翡翠の夢渡り(後)

「聞いたよ、山で迷ったんだって?」

「あやうく捜索隊が出されるところでした」


 病院の個室に叔父を見舞った聡二郎は、開口一番に揶揄われて硬い椅子の上で小さくなる。


「こうして無事に戻ってきたからいいけど。でも、気をつけないといけないよ」

「はい。しかし、不思議な体験をしました」

「そうなのかい?」


 病弱とまではいかないが、叔父はもともと体が頑強ではなかった。さらに戦争で片脚も失い、全国を回る民俗学の研究を諦めた。

 その後、代議士一族の一員となった叔父の政界での働きぶりは、まだ子どもだった聡二郎から見ても生き急いでいるようだったと思う。


 半年前にとうとう倒れ余命宣告を受けた時も、別段驚いた様子は見せず、むしろ『ようやくか』と呟いていたのをよく覚えている。

 そうして今は、自分の残した成果である彼の地の保護認定を見届けて逝くのだと、鷹揚に笑っているのだ。


 先週からという風邪の咳も治まらず、脚の古傷も傷むはずなのに、こうして聡二郎の面会を喜んでくれている叔父。

 親のように慕ってはいても、追いつけない存在だとも思う。

 そうはいえ、先日の珍しい体験が気晴らしになればと、聡二郎は山中での出来事を詳しく話した。


 霧で分かれ道に気付かず迷ったこと。

 日が暮れる寸前に、河原で女性と出会ったこと。

 招かれて馳走になったが、朝には廃墟で目覚めたこと。


 どうしてか、珠江の名は告げられなかった。

 秘めておきたいという不似合いな感傷に、自分でも苦笑する。


「……翡翠の盃?」

「ええ。それを持って小屋の前から続く道を辿ったら、例の『山桜と白い大岩』の分かれは目と鼻の先でした」


 何の苦労も、道に迷うこともなく里に下りられた。

 ところが、山で聡二郎を助けた女性に心当たりのある村人は誰もいなかった。

 以前は確かに違法に採掘をする者もいたが、入山が規制され見回りも厳しくなった。少なくともここ最近は、闇採掘師の姿など見たことがないと口を揃える。


「そんな次第で、叔父さんが昔通ったという渓谷の写真は撮れなかったのですが……?」


 聡二郎の詫びを、叔父は聞いていないようだった。

 今日は良かったはずの顔色を青くして、うわ言のように「翡翠の」と繰り返す。


「盃ですか? こちらです」


 小布に包んだ器を鞄から取り出し、叔父に渡す。

 この翡翠の存在は誰にも知らせていない。

 見せるなら叔父だけだと、なぜかそう心に決めていた。


 震える手で包むように受け取った叔父は、涙を堪えているようだった。

 そのまま、辛そうにゴホゴホと咳き込んだ背中をさする聡二郎を見上げる。


「……これを使わせてもらっても、構わないかね?」

「ええ、もちろん」


 軽くゆすぐと、水を注いで叔父の手に戻した。

 すっぽりと包まれた盃は、まるでずっとそこにあったかのように叔父の手に馴染み、器も喜んでいるように見える。

 唇を湿らせるように、大事そうに水を飲むと叔父は細く息を吐いた。


 ――珠江、と唇が動いたように思ったのは、聡二郎の見間違いだったかもしれない。


 その晩、容体が急変した叔父はそのまま帰らぬ人となった。

 聡二郎が渡したあの水が、最後に口にしたものだったという。





「――というようなことがありました。亡くなった叔父が穏やかな顔をしていたのが印象的でしたね」

「そんなことが……なにか不思議な縁を感じますね」


 華やかな振袖で穏やかに微笑むのは、見合い相手の女性だ。

 結局、断ることをせず会うことに決めたのは、珠江の言葉が心に残っていたことが一番の理由だった。自分と関係のない誰かに、この話をしてみたかったのかもしれない。

 親族が一旦退いた二人だけの席で、向かいの女性――文子ふみこは小さく首を傾げる。


「聡二郎さんが訪れた地には、万葉の言い伝えがあるのをご存じですか」

「万葉?」

「祖母が向こうの出で、私も聞いたことがあるだけですけれど」


 文学には疎い。そう告げる聡二郎に気を悪くしたふうもなく、自分もそんなに詳しくはないと軽く返される。


奴奈川ぬなかわひめの伝説と、水底の玉を詠った句があるのです。お話を伺って、それを思い出しました」

「水底の玉ですか」

「翡翠のことだそうです」

「……なるほど」


 このご時世に伝説もないだろう。

 だが、一笑に付してしまえるような小さな合致でも、それを奇妙に思うより納得する気持ちのほうが大きかった。


「叔父様は、民俗学をなさっていたとのことですし、なんとなく」

「それもそうですね」


 叔父が学問を諦めたのは、戦争がきっかけだと思っていた。

 だが、もしかしたら、あの地と翡翠を守りたかっただけなのかもしれない。

 その理由のほうが、少し浮世離れしたあの叔父にしっくりくる。


「奴奈川姫は、大国主命おおくにぬしのみことの強引な求婚を上手くかわすことができるような、賢い姫だったのですって」

「はあ」

「強い権力者から逃げおおせて、好いた相手と結ばれたら素敵だと思いません?」


 ――人の身の枷を解かれた叔父と、二人で手を取り合って。

 まるで良くできたお伽話だ。


 だが。


「……なかなか夢のあることを仰る」

「呆れました? 子どもっぽいでしょうか」


 肩を竦める文子の姿が一瞬、地味な銘仙を着た珠江と重なる。

 比べるなんて失礼ですよ、と叱られた気がした。


「いえ、良いと思います」


 知らず力の抜けた笑顔を浮かべる聡二郎に、文子が少し遅れて頬を染めた。

 困ったように視線を泳がせ前髪を気にする様子が、聡二郎の目に微笑ましく映る。


「あの……その、もう少し大人になれと、いつも叱られておりまして」

「はは、僕もです」


 ぽろりと零れた素の困り声に、聡二郎は小さく吹き出してしまう。

 照れた表情のままほっとした様子で、文子は話題を変えた。


「そ、それで、その盃はどうなさったのです?」

「ああ、あれは両方とも叔父の棺に入れました」


 二つの翡翠は叔父に託すのがいいと思った。

 夫の帰りを待ちわびる彼女はきっと、盃を交わすのを楽しみにしているだろうから。


「ようやく二人で……」

「え?」

「いえ、なんでも」


 独り言を誤魔化して窓の外に目を向けると、庭石の陰から二羽の小鳥が睦まじ気に飛び立つ。

 聡二郎の脳裏には、遅くなったことを詫びる叔父の姿と、駆け寄る珠江の姿が浮かんだのだった。






 了





ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも あたらしき君が老ゆらく惜しも(万葉集十三・3247)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

和風な短編集 小鳩子鈴 @k-kosuzu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ