翡翠の夢渡り(中)
しばらく山中を歩いて着いたのは、珠江の言葉通り、家というよりは小屋と呼んだほうがいいような小さなあばら家だった。
しかし中に入ってみると床も柱も磨かれており、囲炉裏の周りには数少ない家財道具がきちんと整理されて置かれている。
さすがに山深いここまで電気は通っていない。
電灯はなくランプだったが、ガラスのホヤに煤や曇りはなく、十分に明るい。
珠江の暮らしぶりがよく分かる住まいだった。
一日中歩き回り、埃にまみれた自分のほうがよほど汚れていると恐縮しつつ、勧められて火の側に座る。
じんわりと伝わってくる温かさに、深く息を吐いた。
珠江は囲炉裏の熾火を燃え立たせると、その上の鉤にかかった鍋の蓋を開け、くるりと木匙でかき混ぜる。
「お腹は減ってございません?」
ほかりと湯気を上げる汁の匂いに、盛大に腹が鳴った。
片手で腹を押さえ、もう片方の手で気まずげに頭を掻く聡二郎に、珠江が口元をゆるめる。
「魚も卵もなくて、お若い方には物足りないでしょうけど」
「なにからなにまで、すみません」
夫がいれば用意していたのだが、と申し訳なさそうに言って、冷や飯を足して煮込んでくれた。
聡二郎の体は自分で思うよりかなり冷えていたらしい。刻んだ野菜を入れた雑炊がたっぷりとよそわれた椀を受け取る両手が、小さく震える。
あのまま河原にいたら、風邪を引く程度では済まなかったかもしれない。今更ながらに家へと招いてくれた幸運を噛みしめた。
「……旨いです」
「そう、よかった」
かろうじて一言だけ告げて、聡二郎は幼子のように一心に熱い雑炊を頬張る。
人心地がついたのは、おかわりを二度して腹の中も外も温まってからだった。
「さ、こちらもどうぞ」
あいにく茶葉はないと、出してきたのは酒だった。
出された酒器に聡二郎は目を見張る。
「これは……」
「綺麗でしょう?」
手に馴染む盃は、翡翠でできていた。しかも、翡翠と聞いて思い浮かべる翠色ではなく、とろりとした薄い青色――水浅葱色の青翡翠だ。
「ふふ、夫の気に入りなのです」
「ああ、それでは」
「いいのですよ、お客様ですから」
大事なものなら、と遠慮しようとした聡二郎の手に、珠江は朗らかに笑って盃を持たせる。
この近辺を保護区に指定するにあたり、国からの依頼を受けて行った調査には自分も関わった。産出される鉱石についてもよく調べたから、この翡翠がどれほど希少なものかは分かる。
これと同じ程度の青翡翠など、聡二郎は過去に一つしか見たことがない。
「……叔父も、似たようなものを持っていました。こちらよりは小さめでしたが」
「あら。では、女持ちかもしれませんね」
屈託のない珠江の言葉に、聡二郎はあいまいに頷く。
民俗学の研究者だった叔父の家には、訪れた全国各地の様々な物があった。
郷土玩具や出土品も多かったが、日用品はなるべく普段から使うようにしており、入院前まで晩酌に使っていた気に入りの猪口が翡翠だったのをよく覚えている。
大きさや飲み口の角度など細部は当然違う。だがよく似た印象で、並べたら夫婦用にも見えるだろう。
もっとも、青翡翠の酒器、というだけで揃い物のように感じるのかもしれないが。
囲炉裏の炎を受けて、なめらかな光沢を纏う盃を眺め続ける聡二郎に、つ、と徳利から酒が注がれた。
「器もいいですが、お酒もよろしいですよ」
「……では」
注がれた冷酒はほのかに甘く、するりと喉を通る。
遅れて立ち上る酒精が疲れた体に堪らない。飲み口は軽いが、かなり強い酒だ。
「河原にずっといらしたのなら冷えましたでしょう。お風呂はありませんので、飲んで温まりませんと寝付けませんから」
「ですが、過ごしてしまいそうです」
「ええ、後はお好きな具合でどうぞ」
人の酌で飲むのに聡二郎は慣れていない。構い過ぎない珠江の給仕をありがたく思いながら、徳利を受け取った。
「こちらへは大学の研究で、とのことでしたけれど」
手酌で飲みながら話題を探していると、珠江のほうから話を振ってきた。
「はい。地学調査を」
「地学……」
「ああ、あの、地学の範囲は広いのですが、自分がやっているのは地質学です。ええとですね、この辺りには本州を横断する特別な地層がありまして、それを調べに」
「学者様は難しいことをなさるのですねぇ」
聡二郎の説明に目を丸くする珠江だが、そこに面倒がるような表情はない。
問われるままさらに詳しく話したが、相槌を打ちながら聴き入ってくれた。久しぶりに人と話したと、それは嬉しそうにする。
珠江は里の者と交流はほとんどないらしく、村長や役人の名前を出してもきょとんとして、誰か分かっていない様子だった。
闇採掘師であれば没交渉も当然だが、それにしたって、もう少し疑われないように情報を仕入れたり、口裏を合わせるくらいはしそうなものだが。
彼女の夫はどうやら妻を厄介ごとからは遠ざけて、大事に箱にしまっておく男らしい。
素性を怪しむ気持ちが無くなったわけではない。
とはいえ、聞き上手な珠江のおかげか、うまい酒のせいか。普段は口下手な聡二郎だが思いのほか話が弾む。
地層の話をしていたはずが、いつしか話題は家族のこと、持ってこられた縁談にまで及び、しかも聡二郎は自ら明け透けに話していた。
「釣書くらいご覧になってもよろしいのじゃありません?」
「必要ありません」
「頑なですねえ。会いもしないうちに、人となりなど分かりませんよ」
ランプに照らされた珠江の瞳が楽しげに細められる。
「そのお嬢様の目的が、ご実家の名とは限りませんでしょう」
「ほかになにがあるっていうんです」
「そんなにいじけなくても。聡二郎さんは立派なのに困った子ですね」
袂で口元を隠して笑いだした珠江に、聡二郎は少しムッとした。
どうやら珠江は人をからかうのも好きらしく、先程からこうして聡二郎を子ども扱いするのだ。
「……珠江さんが言えるような年齢では」
「あら私、けっこう年増でしてよ?」
「またご冗談を。どう見ても僕と同じか、むしろ少し下くらいでしょう」
「嘘じゃありません」
「はいはい」
おざなりな聡二郎の返事に、今度は珠江が口をとがらせる。ますます年上には見えない。
「もうっ、私は聡二郎さんよりもずっと長く生きているんですから」
「わっ!?」
珠江は挑むように、ずい、と聡二郎のすぐ隣へと膝を詰めた。
あまりに近い距離に、盃に入れた酒が揺れる。
「ほら、お酒だって」
こちらの動揺などお構いなしに、珠江は聡二郎の手から翡翠の盃を取り返すと自分の口許へと運ぶ。
くい、と飲み干すと徳利を寄せて自分で注ぎ、立て続けに二杯三杯と呷っていく。
「……ふぅ」
「っ、」
盃を空にして、形のいい唇が息を吐く。
紅をさしてもいないのに色づく花弁のようなそれに、目が奪われた。
さらに杯を重ねようとする珠江に、聡二郎ははっと我に返ると慌てて盃を奪い返す。そんな飲み方では確実に悪酔いをする。
「わ、わかりましたっ、珠江さんは年上です。はい、もう、それでいいですから」
「心配しなくても、お酒ならまだありますし」
「そういう問題では」
「なら、どういう問題です?」
それが分かっているなら、男の前でこんな飲み方はしないだろうに。
目元を染めて下から覗き込んでくるあどけなさは、どうしたって年上に見えない。
やはり無理に飲んで見せたのだろう。肩が触れるほどの距離のまま、珠江は膝を崩してすっかりくつろいでしまった。
酒が回って暑くなったのか、白い手でぱたぱたと顔を扇ぎながら、並んで座った囲炉裏の灰へと視線を移す。
「長く生きてきましたから、多少は人のことも分かるようになりました」
「は、はあ」
「お家の方は頑固ですね。でも、聡二郎さんも意地っ張りです」
「そう、でしょうか」
「よく似てらっしゃいます。お互い、期待しすぎで気にしすぎなんですよ。でも……私も同じかも」
声は聞こえるが、それよりもすぐ隣にいる珠江のほうが気にかかる。
何気なく床についた手の小指が重なる。触れた指先に心臓があるかのように落ち着かなかった。
……地学に興味などなかっただろうに、素直に耳を傾け、時に質問を挟んで、この山にそんなところがあったのか、と驚きに目を輝かせて聞いてくれた。
兄や母が相手なら二言以上も続かない会話。
会って間もないこの女性と、もうどのくらい話しただろう。
――釣書の相手がこの人なら。
「なっ……」
「どうしました?」
「い、いえっ、何も」
突然降ってきた想いに聡二郎は自分でも驚く。
まさか自分まで酔ったのかと思うが、酒のせいとは言い切れない。だが、あまりに唐突な衝動だった。
口許を手で覆い言葉を濁す聡二郎を気にする風もなく、珠江は独り言のように続ける。
「きっといつか、なんて期待しなければ、煩うこともなく忘れてしまえるのに。どうしても、全てを捨てきれない自分がいて」
「……そうですね」
惹かれているのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。
だが、と自分に言い聞かせる。
「だからかしら。夫も、いつも私を子ども扱いするんです」
「それは、仕方ないかもしれません」
そう、彼女には夫がいる。
元から手を伸ばすことも許されない相手だ。
「姉さん女房なのに」
「信じられません」
「本当よ」
がばりと身を起こすと、聡二郎に向き合うように座り直して、ぷう、と膨れてみせる。
「そんなふうにすると、やはり子どものようですよ」
「まあ、優しい顔をして意地悪ですね」
文句にしては可愛らしい抗議をして、珠江はふと、なにかを確かめるように目を眇めた。
「……聡二郎さんは……少し、夫に似ています」
「っ!?」
切なげに睫毛を伏せた珠江が聡二郎に倒れ込み、ぽすりとシャツの肩に頭を埋める。
長い黒髪が揺れ、透明な香りがふわりと漂った。
「……子どもでもなんでもいいわ。あの人に会いたいの」
泣くのを堪えるような声が伝えてくるのは、一つの事実。
珠江の心を占めているのがただ夫だけ、ということ。
嫉妬などは感じない。
きっと相愛に違いない二人が羨ましいだけだ。
騒つく胸の内を隠して、聡二郎は言葉を探す。
「御夫君は、いつ頃お戻りに」
「そうね……一日でも十日でも十年でも、会えないのはいつだって同じに長くて」
寂しい、と消えそうな珠江の声が、自分越しにくぐもって聞こえる。
思わず肩を抱きそうになった手が盃を握ったままだったことに気付き、寸前で止まった。
ぼんやりと甘く光る青緑の酒器は、このひとの夫のものだ。
「……きっと、もうすぐですよ」
上げた手をゆっくり下ろしながら、慰めの言葉を口にする。
自分に言い聞かせるように。
「お仕事を、急かしたくはないの」
顔を上げた珠江の手が、聡二郎のシャツの胸元へすがるように伸びる。
袂から覗く腕は思った通りに細く、強く掴んだら折れてしまいそうだった。
――くらりと聡二郎の瞳が揺れる。
「な、ん?」
突然酔いがまわったのか、頭の奥に霧がかかったようにぼんやりとしだした。
重く下がってくる瞼を無理に押し上げると、霞んでいく視界のすぐ目の前、息が触れるほど近くに珠江の顔があった。
「……会えてよかった」
急激に意識が狭まっていく中、唇に触れた温もりは珠江のものだったのか。
かすかに聞こえた声を最後に聡二郎の意識は途切れた。
眩しさに目をしばたたかせながら開くと、大きく破れた屋根から、すっかり明けた空が広がっているのが見えた。
「朝か……?」
聡二郎が身を起こしたのは、あばら家ですらなく、壁も床も半ば朽ちた、古家の残骸とでも言ったほうがよさそうなところだった。
囲炉裏があったと思しき場所は土にまみれ、柱も傾いでいる。
荷物はまとまって置かれており、聡二郎が起きた気配に小鳥がチチ、と鳴きながら飛んで行った。
硬い板の上に寝ていたせいで体は軋むものの、疲労感や空腹感はなく、目覚めの体調は悪くない。
まるで狐につままれたような気持ちであたりを見回すが、昨日の出来事が夢だったかと思われるばかりだ。
起き上がろうとして床に着いた手に、コツリと何かが触れる。
「これは……」
記憶のままの、水浅葱色の盃だった。
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