ねえ、海の歌が聞こえるわ。
月庭一花
第1話
二月の屋上は寒かった。
湿り気を帯びた風はずっと、身を切るように吹いていて、さっき買ったばかりの缶コーヒーは、すでに冷たくなっていた。それでもわたしは手放せずに、ちいさな缶を弄びながら、かたかたと震えながら、
「明日は雪だって」
ぱさついて、凍っていそうにさえ見えるサンドイッチを食みつつ、蕾花がそう言うので、わたしは思わず空を見上げた。雲に覆われた灰色の空が、どこまでも、どこまでも、広がっている。遠くの海は見えない。もっとも見えたところで、鈍色の冴えない鄙びた場所でしかないのだから、どうでもいいのだけれど。まったく。嫌になる。わたしは小さくため息をつく。それはまるでくだらない英文法みたいに、うんざりするような、冬そのものの姿だった。
わたしは缶の中身を飲み干して、立ち上がると、大きく背伸びをした。ずっと座っていて、足も、お尻も、痛くなっていたのだ。
「うー、ってあんた、オバさんみたい」
そう言って、蕾花は長い髪をかきあげならが、けらけらと笑う。むき出しの膝小僧が、かさかさしている。
「もー、寒くてだめ。教室戻る。もうすぐ予鈴だし。蕾花は? そろそろ食べ終わる?」
「……んー」
蕾花は立ち上がろうとしない。
「サボる」
「は?」
サボる? 授業を? 思わず訊き返してみたけれど、蕾花はしれっとした顔のまま、手にサンドイッチを持ったまま、ぼんやりと空を見つめているだけだった。なんにもない、灰色の空を。見上げているのだった。
「
「やだよ。こんなとこにいたら風邪ひくって。ねえ、冗談じゃなくてさ、早く教室に戻ろうよ」
ただでさえ、この時期、こんなところでお昼ご飯を食べるのは嫌だったのに。ここが蕾花のお気に入りの場所でさえなければ、わたしはたぶん教室でぬくぬくと、お昼ご飯を食べることができたはずだったのに。……などと思ったところで、蕾花のしたいことを、やりたいことをわたしが止められるはずもなく、しぶしぶと、今までだってどこにでも、いつだってついてきたのである。まるで、よく躾けられた、彼女の飼い犬みたいに。
「それに、冷えたから、おしっこしたいの」
わたしがそう告げると、蕾花はつまらなそうな顔をして、まるで野良犬を追いやるように、手をしっ、しっ、と振るのだった。
「屋上の鍵はかけておくからさ、わたしのことはお腹が痛くて保健室に行ったとか、適当に言っておいて。じゃあね、バイバイ」
「なに? 生理なの?」
「ふふん」
蕾花は手を振り続けている。わたしは舌打ちをする代わりにちいさくため息をついて、屋上をあとにした。バタン、というやけに大きな音がして、鉄の扉は、閉まった。窓のない暗い階段が眼下に続いている。
この学校の屋上は、本当は、閉鎖されている。誰も立ち入ることはできない。生徒がその扉を開けることはまず想定されていなくて、扉の位置も、不自然なくらい高い場所に設置されている。それに屋上には、ベンチはおろか、柵すら存在していない。あるのは空調の室外機のみであった。業者の行う機器の点検以外では、教師だってここには立ち寄らない。そういう秘密の場所の鍵を、蕾花がどこからくすねてきたのか、わたしは知らない。知らないけれど、それを手にしてにんまり笑みを浮かべていた彼女は、なんというか……とても彼女らしかった。
以来。わたしたちはことあるごとに生徒の、先生たちの目を盗み、この場所に入り浸っている。鍵の管理は蕾花の役目で、わたしは今までに一度も、その鍵に触れたことがない。鍵はどこにでもあるような簡易な物で、鈍い銀色の光を放っている、取り立ててなんの変哲もない代物であった。
菓子パンの袋と空き缶を廊下のゴミ箱に捨て、トイレに寄ってから教室に戻ると、ちょうど現国の
「
三田村が姿の見えない蕾花を探している。誰に、というでもなく、クラスを見回しながら、訊ねている。
「生理痛で保健室だそうでーす」
わたしは投げやりに答える。クラスメイトのクスクスと……いや、ひそひそとした笑い声があちこちから聞こえて、三田村が口を噤んだ。そしてそのまま、授業が始まる。
現国の、ましてや宮沢賢治の詩のことなんて興味があるわけもなく、わたしは窓のそとをぼんやりと見ていた。
なんでわたしは、蕾花と一緒に、授業をサボらなかったのだろう。
そんなことを思いながら。灰色の空を見つめ続けていた。
……なんでわたしは、蕾花と一緒に、授業をサボらなかったのだろう。
わたしは葬儀場に飾られた蕾花の遺影を見つめながら、自問自答していた。
そうすれば、蕾花は……自殺したり、しなかったのだろうか。
あの日。大雪が降った前日のあの日、わたしと別れた蕾花は、屋上から飛び降りた。ご丁寧に、靴をきちんと揃えて。
駐輪場の屋根を突き破って落下した蕾花の体は、一年生の自転車数台と絡まり合って、それはそれは無残なものだったと、聞いている。今ではその駐輪場に、下級生はおろか、先生だって近づきたがらない。
なぜ蕾花が自殺したのか、どうして飛び降りたのか、遺書も残されていなかったから、誰にもわからなかった。もちろん、わたしにだって、わからなかった。
あるいは……空に近づきたかった、だけだったのだろうか。
きちんと屋上側から鍵をかけ、誰も近寄らせず、すべてを拒絶するようにして、彼女は死んだ。
死んでしまった。
クラスメイトが涙を流したり、肩を抱き合ったりしているのを白々しく思いながら、わたしはじっと、蕾花の制服姿の写真を、ただ、見つめ続けていた。
葬儀が始まり、読経が聞こえ、お焼香が始まっても、わたしは蕾花の死を、うまく認識することができなかった。なにかの冗談のようにしか、思えなかったのだ。お焼香の列が、進んでいく。もうすぐ、わたしの番になる。侑李(ゆうり)さんから持たされていた数珠をなんとなく、改めて握りしめた、そのとき。
「お焼香って、これ何回やるのが正しいのかしら」
聞き慣れたはずの声で、不意に耳元で囁かれて、わたしは慌てて振り返った。後ろに並んでいたクラスメイトが、びっくりした表情を浮かべてわたしを見ていた。
その女の子のとなり、
そこに、いたのは、
「……なによ、幽霊でも見るような顔しちゃって」
クスクスと笑っているのは、
制服姿の、蕾花だった。
腰が抜けて、床にへたり込んだわたしに、周囲の人が不審がって、心配そうに覗き込んだり声をかけたりするその隙間から、蕾花はずっと、にこにこ笑いながら、わたしを見ていた。
「うわ、なんでこの写真使うかな。もっといい写真あったと思うんだけど」
蕾花は遺影を見つめて、苦々しい顔をしている。
「ねえ、わたしって写真写り悪い?」
そう問いかけられても、わたしは口を噤んだまま、どう答えたらいいのか、なにを言えばいいのか皆目見当もつかず、唖然とした心持ちで蕾花を見上げていた。
おばけ、幽霊、そんな言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡っている。というより、真を写すと書いて写真と定義するのなら、写りが悪いのは元が悪いから、ということになるはずで……。
「……言っとくけど、莉緒がなに考えてるか、ちゃんとわかるんだからね」
ああ。その言い方はまさしく生前の蕾花の口調そのもので、わたしは彼女の死を知ってから、初めて涙を流した。
しゃくりあげるように。
まるで、心の中のなにかが、決壊してしまったように。
「これ、あげる」
自分の葬儀のあと。そう言って蕾花は、わたしに手のひらを上に向けるように命じた。そして、その上にぽとんとなにかを落とした。なんだろうと思ってよくよく見ると、それは学校の屋上の鍵で、わたしは思わずびっくりして、その鍵を地面に落としてしまったのだった。
「あっ、馬鹿、ちゃんと持ってよ」
まったくもう、とかなんとか言いながら、蕾花は腰をこごめ、アスファルトの上の鍵を、拾っている。わたしは寒さのせいばかりじゃなく、奥歯がガチガチと鳴るのを感じたまま、黙って、蕾花を見つめていた。
しゃがんだまま、蕾花もわたしを見つめ返す。
「どうして?」
震える声で、わたしは訊ねた。
「だって、これがないと屋上に行けないじゃない?」
しれっとした顔で言うところが、またなんとも腹立たしい。だからだろうか、恐怖よりも怒りがまさった。
「蕾花はわたしにも死ねって言うのっ?」
わたしが叫ぶと、セレモニーホールに残っていたクラスメイトたちが、こっちを怪訝そうに見つめているのに気づいて、少しだけ、顔が赤くなるのを感じた。
「……そもそも、なんであんたは自殺なんてしたのよ」
わたしは小声で訊ねる。幽霊に、というよりも本人にそんなことを訊いていいものなのか、わからないけど。
蕾花はふふん、と鼻を鳴らして、そっぽを向いている。
「屋上なんて、行かないからね」
わたしはそう言って、きびすを返した。ホールの入り口に差し掛かると、なにやらひそひそと陰口を言われているのが聞こえてきたけれど、わたしはそれを無視した。後ろをちらりと振り返る。
そこにはもう、蕾花の姿は見えなかった。
なんとなくそのまま自宅に帰る気になれず、LINEで在宅なのを確認したあと、久しぶりにお隣の、……
「……お前、葬式帰りでそのままか」
玄関から顔を出した彰は、眼鏡の位置を直しながら、わたしの姿を見て、迷惑げにそう言った。
「うん。入っていい?」
「塩撒いてから入れよ」
不機嫌な声で呟き、でも、結局はわたしを招き入れてくれる。
中学までは一緒の学区だったのに、彰は街の進学校に、わたしは地元の女子校に通うことになって、めっきりと会わなくなった。最後に会って言葉を交わしたのは……夏だったような気もするし、秋だったような気もする。よく覚えていなかった。メールやLINEなら、ときどきするのだけれど。昔は線が細くてひょろりとしていたのに、いつの間にか肩幅も広くなって、喉仏も目立つようになっていた。彰も男なんだ、と、改めて思う。
「……泣いたのか」
「そりゃ、泣くでしょう。親友が自殺したんだもん」
彰はペットボトルのお茶をわたしに投げてよこしながら、ふうん、と気のない返事をした。久しぶりのこの部屋は、昔と同じ匂いがする。それがなんだか居心地が悪くて、けれどそれと同時に、どこかほっとするような、不思議な気分だった。エアコンで暖められた空気がやわらかくわたしたちを包む。
「ねえ、彰」
わたしは訊ねる。
「彰は、幽霊って、いると思う?」
「さあ。興味がないな」
興味があるかどうかじゃなくて、いるかいないかを訊いているのに。そう思ってイラッとした。
けれども……わたしは改めて考える。あれは、本当に蕾花の幽霊だったのだろうか。それともわたしの幻だったのだろうか。
よくわからない。
ただ、渡された鍵の感触は、妙に生々しかった。
もちろん。
突き返してしまったのだが。
「幽霊なんて見たこともないし」
彰は小さなため息をついた。
「だいたい、葬式のあとでする話じゃないんじゃないか」
「……うん。ごめん、そうだね。わたしが悪かった」
渡されたお茶と一緒に、心の中のわだかまりを飲み下しながら、彰に謝る。
そしてなんとなく押し黙り、しばらく手に持ったペットボトルを、いじっていた。
「そういえば彰のお父さんとお母さんは?」
日曜日なのに、ご両親の姿が見えないのが、少しだけ不思議に思えて、わたしは訊ねてみた。
「二人で出かけている。夜まで戻ってこないらしい」
ふうん、と頷きながら、そうか、今この家の中に、わたしと彰しかいないのか、と思う。
別に、取り立てて意識したりはしないけれど。
「LINEで言っていた話したいことって、幽霊がいるかいないか、なのか?」
彰がなんとなくあきれたような口調で、訊ねる。眼鏡の位置を直す。それは、子どもの頃からの彰の癖である。
「まあ、ね」
わたしも素っ気なく答える。
「実は今日、お葬式の途中で、死んだ子の……幽霊を見たの。それでね、色々と考えちゃって」
ちらり、と彰の表情を窺ってみるけれど、そこにはなんの変化も現れていない。
もっとも、自分自身……半信半疑なのだから、それも仕方がないと思う。自分だって急に幽霊を見たとか言われたら、きっと胡散くさく思ったことだろう。
「……うちの母親から顛末は聞いた」
彰は言った。
「お前が見たのは幻だよ。気に病むのは仕方のないことだとは思うけれど、自殺した子に責任を感じすぎるのは良くないんじゃないかと俺は思う。……あんまり自分を責めるなよ」
ボソボソと喋ったその声に、わたしは少しだけ驚いて、彰の顔を、まじまじと見た。
そして気がついたら、また、両目からポロポロと涙が溢れていた。
どうして泣いているんだろう。
なんで心が空っぽのように感じてしまうのだろう。
そんなことを考え、わたしは制服の袖で、涙を拭い続けていた。
じっと見つめているだけで、タオルもハンカチも貸してくれない彰を、ちょっとだけ恨めしく思いながら。
家に帰る。居間では
「ただいま」
「ん? ああ」
床に灰が落ちるのも気にしないで、侑李さんが生返事をする。見るとまだ湯から上がったばかりの様子で、顔が上気している。立ったまま、テレビを観ていたらしい。
侑李さんは、死んだお父さんの、再婚相手だ。
だから、わたしの、本当なら義母さんでもあるわけで、でも、お父さんが死んじゃったあとも……まだまだ年若いこの人のことを、義母さんと呼んでいいのか、今だにわからずにいる。
もう、お父さんが死んでから、二年近くも経つのに。
もっとも、お父さんが生きているときも、面と向かって〝おかあさん〟と呼んだことはなかったのだが。
「遅かったね。先にお湯もらったから」
「うん。……そんな格好していると、風邪ひきますよ」
わたしの忠告に、侑李さんはふふん、と鼻を鳴らす。
「大丈夫よ。あたし、風邪ひいたことないし」
唇の端だけを持ち上げて、侑李さんはニヒルな笑みを浮かべた。まるで、映画に出てくる悪役の幹部みたいに。わたしは苦笑を返して、着替えてきますね、と伝えた。
階段を上り、自室の扉を開けると、当たり前のように、蕾花がいた。
わたしの部屋で、制服姿のまま、ベッドに寝転んでファッション誌をめくっている。
わたしは唖然として、なんで、と呟いた。
「どうして蕾花がここにいるの?」
「だって、ほかに行くところがないんだもん」
逆にムッとしたように、頬を膨らませながら、蕾花が言う。
「ほかに行くところがないんなら、成仏すればいいじゃない」
わたしが抗議すると、蕾花は肩をすくめた。
「自殺したからねー。……死んでもどこにも行けないの」
その目が、なぜだかぞっとするほど冷たくて、わたしは息を飲んだ。
それは確かに、死者のものだった。死者の眼差しだった。
わたしは蕾花から視線をそらし、制服を脱いでいった。袖口からはほのかに抹香の匂いがする。ボレロをハンガーにかけ、ジャンスカのホックを外しているとき、ふと視線を感じて目をあげると、蕾花はじっと、わたしを見ていた。
「なに? 見ないでよ」
「いいじゃん。別に減るもんじゃなし」
声を荒げようとして、けれども下にいる侑李さんの事が気になって、わたしは小さな声で、見られていると落ち着かないじゃん、と抗議した。
「見られて困る裸でもないでしょ?」
蕾花はクスクスと笑っている。
「悪かったわね、どうせ貧相ですよ」
わたしがそう言うと、蕾花は急に真面目な顔になって、ごめんね、と言った。
「……なに? 急に」
「昨日さ、
確かに、蕾花の自殺のことについて、学年主任の植松に呼び出されたのだけれど……なぜそれを蕾花が知っているんだろう、なんて思って、ああ、そうか、もうこの子は死んでいるんだっけ、と、心の内で納得してしまった。
納得してしまった自分が、少しだけ情けなかった。
いたたまれない気持ちのまま、蕾花の自殺の原因を知らないか、と訊ねた植松の顔を、思い出す。そしてそれを、かぶりを振ってすぐに打ち払う。
「莉緒には迷惑かけたね」
「そう思うなら、自殺なんてしないでよ」
わたしは蕾花を睨みつけ、ブラウスのボタンをはずしていった。
下に降りて行き、台所を覗くと、珍しく侑李さんが料理をしている。包丁を持つ手があやしくて、なんとも見ていられない。そのうち指を切ってしまうのではないかと、心配になる。
「えと、……代わりましょうか」
声をかけると、
「余計なお世話」
すげない応えが返ってきた。
「カレーでいい? っていうか、それしか作れないけど」
わたしは彼女を見つめる。
モコモコのパーカーと、スエットのズボン。さっきは裸眼でいたけれど、今は赤いフレームの眼鏡をかけている。
侑李さんは、若くて、美しい。
どうして熊みたいだったわたしのお父さんと結婚する気になったのか、わからない。しかも父はこぶつきの中古品で、そもそも漁師の稼ぎなんてたかが知れているのに。それに、とわたしは思う。
父が海の事故で死んだ今も、赤の他人であるわたしと一緒に暮らしてくれている理由を……わたしは知らない。どうしてだかはわからないけれど、なぜだか訊いてはいけないような、そんな気がするのだ。
「早くお風呂に入ってきな。そんなところに突っ立ってないでさ」
「うん」
わたしは頷き、きびすを返す。
脱衣所で、籠の中に洗濯物を入れ、裸になる。鏡を見て、……侑李さんに比べると確かに貧相だなぁ、と思う。
すると、わたしの肩のあたりに、
「背中流してあげようか」
「うっさい」
わたしは鏡の中の蕾花を睨む。
「勝手に入ってこないで」
本当は、びっくりして悲鳴を上げかけたのだけれど、そんなことを言ったら蕾花を喜ばせるだけだと思ったから。ぎりっと奥歯を噛み、なんでもなさそうな顔で、わたしは精一杯強がってみせた。
わたしは入浴剤の香りがするお湯に浸かりながら、これからどうなるんだろう、と考えていた。
天井から水滴が落ちて、ぴちょん、と音がした。
学校の、いつもの席。窓際の、一番後ろの席。そこから蕾花の席を見る。見つめる。正確には、その、机の上を。
小さな花瓶に、白い花。
それが、蕾花がここにいた、証だった。
それだけが、蕾花の不在を示す、印だった。
蕾花はそんな自分の席の上の花瓶をしげしげと眺めながら。
「……わたしのイメージって百合だと思う?」
授業中にもかかわらず、わたしに話しかけてくる。どうせ授業なんて聞いていないでしょ? とでも言いたげな顔で、わたしを横目で見つつ。
「黒い薔薇とかじゃないだけマシなんじゃないの」
わたしは小さな声で答える。
「誰が置いてくれたのかしら」
「知らないわよ、そんなこと」
隣のクラスメイトが疑わしげな目で、ちらりとわたしを見た。わたしは慌てて口を噤み、窓のそとに顔を向けた。蕾花がそんなわたしを、ニヤニヤした顔で見つめている。
窓の向こう側には、二月の最後の、青くて冷たそうな空が、のっぺりとした表情で広がっている。
教師が黒板に、英文を書くカツカツという音が響いている。
……どうしたら蕾花は成仏できるんだろう。
わたしは指先でペンを回しながら、考える。
そもそも、
わたしにしか見えない彼女は、
……本当に蕾花なのだろうか。
ふと気づくと蕾花は姿を消している。教室の中の、どこにもいない。
もう一度、蕾花の席を見る。
机の上にはやっぱり、白い百合の花が、花瓶に生けられている。
お昼休みになり、わたしは教室を出て、校内をあてもなく歩き続ける。後ろからは、さっきからずっと、蕾花がついてきている。行き交う生徒たちは誰も、蕾花に気づいていない。誰も彼女に、目を向けようとしない。
「どうして屋上に行かないのよ」
蕾花がわたしに言う。
「今日はいい天気なのに」
わたしは答えない。教室でひとりもそもそとご飯を食べるのは惨めだし、便所飯なんてのもまっぴらごめんだ。
だからと言って、蕾花の甘言に惑わされて屋上に向かうのは、絶対に嫌だった。
ひとりであの空間に放り出されたら、わたしはきっと、発狂してしまうだろう。あるいは、……飛び降りたくなってしまうかもしれない。わたしは自分が想像してしまったことに対して、慄然として総毛立ち、足がすくむ思いがした。
蕾花がわたしを追い越す。長い髪がゆれて、ふわりと広がった。
「莉緒」
蕾花が不意に真剣な目をして、わたしの名前を呼んだ。
「……わたしの願いを聞いてくれたら、成仏できるかもしれない、とか……思わない?」
ため息をついて、彼女の横を通り抜ける。どこかの漫画やアニメじゃあるまいし、死者の願いを生者が叶えてあげるとか……なにそれって感じで、馬鹿馬鹿しくて文句を言う気にもならない。
わたしは結局校舎を抜け、裏庭の、陽の射さない寂れた場所のベンチに腰掛けて、菓子パンの袋を破いた。ペンキの剥げかけたベンチの傍らには、このあいだの雪が、汚らしい色合いで、未だに溶け残っていた。冷たい風が吹くと、スカートの中にまで冷気が沁みてきて、思わず身震いするほどであった。
蕾花がわたしの隣に座る。不機嫌そうに頬を膨らませている。
「結局外じゃん」
チョココロネの先端を囓る。もちろん、チョコにはまだ到達しないから、安いパンの味しかしない。紙パックのいちご牛乳にストローを刺し、一口啜る。甘い不健康な味が口の中に広がって、それでほんの少しだけ、幸せな気分になる。
たかだか数百円の食事で幸福になれるのだから、わたしもずいぶん安上がりな人間だなぁと、改めて思う。
「……あんたって、なにか食べているときが一番幸せそうね」
蕾花が生きていたときと同じ仕草で髪をかきあげ、呟く。わたしはそんな彼女の様子に思わず手を伸ばしかけ、けれども寸前で思い留まった。もしも、もしも蕾花に触れることができてしまったら、それは……なにを意味するのか。考えるとものすごく恐くなって、背筋がぞわっとした。
彼女は死者だ。
もう、この世に存在していては、いけないものなのだ。
そう思った。そう思うと、なぜだか急に泣きたくなってしまった。なぜだろう。不意に目頭が熱くなり、慌てて顔を逸らす。ぎゅっと歯を食いしばったまま、ポロポロとこぼれる涙に、気づかないふりをした。嗚咽をこらえる。……こんな姿、蕾花には見せたくない。見られたく、なかった。どうして泣いているのか、なにがそれほどまでに心を苛むのか、わたし自身にさえ、わからないのだ。
蕾花がじっとわたしを見ている気配を感じた。けれど、彼女はわたしに、触れてはくれなかった。
学校の帰り道。電車から降り、改札を出て。ふと見ると、駅前のコンコースに、まばらな人だかりができていた。不思議に思って足を止めて見遣る。そこには花壇を背中にして、小さな椅子に座り、ひとりの女性が弾き語りをしているのが人と人との隙間から、見えた。
「……それでは最後の曲です。聴いてください」
指先がアコースティックギターの弦の上を滑り、きゅ、と小さな音がした。そして、寂しげなイントロが流れ出す。
胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
聞き覚えのある曲に、そして彼女の低く、湿った、まるで冬空のような歌声に、思わず息を止め、聴き入っていた。
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに告げようか
ギターを爪弾く指先。紡がれる言葉。歌声。そして、彼女のうつむきがちな顔。唇から時折覗く、白い前歯。小柄な彼女が奏でるギターは暮れ始めた夕焼けの中で飴色に輝き、とても大切な宝物のように、愛おしげに胸に抱かれている。
曲が終わり、彼女が立ち上がって頭をさげると、集まっていた人たちが、ぱらぱらと拍手をして、散っていった。わたしはぼーっと彼女を見つめながら、立ち尽くしていた。
すると、不意に。
目と目が合った。
どきりとした。どきりとしてしまったことが、なんだか急に気恥ずかしくなって、慌てて立ち去ろうとした、そのとき。
「待って」
カタリ、というギターを傍らに置く音に、振り返る。
彼女がじっと、わたしを見つめている。
「……あなた、よくないものがついているみたい」
よくないもの、と言われて、咄嗟に蕾花の顔を思い浮かべてしまったわたしは不実だろうか。
「おいで」
彼女が、手招きする。
わたしはなぜか抗い難くて、ゆっくりと彼女の元に歩いていった。
「背中向けてもらっていい? ……そう、そんな感じ」
並んで立つと、彼女の小ささに、改めて驚く。童顔で、手足が細くて、年齢がよくわからない。まるで中学生のようだ。
そんなことを思いながら彼女に背中を向けると、わたしの背骨に沿って、二度、やさしく撫でられた。ただ、それだけだった。それだけなのに、なにか心が軽くなったような、不思議な感覚だけが残った。恐る恐る、振り返る。
「おまじない。効くといいんだけど」
あなたにかけられた魔法が解けますように。そう言って、はにかむみたいな不器用さで、彼女は笑った。
「ごめんね。わたし
差し出された手に、少し戸惑いながら、それでもわたしは、彼女の手を、握りしめた。ほっそりとした指の先は、思いのほか、硬かった。多分、ギターを弾いていると、そんな指先になってしまうのだろう。わたしは彼女が自分よりも年下なのか、それとも年上なのか見当もつかなくて、対応に困った。見た目に反して、彼女の声は低く、しなやかだった。
「……あなたは?」
「え? あ、えっと、
手をつないだまま、馬鹿正直に名乗ってしまったわたしを見上げ、月庭さん……と言っただろうか、彼女は笑う。
まるで、小さな春みたいに。
「莉緒」
ぼーっとしていたところに、不意に名前を呼ばれて、どきりとした。
「いい名前。それに不思議な色の目をしているのね。綺麗な瑠璃色。まるで……深い海の底みたい」
真顔でそんなことを言われると、照れてしまう。
「ありがとうございます。それより、手……もういいですか。恥ずかしいんですけど」
「ん? ふふっ、ごめんなさい」
月庭さんがぱっと手を離す。わたしはまだ温もりの残る右手を、そっと背後に隠した。
だれかと手を繋いだのなんて、いつ以来になるだろう。
恥ずかしい、と言ったくせに。強がったくせに。
彼女の手が離れてしまったことを、少しだけ、悔やんでいる自分がいた。
「高校生? その制服って……たしか船女よね?」
月庭さんが小首を傾げる。
わたしが着ている灰色がかった暗い臙脂色のボレロにジャンスカの制服は、古めかしくて、色形共に特徴的だから。この制服から学校の名前を推測することだって、不可能じゃない。というよりも、地元民なら誰だって知っている。ただ、口さがない人は、まるでアザラシみたい、と言って笑う。船女。御船女子高等学校というのが、わたしの通う学校の、正式名称である。
「大学んときのわたしの後輩が卒業生でね、その制服のこと、ちょっとだけ知ってるの」
……大学の後輩が、卒業生?
その言葉を聞いて、訝しそうにしていたのが顔に出てしまっていたのか、月庭さんはわたしの顔を下から覗き込むようにして、意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「もしかして……自分より年下だと思っていたのかしら?」
「いや、えーと……ちょっとだけ」
右手の親指と人差し指で、少しだけ小さな隙間を作る。
そんなわたしを見て、月庭さんは破顔した。
名が体を表す、なんて思ったわけじゃないけれど、それはまるで、月に咲いた花のような、可愛らしい笑みだった。
時々あそこで歌っているの、と彼女は言った。
わたしは歩くたびにふわふわとゆれるやわらかそうなマッシュボブの髪を横目で見ながら、小さく頷いてみせた。
「よかったらまた来てくれると嬉しいな」
彼女の背からするととても大きく見えるギターケースが、背中でゆれている。
「まだ越してきたばかりだから。この辺あんまり詳しくなくて。ねえ、とっておきのカフェとかない? 教えてくれたらおごってあげる」
カフェ、カフェねえ……。そんな小洒落たものがこの近辺にあったかどうか。
思案していると、
「……海の見える喫茶店、とかっていうのがあったじゃん。あそこでいいんじゃないの」
ちょっと不機嫌そうな蕾花の声が耳元で聞こえた。
あまりに不意で、わたしはきゃっと小さな声をあげて、慌てて振り返る。
けれどもそこには誰もいなかった。わたしたちが歩いて来た道が、延々と続いているだけだった。
「どうかした?」
月庭さんがわたしを見上げ、首を傾げている。
「あ、いえ。……ちょっと歩くけど、いいですか」
「うん。わたしは全然。ふふっ、どんなとこだろー。楽しみね」
小さな暗いトンネルは、いつもジメジメしている。壁にシミができていて、アスファルトも濡れていて、滑りやすい。時折わたしたちの横を、車が走り抜けていく。しゅーっと音を立てて。
わたしの隣では、月庭さんが小さな声で、歌を歌っている。
今日ですべてが終わるさ
今日ですべてが変わる
今日ですべてがむくわれる
今日ですべてが始まるさ
「……なんて曲ですか」
「泉谷しげるの『春夏秋冬』って曲」
「泉谷しげるって俳優さんじゃなかったでしたっけ」
「今も昔も、彼はフォークシンガーだわ」
そう言って、月庭さんは笑った。
「トンネルっていいね。音が反響して気持ちがいい」
わたしたちのコツコツという
「寒くないですか」
「んー。ちょっとだけ」
ピンク色のマフラーを、左手でいじりながら、はーっと吐き出した月庭さんの息は、白く濁ってトンネルの中の湿った空気に、ゆっくりと溶けていった。
「もう、三月なのにね」
「そうですね。でも、ここいらは、毎年、こんな感じです」
トンネルを抜ける。冬の名残の高い空。葉の落ちた街路樹。それから波の音。
くすんだ色の、ガードレールの向こう側を見つめる。
荒々しい波と、ごつごつした岩肌。岩礁。そして、その上に、一頭のアザラシが寝そべっていて、こちらの様子をじっと、うかがっているのが見えた。
遠くてもわかる。
「わ、うわっ、あれなに? アザラシ?」
月庭さんが興奮して、わたしの隣でぴょんぴょん飛び跳ねている。
「ええ。冬のあいだだけ、時々現れるんです。……珍しいですか」
「うん。だって、水族館でしか見たことないもん」
きらきらとした表情ではしゃいでいる月庭さんは、外見相応に幼く見えて、果たして自分よりも本当に年上なのかと、疑わしく思ってしまう。
「魚を獲るには、ちょっと邪魔なんですけどね。でも、この辺りには、アザラシは死んだ人の魂が、形を変えて戻ってきたものだっていう言い伝えがあって。だから人間は彼らに危害を加えないし、彼らもそれがわかっているから、人間を怖がったりしないんです」
わたしは自分の着ている制服と、彼女の体の色とを、見比べてみた。確かに、似ていないこともない、と思う。
そういえば、アザラシは皮を脱いで、人間に化けることができるのだという。
人に化けたアザラシは人間とのあいだに子どもを儲けることもできるけれど、結局、海に帰ってしまう。そんな昔話もあったことを、ふと思い出した。……誰から聞いたのかは、忘れてしまったけれど。
わたしも制服を脱いだら、違うなにかに変わるのだろうか。
変われるのだろうか。
結局のところ、昔話の中の彼らが死者なのか、それとも妖怪やあやかしの類いなのか。わたしにはよくわからない。ただ、今も彼らはずっとこの海にいて、人とともに、生きている。彼女のように。
少なくとも魂のままふらふらしている蕾花はアザラシには成れないのだろうな、と思うと、少しだけ切なかった。
それに。
アザラシから目を逸らして、思う。
あるいは今海辺にいる彼女も、そんな戻ってきた死者のうちの、ひとりなのかもしれない。
喫茶店で小一時間ほど時間を使い、わたしたちは別れた。帰り際にメールと電話番号を交換した。LINEは、と訊ねると、アレ嫌いなの、と言って、月庭さんは苦い笑みを浮かべた。
「……ねえ、その月庭さん、っていうのやめない?」
わたしはキョトンとして、彼女の顔を見つめた。
「一花って呼んでよ」
「でも……年上じゃないですか」
「あら。最初はそんなこと、思ってなかったくせに」
「っ、わかりましたよ」
わたしは喉を詰まらせて、小さくため息をついた。
「一花さん、で……いいですか」
「だめ」
いたずらをした子どもを叱るような目で、彼女はわたしを見つめている。
「呼び捨てにして」
「えっ? じゃあ、えっと、その……」
ごくり、と唾を飲み込む。
「……一花」
なぜだか首筋が熱くて、むず痒いのだけれど、一花が嬉しそうにしているから……わたしはまあいいか、と思って、小さく息をついた。
喫茶店の前で別れ、ひとり帰路につく。
わたしの傍には、いつの間にかムスっとした表情を浮かべた蕾花が寄り添っていて、恨みがましい目でじっと、こっちを見つめているのだった。とすると、一花が言っていたよくないもの、というのは、蕾花のことではなかったのだろうか。さっきも姿は見えなかったけれど、喋りかけては来たのだし。
ただ、ムッとしたまま、頬を膨らませている理由がわからない。もしかしたら、よくないもの、と言われたと思って、怒っているのかもしれない。
「……なによ」
そんなことを思いながら横目で見ていると、不機嫌そうに口をとがらせて、蕾花が言う。
「それはわたしの台詞でしょ? なんでそんな幽霊みたいな顔でわたしを睨むのよ」
「幽霊だもん」
ぷいっと顔を背け、けれどもそのまま消えることもなく、蕾花はわたしの隣を、同じ歩調で歩いている。
……幽霊にも足はあるんだなぁ。
そんな馬鹿なことを思いつつ、わたしは小さくため息をつく。白い吐息は魂のように、わたしの口からこぼれ出て、夕間暮れの空に散っていく。いつまでも潮の匂いと、波の音が、わたしのあとをついてくる。
上り坂の頂上まで来たとき、
「あっ」
不意に、自分の唇から言葉にならない言葉が漏れた。
蕾花は訝しそうにわたしを見て、歩みを止めた。わたしの見つめる先を、蕾花も見つめている。そこには。
彰がいた。
制服姿の彰は、同じ進学校の制服を着た女の子と、一緒だった。
立ち話をしながら。彰は相変わらず面白くもなさそうな顔で眼鏡の位置を直していて、名前も知らない女の子は、そんな彰を見上げて、それでも楽しそうに笑みを浮かべている。
そして、
ちらり、こちらを見た彼女の唇が、わたしに向かって侮蔑を込めて、アザラシ、と動いたように見えた。
どくん、と心臓が胸を打った。
そうか、と思った。
なにが〝そう〟なのか、自分でもよくわからない。わからないけれど、ひどくことんと音を立てて胸に落ちてきたなにかがあって、でも結局そのなにかに名前をつけることが、できないのだった。
変な気持ちだった。
彰が彼女のつぶやきに気づいて、こちらを向く、その前に。わたしはくるりときびすを返して、もと来た道を戻り始めた。
「馬鹿にされたのに逃げるの?」
蕾花が嘲るように、言う。
「違う」
「あんたの家、逆方向じゃない」
「うっさい」
「あれ、隣の家の、でしょ? ふうん、そうなの」
「ちょっと黙ってて」
「……あんなのが好きだったんだ?」
わたしは足を止めて振り返り、
「違うって言ってんじゃんっ、もうっ、出てくんな!」
蕾花を睨みつけた。
でも、蕾花の姿はすでに見えなくなっていて、そこには空を真っ赤に染める、大きすぎる夕焼けがあるだけだった。
家に帰る。
真っ暗な家内には人の気配はなくて、ああ、そうか、今日は夜勤だったっけ、と思う。
わたしの義理の母である侑李さんは、町のはずれの古い病院で、看護師をしている。このような夜が、月に四五回はあるのだった。
小さくため息をついて、わたしは部屋の中を見回した。部屋の片隅には黒い簡素な仏壇が置かれていて、お父さんの位牌が、そこからこっちを見返していた。仏壇には、お父さんの位牌しか、存在していなかった。
わたしのお母さんは、わたしを産んですぐに、出て行ってしまって、以来、消息は杳として知れない。そう聞かされていた。だから、わたしは本当のお母さんという人を、知らない。写真も残っていなかったから、どんな顔をしているのかさえ、わからないのだった。
お父さんは、お母さんの話を、わたしにはしたがらなかった。
夕ご飯、どうしよう。
冷蔵庫の中を見る。牛乳、卵、ハム、少し萎びた幾つかの野菜……碌なものが入っていない。
ただ、明日夜勤明けで帰ってくる侑李さんのためにも、なにか作り置きしておいてあげたい。だから、買い物に……外に、行かなきゃならない。
わたしはそんなふうに思うことにした。家の中で、ひとりで居たくない気持ちに、そんなふうに意味をもたせたのだ。
制服から私服に着替えようかと思ったけれど、面倒くさくなってそのまま玄関を出る。
そして、顔をうつむかせ、彰の家とは反対方向に、足を向けた。
しばらくしてから歩調を緩め、自分の吐き出した白い息の行方を、目で追った。
空には天の川が流れていた。
漁港のある町のスーパーなので、魚は新鮮で安い。けれども侑李さんはどちらかといえば、お肉の方が好きなのだ。よく漁師——それも子持ちの——と結婚しようとしたものだと思うけれど、昔から蓼食う虫も好きずきというくらいだから……
パン粉と玉ねぎはストックがあったはずだし、ハンバーグでも作ろうかな、と思ってひき肉を物色していたとき、スカートのポケットに入れていたスマートフォンが震えた。
誰だろう、と思って見てみると、一花からの電話だった。
慌てて指を画面に滑らせ、着信を受ける。
「もしもし?」
「あっ、もしもし莉緒? 唐突なんだけど、今莉緒がどこにいるか、当ててみてもいいかしら?」
「え、っと……本当に唐突ですね」
思わずひき肉のパックを持ったまま、苦笑してしまった。けれど。
「あなたは今、スーパーで買い物中。精肉コーナーでお肉を片手に、ニヤニヤしているわ」
「……え?」
わたしはびっくりして、スマホを耳に当てたまま、辺りをきょろきょろと見回した。
すると缶詰売り場の陰から、こっちに向かって手を振っている、小柄な女性を見つけることができた。ちょっと大き目のピーコートに、昼間も見かけた、ピンク色のマフラー。
一花だった。
「……ニヤニヤなんてしてません。変な電話がかかってきたから、あきれていたんです」
通話を切り、わたしは一花に苦笑を返した。
「莉緒もお買い物? 合い挽きなら……ハンバーグかな?」
ちょこちょこと、まるで母親を見つけた幼児のように歩み寄り、一花はわたしの手元を覗くと、上目遣いにそう言って、首を傾げて見せた。
やわらかそうなマッシュボブの髪が、さらさらと、店内の安っぽい照明を浴びて、肩の上で踊っていた。
「そういう一花は? も、ってことは……夕飯のお買い物ですか?」
「うん。……コンビニのお弁当にも飽きちゃって」
けれども一転、ばつの悪そうな顔をして、でもねー、と間延びした声で言った。
「料理なんて、したこともないから。いざスーパーに来てみても、どうしていいかわからなくて。だから結局缶詰かなにかで適当に済ませちゃおうかなって」
などと言い訳がましい事を言いながら、一花は自分の指先を見つめて、照れたように笑っている。
ピアニストなどは、指を怪我しないように、料理や家事をしないのだ、なんて話を聞いたことがあったけれど、一花に限って言えば、きっと、無精なだけなのだろう。
「よかったら」
わたしは言った。
「なにか……作りましょうか?」
そして、言ってから、自分が大変なことを口走ってしまった気がして、慌てて口を噤んだ。
今、もしかしたら、わたしはすごく間違ったことを口にしたのではないだろうか。そう思うと、背中につつっと冷たい汗が流れるのを感じた。
ただ、今日は……今日だけは、ひとりで過ごしたくない、と思った。あの家に居たくないと思ってしまった。隣の家を気にしながらじっとしているのは、嫌だったのだ。だから……そんな気はなかったと思いたいのだけれど、結果的には一花を、利用しようとして……しまったのかもしれない。
「本当? わたしはすごく嬉しいけど……莉緒はそれでいいの? ご家族は家で待っていないの?」
わたしは小さく首を横に振った。自分の気持ちを、気取られないように、少しだけうつむきながら。
「そう。じゃあ……わたしと一緒なのね」
一花はそう言って苦笑し、わたしの手首を掴んだ。
キッチンという場所は、不思議だ。
その家や、住んでいる人の、個性が現れる特別な場所だと思う。
わたしはほとんどなにもない空っぽの箱のようなキッチンにひとり立ち、途方に暮れていた。
香辛料がないくらいのことは覚悟していたけれど……まさか塩も砂糖も、挙げ句の果てには冷蔵庫すらないなんて、思ってもみなかった。おまけに包丁はぺらっぺらの安物で、本当に料理というものに関心がないのだな、と思った。魚を三枚におろすことすら、できそうになかった。
「ガスは通っていますよね?」
「ええ。……たぶん」
たぶん、てなに? たぶんって。
あきれて二の句も継げず、念のため元栓が開いていることを確かめてからコンロの栓を捻ってみると、しばらくカチカチという音がして、それから、勢いよく青白い炎があがった。
たったそれだけのことなのに、なんだか感動してしまう自分が、情けなかった。
小さなハミングが聞こえ、振り返ってみると、一花が窓際に座って外を眺めながら、鼻歌を歌っているのが見えた。
題名はわからない。ただ、昔ジブリの——タイトルは思い出せない。豚が飛行機に乗る映画だっただろうか——アニメで見聞きしたことのある曲のように、思えた。
わたしは一度火を消して、なにを見ているの、と訊ねた。ガラス窓に、一花の顔が映り込んでいた。
「星。ちょうど真上にね、シリウスが見えるわ」
わたしも寄って行って、一緒に空を眺めた。雲の切れ間に、ひときわ明るく輝く、青白い星が光っている。
「ねえ、知ってる?」
一花がすぐ近くから、わたしに向かって囁いた。
「シリウスはね、シリウスAとシリウスBというふたつの星からなる実視連星で……ふたつなのに、見た目はひとつに見える星なの。ふたりでくるくると回りあっているような、そんな星なのよ」
一花の匂いがする。吐息が、少しだけ、仄白い薄荷の色に染まっている。しめやかで、どことなくさびしげな……そんな匂いであった。
「……どうして」
そんな呟きが聞こえて、わたしは一花の方に顔を向けた。すると、まるで口づけができそうなくらいに彼女の顔は近くにあって、じっとわたしを見つめているのだった。
いつの間にこんなに距離を詰めたのだろう。そう思っても、なぜだか一花の視線から逃れることもできず、わたしは固まったまま、静かに一花の瞳を見つめ返していた。
少しだけ開いた唇から、小さな白い歯が覗いていた。
「どうして、泣いているの」
え?
わたしは慌てて自分の顔をこすった。頬も、目頭も、濡れてはいない。別に、泣いたりなんて、していない。
どうして……一花は、そんなことを言うのだろう。言ったのだろう。
「おいで」
一花が両手を広げる。
「——魔法を解いてあげる」
なぜか、
抗い難くて。
わたしは小さな彼女の胸の中に、すっぽりと収まった。
一花の唇が、そっと、わたしの耳に触れたのを感じた。
——アザラシの歌が聞こえる。
岩礁に寝そべり、冷たい波の飛沫を浴びながら、低く、やさしい声で歌っている。
わたしは白いガードレールから身を乗り出して、崖の下の
車も走っていない。ひと気のない夜。深夜と呼ばれる時間帯。雲の切れ間から星がひとつ光っている。吐く息が白い。
ひときわ輝くその星の名前を、わたしは知っている。
ふたつでひとつの青白い星。
全天で、一番明るい星。
アザラシの歌が続いている。
視線を空から岸辺に戻す。
よく見ると、アザラシの背中に、一筋の切れ目が走っている。じっと目をこらす。少しずつ、少しずつ。そこから、なにかが出てこようとしている。
それは背中だった。
白い、女性の、背中だった。
やわらかな黒髪が海水に濡れている。背中に張り付いている。
頭が出る。肩が、それに続く。ふくよかな乳房が見える。優美な曲線が腰に、そして嫋やかな腿に続いている。
冬の海は荒れている。けれども彼女は歌いながら、少しずつ、少しずつ。裸のまま、寒さを気にするそぶりもなく、人の姿をあらわにさせていく。
アザラシの皮が、足元で丸くなっている。彼女は歌い続けている。手を広げて、気持ちよさそうに。
歌声が止む。
彼女が振り返る。
見覚えはないはずなのに、どこか……懐かしいと思えるその顔を、わたしはじっと、見下ろしていた。
「おいで」
彼女がわたしを手招きする。
わたしはガードレールを乗り越え、崖のきわに立つ。吹き上げる風に、制服のスカートが大きく
「大丈夫よ。……あなたはわたしの——だから」
わたしはその声に促され、足を踏み出す。
体が海に向かって、落ちていく。
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