手呪い
小早敷 彰良
第1話
これは、私がやったことではない。そこだけは最初に弁明しておこうと思う。
でないと、なんてことをしてくれたのだ、と抗議されることは必至だろうからだ。埃の被った文章だ、まさかその地域の人たちが読んでいるとは思わないが、一応きちんと記載しておく。
これは手習いで呪いを生み出した話だ。
仮に「手呪い」と名付ける。
※
彼女がその神社にたどり着いたのは真夏の昼間のことだった。
妙齢の女性が初詣でもないのに神社にやってきたのは、午後から始まる同窓会までの暇つぶしのためだ。
暑い日だった。木々の多い神社の境内は気温が低く、彼女はほっと一息ついた。
喫茶店で涼まなかったのは問題があったからだ。
神社のすぐそばにはチェーン店の喫茶店が複数あるけれどそのどれもが問題を抱えていた。
客層だ。地域性とでもいうべきだろうか。妙齢、よりも少し年齢層が高い女性が多く、四六時中席を占領している。
彼女たちは自分たちが決めたルールに従わない者たちには大層厳しかった。ルールそのものは一般的な、静かにするだとか、同意出来る内容なのだが、ルール違反を見つけた時の行動は酷いの一言だ。
まずは金切り声の絶叫。その次には暴力。普通にグーで殴られる。顔や腹、急所だろうとお構いなしだ。それでも出ていかないとなると、ルール違反本人だけでなく、ルール違反の周囲にいた人物、店員、はてはその輪に加わっていない全ての人物が同じ刑に処される。
追い出された本人としてもあの厳しさ、恐ろしさは保証する。
そう、私は知らずその街の喫茶店を訪れていた。自分は近隣で評判の青紅葉の写真を撮ろうとこの地域を訪れていたのだ。
明らかに常軌を逸した態度が、その街の喫茶店のルールだった。
ルールと暴力を許容できない者は全て、テイクアウトでのみ喫茶店を利用するのだという。
彼女はそう、私に説明して苦笑いした。
「深い怪我がなくて幸いでしたね、居座った中学生がリンチに合ったばかりです。」
「そんなことして捕まらないなんて信じられないですね。立派な傷害ですよこれは。」
腕にはしっかりと青あざが出来ている立ち寄って十分足らずでこれだ。
境内にひっそりと設置されたベンチに腰かけて、星野氏と私はクリームのたっぷり入った飲み物を啜っていた。
「先ほどはありがとうこざいます。あの騒ぎの輪から助けてもらって。」
「いえいえ。あのような人間はいますが大事な地元です。悪い思い出ばかりで帰ってほしくない。」
文句とフラペチーノを飲み込む。
「こんな話があるんです」彼女は言った。
「この街は悪い土地に立っている。暮らしているだけで理性を奪われていく。だからある一定の年齢に達した人間はあのような、欠けた人間へと変貌する。」
霹靂とした顔を帽子のつばで隠す。やはり彼女もこの街の住民のようだ。街の不始末の言い訳としては下の下と言っていい。
「変な言い訳をつけないで、きちんとこまめに通報した方が良いと思いますよ。」
そんなことは今となっては分かっているのです。彼女は頷いた。
「子どもだった私たちはこの街の大人たちがどうしてこんなにも怒りっぽいのか、訳がわからなかった。わからないことを考えるのは苦しいものです。何とか理屈をつけたかった。よりどころがあると心を広く強く持てるものですから。」
彼女は中学生の頃演劇部だったという。その頃に身に着けたのだろう、芝居がかった身振りで彼女は言った。
「だからよりどころとしてこの街の伝承を作ることにしました。それが先ほど話した悪い土地の話です。」
ただ悪いことばかりでは伝承らしさに欠ける、と彼女は話す。
「集めた理性で知識を授ける存在も設定しました。ちょうどこの神社で儀式がなされるとしたような。」
彼女は空になったカップを手に立ち上がった。
「儀式の場を見せましょう」
神社の隅には朽ちたしめ縄がかかっていた。その先には分厚い泥から石畳が覗いていて、道があることを示している。
「心配なさらず、これも私がかけたものですよ」
彼女はしめ縄を軽々と乗り越える。物見雄山気分で、私も彼女の後に続いた。
先程のベンチから鳥居を三個くぐった先、開けられた祠にあったのは黒ずんだ無数の球体だった。
祠は恐ろしく汚れていた。泥と落ち葉にくまなく覆われており、動物の排泄物のような異臭も放っている。これらも伝承らしさの演出だろうか。
彼女は躊躇なく祠に触れた。
「この球はスーパーボールです。懐かしいな、ここに置いたんですよ。根源はこれだって設定して。まだ残っていたのですね。」
彼女が球を一つ摘まみ上げる。
「おっと」数個が祠の外へ落ちる。
私は声をあげて驚いた。
「どれも私が置いたものですよ。何を恐れているんですか。」
今更、冒涜に驚いた訳ではない。
彼女の指がどんどん黒ずんでいっていた。落ちた地面に、長年の風雪の汚れにしては大量の汚濁が流れ出ている。
肩に衝撃を受けて目をやると、彼女が振り上げた拳をもう一度私の肩に叩きつけるところだった。
「いやわかるぞ。何が恐ろしいのかを」
歪んだ醜い口元、握られた拳。喫茶店の客と同じだ。
私は即座に逃走した。背後からは彼女の金切り声が聞こえる。
しめ縄を勢いよく飛び越えて、私は振り返る。
そこにいたのは鬼だった。角や牙が生えていたとかそういう訳ではない。ただ、自身の生存本能が警鐘を鳴らす存在が佇んでいた。
彼女が冒涜したからか、それとも元々そうだったのか。その祠は伏魔殿と化していたのだ。
瞬きの内に鬼は消え、代わりに女が走ってきた。
※
その後、私は全力で逃走し事なきを得た。小説家でもない一般人なのだから逃げの一手を打ったのは間違いではないと思う。どこかの漫画家とは違うのだ。
気がかりがある。
逃げる途中しめ縄があり、鬼はそこを踏み超えることはしなかった。女も同様だ。
境内から出る直前、女の金切り声に根負けした神主が朽ちたしめ縄に手をかけるのを見た。
中学生の頃書いた演劇部の脚本だなんて手習いで、鬼の母となった彼女は今どうしているのだろう。
そもそも手呪いを作る人物なんてたくさんいるのに、なぜあれだけは顕現し得たのか。
それが気がかりで仕方がない。
もしかしたら手呪いは沢山あるのかもしれない。嫌な話だ。
手呪い 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa
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