#808080

黒いもふもふ

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 灰色に塗りつぶされたキャンバス。パレットに乗った色とりどりの絵の具を筆でつついてはため息をつき、筆置きの灰色に染まった筆で灰を重ねる。キャンバスの前の少女は幾度もそれを繰り返していた。


「お嬢様、リリア様?」


 ワゴンを押して部屋に入ってきたメイド姿の女が少女に声を掛ける。ワゴンの上には白い陶器のポットと二組のティーカップ、そして焼き立てのスコーン。


「お茶にしませんか? スコーンも焼いたんです。」


 リリアはにこりと笑って筆を置いた。


「そうね。それが良いわ。手を洗ってくるから準備をしておいてくれる?」


 絵の具で汚れたエプロンを椅子の背にかけ、洗面所に向かう。



「レーネの焼いたスコーンは最高ね。」


 スコーンにジャムをつけながらリリアは言う。


「ありがとうございます。」


 レーネは紅茶を空になったカップへ注ぐ。



 リリアはため息をつく。キャンバスに向かっていた時と同じため息だ。


「進まないのよね。」


 レーネは眉を下げる。リリアはキャンバスに向かうたびに筆が進まないと言うのだ。彼女を慰めてもリリアは困ったように笑うだけで、きっと彼女の慰めにはならないということをレーネは知っていた。


「何を描けばいいのか分からないの。」


 壁一面の窓に向かって置かれたキャンバスを見て言った。

 窓の向こうには見事な花畑と少し離れたところに赤い屋根の小屋が見える。絵画を切り取ったような風景だった。


「窓の向こうのものをそのまま描くことはできると思うの。写真のようにそのままに描くことはできると思うの。」


 カップへ視線を落とす。


「でもそれは違う気がするのよね。」


 リリアはぐいとカップの中身を飲み干し、自身の頬をたたくと椅子から立ち上がり背伸びをした。


「それでもね。私、絵を描くのは好きなの。」


 レーネにそれだけ言うと、リリアはキャンバスへ向かった。




 お茶の片付けを終え、レーネは廊下を歩いていた。目的地は廊下の突き当たりの一室。

 ギィッと重い音を立て暗い色の木製の扉が開かれる。部屋の中には誰もいない。壁一面の本棚と数えるのも嫌になるほどのコードが繋がった機械の寝台。

 レーネは机に置かれた写真立てを見る。老人と老女、そして今と変わらぬ姿のリリアが写っている。


「旦那様は……本当に恐ろしいものを残していきましたね。」


 ぽつりと呟いた言葉は誰に聞かれることもなく、空へと消えた。




 リリアは白い機械の寝台にうつ伏せになっていた。隣に立つレーネがリリアの首筋にコードを差し込んでいく。


「お嬢様、おかしなところはありませんか?」


 首筋のコードの先にある機械が「大丈夫よ。」と発する。レーネはその言葉に安心し、作業を進める。


「面倒なものね。」

「仕方がないでしょう? お嬢様の義体は非常に高度な技術で作られています。メンテナンスもそれ相応なものが必要なんです。」


 寝台横の機械のキーボード叩きながらレーネはリリアの言葉に答える。


「分かってはいるのよ。ただ、毎回レーネの手を煩わせるのは申し訳なくて。」

「そんなことはないですよ。それよりも私はお嬢様の体を信頼できない方に預ける方がもっと嫌です。」



 この日は簡単なメンテナンスだけなのでそれほど時間はかからなかった。


「私も免許を取っておけばよかったかしら。お父様にもっと色々教えて貰えばよかったわ。」

「大丈夫ですよ。私はただのアンドロイドです。お嬢様がそこまで気をやる必要はありません。」




 廊下の突き当たりの部屋にレーネはいた。何か思うことがあるたびにレーネはここに来る。この部屋ならば、リリアは来ない。彼女はこの部屋に来たことはこの部屋の主が亡くなってから一度もなかった。




 窓の外では雨が降っている。

 リリアはキャンバスの前の椅子に座っていた。椅子の向きは逆に、背もたれに肘をついている。


「やっぱり、違うのよね。」


 灰色のキャンバス。部屋の隅には様々なおおきさのキャンバスが置いてある。どれも灰色のキャンバスだ。

 ノックの後、レーネが部屋に入ってくる。


「また、悩んでいるのですか?」


 リリアは頷いた。


「私、レーネの絵、好きよ。」


 レーネの顔を見て言う。

 部屋の壁には風景画がかかっていた。青い空と白い雲。ただそれだけの絵だ。


「やっぱり、アンドロイドは絵が描けないなんて嘘ね。」

「このあいだの雑誌の?」


 リリアは頷く。屋敷に定期的に届けられる雑誌の一ページに載っていたのだ。どこかの評論家の言葉だった。


「だって、こんな絵が描けるんだもの。それに比べて私は絵が描けない。逆ね。逆。」


 リリアは笑う。


「灰色は『分からない』の色なの。」




 レーネは知っている。アンドロイドが絵を描けるように、人のように描けるように死の間際までコンピュータに向かっていた人間を知っている。結局、彼は機械の寝台の上で息をひきとるまで、「人と同じ絵」というなんとも哲学的な問いへの回答を得ることはなかった。だから「分からない」なのだ。

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