第2話

 真夜中の部屋に、蝋燭の明かりが灯っている。少しだけ、甘い、蜂蜜の匂いをさせながら。

 ぼんやりとした頭で天井を見上げてみるけれど、薄暗いこともあり、ああ、自分の部屋のものとは随分と雰囲気が違うな、と思っただけで、取り立ててなにか別の感情が湧き上がってくるようなこともなかった。

「目が覚めた?」

 不意に、わたしの頭上を影が覆った。こくっと小さく頷いて、わたしは影に向かって手を伸ばす。けれども一瞬で指を絡め取られて、呼吸が止まった。顔が近くて、思わず目を背けてしまった。

「一花って、本当はいくつなの?」

「いくつだったかな。覚えてないな」

 指を折りながら。一花は天井を見上げている。

 そのとき、ピコン、と小さな電子音がした。

 暗がりの中でスマートフォンの画面が光っているのが見えた。

 手を伸ばしかけ、でも指先が届く直前に、一花にそれを奪われる。画面をじっと見つめている。

「メール。宛名が男の子の名前」

「……隣に住む幼馴染ですよ。返して」

「いやって言ったら?」

「返してください」

「男の子の名前、としか言っていないのに」

 一花がスマホを手渡しながら。

「あなたはその子が誰なのか、わかるのね」


 四月になり、わたしたちの町にも遅い春が訪れた。わたしは高校三年生になっていた。

 桜のつぼみが膨らんで、風に土の匂いが混じり、空が霞むようになると、アザラシたちも岩礁から姿を消した。今年も北の海に帰ったのだろう。

 そして、もう、ここには戻ってこないかもしれない。

 県の誘致で発電所だか工場だかを建設することが決まり、海が埋め立てられてしまうことになったから。

 今、町はその話題で持ちきりになっていて、反対派、賛成派に分かれていがみ合っていた。特に反対派は幟や看板を打ち立てて、気炎を吐いている。次の町長選挙にも影響するだろうとかどうとか噂されていたけれど、わたしはそういった諸々に全くといっていいほど興味が持てなかった。一花も、まるでモンタギューとキャピュレットね、なんて言って、どうでもよさそうに唇の端に笑みを浮かべているだけで、興味なんてなさそうに見えた。

「つまらない場所になるんだったら、出て行けばいいだけだしね」

 春なのに。背筋が、凍る。心臓がひやっとする。わたしは一花のパジャマの裾をきゅっと握って、けれどなにも言えず、唇を噛み締めた。工場よりも発電所よりもなによりも、一花がいなくなってしまうことが、怖かった。

 そんなわたしを見て、一花は苦笑しながら、違うよ、そういう意味じゃないよ、と。笑うのだった。

「あなたを捨てたりしないわ」

 嘘だ。

 と、思ったけれど、

 わたしはなにも、言わなかった。

 小さなテーブルに置かれた蝋燭が、ジジっと音を立ててゆれていた。

 ごろんと床に寝転んで、仄かに燃える火を見つめていると、一花がわたしの背中に、自分の体を預けてきた。薄い胸が……というよりもあばらが当たって、痛かった。

「蜜蝋っていい匂いだと思わない? わたしね、アロマオイルを焚くよりも、蜜蝋が燃える匂いの方が好きなの」

「うん。……わたしも好きです」

「ねえ」

 一花の唇が首筋に当たって、ゾワッとした。

「さっきのメール。なんて書いてあったの」

「ちょ、っ、くすぐったいから、キスしながら喋るのやめてくださいっ」

「教えて」

「やだ」

 わたしは体を押しのけて仰向けになり、下から一花の顔を見上げた。

「あなたは、わたしに嫉妬しているくらいで丁度いいんです。わたしばっかり好きだと……不公平じゃないですか」

 一花がにんまりと笑ったのがなんだか悔しくて、わたしはまた、蝋燭の火に視線を向けた。


 新しいクラス。新しい担任と、クラスメイト。でも、そこに蕾花の席はなかった。わざわざ故人のために席が用意されているはずもなく、もちろん、たとえそんなものがあったとしても、蕾花のために花瓶や花を用意するような奇特な人間なんて、もうどこにもいないのだ。

 蕾花のことは、急速に人々から忘れられつつあった。誰も、彼女の名前を口にしない。駐輪場の屋根は修理され、かつてそこに供えられていた花束は、影も形も見えない。時折二年生が新一年生に、怪談めいて話すだけ。去年、自殺した人がいたんだよ、と。

「寂しいね」

 わたしは蕾花に向かって、話しかける。藤棚の下のペンキの剥げかけたベンチにひとり座って、菓子パンの袋を破きつつ。

 空気が動いたのがわかった。

 でも、それだけだった。

 もう、わたしの目にも彼女の姿は見えない。声も聞こえない。ただ、そこにいるのはわかる。

 彼女は、蕾花は、そこにいる。すぐそばにいる。躊躇うように、戸惑うように、空気がゆれている。

 メロンパンを齧る。ビスケット生地が割れて、スカートの上にパン屑が落ちる。

「みんなが忘れても、わたしは絶対に忘れないよ。それから」

 スカートを手で払い、ココアで喉を湿らせ、わたしは言った。

「ごめんね。ずっと謝りたかったの。二度と出てくるな、なんて言ったから、……顔を見せてくれないのかな、って。蕾花のために屋上に行ってあげたいんだけど……気が向いたらでいいから、鍵、もらえないかな」

 風が吹いた。

 どこからか桜の花が吹き流されてきて、目の前で奇妙な図形を描いて舞い踊っている。それはまるで、つむじかぜの曼荼羅のようだった。

 不意に埃が目に入ったわたしは目を閉じて風をやり過ごし、何度も何度も瞬きをした。

 気がつくと、わたしは小さな鍵を握りしめていた。確かに持っていたはずのメロンパンは地面に転がって、無残な姿を晒している。どうしてそんなことが起こったのか、理屈なんてわからない。あるいはそれは、彼女の魔法のようなものだったのかも、しれない。

 ……なんの変哲も無い、けれども確かに見覚えのある、その鍵を。わたしはきゅっと力を込めて両手で握りしめ、ありがとう、って、呟いた。


 放課後。

 わたしは図書室で時間を潰し、人が少なくなるのを待っていた。その日はたまたま去年のクラスメイトが図書委員として貸出係をしていて、普段なら図書室になんて来ることのないわたしを、物珍しそうに見ていた。

 夕闇が迫る。渡り鳥が空の底を飛んでいる。

 わたしは図書室を抜け出て、人目を避けるように、非常階段を上っていった。跫が踊り場に響いている。

 鍵を開け、

 屋上に出る。

 遮蔽物がなにもない、ただ、真っ赤な空だけが見えるその場所に、わたしは立ち尽くしていた。

 風はまだ冷たい。視界の先に、桜の花が夕暮れの中で少しだけ青白く、浮かび上がっている。

 わたしはゆっくりと、屋上の端まで、歩いて行った。

 そこから駐輪場を見下ろす。そこだけ新しい屋根が見えた。

 それからまた、もっとずっと先を……海がある方向を、見つめた。それはとりもなおさず、わたしの家のある方向だった。わたしの住む町がある場所。ならば蕾花はなにを思って、この景色を見つめていたのだろう。

 なにを思って、自分の命を捨てたのだろう。

「来てくれて、ありがとうね」

 不意に言葉が耳元をかすめて、空に溶けていった。


 侑李さんが窓のそとを眺めていた。

 不思議に思って、わたしも一緒にそとを眺めた。道の反対側の空き地に、開発反対派の立てた幟が、ぱたぱたと風にそよいでいた。

 ちらりと横顔を窺ってみたけれど、そこから侑李さんの感情を読み取ることはできなかった。

 ふと、父が生きていたら、町の開発には反対しただろうか、と考えてみた。海が埋め立てられれば、漁師は廃業せざるを得なくなる。少なくとも海が遠くなってしまえば、それまでと同じような生活を送ることは困難になるだろう。漁師という仕事に誇りを持っていた父が反対しないわけがないと思う反面、止められない大きなうねりの中で、煩悶とすることも目に見えていた。あるいは酒に溺れて、人間として駄目になっていたかもしれない。この町にも、そんな人たちが、少しずつ現れてきている。

「お腹空いたな」

 ぽつりと侑李さんが言った。

「夕ご飯、なにがいいですか」

「魚以外ならなんでも」

 煙草に火をつけ、

「そういえばさ、あんた彼氏でもできた?」

 ちらり、とわたしを見る。

「どうしてです?」

「なんとなく。最近綺麗になったし。っていうのはまあ、冗談だけど」

 ……冗談なんだ。

「ねえ、あたしが夜勤のとき、ちょくちょく家を空けてない? それか、誰か男でも連れ込んでる? なんか家の中の温度が違うっていうか。あたしが帰ってきたあとの家の中の感じがさ、違うのよ」

 わたしは少し考えるふりをした。

「実は好きな人ができました。ごめんなさい」

「謝んなくていいよ。そっかー、あんたもそういうお年頃なんだよね。隣の彰?」

「ううん」

 侑李さんは横目でわたしを見て、少し意外そうな顔をした。しばらくしてからふうっと紫煙を吐き出し、

「どうでもいいけど、ちゃんと男にゴムさせないと駄目よ。困るのはあんたなんだから。自分で買い難かったらあたしに言って。手に入れてきてやるから」

 と言った。

 わたしはこの人が本当のお母さんだったら、と思って、苦笑した。娘にこんなことを真顔で言う母親は、まずいないだろう。わたしはそんな型破りな侑李さんが、好ましく思えた。

「大丈夫ですよ。セックスしても、子どもはできないから」

 わたしは苦笑いを浮かべたまま、言った。侑李さんは怪訝な表情を浮かべて、もしかしてそいつの言うことを真に受けてんの? と訊いてきた。

「あんたがそこまでのぼせちゃうとは思わなかった」

 窓のそとに目を向けると、幟はあいかわらず、ぱたぱたとはためいている。

「違います。わたしだってそこまで馬鹿じゃないから。そうじゃなくて」

 息を吸い、

「わたしの好きな人は、女性なんです」

 吐き出した。

 侑李さんが手に持っていた煙草の灰が、ぽとりと床に落ちた。


 駅前のコンコース……というよりもちょっと広いだけの空き地にしか見えない場所で、一花は歌っている。まばらな人だかりができていて、それは減ったり増えたりしながら、一花の周りをゆれ動いていた。

 わたしは少し離れた場所に座って、一花が歌う様を見つめていた。

 折りたたみの小さな椅子に腰掛け、ギターを抱き、時折髪を掻き揚げるその姿を。

 俯きがちになりながら、誰を見ることもなく、静かな、低い声で、一花は歌ったていた。


 わたしの誕生日に22本の

 ロウソクをたて

 ひとつひとつがみんな君の

 人生だねって言って

 17本目からは一緒に火をつけたのが

 きのうのことのように

 今はただ五年の月日が

 ながすぎた春といえるだけです


 それは『22才の別れ』という曲のフレーズ。

 遠くても、わかる。

 一花の目が青白く澄んでいて、なにも映していないことが。

 それが少しだけ寂しくて、わたしは胸のあたりをきゅっと握り締めながら、それでも彼女から目をそらすことができずに、下唇を噛み続けていた。

 電車がホームに到着した音がする。そしてまた、人が流れてくる。

 一花がどんな思いでこの曲を選んで、こうやって人前で歌っているのか、わからない。その日、そのときの気分で、彼女は歌う曲を選んでいるのだと思うけれど、それが一体なにに起因しているのか、わからないのだ。

 わたしの周りをゆっくりと風が動いていた。

 それはよく知っている人の気配をまといながら、いつまでもわたしのそばを離れない。

 手を伸ばしかけた、そのとき。

 遠くの方から、反対派の人たちが幟を掲げて、なにかを大声で訴えながら、歩いてくるのが見えた。拡声器でがなり立てているので、声が割れてしまって聞き取れない。

 一花はまだ歌い始めてそれほど経っていないのに、それまで演奏していた『22才の別れ』を歌い終わったあと、すっくと立ち上がって、静かに頭を下げた。

 なにも言わず、ギターを片付けている。

 集まっていた人たちも、ぱらぱらと拍手をして、どこかに行ってしまった。

 あとには小さな一花だけが、取り残されるように、そこに立ち尽くしていた。

「……一花」

 わたしは寄って行って、かすれてしまいそうになりながら、彼女に声をかけた。

「帰ろうか」

 それでもわたしを見上げた一花の顔は、かすかに微笑みを浮かべていた。なぜ笑っているのだろうと思いながら、不安に駆られて、わたしは一花の手を、強く握りしめた。

「ごめん、ごめんなさい」

「……どうして莉緒が謝るの? 大丈夫。大丈夫だからそんな顔をしないで。ね?」

 ねえ、一花。

 わたしは今、どんな顔をしているんだろう。


 侑李さんが夜勤でいない日は、わたしはここにいる。

 一花の、古びたアパートの一室に。

 薄い布団の上で、ふたり、毛布にくるまって。

「初めてね、莉緒がしてくれるの」

 大きく足を開いたまま、一花が言う。わたしは顔を上げて、口元を手で拭った。

「したいと思ったから、しているだけです」

 いつものように、蜜蝋でできた蝋燭の火が、ゆれている。そしてもう一度薄い茂みの中に顔を埋め、舌を這わせた。

 もちろん、そんなのが自己満足でしかないことくらい、わかっていた。わかっていたけれど、そうするより他に、わたしには術がなかった。

 ミニマリストを標榜する一花の部屋は、とても簡素で、物がなにもない。彼女がその気になれば……きっと、ここを出て行くのは本当に容易いことなのだろう。一花にとって大切な持ち物は、ただひとつ、ギターだけなのだから。

 わたしの価値は、たぶん、ギターに劣る。

 そう思うと悲しかった。ただ、あまり執着するのはやめようと、最初から思っていた。彼女という存在はいつか消えてしまうやさしい幻であり、切ない嘘なのだと、そう思い込もうとしていた。

 だって。

 ……一花はある日突然、消えてしまうのだろう。

 蕾花がふっと命を絶ったように。

 そんな日が訪れて、泣くのは、もう嫌だった。

 人の行動になにか意味があるなんて、幻想でしかないのだと、わたしは思い知ったのだ。一期一会。出会いは別れの始まり。そんな陳腐なフレーズは、けれども真実なのだ。

 一花の内腿が一瞬、ひくん、と震えた。頬に当たる肌は、しっとりと汗ばんでいた。

 いつか別れが来る。

 でも。それでも。

 それまでは精一杯、一花を愛していたいと、思った。

 わたしにできる、できる限りのことをしようと、思った。

 一花に……この町が嫌な場所だったなんて、あとになってから思ってもらいたく、ないから。

「ごめんね、口の周り、べとべとにさせちゃった」

 一花がゆっくりと体を起こして、わたしの頬に軽く手を当てた。そしてわたしの体をぎゅっと抱きしめ、あの日のように、わたしの耳にそっと、口づけをした。

 耳の中で舌が蠢く感覚に背筋を震わせながら。

 わたしはほんの少しだけ、泣いた。


 屋上に続く扉を開けると、薄暗かった廊下に、光がさっと射し込んできた。蕾花はいつものように、そこでわたしを待っていた。

 長い髪をふわりと掻き揚げ、わたしを見つめている。

 春の日差しを受けて、彼女の足元には影が踊っていた。

「桜も散っちゃったわ」

 自分が飛び降りた場所まで歩いて行くと、振り返り、蕾花は寂しそうに呟く。この頃はだいぶ暖かくなってきて、昼休みに陽の光を浴びていると、汗ばむくらいだ。

「三年生の教室にはもう慣れた?」

「ううん。わたし、あなた以外に友達って呼べる人、いないもの」

 少し段になっている扉の横のコンクリートに座り、わたしは購買部で手に入れてきた菓子パンとバナナ・オレの紙パックを、膝の上に置いた。

「わたしの居場所も、とうとうここだけになっちゃったな」

 視線を上げると、すぐ近くで、蕾花が苦笑を浮かべていた。以前わたしが屋上に来れば、蕾花は成仏できるかもしれない、というような意味合いのことを言っていた気がするのだけれど……無理だったのだろうか。

「わたしの居場所だって、そう変わらないわ」

「そう? ……あの人とはずいぶん仲が良さそうだけど」

 わたしは一瞬言葉に詰まって、

「あなたは親友だけど、あの人は違うもの」

 と答えた。それはまるで、苦虫を噛み潰したような声だと、自分でも思った。

「幼馴染の男にふられたからって女に走ったわけじゃないでしょうね?」

「そう思いたければそれでもいいわ」

 わたしは菓子パンの袋を、パンっと音を立てて破き、中身のパンに齧りついた。グローブの形をした百円ちょっとのパンの中から、甘い、カスタードのクリームが、口いっぱいに広がった。一口啜ったバナナ・オレとの相性が抜群で、それがまたなんとも言えず、心憎いのだった。

 たったそれだけのことで苛々していた気持ちが収まり、逆に少し幸せな気分になりながら、わたしは小さくため息をついた。蕾花の口の悪さは元々なのだし、彼女が死んでしまった今、それを改めろというのも、酷な話なのかもしれない。などと、ちょっとだけ寛大な気持ちになって、蕾花を見つめた。

 蕾花はそっぽを向きながら、

「……ごめん、言い過ぎた」

 と、小さな声で呟いた。

「珍しい。明日は雨かしら」

 わたしが笑いながらそう言うと、蕾花は、大丈夫、明日は晴れるわ、と答えた。

「死ぬとね、いろいろなことが……わかるのよ」

 その場でくるっとターンしてみせる。スカートがふわりと広がって、目に眩しい。

 そして彼女は、鼻歌を歌った。

 どこか懐かしい、不思議な曲を。

 まるで……波に漂う生き物の声、あるいは海の底の音、そのもののような。

「その曲、聞いたことがあるわ」

「覚えていて。もう……忘れちゃだめだよ」

 蕾花が消えたあとも、心地よいハミングだけは耳に残っていた。青い空の下で、わたしの心を静かに……どこかへ押し流そうとしていた。


 家に帰り着いたとき、偶然、……なのだろうか。隣の家から彰が出てくるところに、出くわしてしまった。今までずっと、無意識に……ううん、意識的に避けてきたその顔を見て、わたしの中のなにかが、つきん、と痛んだ。

 久しぶり、と声をかけると、彰は無言で眼鏡の位置を直しただけで、じっとこっちを見つめていた。

 いや。

 睨んでいた、と言い直した方が、正しいかもしれない。

「……わたしね、もうLINEやめちゃったんだ。怒ってる?」

「別に」

「じゃあ、着拒したの、怒ってる……とか?」

 彰は小さく首を横に振り、手に持っていた大きめのバッグを、肩にかけた。

「いや。こっちこそ悪かったと思って。謝りたかったんだ。あの日のこと」

 一体いつの話をしているのか。わたしはそう思って、ため息をついた。

 あの冬の日。わたしをアザラシと呼んだ女の子。侮蔑の目。蔑むような口調。けれども、なぜだろう……。

「あれ、彰の彼女?」

「そんなんじゃない」

「遠くてよくわからなかったけれど、可愛かったと思うよ。別に、隠さなくたって」

「違うっ」

 吐き捨てて、そっぽを向いた彰の顔は、今まで見たことがないくらい、不機嫌に見えた。

 なぜなのだろう。

 あの日、あんなに胸がざわついたのに。

 彰を避けてきたはずなのに。

 どうして今、わたしはなにも、感じないのだろう。

「いいけどさ。あんたの交友関係なんて。ましてや彼女かどうかとか、わたしには関係ないし」

 わたしは言った。

 蕾花には彰にふられたから一花に走ったと言われたけれど、どうなのだろう。よく、わからない。さっき感じた胸の痛みも、もう、どこかに消えてしまっていた。

「さよなら」

 玄関の鍵を開け、家と扉のわずかな隙間に、わたしは消える。

 だから。

 彰がどんな顔をしていたのか。

 わたしは知らない。


 真夜中。

 くすんだ色のガードレールの先は、なにもない。

 波の音と潮の匂い。そして、岩礁に寄せる白い飛沫がかすかに見えるだけ。

 眼下に広がっているのは、暗い、まるですべてを飲み込んでしまった悪夢のあとみたいに、漆黒の色をした夜の海が見えるだけ。

 わたしは振り返る。

 あの日と同じで、車は走っていない。人の姿も見えず、ただ、海の気配が町の外縁に漂う。大体において、深夜に用事がある人間なんて、それほど多くはないのだ。娯楽のないこの町では、特に。

 光を感じて空を見上げる。

 雲の切れ間から月が出ている。

 金色の光が、海面に長く伸びて、ゆれている。それはまるで昔見た、ムンクの絵はがきのようだ。広い、あまりに広くて恐ろしくなるくらいの虚無を抱えたこの海のどこかに、彼女がいる。わたしはそれを、強く感じている。

 だから。

 わたしは歌う。

 彼女がわたしに歌ってくれた、海の歌を。


 肉じゃがって、彼女に作ってもらいたい料理の第一位だって知っている?

 ぽつりと一花がそう呟いたので、その日の夕ご飯のおかずは、肉じゃがに決定した。

「莉緒のそういうところ、好きよ」

 わたしを見上げながら、一花が笑っていた。

「……別に。和食もいいかな、って、思っただけです」

 満更でもない気分で、わたしは食材を買い物かごの中に放り込んでいった。

 一花はなにか——題名は相変わらずよくわからない——歌を小さな声で口ずさみながら、わたしが手にする食材を、興味深げに見つめていた。

「なんだかサラダ記念日みたい」

「なんですか、それ?」

「なんでもないわ。それより」

 一花はわたしが取り上げた豚肉のパックを凝視して、言った。

「肉じゃがって牛肉じゃないの」

「え? そうですか? うちではずっと豚肉でしたけど」

 牛肉? 中学までの学校の給食も、豚肉だったと思うのだけれど。

「だって肉じゃがってね、元々はビーフシチューを再現したくて作ったけれど、失敗しちゃったものだって聞いたわ。確か東郷平八郎か誰かが留学先で食べたものを、日本でも食べたくなったから海軍の料理人に作らせたんだとかどうとかって、言っていたかしら。だからね、今でも軍港があった呉や舞鶴の名物は、肉じゃがなのよ?」

 へー、と合いの手を入れつつ、わたしはちょっと感心して、隣の一花を見下ろしていた。

「じゃあ、牛肉で作ります? 作ったことないけど、作り方は一緒ですもんね」

 ありがとう。そう言って、微笑む一花を見ていると、たとえこの先、なにがあっても、許せそうな気がした。

 ただ、誰から聞いて、誰が言っていたのか……それを想像すると、ちくんと胸が痛んで、これが嫉妬なのかな、と思ったりもした。もちろんそんなこと、言わないし、訊かないけれど。

 肉じゃがと、大根とお豆腐のお味噌汁、それから……炊き込みご飯となにか胡麻よごしでも。値段と賞味期限、それから食材の鮮度をぱぱっと見て、買い物かごを満たしていく。

「カレー味の肉じゃがとかもできますけど……シンプルな方がいいですか?」

「うん。あっ、けれどね」

 わたしの服の裾を指先でつまみ、

「莉緒が作ってくれるものはなんでも好きよ」

 一花は言った。

 わたしはうまく返事ができず、それはどうも、と、小さな声で呟くのが、精一杯だった。

「でもそっか、カレー味なら……ますますサラダ記念日みたいな話ね」

 一花の言ったその言葉の意味は、わたしにはわからなかった。


 一花のアパートの狭いキッチンに立ち、じゃがいも、玉ねぎ、人参を、一口大に切っていく。サラダ油にごま油を少し混ぜ、肉から炒めていく。隣のコンロには味噌汁用の小さな鍋が乗っている。淡々と作業をこなしていくのは、楽しい。誰かに食べてもらえるから、というのはもちろんあるけれど、それだけではなくて、わたしはきっと、調理の工程そのものが好きなのだろう。

 だから、かもしれない。

 気がつくと、わたしは小さく鼻歌を歌っていた。

「その歌」

 歌? ……一花に声をかけられて、初めて自分が歌っていることに気がつく。

「不思議な歌。トラッドな音階で懐かしくて……なんだろう、アイルランド、ううん、違う。スコットランドの民謡かなにか?」

「え?」

「だから、その歌。……やめないで。お願い、もっと聞かせて」

 真剣な目をして一花が言うので、わたしは料理をしながら鼻歌を歌い続けていた。

 鼻歌。歌詞……そういえば、この歌に歌詞はあっただろうか。

 わからない。憶えていない。

 小さなハミングが続く、何度も何度もリピートして、それでも歌は続いていく。

 一花がメモ帳になにかを書いている。わたしはちらりとそれを横目で見て、ああ、その表情が、まるでギターを弾いているときの顔と一緒だと、気づくのだった。

 料理をテーブルの上に並べ終わったあとも。

 一花は床に突っ伏すようにして、メモ書きを続けている。それは音階表のようにも、コードのようにも見える。

「ねえ、冷めちゃう」

 わたしが言うと、

「ごめんね、もう少しだけ」

 一花は顔もあげない。

 やれやれと思いながら、わたしはそんな彼女を見つめていた。

 ご飯中もどこか上の空で、一花のリクエスト——と言っていいと思う——のはずなのに、美味しいとも、不味いとも、言ってくれない。

 まあ、ぱくぱく食べているし、不味いということはないのだろうが。それでもやっぱり、なんとなく癪に障る。

「わたしね」

 味噌汁を啜り、一花が言う。

「自分で曲を作ったりしたこと、ないの」

「そうなんですか?」

「うん」

 そしてまた沈黙。

 わたしは味の浸みたじゃがいもを頬張りつつ、美味しいけれど個人的には豚肉で作った方が好きかな、なんて考えていた。

「食べ終わったらちょっと付き合ってくれる?」

「いいですよ」

 わたしはごくんと口の中のものを飲み込んで、一花の湯のみにお茶を足してあげた。


 海辺には色々な気配が漂う。その中の一つは、とても馴染みがあって、心強く感じた。わたしの服の裾にまとわりつき、寄せては返す夜の波から、わたしを守ってくれているようだった。

 国道の街灯が、小さな浜を照らしている。潮の匂い。海の生き物の匂いがする。足もとの砂が、しゃりしゃりと音を立てる。波の音がそれに混じり、春の夜に、心地よく響いていた。

 いびつな形の月が海を照らしている。小さな波が、金色に光っている。

 夜の海。

「ごめんね、こんな遅くに」

「大丈夫です。わたし、宵っ張りで夜更かしには慣れていますから。それに、明日は……」

 明日は土曜日で、学校は休みだった。けれど、本当なら侑李さんが帰ってくるまでには、家に戻っていたかった。ただ、たぶん、この様子だと……わたしは一花の元から、離れられないだろうと思った。長くて細い糸が絡みついているのが見える。わたしはそれを、自分から断ち切る気には、なれなかった。

「ん?」

 一花が不思議そうに振り返る。

 ゆるやかな海風に、マッシュボブのやわらかい髪がゆれていて、左手でそっと、押さえているのが見えた。

「明日……なにかあった?」

「ううん。別に」

「明日は学校ない日よね。ゆっくりしていって。朝ごはんはわたしが作るから。たいしたものはできないと思うけど」

 街灯が、ゆがんだ円を描いて、淡い光を投げかけている。車は走っていない。ただ、波の音が繰り返されているだけ。

 一花はギターケースを開き、彼女の大切な宝物を、そっと胸に抱いた。やさしい手つきで、指先がギターの曲線に触れている。そして少し大きめのコンクリートのなにか——暗くてよくわからない。たぶん、波消しブロックの欠片——に座って、足を組んだ。

 指先が、弦を弾く。

 流れ出る旋律は、確かにわたしが料理をしているときに歌っていた歌、そのもので。楽譜もなにも見ないでよく弾けるものだと、感心してしまった。

 ただ、技術的なことはよくわからないけれど、それはどこか洗練されていて、されすぎていて、わたしの知っている曲のはずなのに、全く別のものにすら思えてしまう。喉を、体を震わせる歌ではなく、楽器というまったく別の概念を介して奏でられる音階は、わたしと一花をつなぐ細い糸のように、どこか頼りなげに聞こえた。

 気がつくと一花の指が止まっていて、辺りにはまた、波の音しか聞こえない。

「ねえ」

 一花が小さな声で、囁く。

「この曲に歌詞はあるの?」

「さあ」

 わたしは考えるふりをする。

「どこで聞いた歌なのかも覚えていないから」

 歌、ね。そう呟いて、一花はもう一度、弦を爪弾いた。流れ出るメロディー。溢れ出す音階。

「なら、あなたが作って」

「え?」

「莉緒が作るの。この歌の歌詞を」

 旋律が海を渡っていく。波の音と溶け合い、ひとつになる。

「この歌。わたしが昔聞いた、海の歌によく似ているわ」


 シャワーの音が聞こえる。

 たぶん、わたしが玄関を開け、そして閉めた音を、彼女は聞いているはず。今更こそこそしたって仕方がないから、わたしは自分の部屋で上着を脱ぎ、キッチンでお湯を沸かしてコーヒーの準備をしつつ、侑李さんが浴室から出てくるのを待った。

 食卓につく。窓から射す光が、テーブルの上を半分に区切っている。わたしは左手を光の中に、右手を影の中に置いて、じっと手のひらを見つめていた。光はやわらかく、影は冷たかった。

 テーブルのちょうど中央、光と影のあいだに、ポトスの小さな鉢植えが置かれている。わたしはそれを光の中に移し、両手を合わせた。左手は温かくて、右手は強張っていた。薬缶から湯気が上がっているのが見えた。

 侑李さんは濡れた髪をガシガシとタオルで拭きながら、ちらり、とわたしに目を遣った。黒い下着姿のままだった。

「おかえり、不良娘」

 わたしは苦笑して、すいません、と小さな声で言った。

「コーヒー飲みますか」

「うん。いつもみたいに濃い目で」

「でも夜勤明けで、これから寝るんでしょう? 大丈夫ですか」

 わたしは立ち上がりながら侑李さんに訊ねた。

「少し研修のレポートやってから寝るわ。バタバタしてて夜勤中にできなかったから」

 ふうっとため息をつき、侑李さんは椅子を引いた。そして煙草に火をつけて、まるで魂みたいに紫煙を吐き出したのだった。

「忙しかったんですか?」

「ちょっとね」

 唇を歪める。それ以上は言いたくないようだった。もっとも医療従事者には守秘義務があるから、当然、言えないこともあるのだろうと思った。

「彼女とはうまくやってんの?」

 侑李さんが訊ねる。ガスを止め、侑李さんが灰をこぼしてしまわないうちに灰皿を手渡す。豆を用意してあったネルの上にスプーンで乗せ、細くお湯を垂らしていく。ガラスのポットにコーヒーが少しずつ溜まっていく。

「ぼちぼち、ですかね」

「それで?」

「……それで、というのは?」

「これからどうするつもりなのかな、と思ってさ」

「どうもしませんよ。どうなるのかもわからないですし。ねえ、侑李さん。男と女だって、付き合っていてもわからないことは多いと思うんですけど」

 侑李さんはテーブルに肘をつき、手の甲の上にあごを乗せて、言った。

「そうだね。急に消えちゃうかもしれないしね」

 一瞬、わたしの手が止まった。ううん、違う。止まったのは、もしかしたらわたしの心臓、そのものだったのかもしれない。

「……ごめん。お父さんのこと、思い出させるようなこと言って」

「ううん」

 まさか、消えてしまうと言われて一花を思い浮かべたなんて言えるはずもなく、わたしはぎこちなく笑んでみせた。

「あんたさ、来年はどうするつもり? 進路のこととか、あたし訊いたことなかったじゃない?」

 わたしは考えるふりをした。そして、努めて平坦な声で言った。

「働こうとは思っているんですけどね。別に大学に行ってまで勉強したいこともないですから」

「看護師になるつもりとかは?」

「わたしには無理ですよ」

「遠慮してる?」

「してません」

 わたしはコーヒーをマグカップに注ぎ、ひとつを侑李さんの前に置き、もう一つを両手に持って、侑李さんの正面の席に座った。ポトスの葉が、ぴくんとゆれた。

「発電所ができれば少しは雇用があると思うけど。それもいつになるかわかんないし。正直きついんじゃないかな」

「反対運動もしていますしね」

 わたしには政治のことはよくわからない。『走れメロス』の主人公、メロスと同じように。だから住民の反対運動が正しいことなのか、それとも間違っているのか、それすらよくわかっていない。この町の海の生態系のことも、漁獲が落ちることも、わたしにはどうでもいい。工事の利権で潤う人間がいることもわたしには関係ない。そういえば、……メロスってギリシャ語で歌とか旋律って意味だったような。そんなことをぼんやりと思いながら、マグカップに口をつけた。

「ねえ」

 いつになく真剣な顔で、侑李さんは言った。

「あたしに遠慮なんかしなくていいんだからね。莉緒はあたしの、娘なんだから」

 わたしは言葉に詰まりながら、ありがとうございます、と、小さな声で呟いた。


 屋上でピーナッツクリームの入ったコッペパンをかじりながら、ノートに書き込みをしていると、蕾花が覗き込んできて、影ができた。幽霊には影がない、なんて話を聞いたことがあったのだけれど、きっと、嘘だろう。現に彼女には、こうして影があるのだから。

「来年から、どうするの」

 わたしは顔を上げずに、蕾花に訊ねた。

「わたしが卒業したら、もう会えなくなる?」

 影がふっと離れる。ノートが光を反射して、白く輝き、目に眩しい。書いていた文字が見えなくなり、わたしは目をしばたいた。

「莉緒」

 名前を呼ばれて、わたしは顔を上げる。

 蕾花は踊っていた。まるでバレエのピルエットのように。つま先立ちになり、小さく唇を震わせて、メロディーを紡ぎながら。くるりくるりと、回り続けている。

 春の日に照らされて、蕾花は本当に、綺麗だった。灰を混ぜたような臙脂色の制服が、スカートが、ひらめている。

 最後に優雅なレヴェランス。

 そして……なにを思ったのか、蕾花は姿勢を正すと、ボレロを脱ぎ、足元に捨てた。ジャンスカのホックを外し、脇のジッパーを引き降ろす。足から抜き去り、それも自分の傍らに放ってしまう。ブラウスの裾から、白い下着がのぞいている。靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ゆっくりとショーツを下ろしていく。ブラウスのボタンをひとつずつ外して床に捨てる。背中に手をやって、ブラも取った。

 気がつくと、蕾花の周りには、脱ぎ捨てられた制服と下着とが、散乱していた。

 長い髪を掻き揚げる。

 全裸でたたずむその姿に、わたしは唖然としながら、声をかけることもできず、ただ、蕾花を見つめ続けていた。指先が震え、心臓が早鐘を打ち、息もできなかった。

「あなたは制服を着ることでレーゾンデートルを得たのね」

 蕾花が鈴を転がすような声音で、言った。

「でも、わたしは違う。わたしは、制服を脱いで初めてわたしなのよ。じゃあ、一足先にいくね。……バイバイ」

 蕾花はそう言うと、屋上のへりに立ち、自分が身を投げた場所から、もう一度落ちていった。わたしは慌てて駆け寄り、一段高くなったコンクリートの部分に手をつき、地面を見下ろした。

 でも、

 そこには駐輪場の屋根があるだけだった。

 心臓が、壊れそうなくらい、胸の内側を叩き続けていた。目の前が真っ暗になった。わたしは泣きながら蕾花の名前を呼び続け、いつまでも、叫び続けていた。


 どうしたの、泣いているの?

 驚いたような一花の声に、わたしはのろのろと顔を上げた。ぼんやりと座っていた公園のベンチのその先に、一花がわたしを見つめて、立っていた。

「……一花?」

 どうしてこんな場所に、と思ったけれど、そんなこと、今はどうでもよかった。ただ、彼女が目の前にいるというそれだけで、粉々に砕けてしまいそうだった心を、どうにかつなぎとめることができた。

「鍵を、取り上げられたの」

「……鍵?」

 一花は小走りに寄ってきて、再び顔を歪めて涙を流し始めたわたしの頭を、ぎゅっと、抱きしめてくれた。

「どうしよう。どうしたらいい? わたし、わたし……もう会えない。会えなくなっちゃった」

「よくわからないのだけど……その、鍵? それはもう返してもらえないの?」

 一花の薄い胸に顔をうずめたまま、わたしは首を横に振った。涙がとめどなく流れて、一花のシャツを汚していった。

 屋上に無断で侵入していたことが学校に知られ、侑李さんも呼ばれて、わたしは説教を受けた。鍵は、返すしかなかった。それより他、なかったのだ。

 わたしと蕾花との絆は、完全に絶たれてしまった。もう、蕾花の気配を感じることも、できない。

 蕾花はいなくなってしまった。この世のどこにも彼女はいない。

 それを受け入れることができなくて、わたしはこんな児童公園の片隅で小さく丸まって、世界のすべてに対して呪詛を撒き散らすように、涙を流し続けていた。

 ううん、違う。わかっていた。本当はわかっていた。

 鍵があっても、なくても、なにも変わりはしないのだと。

 蕾花はわたしの元から去って行ったのだ。去っていって、もう二度と、会わないと決めたのだ。

 わたしは蕾花のいない世界に、今度こそ、向き合わなければならい。あの葬儀の日からずっと先延ばしにしてきた事実に、わたしは向き合わなければならないのだ。

 でも、どうやって。

 どうやってこの喪失を、心の空隙を、埋めたらいいと言うのだろう。胸が苦しくて、張り裂けそうだった。涙は止めどなく流れて、頬がひりひりと痛かった。泣きすぎて、肺が潰れてしまいそうだった。この遣る瀬ない気持ちを、一体、わたしはどうしたらいいのだろう。

「ごめんね、よくわかってあげられなくて。でも辛いことがあったのね。いいよ。気がすむまで泣いて。それで落ち着いたら……わたしのうちにいらっしゃい。ね?」

 耳元で囁かれる声に、わたしは小さく頷いて、それからさらに強く、一花の胸に自分の顔を押し付けた。空はいつの間にか真っ赤に染まっていて、カラスの声が、公園に響き渡っていた。

 夜が来る。

 そう思いながら、けれどいつまでもその場から離れることが、できなかった。


 一花の部屋。何度ここを訪れ、何度この部屋で……ふたりきりの時間を過ごしたのだろう、と考えて、わたしは小さくかぶりを振った。

 なにもない殺風景な部屋が、今はかえって、心地いい。多分、わたし自身が、がらんどうだからだ。

 薄い布団の上に制服のまま横たわり、わたしは一花に髪を撫でてもらっていた。一花はじっと天井を見つめていて、なにを考えているのか、あるいはなにも考えていないのか、わたしにはよくわからなかった。

 明かりはついていない。窓の外から差し込む光が、ぼんやりと部屋を照らしていた。色のない世界で、言葉もなく、時間だけが過ぎていった。

「一花」

 すっかり暗くなってから、わたしは小さな声で、彼女の名前を呼んだ。

 一花は少しだけ身じろぎして、でも……なにも言わない。応えない。天井をただ、じっと見上げているだけ。

「あの歌の歌詞、できたの」

「そう」

「聞いてくれる?」

「……うん」

 けれどもその言葉とは裏腹に、そしておもむろに、一花の指がわたしの制服を脱がし始めた。

 わたしは抵抗しない。それどころか、彼女が脱がせやすいように、体を浮かせて、協力するのを躊躇わない。ボタンを外す、ぷち、ぷち、という音。ジッパーを引く、低い、かすれた音。ブラウスの衣擦れの音。下着の刺繍を、爪の先が引っ掻く音。……そんな音が絡まり合う中で、わたしは、わたしという現象が変化していくのを、確かに感じていた。


 ——アザラシは、皮を脱いで、人間に化けることができるのだという。


 わたしはあの冬の日、一花とふたりで見た、彼女のことを思い出す。岩礁の上に横たわり、じっとこちらに黒い瞳を向けていた、一頭のアザラシのことを。

 わたしは、裸になったわたしは、ヒト……なのだろうか。それとも、制服という実在根拠を、存在事由を失くしたわたしは……人でも、アザラシでも、ないのだろうか。

 わからない。わたしには、わたしのことなんて、なにひとつわからない。考えることすらできない。ただ、感じるのは、触れられている一花の指が気持ちいいということ。一花に愛おしいと思ってもらえているということ、ただそれだけ。それだけが、わたしがわたしでいられる、よすがだった。

「……………」

 小さな声で、わたしは囁く。一花の耳だけに届くように。

「もっと、聞かせて」

 一花の細い指が、濡れている。動いている。わたしは押し寄せる波に眉根を寄せ、唇を噛んでやり過ごし、そしてまた、囁く。

 それは彼女の歌じゃない。もちろん、わたしの歌でもない。

 一花の、一花のためだけの歌。一花が歌うべき歌。


 ——わたしが一花に、捧げる歌。


 深夜。

 いつか来たあの小さな浜辺。一花はあの日と同じように、ギターを胸に抱えている。とても愛おしそうに。

 波の音が聞こえる。寄せては返す、際限なく繰り返される音が。

 コンクリートのブロックに腰を下ろした一花は、ギターの弦を軽く、爪弾いてみせる。幾つかのフレーズをバラバラに弾く、優美な動きを見せる指先。それは甘い痺れとなって、未だにわたしの中に、残っていた。

 街灯の寂しげな光は、スポットライトと呼ぶにはあまりにも侘し過ぎたが、それでも淡い光の中に浮かび上がっている一花は、とても綺麗に見えた。

 ふと気配を感じて、海の方を振り返る。どこからか、潮の匂いに混じって、甘い、花の香りが漂っている。それは金木犀の香りに似ているけれど、わずかに違う。だいたい金木犀は春に花を咲かせたりはしない。なら、この香りは、いったいどこからここに迷い込んできたのだろう。

 海に沿って視線を上げる。月は見えず、星も瞬いていない。雨の気配を宿した雲は、どこまでも頭上を覆っていて、空気は重い湿気を帯びていた。全天で一番明るいシリウスも、こんな空では見つけられない。明日は雨になるかもしれない。

 イントロが流れ出して、けれどもぱたりと、音が止まる。わたしは一花を見る。

 一花はわたしを見て、微笑んでいる。

 そしてまた、ギターの音が流れ出す。一花の唇が開き、白い歯がちらりとのぞき、そして、歌声が……。


 見て

 岸辺に冷たい波が

 寄せているわ

 白い飛沫が

 まるで雪みたい

 わたしはあなたを引き寄せて

 このまま消えてしまおうかって

 囁くの

 ねえ、海の歌が聞こえるわ

 わたしに向かって手招きしてる

 ねえ、海の歌が聞こえるわ

 あなたにはなにも

 聞こえないのね


 見て

 無数のやさしい嘘が

 浮かんでいるわ

 夜の波間に

 まるで夢みたい

 あなたはわたしに抱きついて

 もうどこにも行かないでって

 呟くの

 ねえ、海の歌が聞こえるわ

 わたしに向かって手招きしてる

 ねえ、海の歌が聞こえるわ

 あなたにはなにも

 聞こえないのね



〈了〉

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ねえ、海の歌が聞こえるわ。 月庭一花 @alice02AA

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