第4話 恋愛とは何か?

 こ、これが……僕?

 スタンドミラーに映った自分の姿を見て、思わず目を疑った。

 そこにいるのは、いつもの地味な男子高校生ではなく、美少女と言って差し支えない女子高校生だった。

「うん、どっからどう見ても女の子にしか見えないわね。さすが和君が見込んだ逸材。惚れ惚れするくらい可愛いわ!」

 僕のすぐ横で嬉々と声を上げたのは、上森和先輩の知り合いであるコスプレ部(なんてマニアックな部だ)の二年生。身長一五八センチの僕より七、八センチほど背が高く、横幅も広い、いわゆるぽっちゃり系の女子だ。

 上森先輩との約束であるコスプレをするに当たって、女子の制服とロングヘアのウィッグだけでは不完全ということで、男子哲学部の部室にやってきた助っ人だ。

 彼女が用意してくれたのはカラーコンタクト。

 女子の制服とウィッグをつけたところで顔は自分のままだから、女装した自分の姿なんて気持ち悪いんだろうなと思っていたが、意外にそうでもなかった。

カラーコンタクトをつけると目が少し大きくなったように見える。たったそれだけのことなのに、全体の印象がずいぶん違う。別人とまではいかないが、自分に歳の近い妹か姉がいたらこんな感じだろうかと思った。

「ね、だからカラコンは必須だって言ったでしょ?」

「は、はい、そうですね……」

 自信ありげな助っ人さんの言葉に、僕は小さく返す。

 緊張して上手く声が出せなかった。

 現在、部室にはこの助っ人さんと僕が二人きりだ。小乗先輩は部長会議に出席中。上森先輩と下倉先輩には、しばらく席を外してもらっている。女装姿はもう仕方ないにしても、女装する過程は絶対に見られたくなかった。

 助っ人さんは、うっとりとした表情で言う。

「う~ん、いい仕事させてもらったわぁ。でも、さすがに毎日ここに来るのは無理だから、なるべく自分でつけられるように努力してね!」

「善処します……」

 女装する努力なんて一ミリもしたくないが、協力してくれた彼女に対して嫌な顔をするわけにはいかない。

 僕は言葉を濁しつつ、控えめにお辞儀をした。

「あ、ありがとうございました。それと、このことは……」

「分かってるって。男子哲学部のメンバー以外には秘密なんでしょ?」

 すでに上森先輩から聞いているようだ。

 助っ人さんは残念そうに言う。

「もったいないなぁ、こんなに可愛いのに部室の中だけなんて。ねえ、今度イベントに参加してみない?」

「む、無理です! そんな恥ずかしいことできません!」

 ぶんぶんと首を横に振ると、助っ人さんはそれ以上しつこく言うことはなく、

「そっかぁ、残念。気が変わったらいつでも連絡してね」

 と残して部室から出ていった。

「はぁ……」

 ため息をついた後、改めて鏡に映る自分を見る。

 ……ヤバイ。ほんとに可愛いかも。

 僕は慌てて目を逸らした。そして、自らに言い聞かせる。

 目覚めちゃダメだ、目覚めちゃダメだ、目覚めちゃダメだ。

 これは嫌々やらされているだけだ。コスプレ趣味を悪く言うつもりはないが、自分の姿に見とれるようなことだけはあってはならない。

 もう鏡は見ない。

 余計なことは考えず、本でも読んで先輩たちが戻ってくるのを待とう。

 小乗先輩は部長会議に出席するから当分来られない。上森先輩と下倉先輩は外のコンビニに行くと言っていたから、まだ時間があるはず。

 そう思って本棚に向かったところで、部室の扉が開いた。

 え、もう戻ってきた――って、あれ?

 扉を開けたのは男子哲学部の先輩ではなく、知らない女子だった。

 エ……ナンデ? ナンデ、シラナイヒト?

 予想外の出来事に思考が凍りつきそうになる。

 部室で女装しているところなんかバレたら、どうなる? 

 停学? 廃部? 

 いや、それより、外部にこのことが知れ渡ったら、親に知られたら、僕はもう生きていけない。

「あれ?」

 女子生徒は意外そうな声を上げた。

 それから、一歩下がって扉の上の方を見る。

「ここって男子哲学部……だよね?」

 そう、その表札には『哲学部』と書かれているが、ここは間違いなく男子哲学部の部室だ。

 そこにいきなり女子が入ってくるなんてあり得ないはずなのに、ナンデ?

「もしかしてあなた、新入部員?」

「あ、はい……」

 答えると、女子生徒はスタスタと遠慮なく部室に入ってくる。

 それから右手の方を指した。

「ここは男子哲学部の部室だよ。女子哲学部はあっち」

「え?」

 僕がポカンと口を開けると、女子生徒は丁寧に説明してくれる。

「あのね、この学校には哲学部が二つあって、女子部と男子部に分かれてるの。表には哲学部としか書いてないから分からなかったかな?」 

 ……もしかしてバレてない?

 この子、僕のこと女子だと思ってる?

「う、うん……」

 黙っていては不自然なので、とりあえず返事はしておく。

 すると、女子生徒は優しく微笑みながら手を差し伸べてきた。

「じゃあ一緒に行こ。案内してあげる」

 ちょっと待った。まさか、この格好のまま部室の外に出る?

 しかも、女子哲学部のところへ行く?

 それはさすがにまずい。まずすぎる。

 でも、この状況で付いていかないのは不自然だ。

 焦って問われるがまま返事をしてしまったことを後悔するが、時すでに遅し。

 行くしか……ないのか。



 どうする? どうする? どうする?

 僕は考えを振り絞りながら女子生徒に付いていく。 

 逃げ場なんてどこにもない。下手に逃げ出せば目撃者が増えるだけだ。

 幸いにも、今のところ廊下には誰もいない。現時点での目撃者はこの子だけだ。この子さえ消してしまえば……。

 って何考えてるんだ、こんな時に! 妄想癖を発動させてる場合じゃない!

 前を歩く女子生徒はこちらの危機的状況など露知らず、リスの尻尾のようなミニサイズのポニーテールを揺らしている。身長は僕より一〇センチくらい低く、おそらく一五○センチに満たない。目付きがちょっとキツかった気もするが、なんだか小動物っぽい可愛いらしさのある子だ。

 こんな子とお近づきになれたら人生楽しくなるだろうなぁ。と、またも現実逃避してしまうが、他事を考えたおかげで少し冷静になれた。

 そういえば、女子哲学部の部員と会うのは初めてだ。緑色の校章を付けているから、僕と同じ一年生。つまり、この子が小乗先輩の言っていた――

 名前を思い出そうとしたところで、女子生徒がこちらに顔を向け、横に並んできた。

「あ、自己紹介がまだだったね。わたしは一年A組の水澄智莉(みすみさとり)。女子哲学部の新入部員だよ」

 やっぱり。例の大企業のお嬢様とかいう子だ。

「あなたは?」

「ぼ……いや、わたしは……」 

 本名を言うのはまずい。後で絶対にバレる。

ここは何でもいいから偽名を言わなければ。

「か、か……」

 つい鹿内の〝か〟が出てしまう。

ダメだ、思い付かない。何でもいい、何でも――

「か、金山(かなやま)、ひ、ひかり……です」

 これ本名と微妙に似てるじゃないか! なんでもっと違うのにしなかった!

 でも水澄さんは、こんな挙動不審な僕を怪しむことなく、優しく返してくれる。

「金山さんね、よろしく。同じ一年生なんだから、そんなに固くならなくてもいいよ」

 うわ、この子普通にいい子だ。お嬢様なのに高飛車な感じが全くない。

 そうこうしているうちに、女子哲学部の部室前まで来てしまった。同じ階にあるのだから、そう時間がかからなくて当然だ。

 水澄さんが部室の扉を開ける。

「失礼しまーす」

 逃げる機会も場所も見つけられなかった僕には、一緒に入るしか選択肢がない。

 こうなったらもう体験入部ということで一回だけ参加しよう。それで、残念だけど入部はやめておくことにするしかない。

 腹を括った僕は、水澄さんに続いて部室に足を踏み入れる。

「し、失礼します」

 部屋は男子哲学部と似たような感じだ。中央に長机が二つ、向かい合わせで設置してある。

 その左手側の席に、二人の女子生徒が隣り合って座っていた。

 二人とも青色の校章を付けた二年生。

 ショートヘアの活発そうな女子と、二つ結びのおしとやかそうな女子だ。

「おお? もしかして新入部員かな?」

 ショートヘアの先輩が期待の籠った眼差しを向けてくる。

 残念ながら、その期待に応えるわけにはいかない。

「い、いえ、今日は体験入部をさせていただきたくて……」

「そっかぁ、まだ決まってないんだ。でも来てくれて嬉しいな。あ、そこ座って」

 ショートヘアの先輩に促され、僕は水澄さんの隣の席に座る。部室には席が四つしかないから今はここにいない部員さんの席だろう。

 なんにしても、まずは自己紹介だ。

「い、一年の金山ひかりです。今日は、よろしくお願いします」

 僕は座ったまま軽くお辞儀をした。

「あたしは二年の熊楠歩巳(くまぐすあゆみ)。四人しかいない部だけど、一応あたしが副部長ね」

 胸に手を当てて、得意気に言うショートヘアの先輩。

 なるほど。この人が、上森先輩が本命だと言っていた熊楠先輩か。明るくて頼りになりそうな先輩だ。どちらかと言うとスポーツの方が得意そうな雰囲気がある。

 次に、熊楠先輩の隣に座る二つ結びの先輩が、膝に手を置いて深くお辞儀をする。

「わたしは二年生の新井惺香(あらいせいか)。よろしくね」

 おしとやかで丁寧なあいさつだ。

 この人が、上森先輩が「俺の嫁」と言っていた新井先輩か。和風美人というのか、茶道とか習ってそうな雰囲気だ。きっと和服が似合うんだろうなぁ。

 どうでもいいけど、本命と嫁はどっちが上なんだろう?

 新井先輩が人差し指を立てて付け足す。

「あともう一人、部長の本居先輩がいるんだけど、今は部長会議に行ってるの。たぶん、三〇分くらいで戻ってくると思うから、それまでゆっくりしていってね」

「は、はい、ありがとうございます……」

 とてもゆっくりとしていられる状況ではないが、そう返すしかない。

 自己紹介が済んだ後、熊楠先輩が水澄さんに聞く。

「ねえ、一緒に来たってことは、さとりんと金山ちゃんは知り合いなの?」

 さとりんってアダ名か。早くもアダ名で呼ばれる仲なんだな。

「いえ、金山さんとはさっき知り合ったばかりです。間違えて男子哲学部の部室で待ってたから連れてきました」

「あはは、間違えちゃったか。でも、あそこの部屋、表札が哲学部のままだから仕方ないよね」

 すみません、男子哲学部が正式に発足したのは今日のことですから。なるべく早く張り替えておきます。

「でも、さとりん男子部に何しに行ったの?」

 それは僕も気になっていた。ぜひとも教えてほしい。

「あ、それは、向こうの部長にちょっと用事があって……」

「あー、部長会議あること知らずに行っちゃったんだ?」

「はい……。でも、おかげで、金山さんと会えてよかったです」

「二人とも間違えてってところが運命的だね!」

 声を弾ませる熊楠先輩。

 いや、僕は間違えてないんですけどね。人生の選択肢は間違えたかもしれないけど。

 それでこの話は終わる。

 どんな用事で小乗先輩に会いに行ったかは聞かないらしい。小乗先輩は水澄さんのことを血縁者と言っていたが、それ以上のことは話したがらなかった。身内の事情はあまり詮索しない方がいいということか。

 少しばかりの沈黙の後、新井先輩が話題を変える。

「ところで、本居先輩が戻ってくるまでどうする?」

「先に議論始めちゃってもなぁ。時間的に中途半端だし、待ってればいいんじゃない? お菓子でも食べてようよ」

 熊楠先輩はガサガサと鞄の中からお菓子を取り出す。

 水澄さんと新井先輩も鞄をガサガサし始めた。

 長机の上に、スナックやお煎餅やチョコレートが並ぶ。

 なんで女子っていつもお菓子持ち歩いてるの?

 僕は何も持っていないので潔く謝った。

「ごめんなさい。ぼ……わたし、何も持ってなくて」

「いいよいいよ、遠慮なくみんなで食べよう」

 熊楠先輩が、にこやかに言ってくれる。

 こうして、プチ女子会みたいなのが始まった。

 なんだかもう、どんどん予想外の方向へ進んで行くな。僕の高校生活。



「あたしさ、チョコレートの後にお煎餅食べるのハマってんだよね。この甘々の後の――」

 言いながら、小粒のチョコを口に放り込む熊楠先輩。

 数回噛んだ後、すかさずお煎餅を齧る

「んんーー! この塩味がたまんないの。金山ちゃんも試してみてよ」

 弾けるような笑顔で勧められたので、僕もそうしてみる。

「ん、いいですね」

 確かにこれはハマりそうだ。お煎餅の後にまたチョコを食べたくなる。

 そうすると、またお煎餅がほしくなり、無限ループへ。

「ね、ハマるでしょ?」

 熊楠先輩、あなた天才ですか(そう思うのは僕が男だからであって、女子の間ではこのくらい普通かもしれないが)。

 しかし、お菓子ばかり続いては喉が乾く。

 そう思ったタイミングで、新井先輩が水筒から紙コップにお茶を注いでくれる。

「熱くはないけど、よかったらどうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 微かに湯気が立つ温かさのお茶は、暑くも寒くもないこの時期にはピッタリだった。

 チョコとお煎餅で乾燥した口の中が優しく潤っていく。

 新井先輩、お気遣い痛み入ります。

 糖分と塩分と水分のコラボのおかげで緊張が和らいでくる。

 女子哲学部、いいかもしれない。

「あの、よかったらこれ食べてもらえませんか?」

 水澄さんが机の上に個包装された煎餅を数枚出した。

 表に『ボルシチ煎餅(試供品)』と書いてある。

「うちの新商品です。ぜひ感想を聞かせてください」

 そういえば水澄さんの家はお菓子会社を経営しているんだったな。こういうのもタダでもらえるんだ。

 さっそく手に取り、口にしてみる。

 う~ん、要はカレー煎餅のボルシチ版だ。甘くてコクがあって、おいしいことはおいしいけど――

「この見た目だと、どうしてもカレせんと比べられちゃうよね。それでいてカレせんと比べてパンチが足りない。率直に言うと厳しいんじゃないかなぁ、ってあたしは思う」

 僕も思ったことを、厳しい表情をした熊楠先輩が言った。忌憚のない意見だ。

「わたしは刺激強いのが苦手だから、こういうの好きだよ。落ち着いた味がしていいと思うな」

 新井先輩には好評なようだ。お煎餅を包装袋の中で小さく割って、上品に口に運ぶ。

 どちらかというと、彼女の方がお金持ちのお嬢様に見える。

「金山さんはどう?」

 水澄さんのまっすぐな視線がこちらを向く。

 率直に言うべきか一瞬迷ったが、水澄さんとはまだ会って間もないのだ。あまりズケズケとものを言うわけにはいかないので、あからさまなお世辞にはならないよう無難に返す。

「う、うん。わたしもおいしいと思うよ」

「そっかぁ、ありがとね。またもらえたらもらってくるね」

 水澄さんは屈託のない笑顔で返してくれた。

 チクチクと胸が痛む。またの機会なんてものはない。この姿で水澄さんたちに会うのは今日限りなのだから(そうでなければ困る)。

 こうしてしばらく、お菓子を食べながらの女子トークが続く。

 授業のこと、小テストのこと、嫌いな先生のこと。普通の女子たちによる普通のおしゃべりだ。なんとも微笑ましい。男子哲学部の面々がいかに奇抜であるかが分かる。

 あまり話すのが得意でない僕は、皆の話に相槌を打つだけの聞き役に徹する。いろいろ質問されると困るしね。なんとかこの場は無難にやり過ごさないと。

 だが、そう都合良くいくはずもなく、不意に熊楠先輩がこんなことを言い出す。

「そういえばさぁ、男子部に入った一年生のこと知ってる?」

 僕のことだ。サッと血の気が引く。

「小乗君と一緒に勧誘活動してるところなら見たよ。小柄でおとなしそうな子だった」

 新井先輩の返しに、熊楠先輩は「そうそう!」と大目を開けて同意する。

「あたしもチラッと見たんだけどさ、けっこう可愛い感じの子だったんだよね。上森が変な気起こさないかなって、ちょっと心配なくらい」

 いや、もう起きてるんですけどね。しかも、こんな格好までさせられてます。

「さとりん知ってる?」

「わたしは見たことないですね」

 水澄さんはスティック菓子をポリポリしながら小さく首を傾げた。

「金山ちゃんは?」

「わたしもないです」

 そう言うしかない。

「そっかぁ。どんな子だろうなぁ……」

 熊楠先輩は、ぼんやりとした目でつぶやく。直後、アーモンドチョコをポイと口に放り込んで、すぐさま頬を緩める。よく表情が変わる人だ。

「でも、あの小乗たちと仲良くなるくらいだから、見た目に反して中身は変わってたりするのかなぁ。ちょっと気になるんだよねー」

 変わってません、至って正常です。あの人たちと一緒にしないでほしいです。

 そう主張したいところではあるが、当然できない。

 新井先輩が穏やかな笑みを浮かべて言う。

「わたしは意志の強い子だと思うなぁ。だって人数が足りてないのに、それでも男子哲学部に入ったわけでしょ? きっと言うべきことはハッキリ言える、しっかりした子だよ」

 ごめんなさい、実はそんなにしっかりした子じゃないです。けっこう流されっぱなしです。

 でも、そう言ってくれて嬉しいです。新井先輩優しい。

 なんにせよ、この会話の流れを放置するのはまずい。「あれ? よく見ると、あの男子と金山さん似てない?」なんて思われたら終わりだ。

 僕は知恵と勇気を振り絞り、話題を逸らしにいく。

「あ、あ、あの、どうして、哲学部は男子と女子に分かれてるんですか?」

 男子の話をしているのだから、そこまで強引な話題転換ではないはずだ。それに哲学部の分裂について女子側がどう思っているのかも気になる。

「まあ、理由は各自いろいろあるんだけどね。あたしは上森がウザいから」

 熊楠先輩は目を細め、吐き捨てるように言った。

 上森先輩、何したんですか……?

「わたしも上森君は苦手だな。まだ高校生なのに結婚の話をされてもね……」

 新井先輩を困らせるとは、上森先輩ほんと最低だな。僕がこの状況に陥ったのも元はと言えばあの人のせいだし、だんだん腹が立ってきたぞ。

 そんな僕と違い、新井先輩は穏やかに続ける。

「でもね、わたしも歩巳ちゃんも、一番の理由は本居先輩に付いていきたかったからだよ。女子部の設立は本居先輩の提案でね、わたしたちもそれに賛同したの」

 名前だけは何度も聞いたことのある本居先輩。女子哲学部の部長で後輩からの信頼も厚い。いったいどんな人だろう。

 それを聞こうと口を開きかけた時、静かに部室の扉が開いた。

 噂をすればなんとやらだ。

 現れたのは、いかにも仕事ができるといった感じのキリリとした顔立ち女性だった。

 とっさに美人秘書官という言葉が思い浮かぶ。リクルートスーツがよく似合いそうだ。

 それから、女子としてはとても背が高い。一七〇センチ以上はある。腰まで届くくらいのロングヘアを後ろで束ねており、同じ和風美人でも新井先輩が大和撫子なら、こっちは剣道小町といった感じだ。三年生の証しである赤色の校章を付けているため、すぐに確信した。この人が本居先輩だ。

 その本居先輩と目が合う。

 瞬間、彼女は驚くようにハッと目を開いた。

「あ、あなた……!」

「え?」

 僕も目を開く。

 なに? まさか正体がバレた? こんな一瞬で?

 さっき食べたお菓子が逆流してきそうになるのを抑える。

 死ぬ? 社会的に死ぬ?

 走馬灯のように一瞬で最悪のシナリオが頭を駆け巡る。

 声が出せない。言い訳が思い浮かばない。

「先輩、どうしたの?」

 熊楠先輩が無邪気な声で沈黙を破る。

 本居先輩はひと呼吸置いた後、肩の力を抜き、静かに言った。

「ごめんなさい、人違いだったわ。知っている人と似ていたものだから、少し驚いただけ」

 なんて心臓に悪い勘違いだ。

「それで、あなたは体験入部の希望者でいいの?」

「あ、はい、そうです」

 返事の直後、自分が本居先輩の席に座っていたことを思い出し、すぐに立ち上がる。

「す、すみません、席を……」

「いいわ、そのまま座ってて。あなた、お名前は?」

「い、一年の金山ひかりです」

 僕は軽くお辞儀をする。

「わたしは三年生で女子哲学部の部長、本居凜音(もとおりりんね)よ。よろしくね」

 本居先輩は予備のパイプ椅子を広げ、上座の位置に座る。僕も席に座った。

「先輩、部長会議はどうでした?」

 新井先輩が、紙コップに注いだお茶を差し出しつつ聞いた。

「ありがとう。今年度から新しく五つの部が成立したこと以外、特に変わったことはなかったわね」

「今年は五つかぁ。少ないなー」

 熊楠先輩はお煎餅をカリカリしながら言うけど、それって少ないのか? 多い気がするんだけど。

「去年はいくつできたんですか?」

 僕も気になっていたことを、水澄さんが聞いた。

 本居先輩はお茶を一口含んでから答える。

「確か九つだったわ。消えた部活はそれ以上だったけどね」

 さすが全校生徒一二〇〇人以上の学校だ。人の流動が激しい。

「できれば、この女子哲学部も今年限りで終わらないようがんばってほしいものね」

「大丈夫だよ。だってもう四人揃ってるし、少なくとも来年は安泰だね」

 ちょっと、熊楠先輩。勝手に僕を組み込まないでください。

「歩巳さん。金山さんはまだ体験入部なのだから、勝手に決め付けてはダメよ」

「えー、でも、もうあたしら一緒にお菓子食べて仲良くなってるしぃ」

「ここはお茶会をする部ではないのよ? 正式に入部するかどうかは、哲学の議論をした上で決めてもらうわ。そうでしょ、金山さん?」

「は、はい。そうですね」

 あまりの威厳に、少しだけ身がすくんでしまった。三年生で部長だからというレベルじゃないぞ。新任教師あたりでは、まず太刀打ちできないだろうな。

 熊楠先輩も渋々ながら納得する態度を見せた。

「それじゃあ、今日は時間も少ないことだし、さっそく議論を始めましょう」

 本居先輩の一声で皆が一斉に机の上を片付ける。ゴミはゴミ箱に捨て、残ったお菓子は鞄にしまう。

 ハラハラはしたが、けっこう楽しかったプチ女子会は終わり。

 ここからは哲学の時間だ。



 哲学部が男子部と女子部に分裂した主な理由はケンカ別れでなく本居先輩の提案だという。哲学に男子も女子もあるのか疑問に思っていたが、わざわざ独立して新しい部を作ったくらいだ。きっと深い意味があるのだろう。ここに連れてこられたのは災難だったが、この際だ。女子部の考え方を学ばせてもらおう。

 部長である本居先輩が説明を始める。

「では、初参加の子もいることだし、まずは女子哲学部の活動目的についてお話しましょう。結論から言うと、わたしたちは今までにない新しい哲学を作る必要があるわ。なぜなら、今ある哲学のほとんどは男性が作ったものだからよ」

 え、そうなの?

「みんなも知ってのとおり、男性の哲学者には有名な人物がいっぱいいるわ。西洋なら、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ニーチェ。東洋では、釈迦、孔子、孟子、老子、荘子。日本なら親鸞や栄西みたいな仏教僧が哲学者と言えるわね」

 僕でも知っている名ばかりだ。

 歴史の授業で習った偉大な人物である。

「では『女性の哲学者は?』と言われても、誰もピンと来ないでしょう。実際、教科書に載るほどの人物は一人もいないわ。哲学は人間のための学問だというのに、これはおかしいわよね?」

 確かに、言われてみればおかしい。

 男性の方が多いというなら分かる。そもそも歴史上の重要人物は男性の方が圧倒的に多い。理由は女性の社会的地位が低かったからだろうけど、それにしても全く名前が思い浮かばないのは異常だ。

「所詮、男性が作った哲学は男性の哲学でしかないわ。だから、人間の哲学を作るためには、もっと女性の意見を交える必要があると思うの。そのためにみんなでいろいろ考えて意見を出し合いましょう――というのが、この部の活動内容よ。ここまではいい?」

 本居先輩がこちらに視線を向けてきた。

 僕のための説明だったのだ。

「は、はい。大丈夫です」

 要するに、男性中心社会からの脱却が目的ということか。

「では、具体的な議論に入りましょうか。本日の議題は――」

 本居先輩は席から立ち、ホワイトボードにそれを書く。

「これよ」


『恋愛とは何か?』


 意外だな。

 本居先輩の堅実そうな雰囲気からして、もっとお堅い話になると思ったのに。

 女の子らしいと言えば女の子らしいが、哲学と恋愛って関係あるのかな?

 本居先輩は席に戻り、淡々と続ける。

「恋愛とは何か? 極論を言えば、子孫を残すために遺伝子に刻まれたプログラムに過ぎないわ。でも、そうと分かっていても、割り切れない感情というものがわたしたちにはある。それは人間性を語る上で避けては通れないもののはずよ」

 確かに。恋愛もなしに、いきなり子孫がどうとか言われても困る。

 むしろ恋愛の方が大事だ。

「まずは金山さんから聞いてみましょうか。恋愛って何だと思う?」

 いきなり僕か。

 質問が漠然としていて答えづらいから、他の人の意見を参考にしたかったのだが……。

「深く考えなくていいわ。直感で答えてみて」

「ええと……。恋愛は、素敵なことだと思います」

 こんな言葉しか出てこない。

 実際には、フラれたり傷付いたりすることも多いから素敵なこととは言い難い。

 でも、とっさに浮かんだのはプラスのイメージだった。

 本居先輩は微かに頬を緩める。

「そうね。わたしも恋愛は素敵なことだと思う。でも、せっかくの議論の場だから、今日はもう一歩進んで考えてみましょう。金山さんは恋愛のどこが素敵だと思う?」

「なんて言うか……好きな人のことを考えると、楽しいだけじゃなく、幸せな気持ちになれるところが素敵だと思います。わ、わたしはまだ経験がないから想像でしかないけど、恋人ができたら、たぶんその瞬間が人生で一番幸せだと思うんです」

「よかったら、どうしてそう思うのか根拠を聞かせてくれる?」

 根拠か……。

 やはり哲学部、そういう部分は同じなんだな。「直感で答えて」と言ったのに根拠を尋ねるのはちょっと意地悪に思えるが、そのおかげで話は進んでいる。漠然としていたものが少しずつ形になってきている。 

 これが議論。

 この流れを止めてはいけない。なんとか後付けでもいいから根拠を考え出さないと。

 そういえば前にも同じようなことがあった。小乗先輩と議論をした時だ。

 確かあの時、僕が根拠にしたのは――

「根拠は、心臓です」

「心臓?」

「はい。だって、同じ楽しいでも、友達が一緒の時と好きな人が一緒の時じゃ心臓の動きが違うでしょう? 好きな人が一緒の時は、みんなドキドキするはずです。だから、それが根拠です」

「なるほどね……」

 本居先輩は少しの間を置いた後、柔らかく微笑んでくれた。

「確かに、そのとおりね」

「あ、ありがとうございます」

「ふふ、お礼を言うのはこっちよ。あなたのおかげで、また新しい考え方を知ったわ。ありがとうね」

「そ、そんな……」

 まさか先輩からお礼を言われるとは思っていなかった。これは素直に嬉しい。

「謙虚なのもあなたのいいところよ。その心、大人になっても忘れないでね」

「は、はい」

 話に区切りがついたことで、ひとまずホッとする。

 なんとか上手くやり過ごすことができた。これで僕のターンはしばらく回ってこないはずだ。

「じゃあ、次は同じ一年生の智莉さんね。智莉さんは恋愛って何だと思う?」

 僕の隣に座る水澄さんに全員が注目する。

 水澄さんは家がお金持ちな上、親切で可愛らしい女の子だ。きっと男子にも相当モテるに違いない。

 でも、お金持ち故に財産目当てで言い寄ってくる男がいるかもしれない。あるいは、お金持ち同士の政略結婚的なものに巻き込まれている可能性もある。

 さっき話をした分には普通の女の子と変わらない感じだったけど、家庭環境が特殊なだけにどんな感情を内に秘めているか想像できない。少なくとも初参加の僕よりは的確な意見が出てくると思うのだけど……。

 水澄さんは少し緊張した面持ちで、小さな口を開く。

「恋愛は、純水のようなものだと思います。あ、不純物のない水のことです」

 純粋ではなく純水のことか。なんだか意味深な感じだ。

「どうしてそう思うのか聞かせてくれる?」

 本居先輩に促され、水澄さんは続ける。

「恋愛というのは感情のことだから、地位や財産なんかの背景は本来関係ないはずです。金の切れ目が縁の切れ目になってしまうような関係は契約であって恋愛ではありません。恋愛は計算ではないんです。純水のように混じり気のない、ただ〝好き〟という気持ちこそが恋愛だと思います」

 同じ一年生とは思えないくらい立派な意見だ。

 ただ、ちょっとメルヘンチックな感じはする。実際問題、お相手のステータスを全く気にしないなんてことは無理だろう。地位も財産もある水澄家に生まれたからこそ、そういう考えに至ったのかもしれない。

 次に、二年生の熊楠歩巳先輩が意見を述べる。

活発そうな彼女のことだ。「恋愛は戦いだ!」「生存競争だ!」みたいなことを言うと思ったのだけれど――

「あたしは、恋愛はお菓子みたいなものだと思う」

 意外にも可愛らしい意見が出てきた。 

「お菓子って食べてるその時は幸せだけど、後で気が重たくなること多いよね。ついつい食べ過ぎちゃってさ。恋愛も同じで、恋愛してる時はいいんだけど、それが結婚とか出産とかいう話になってくるといろいろと面倒じゃない? でも、それが分かってても『じゃあ、やめます』ってわけにはいかない。そういうところもお菓子とそっくりだよね」

 てへへ、と照れ笑いを付け加える熊楠先輩。

 さっきのプチ女子会でも、けっこう食べてたからなぁ。

 でも、話の筋は通っている気がする。さすが二年生といったところか。

 次に、同じく二年生の新井惺香先輩。

 おしとやかで気遣いのできる彼女は、どんな意見をするのだろう。

「恋愛は、物語のようなものだと思います」

 その澄んだ声色によく似合う、知的な発言だ。

「先ほど本居先輩がおっしゃったように、人間はただ本能的に子孫を残すだけでなく、そこに物語があるからこそ、簡単に割り切れないのではないでしょうか。物語の主人公は、もちろん自分自身です。そして、主人公が活躍しない物語などあってはなりません。恋愛は人生を彩るのに必要不可欠な物語です」

 そっか、僕は僕の物語の主人公なんだな。そういう考えもあるんだ。

 恋愛に限らず、人生そのものが長い物語とも言えるな。

 そして、最後は三年生で部長の本居凜音先輩が意見を述べる。

「恋愛とは幻想よ。好きという感情も、胸の鼓動も、恋人との思い出も、幸せな結婚生活も、すべては一時の幻想に過ぎないわ。みんないずれは消えてしまうの」

 なんという身も蓋もないことを。

 本居先輩は恋愛にトラウマでもあるのか?

「でもね、わたしは思うの。そんなふうにいつかは消えてしまう儚いものだからこそ、人は恋に夢中になるんだって。例えるなら春に一瞬だけ花を咲かせる桜を愛でるようにね。もし桜が年中花を咲かせていたら、誰も幻想的な光景とは思わないでしょう? 恋愛も同じよ。永遠に続くものではないからこそ、人は永遠の愛を誓うの」

 一同から感動の声が上がる。

 美しくも物悲しい、なんとも詩的な発言だ。感覚的というのか感情的というのか、小乗先輩や下倉先輩のような理論整然とした哲学とは何かが違う。

 これが女子の哲学なのだろうか?



 恋愛についての意見が一回りすると、今度は好みのタイプについての話が始まった。

 それから、それぞれの気になる男子あるいは男性の話へと発展する。

 要するに恋話である。

 上森先輩から「真面目系女子」と言われるだけあって、女子哲学部の皆さんの好みは、タレントのように華のある男性よりも誠実なタイプといった感じだった。

 本居先輩が惹かれるのは、あらゆるものを柔軟に受け入れてくれる、懐の深い男性らしい。「身長が一七〇センチもある女子はダメ」とかいう男は話にもならないとか。もちろん、そう言うからには、相手の身長が自分より低くても構わないとのことだ。

 新井先輩が好きなタイプは「守ってあげたくなる男子」らしい。昔から人の世話をするのが好きなので、何でもこなす男性ではかえって困るのだとか。僕もお世話されたいなぁ。そう思う反面、ヒモ男みたいなのに利用されてしまわないか心配だ。

 水澄さんは温厚で優しいタイプが好みのようで、逆に荒っぽい人は絶対お断りらしい。

 熊楠先輩は一緒にいて楽しい人であれば見た目や性格にはあまりこだわらないと言う。

 いわゆる「好きになった人が好みのタイプ」というものだ。奔放な彼女らしい。

 そして僕はというと、

「わ、わたしも熊楠先輩と同じです」

 で乗り切った。

 実際そんな感じだし、嘘は言っていない。

 そうして僕は、なるべく印象に残らない発言を繰り返し、質問には無難かつ最低限の答えだけを述べた。

 きっとノリの悪いつまらない奴だと思われているだろう。今はそれでいい。

 とにかく、議論は無事終わった。あとは「ごめんなさい」と言って入部を断り、ここから立ち去るだけだ。そして二度と姿を現さない。それだけのこと。

 本居先輩が尋ねてくる。

「金山さん。体験入部してみてどうだった?」

「はい。とても勉強になりました」

 それは本心だ。でも、入部は断らなければならない。

 男の僕が女子哲学部に入部するなんてあり得ない。選択肢などない。

「ぁ……ぅ・・・・・・」

 それなのに、次の言葉が出てこない。皆が親切だったおかげで断りづらかった。

 罪悪感が胸を締め付けてくる。声が出せそうで出せない。

 言うべきことを言えず固まっているうちに、熊楠先輩が明るく提案してくる。

「ねえ、金山ちゃん。迷ってるなら、とりあえず仮入部しなよ。今日は初めてで緊張したかもしれないけどさ、これからいっぱいおしゃべりしよ?」

 緊張していたのは別の理由だけど、そう言ってくれるのは嬉しい。

 新井先輩も優しく言ってくれる。

「金山さんの『心臓が根拠』だってお話、とっても分かりやすくて印象的だったよ。初めての議論とは思えないくらい」

 印象に残ってしまったのは計算外だが、それでも嬉しい。

「一年生はわたし一人しかいないから、金山さんにはぜひ入ってほしいな。部活以外でも仲良くしたいしね」

 水澄さんは少し興奮気味な様子だ。

 つまり、こんな僕を心の底から歓迎しているのだ。

 あまり会話には参加せず、素っ気なく返していただけなのに……。

 皆の視線が僕に突き刺さる。

 入部はあり得ない。

 だからといって、この歓迎ムードを拒否するなんて僕にはできない。

 どうする? どうすれば?

 部長の本居先輩が全員に目配せをしながら、冷静に言う。

「みんな急かしちゃダメよ。決めるのは、あくまでも本人なんだから。金山さん、今決めなくても、後でわたしに言いに来てくれればいいからね」

 願ってもない、渡りに船だ。本居先輩の言うとおり、何もこの場で決める必要はない。

 ひとまず保留ということにすれば……。

 いや、それだと、もう一度女装して本居先輩のところに行かなくてはならなくなる。

 それはそれでまずい。やっぱり、今この場で断った方が……。

 不意に、コンコンと部室の扉を小さくノックする音がした。

「誰だろう?」

 扉に一番近い位置にいる水澄さんが席から立つ。

 まずい、これ以上目撃者が増えたら――と思ったところ、やってきたのは長身の眼鏡男子。小乗龍樹先輩だった。

 もしかして助けに来てくれた? 

 でも、まさか「うちの部員を引き取りにきた」なんて言えないはずだし、どうやって?

「あ、龍樹君。どうしたの?」

 水澄さんの問いかけに小乗先輩はすぐには答えず、こちらに顔を向けてきた。

 眼鏡の奥の鋭い目が、僕を見つめる。

 小乗先輩が僕の女装姿を見るのは今が初めてだ。気付かない可能性もなくはない。

 仮に気付いたとしても、この場で正体を明かすことはないはずだが……。

「……」

 小乗先輩は表情ひとつ変えず、ほんの一、二秒で視線を水澄さんに戻した。

 たぶん、察してくれたのだと思う。

「先ほど男子部の部室に来たと聞いたが、何か緊急の用でも?」

 そういうことか。小乗先輩がここに来た目的は僕ではなく、水澄さんだったようだ。

 血縁者(親戚?)なのだから名前で呼ぶのもおかしくはない。

「あ、そうだった。ごめん、急ぎの用じゃないから後で話すね」

「そうか。では男子部の部室で待っている」

 それだけ言って、小乗先輩はあっさり去っていった。

 って、ちょっと待った! 

 男子部の部室に来られたら、僕の逃げ場所がないじゃないか!

 早く追いかけなければ。

「あ、あの、お手洗いに行ってきていいですか?」

 女子同士でお手洗いという言葉を使っていいのかは分からないが(化粧室と言うべき? それとも、お花を摘みに行く……だったかな?)細かいことを気にしている場合ではない。

「ええ、どうぞ」

 本居先輩の返事を聞くや否や、僕は早足で小乗先輩を追った。

「せ、先輩! 小乗先輩!」

 廊下で背中から声をかける。

 幸い、周囲に人はいない。女子部の部室からもだいぶ離れたから、声を聞かれることはないはず。

 小乗先輩は足を止め、振り返った。

「……光流君か?」

 あ、今、少し疑問形だった。確信があったわけじゃないのか。

 僕は小声で「そうです」と答え、男子部の部室を指す。

「とりあえず、ここはまずいので部室で」

 また水澄さんがやってくる可能性もあるが、廊下の真ん中で立ち話をするよりはマシだ。

 もちろん、部室に入ったらすぐに鍵をかける。

 ふうー。まずは一息。

 それから、ここにいるはずの二人がいないことに気付く。

「上森先輩と下倉先輩は?」

「二人とも君を探しにいったよ。そのうち戻ってくるだろう。それより、災難だったな」

「はい。それはもう……」

 極度の緊張状態から開放されたせいか、身体がフラッと傾く。

「おっと」

 小乗先輩が、とっさに肩を支えてくれた。

「大丈夫か?」

「す、すみません」

 僕はパッと先輩から離れた。

 大丈夫、ちょっと目眩がしただけだ。間違っても、こんな格好で保健室に運ばれる事態になってはならない。気をしっかり持たなくては。

「それより、実は……ええと……」

どこから説明しようか迷うと、すぐに先輩がフォローしてくれる。

「何があったかはだいたい予想がつく。大方、ここに来た智莉が間違えて君を連れていったのだろう?」

 そう聞かれて、真っ先に言うべきことを思い出した。

「そ、そうです。それで仕方なく体験入部だけして断ることにしたんです。だから、水澄さんに部室に来られると困るんです」

「わかった。では、もう一度女子部に行って別の待ち合わせ場所を伝えてこよう。それから、今後も男子部の部室には勝手に入らないよう言っておく」

「お、お願いします」

 軽く頭を下げ、踵を返す。

 あまり時間はない。早く戻らなければ。

「光流君、どこへ行くのかね?」

 小乗先輩が呼び止めてきた。

 僕は半分だけ振り返る。

「どこって、女子部の部室ですけど……」

「せっかく抜け出せたというのに、また戻る気かね?」

「え? でも……」

 抜け出してきたのは小乗先輩と話をするためであって、逃げてきたわけではない。

 でも、言われてみれば、このまま逃げるという選択肢もある。どうせもうこの姿で会うことはないのだ。わざわざ危険を冒してまで戻る必要なんて……。

 でも、それでいいのか?

「今回のことは事故のようなものだ。君が悪いわけではない」

 小乗先輩はそう言ってくれるが、胸の奥のモヤモヤは消えない。

「それは、そうですけど……。でもやっぱり、黙っていなくなるのは良くないと思うんです」

 たとえ事故だとしても、女子部のみんなを嫌な気持ちにさせるわけにはいかない。責任はなくとも義務はある。男として女の子を思いやる義務が。

「正直、どうやって断ればいいのか言葉が見つかりませんけど、それでも行きます」

「そうか、己の良心に従うか……」

 小乗先輩はキリッとした表情で決断的に言う。

「ならば難しくは考えず、本心をぶつけてくるといい」

「はい!」

 そうだ。下手に取り繕う必要なんてない。申し訳ないと思う気持ちを素直に伝えればいいんだ。

 僕は意を決し、部室の扉を開ける。

 そして、周囲に人がいないのを確認した後、廊下へ。

「やっぱりね」

「え――」

 瞬間、思考と身体が固まった。

 聞き間違えるはずもない。さっきまで議論を仕切っていた大人っぽい声。

「見覚えのある顔だから、もしかしてと思ったけど、そういうことだったのね」

女子部の部室にいたはずの本居先輩が、呆れたような顔で柱の陰から出てきた。

 バレた……! いや、バレてた!?

「ど、どうして……?」

 僕は震える唇を動かす。

「前に小乗君と勧誘活動しているところを見かけて、あなたの顔を覚えていたの。まあ、双子の妹なんかの可能性も少しは考えたけど、どうも態度が怪しかったから尾けてきてみれば、案の定というわけね」

 本居先輩は言いながら、突き刺すように鋭い目を部室の扉の方へ向けた。

 見ると、小乗先輩が観念したかのように肩を落として出てきた。

「さすがは本居先輩。よくぞ光流君の女装を見破りましたね」

「どういうつもり? 女装させた後輩を女子部に潜り込ませるなんて。事と次第によっては学校側に報告させてもらうわよ」

「誤解しないでください。私が指示したわけではありません。これは不幸な事故です」

「事故?」

「実は――」

 小乗先輩は事のあらましを簡潔に説明した。

「……そういうことね。まったく人騒がせな」

 本居先輩は呆れるように言った。でも、納得はしてくれたようだ。

「その話が本当なら、早とちりした智莉さんにも非はあるから、今回は見なかったことにしてあげるわ。今後は常時部室に鍵をかけておくことね」

「ありがとうございます。助かります」

 小乗先輩が小さくお辞儀をした。

「あ、ありがとうございます」

 僕もお辞儀をする。

 なんとか助かった。でも、まだ終わったわけではない。

「あ、あの、早く女子部に戻って入部を断らないと」

 女子部の部室を出てから、もうずいぶん時間が経っている。これ以上遅くなっては誰かが様子を見に来るかもしれない。

「いいえ、それには及ばないわ」

 慌てて戻ろうとする僕の前に、本居先輩が立ち塞がった。

 そして、静かに言う。

「あなたはもう女子部に戻らない方がいい。急に体調が悪くなって帰ったことにしましょう。三人には、わたしからそう伝えておくから」

「で、でも……」

「入部を断ったからといって、すんなり帰れるとは限らないわ。連絡先を交換してほしいとか言われて、ちゃんと断れる? できないでしょう? だからもう静かに消えなさい。今ならそのうち忘れてくれるわ。話はこれで終わりよ。いいわね?」

 有無言わさぬ口調。

 決意した矢先だっただけに悔しいが、本居先輩の言うとおりにすれば丸く収まる。反対などできるはずもない。

「分かりました……」

 こうして、拍子抜けするような形で今回の騒動は終わった。

 男子哲学部が発足した、記念すべき一日目のことだった。

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