくてどうする? とにかく、光流君はあり得ねえ。ボーイッシュなタイプならともかく、光流ちゃんは清純系なんだからな!」

 いったい僕がいつ清純系になったの? この人はいったい何を必死で訴えてるの?

 そんな僕の疑問を余所に、今度は下倉先輩が「はーい」と、まったり顔で挙手する。

「じゃあさー、天使ちゃんって呼んでいーい?」

「ダメです!」

 僕は全力で拒否した。

 ダメだ。それだけは絶対にダメだ。

 そんな呼ばれ方をされるくらいなら退学になった方がマシだ。

「えー」

 とてもつまらなさそうな顔で項垂れる下倉先輩。項垂れすぎて、机の上に顎が乗っかってしまった。

 そこまで残念なの!?

「下倉にしてはなかなかの意見だったのにな。残念だぜ……」

 上森先輩までがっかりしていた。

 こんなことを本気で悩むなんて正気じゃない。これでは女子部の皆さんに見限られて当然だ。むしろ、よく一年間も我慢したな。

 声が途切れたところで、小乗先輩が言う。

「なかなか決まりそうもないな。では、本日の議題は光流君をどう呼ぶかにしよう」

 え、それが議題?

「ここからは正式な議論の場だ。各自、勝手な発言は慎むように」

「よっしゃ、望むところだ」

「わくわくするねー」

 上森・下倉両先輩は生き生きと同意する。復活が早いな。

 でも、いいの? 本当にそんなんが議題でいいの? 哲学関係なくない?



 記念すべき男子哲学部初の活動が妙な方向へと動き出した。

 でも、ここは小乗先輩を信じよう。先輩が認めた以上、呼び名を決めることだって哲学と無関係ではないはずだ。

「では、これより男子哲学部の第四回目の議論を始める」

「え、四回目?」

 僕は思わず口にした。

 すぐに話の腰を折ってしまったことを謝る。

「あ、すみません。二回目と三回目をやった記憶がなかったもので……」

 体験入部での議論が一回目とは聞いたが、その後は勧誘活動しかやっていない。昨日、僕が女子部にいた間は議論をしていないはずだ。仮にしていたとしても一回足りない。

 小乗先輩は嫌な顔ひとつせず疑問に答えてくれる。

「二回目は屋上で上森君を説得した時、三回目は下倉君の家で彼を説得した時だ」

「あ、勧誘活動のあれも議論に入るんですね」

「そうだ。議論という言葉を固く捕らえる必要はないよ。何か目的のある話し合いをすれば、それはもう議論なのだ。事実、彼らとの会話で得るものはあっただろう?」

「はい、そうですね」

 よかった、やっぱり小乗先輩は真面目な人だ。

「まずは一人ずつ意見を聞いていこうか。上森君、君は現在、光流君のことを〝光流ちゃん〟と呼んでいるが、それが一番の呼び名なのかな?」

 最初に指名された上森先輩は小さく否定した。

「いや、実は俺も安直かなと思ってたところだ。〝ひかる〟って名前は男女どちらにもある名前だが、若干男っぽいからな。できれば、もっと女の子っぽい呼び方をしたい」

「具体的には?」

「う~ん、〝ひーちゃん〟とか〝ひかちゃん〟とか、あだ名で呼ぶのがいいかなって思ったんだが、どうもしっくりこなくてな。自分で提案しといてなんだが、これってのが思い浮かばねえんだ。みんなの意見も聞かせてくれねえか?」

 小乗先輩が頷く。

「ふむ、では次に下倉君はどうかな?」

「その前にちょっと聞きたいんだけど、光流君は昨日女子部に行った時、なんて名乗ったのー? まさか本名は明かしてないよね?」

「は、はい。金山ひかりと名乗りました」

 正直に答えると、上森先輩が嬉々と声を上げる。

「おお、それいいじゃん! ひかりちゃんなら文句なしに女の子っぽいぜ!」

「いや、待ってください、それはまずいです!」

その呼び方には致命的な欠点があるため、僕は強く反対する。

「もし間違えて女子部の人たちの前でそう呼んでしまったら大変です。ほぼ確実に正体がバレます」

 しかし上森先輩は納得しない様子。

「そっかぁ? 普段の姿の時と女装の時で使い分ければいいと思うんだけど?」

「誰にでも間違いはありますから。とっさに違う方が出てきちゃうこともありますから。だから、お願いします」

 僕にとっては死活問題なので必死になって懇願すると、

「そこまで言うなら仕方ねえな」

 と、上森先輩は引き下がってくれた。

 一方、最初に意見を出した下倉先輩は「う~ん」と首を捻る。

「ひかりちゃんがダメなら、やっぱりあれしかないねー」

「天使ちゃんはダメですよ。天使ちゃんじゃなくても天使系はダメですよ」

 素早く釘を刺すと、下倉先輩は「あははー」と柔らかく笑った。

「分かってるよー。天使ちゃんが嫌がるようなことはしないって」

 今まさにしてるじゃないか。

「まあまあ、そんなに睨まないでよ。ちょっとした冗談だからさー。でも、個人的には、さっき上森君が言った〝ひかちゃん〟っていうあだ名なら悪くないと思うんだけどなー。どう?」

 まあそれなら常識の範囲だし、女子部に聞かれても大丈夫だとは思うけど・・・・・・。

 僕が答える前に、上森先輩がハッと閃いたかのように発言する。

「待て。確かにそれも悪くはないが、今さらに可愛い呼び名を思い付いたぜ!」

 嫌な予感しかしない。

 上森先輩は机に手を突き、今にも立ち上がらん勢いで身を乗り出す。

「いいか、よく聞け。ひかちゃんをさらに進化させた、その名も〝ひかにゃん〟だ!」

 猫が混じった!? しかもそれ、どっかのゆるキャラみたいなんだけど!

「フフフ、次のコスプレはネコネコな衣装に決まりだな。想像するだけで悶えそうだぜ」

 上森先輩のネットリとした視線に全身がぞわぞわする。本能が身の危険を感じている。

 これは万一に備えて護身術を身に付けておいた方が良さそうだな……。

 確か図書室に本があったはずだ。今日の帰りに借りていこう。

「次は私だな」

 小乗先輩は場の空気に呑まれることなく淡々と進める。

 この状況でよく落ち着いていられるな。思えば、初めて会った時から小乗先輩が焦ったところを一度も見たことがない。

「常識的に考えて、会って数日しか経っていない人を、いきなり突飛なアダ名で呼ぶのは失礼だろう。この場合、〝君〟がダメなら〝さん〟を付ければいい。〝ひかる〟という名前が若干男っぽくて不満なら〝鹿内さん〟だ。名字なら性別は関係あるまい」

 なんてまともな意見だ。しかも、ちゃんと上森先輩の要求にも応えている。

 でも、呼び方が名前から名字になってしまうのは、ちょっと寂しいかも……。

 そんな僕の気持ちを代弁するように、上森先輩が反論する。

「おいおい、日が浅くたって俺らはもう仲間だろ? そんな他人行儀な呼び方があるか。百歩譲って名字なら〝かなちゃん〟だ。それ以上は譲れねえな」

 嬉しいような嬉しくないような援護だ。

 下倉先輩も、微妙に不満そうな顔で言う。

「そだねー。本物の女子なら後輩でもそんな感じで呼ぶところだけど、それじゃあ当たり前すぎて議論の意味がないよねー」

 ようやく正論がきた。

 顔は相変わらずまったりしているけど、ふざけてばかりではないらしい。

「確かに一理あるな」

 小乗先輩は顎に手を当て、反論を真摯に受け止めた。

 すごい、ちゃんと議論になっている。

「では本人に聞いてみようか。光流君、君はみんなからなんと呼ばれたい?」

「え、僕は光流君でいいですけど」

「待ちなさい」

 小乗先輩は僕の言葉を制するように、こちらに手のひらを向ける。

「前提条件を崩してしまっては議論にならない。まずは他の希望を言ってほしい」

「……ええと、じゃあ〝ひかる〟で」

 答えると、急に部室内が静まり返る。

 そのせいで、ゴクリという生唾を飲む音がハッキリと聞こえた。

「なるほど、幼なじみみたく名前で呼んじゃうか。それも悪くねえな」

 上森先輩だった。

 今、何を想像した? 何を想像した?

 疑問が明かされることなく、小乗先輩は話を進める。

「さて、これで一回りしたわけだが、何か意見はあるかな?」

「あ、はい」

 僕は小さく挙手する。

「結論はどうやって出すんですか? 多数決ですか?」

「いや、多数決は取らない。数の多い方が正しいわけではないからな」

 その意見には賛成だ。僕も多数決は好きじゃない。

「では、どうやって決めるんですか?」 

「それも含めて話し合おう。結果、皆が納得できる答えが出ればよし。出なければ、それはそれでいい」

「え、結論を出さなくてもいいんですか?」

「そうだ、出さなくてもいい」

 ハッキリと言い切る小乗先輩。しかし、決して投げやりな態度ではない。

「……意外です。議論は結論を出すためのものだと思ってたのに」

「それは議題による。結論を出すための議論もあれば、そうでない議論もある。今日の議題はどちらでも構わないタイプと言えるだろう」

 まあ確かに、どっちでもいいと言えばどっちでもいい。

「哲学に限って言えば、そもそも哲学に結論など存在しない。哲学をするということは、考え続けること、議論をし続けることなのだ。それでこそ人は進歩し続けることができる」

「じゃあ、今の議論で僕たちは進歩したんでしょうか?」

 尋ねると、小乗先輩は力強く頷いた。

「もちろんだ。実際、話し合いをすることで意見そのものは発展した。議論することで今までにない意見が出てきた。議題はくだらなくとも、君はそれを実感できただろう?」

「あ……。はい、そう言われてみれば」

「ならば君は今、わずかながら進歩している。そして、君の進歩が男子哲学部の進歩につながり、部員である我々三人の進歩にもつながる。たとえ結論が出なくとも、議論したことは無駄にならないのだ」

 そっか、議論は手段ではなく目的だったのか。

 だから議題は何でもよかったのだ。



 それから三十分ほど議論を続けたが、やはり全員一致の呼び名は決まらなかった。

 では、僕はどう呼ばれるのか?

 話し合いの末に決まったことを小乗先輩が述べる。

「光流君の呼び名は各々が決めるものとする。ただし本人が嫌がる呼び名は禁止だ。また、本人が認めたものを他の者が反論することも認めない。それでよろしいかな?」

「いいぜ」「いいよー」「いいです」

 僕を含む全員が頷く。要するに妥協案だ。

「では、これより一人ずつ本人確認を取る。まずは私だ」

 小乗先輩の鋭い目が、こちらを向く。

「私は鹿内さんと呼ぶことにする。先ほど他人行儀という意見は出たが、女装した光流君を女子と想定するならば、その程度の距離感は不自然ではない。むしろ当然の態度と言える。どうだろう、鹿内さん?」

 名字で呼ばれ、ほんの少しだけ胸がズキッとする。

 でも、意見そのものは至極真っ当だ。反論する理由はない。

「はい。構いません」

「そうか」

小乗先輩の表情は変わらない。

「では次に、上森君」

「おう。いろいろ考えたけどよ、やっぱ〝ひかるちゃん〟にするわ。多少男っぽくたって関係ねえ。それがひかるちゃんの名前だからな。ただし『光流』って漢字は女の子っぽくないからな。これからは平仮名で〝ひかるちゃん〟って呼ぶぜ!」

 それって意味あるの!? 文面ならともかく、声じゃわかんないんですけど。

 続いて下倉先輩。

「同じく、平仮名で〝ひかるちゃん〟って呼ぶねー。多少男っぽいけど、一人称が僕だから、まあいいんじゃないかなってねー」

 だから平仮名する意味は!?

 ……まあ、この人たちが考えることをいちいち深く考えても仕方ないな。突飛なのに比べればマシか。

 間違っても変なアダ名を付けられては困るので、僕はこれを承諾した。

「ふむ、本人に異論がなければ決まりだな」

 小乗先輩が一息ついてから締める。

「それでは、本日の議論はこれにて終了する。次の部活動はゴールデンウィーク明けだ。各自健康管理を怠らないように」

 なんとか無事に終わった。精神的にとても疲れたので、ホッと一息だ。

 僕が着替えるので、先輩方三人はすぐに部室から出ていく。

「じゃあな、ひかるちゃん」

「じゃあねー」

 上森先輩と下倉先輩はそのまま下校。

「私はここで待っているから、ゆっくり着替えといい」

 小乗先輩は職員室に部室の鍵を返しに行くため、わざわざ残ってくれると言う。

「鍵なら僕が返しに行きますよ?」

「いや、これは部長の役目だ。後輩に押し付けるわけにはいかない」

「でも、そんなところに立ってたら怪しまれます。特に、女子哲学部の人に見られたら大変です」

そう指摘すると、小乗先輩はハッと気付いたように目を開いた。

「……言われてみればそうだな。では図書室に行っている。着替え終わったら来てくれ」

「はい」

 図書室はこの校舎の三階、部室のすぐ下だ。さして遠回りにはならないし、ちょうど借りたい本もある。

 小乗先輩が去った後、ただちに部室の鍵をかけ、着替えを始める。ゆっくりでいいと言われたが、不安なので一秒でも早く着替えたい。それにコンタクトレンズも外さなければならない。

 ほんの数日前、校門の近くで小乗先輩に声をかけられるまでは、こんなことになるとは夢にも思っていなかった。こんな格好をさせられて、変な先輩に変な目で見られて。

 みんなが僕の呼び名を考えてくれて……。

 初めてかもしれない。僕が話題の中心になるなんて。どこまで本気でどこまで冗談かは分からないけど、みんなに悪気がないことだけは確かだ。みんなが僕を空気ではなく仲間として扱ってくれる。だから、総合的にはちょっと嬉しかったりする。

 着替えを終えた僕は部室を出て、図書室に行く。

 昼休みに何度か来たことのある場所だが、この時間帯に来るのは初めてだ。

 テスト期間でも受験シーズンでもないためか、他に利用者はいなかった。学校が大きい割にそれほど広いとは言えない図書室を静寂が支配している。すぐ隣にある司書室には司書さんがいるだろうが、それを除けば、この静寂に佇む気配はたったひとつ。

 赤々とした夕日が差し込む窓際に、小乗先輩は立っていた。

窓と窓の合間にある柱に背を預け、どこか遠くを見るような目で虚空に視線を漂わせている。開いた本を手にしているが、意識は別のところにあるようだ。その表情は、遠目にも憂いを含んでいるように見えた。

 僕が来たことに気付いていないのか、小乗先輩は微動だにしない。まるで一枚の絵のように、そこに馴染んでいた。

 そんな姿を見て、ふと思う。

 あの人は、いったい何を考えているのだろうと。

 背が高くて、頭も良くて、リーダーシップもある先輩にも、やっぱり悩み事はあるのかな?

 小乗先輩がこちらに気付き、本を閉じた。

「来たか」

「あ……はい」

 僕は小さく返事をして、先輩のいる本棚のところまで行く。

「何を読んでたんですか?」

「宇宙のことについて書いてある本だよ」

 先輩が表紙を見せてくれる。漆黒の宇宙に渦巻く小さな銀河系が目に映った。

「へえー。先輩、宇宙に興味があるんですか?」

「興味と言うより、基準だな」

「基準?」

「そう。この宇宙の広さと比べれば、地球上で起こるおおよそすべての出来事は取るに足らない小さなものだ。仮に人類が滅んだとしても宇宙は何も変わらない。ましてや、私の悩みなど塵ほどの価値もない。そう思うことで少しは気が楽になる」

 なるほど、いかにも先輩らしい壮大な発想だ。

 本来なら図書室での私語は慎むべきだが、今は誰もいないので会話を続ける。

「先輩でも悩むことあるんですね」

「当然だよ。と言うより、悩みのない人間など、どこにもいまい」

「そうですね。でも先輩は、いつも堂々としてて、あまり悩み事がなさそうな人だと思ってたから、ちょっと意外です」

 そう言うと、小乗先輩は小さく自嘲するような笑みを浮かべた。

「逆だよ。私は悩んでばかりの人間だ。それこそ、毎日のように暇さえあれば悩んでいる」

「いったい何をそんなに悩んでるんですか? そんなに悩むことがあるんですか?」

「いくらでもある。中でも一番の悩みは……」

 先輩は不意に言葉を止め、手に持っていた宇宙の本を本棚に戻す。

 それからまた、先ほどのように憂いを含んだ目を、虚空へ向けた。

「私は、何のために生きているのだろうな?」

 聞いたことのある質問だった。

 忘れもしない、僕と先輩が初めて会った時の――

「先輩にも、分からないんですか?」

「自分なりに答えを出したつもりだったのだがな。ここ数日で、また分からなくなった」

 言いながら、ゆっくりと数歩進み、窓の外の赤く染まった空を見上げる。

「あるいは、生きている意味など考えるべきではないのかもしれない。現に、この世界に存在するほとんどの生き物は、生きる意味など考えずに生きている。人間ですらそうだ。今、目の前にある現実こそがすべて。宇宙がどうであれ、その事実には何の変わりもない。そう思うと、何も考えずに生きる方が正しいのではないかという結論に達してしまう。だが一度気付いてしまった以上、考えずにはいられない……」

「それが、悩みですか?」

「そうだ」

 だとすれば、その悩みは誰にも解決できない。考えることをやめるなんて、努力してできることではないのだから。

 でも、今この人に返すべき言葉ならすぐに思いついた。

「僕は、考えることが間違っているとは思いません」

「……その根拠は?」

 切れ長の鋭い目がこちらを向いた。

 この時、僕の心は不思議なくらい落ち着いていた。だって――

「根拠なら、さっき先輩が言いました。哲学には結論がないって。だから、分からなくても考え続ければいいと思います。それでこそ人は進歩するんじゃありませんでしたか?」

 小乗先輩は目を丸くして「ん……」と小さく声を漏らす。

 それから、恥ずかしそうに微笑んだ。

「そうだったな。ついさっき自分で言ったことを忘れてしまうとは、なんとも間抜けな話だ」

「誰だってそういうことありますよ。よくある話です」

「そのとおりだな。おかげで気分が晴れたよ。ありがとう」

 まだ表情から憂いは消えていなかったけど、僕が心配するほどではなさそうだ。

「お礼を言うようなことじゃありません。でも、よかったです。少しでも先輩の力になれて」

 再び、室内に静寂が戻る。

 窓の外では、部活を終えた生徒たちが次々と校門に向かって行く。

「帰ろうか」

「はい。……あ、その前に借りたい本があるので、ちょっとだけ待っててください」



 護身術の本を借りた後、先輩と二人で職員室に鍵を返しに行く。

 それから、玄関に向かうところで、僕はモヤモヤしていたことを話す。

「そういえば先輩、さっき議論した呼び名のことですけど、やっぱり〝鹿内さん〟って呼び方はちょっと寂しいです。できたら名字じゃなく名前で呼んでほしいです」

「そうか。では〝ひかるさん〟にした方がいいかな?」

 鹿内さんよりは近付いたが、光流君よりはまだ遠い気がする。

「〝ひかる〟でいいです……」

 小さく告げてから、横を歩く小乗先輩の顔を見上げる。

 彼は困ったような表情をしていた。

「いくら年下でも、いきなり呼び捨てというのは気が引けるな。すまないが、その案は承認できない」

「そうですよね……。ごめんなさい、無理言って」

「謝ることはない。男子哲学部はまだ始まったばかりなのだ。これから皆でじっくり考えていこう。今のことも、将来のことも」

「そうですね」

 本当に、この人は高校生とは思えない大人っぷりだな。

「では、女装している時はひかるさんと呼ぶ。普段は光流君と呼ぶ。それでいいかな?」

「はい。でも――」

 僕は足を止め、小乗先輩に耳を貸すよう背伸びする。

「ん、なにかね?」

 そして、キョトンとする彼に小声で言う。

「廊下で女装とか言わないでください。誰かに聞かれたらどうするんですか?」

「ああ、そうか……。以後、気を付けよう」

 こんなに大人っぽいのに、けっこう抜けてるんだよなぁ、この人は。

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