運命の先に
ななな
第1話
『ハンチントン病』
診断書に記されたその文字をただ追うだけで、すぐに飲み込むことは出来なかった。
「岡崎さん、診断書の通りDNA検査から、残念ながらあなたがハンチントン病であることが判りました。ハンチントン病とは…」
医師の説明は頭に入って来なかった。しかし、その病気のことはすでに知っていた。
ハンチントン病、遺伝病の一種であるその病は、青年期には顔を出さず、40代でいきなり姿を現わす。症状としては、記憶の欠落が顕著な認知症、意志とは無関係に身体が動いてしまう不随意運動等がある。言い換えれば、今ある自分の意識が消えてしまうらしい。親からの遺伝率は2分の1。根幹への治療法は見つかっておらず、対処療法で抑えていくしかないのが、今の医療の現状だそうだ。
僕が初めてこの病について知ったのは先週、父の口からだった。8時頃、父が帰ってくるとすぐにリビングに呼ばれた。あの日の両親の真剣な表情は今でも頭に焼き付いている。しばらくの沈黙の後、父が口を開いた。
「受験生であるお前には言うべきではないことかもしれない。だが、家族の問題は共有すべきと考えて話す。落ち着いて聞け。」
父の並々でない雰囲気が僕の不安を大きくした。
「母さんはハンチントン病なんだ。」
父はそれから色々説明してくれた。ハンチントン病のこと。母さんがDNA検査でそう診断されていたこと。40代の母さんはいつ発症してもおかしくないこと。そして、その病は2分の1の確率で子供に遺伝すること。
突然の告白をすぐに受け入れることは出来なかった。両親の冗談とも考えた。だが、二人の真剣な表情を前にその考えはすぐに消えた。
いつも強気な母さんが、自責からか一度も目を合わせてくれなかった。ただ、最後に目を滲ませ、消えそうな声で、
「ごめんなさい………」
と言った。僕が状況を受け入れるのにその言葉は十分だった。
ただこの会話だけではわからないことがあった。それは、その病は僕の中にあるのかどうか、ということだ。父には診断はしないように、と言われていた。しかし僕は確認せずにはいられなかった。
そして診断は出た。その病は僕の中にあった。2分の1の確率を引いてしまったのだ。
病院からの帰り道、足取りは重かった。見慣れた町の風景が灰色に感じられた。鮮やかだった夕日、活力溢れていた木々、微笑んでいるように感じられた道端の花さえ、眼に映るもの全てが無機的だった。陸橋から川のような車の流れを見たとき、足が止まった。
(飛び込んでしまえば全てが終わるのでは)
そんな考えが頭をよぎった。
40代までと決められた人生。それは変えることのできない運命だ。だとしたら、いったい僕はこれまで何のために生きてきたのだろう。そう思うと涙が溢れた。今までの思い出が黒く滲んでいくのを、胸の下のあたりで感じた。
もし今、身を投げたとしたら、これからの苦しみを感じずに済むかもしれない。橋の手すりを乗り越え、目を閉じて重力に身を任せようとする。しかし足がすくみ踏み出せない。その時気付いた。僕が死ぬ勇気を持っていないことに。
しばらくすると感情の矛先は両親へと向かった。病気のことを知っていながら、どうして子を為したのか。怒りは次第に大きくなり、心に黒いものを残した。
家に着くとそのまま自室に向かい、鍵をかけた。両親とは顔を合わせたくなかった。
ベッドに倒れ込み思考を整理しようとしたがその試みは失敗に終わった。濁流のように流れ込む感情を前に、思考の入る余地はなかった。そのせいか僕は、『これは夢なんじゃないか』という短絡的で無責任な発想にやすやすと身体の支配を許し、眠りについた。
部屋に注がれる光に意識を呼び起こされた。身体に異常がないことを軽い運動を通して確認する。昨日の出来事が頭から抜けているなどという都合の良いことはなかった。認めたくなくとも、机の上の紙が事実から逃げることを許してはくれない。
思考は明瞭だった。昨日あれほど大きかった両親への恨みも、変えられない過去のことだ、と薄らいでさえいた。
食卓に向かうため階段を降りながら、両親にどう接するべきかについて考えた。彼らは検査のことを知らず、それを悟らせるわけにはいかない。しかし昨日、風呂も夕食もとらずに鍵をかけた僕を不審に思っているはずだ。だとすれば、変化のないことを意識させるため、こう言おう。「疲れてすぐに寝てしまった。鍵は偶然だ」と
僕の心配とは裏腹に、両親との対話に不都合はなかった。両親が僕の変化に気づくということもなかった。そこには日常が流れていた。
少し安心した僕は、このまま何事もなかったかのように振る舞おう、そうすれば以前と変わらない日々が取り戻せる、などと思いながら、学校へ行くために靴を履き玄関をくぐった。その瞬間、
“世界が歪んだ“
立っていられない程の目眩にその場に崩れる。頭痛と吐き気が同時に襲いかかる。あまりの苦痛に声も出ない。眼に映るもの全てが僕の頭に入ってくるのを拒んでいるようだった。
「今の音どうしたの?え、次郎、次郎⁉︎」
母さんの声を最後に、僕は気を失った。
それから僕は家から出なくなった。頭では何ともないふりをしていても、心までは装えない。外に出ることは出来なかった。その時が来れば失われてしまう全ての情報が怖かった。頭の中に入ってくる、と言う意味では、外から聞こえる近所の人の話し声さえもが僕に牙を剥いた。
生きていることが怖かった。もはや何のために、何に向かって生きているのか、わからなかった。40代に僕の意識は無くなる。そこで無になる。肉体があっても、心が無いのなら、それは『無』だと思った。その運命から逃げることは出来ない。無のために進むことは無理だと思った。いや、行き着く先が無だとわかっていながら、それでも進んでいく勇気を、そしてその行為を合理化してくれるような素晴らしい考えを、僕は持ち合わせていなかった。
だから進むことも出来ず、こうして光を絶った部屋の中で布団を被り、歩みを止めずゆっくりと、だが確実に迫ってくる運命に怯えることしかできなかった。その時失われるものだと思うと、僕の中に入ってくる世界そのものが怖かった。
そうして3ヶ月が経った。恐怖は薄らぐことなく確実に、僕の身体、そして心を蝕んでいった。発症までに治療法が見つかるかもしれないと考えたこともあった。しかしそれは希望的観測にすぎなかった。
何度も死を思った。残りの二十数年、どれ程の恐怖が自分を侵食していくのか、考えたくなくとも考えてしまう。生きるという努力をした結果待っているのが、そんな永続的な恐怖と、定められた無だというのなら、いっそ今、この意識を絶ってしまいたかった。その判断を下せずに、この3ヶ月が経った。僕は、生きる勇気も、死ぬ勇気も、持っていなかった。
(時間が止まれば、苦しく無くなるのにな)
心もすり減り、僕は起こることのない無意味な希望にすがり始めていた。行き着く先も分からず、ただうずくまっていた。
そんなある日、昼食を摂るために向かったリビングで見たニュースは、僕の人生を変えた。
“帝王大学、佐藤教授、遺伝病治療における革新的発見でノーベル生理学・医学賞受賞”
その瞬間、灰色だった世界は僕を中心として次々と色を取り戻していった。眩しさに目を瞑ることはなかった。その世界があまりにも澄んでいたから。僕の目を透き通るように、その世界は僕の中に入って来た。今までなかった考えが、生まれた。
『僕が治療法を見つけよう』
誰かの発見を待っていることは出来なかった。そんな不確実を待ってはいられない。だから、こう思ったのだ、
『自分の手で運命を変える』
と。
それからの日々は見違えるようだった。日本の遺伝病研究の最先端である帝王大の医学部に入るため、僕は勉強を始めた。
僕は、この運命は必ず来る逃れられないものだと思っていた。しかしそれは違っていた。この運命は変えることが出来たのだ。
この発見はとても大きなものだった。それまで僕が恐怖していたのは、決められた結末とそこに至る過程だった。この発見はその両方を取り除いてくれたのだ。目標とするのは定められた運命の改変。そのための過程は恐怖を取り除くほどの活力あるものでもあるのだから。
明確な生きる意味を手にした僕に、もう迷うことはなかった。
木々溢れる夏、私は心地よい緑風を感じながらゆっくりと遊歩道を歩いている。澄んだ空気が肺を満たし、連日の徹夜による疲労を和らげてくれた。
「教授、実験3と4やるんで帰ってきてください」
研究室のメンバーの一人が私を呼ぶ。
「3と4は試験薬届くの明日だから今日は出来ないよ。そうだな、やるなら明日の8時からかな。チームの皆にもそう伝えておいてくれると助かるよ」
「わかりまた、そう伝えておきますね。失礼しました」
駆け出していく彼を見送りながら、私はこれまでを振り返る。
あれから25年が経った。結論から言ってしまうと、
「私は間に合わなかった」
すでに初期症状である手の震えは始まり、私が第一線から身を引くのも時間の問題だろう。
後悔がないと言えば嘘になる。だがそれと同時に、あまり恐怖していない自分を感じる。そう思うと救われた、いや、自分を救ったことを実感する。
我々は遺伝病治療を大きく進めた。ハンチントン病の根幹治療にはたどり着けなかったが、その過程で多くの発見をし、多くの人を救った。チームの皆や息子なら、きっと発見にたどり着くはずだ。
次の世代への足跡も残せた。それが果たせただけでも、私の人生は価値あるものだったと言えよう。
その夜、私は安心して瞼を閉じた。
運命の先に ななな @shitonai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます