翡翠の夢渡り(前)

 

 里を見下ろす大山の中腹は、手つかずの美しさに満ちている。長い年月と風雨に洗われて剥き出しになった岩肌は、険しくありながらもどこか端整だ。

 山中を蛇行しながら流れる川は、ごろごろと落ち込んだ岩のおかげで勢いもある。

 そんな四方を山に囲まれた砂利石の河原で、聡二郎そうじろうは途方に暮れていた。


「参ったな……」


 大学で地学の研究をしている聡二郎は、教授や仲間達とこの地へ現地調査に訪れていた。

 終戦から十年。

 戦地から帰らなかったり、復興に伴って村を離れたりで里の住人は数を減らしていた。とはいえ、戦火を免れ村に残った資料の確認や、裏付けとなる聞き取りもどうにかできた。

 肝心の地盤や地層の調査も今日で終わり、明日には東京へ戻る。

 その前に秘境と謳われる渓谷を写真に収めようと、聡二郎だけ一人山に残ったのが昼過ぎのこと。


 渓谷まではたかだか小一時間の道程で、日暮れ前には皆が待つ里に戻っている算段だった。

 しかし、地図もあるからと案内人も帰したのが災いしたか。霧が出た折に目印を見過ごしたらしく、視界が良くなったころには道を失っていた。

 気付いてすぐに戻ったが、どれほど歩けど地図の道に辿り着かない。

 さらに、取り出した磁石は手のひらの上でふらふらと回り続け、方角も定まらない始末。

 次第に悪くなる足場はとうとう獣道さえなくなって、仕方なく沢に降りたのだった。


 おかしな現象も気にはなるが、何時間も歩き続けた体には空腹がもっと切実な問題だ。

 水筒の残りはあと少しで、食べ物に至ってはポケットに飴が二粒ばかり。皆で車座になり握り飯を食べた昼時がやけに遠く感じる。


 谷を渡る風が運んだ紅葉が、はらはらと川面に落ちていく。そんな錦の眺めを楽しむ余裕も既にない。

 流されていく葉の合間には時折、水滴を飛ばして跳ねる魚の姿が見て取れた。


「腹は減ったが、濡れるわけには……」


 釣竿も網もない。都会育ちの身で、泳ぐ魚を素手で捕まえるなど至難の業。

 運良く魚が手に入っても、マッチがなければ火も起こせない。

 この季節にしては暖かい日だったとはいえ、秋の山は陽が落ちると一気に気温が下がる。濡れ鼠になって乾かすこともできず、寒風に晒されたらどうなるかなど想像するまでもなかった。


 一食や二食、抜いたところで死にはしない。

 聡二郎は自分に言い聞かせて、歩き詰めで上がった息を整えるとオーバーコートの襟を立てた。


『山で迷ったら稜線を目指して登れ』というのが定説だが、聡二郎は抵抗があった。目指す渓谷は山腹より下りたところにあって、山頂ではないのだ。

 そもそもここは登山道が未整備で、観光目的で入山する者はほぼいない。

 たとえ頂上まで登ったところで、誰かに会えることなど期待できそうになかったのも理由の一つだ。


 役に立っているかどうか疑いつつも地図を睨みながら歩くうち、次第に日が翳ってくる。

 もう何時間、人の姿を見ていないだろう。


「このまま戻れなかったりしてな……」


 口に出して、うっそりと背中が寒くなる。

 街灯などない山中だ。日が落ちてしまえば道も探しようがない。

 すっかり暮れる前にせめて休むところを見つけねば、と首を回しても、目に入るのは岩だらけの河原の景色ばかり。


 先ほどまでは鳥の声もしていたが、寝ぐらに帰ったらしい。聞こえるのは川の水音と木々の騒めき、そして砂利を踏む自分の靴音だけだ。


 ――そんな山の静けさは、家族からの小言を耳奥に蘇らせる。


『いつまで大学になどいるつもりだ。少しは月城つきしろ家の一員という自覚を持て』

『聡二郎さんも、お父様や勇一さんを見習ってくださらないと』


 兄や母に呈された苦言は数え切れないほど。

 存分に呆れを含んだ声音は、諦めたはずの心に毎度律儀にちくりと刺さる。


 地元名士の総領家の男児にもかかわらず、政界ではなく学問に傾倒する自分が異分子なのは分かっている。

 そうはいえ、どうしても、政治にもそれを取り巻く人々にも興味は持てなかった。

 もちろん、現役の代議士である父親も同様だ。


『お前に期待などない。聡一そういちの取り成しがなければ、とっくに見限っている』

「……出来の悪い次男で悪かったね」


 けなす言葉は今ではないのに、つい口に出してしまう。

 理解し、認めてほしいとまでは望まない。

 だが、せめて否定しないでもらいたいと思うのも、父の言う通り甘えなのだと呑み込むしかなかった。


 頭がいいだけの出来損ない。

 そう揶揄される聡二郎を擁護したのは、実親ではなく叔父の聡一だった。


 半年前に政界を引退した叔父も、若い頃は学問を志していた。

 聡二郎の異端児ぶりは自分の名の一字をとった故かもしれないと、幼少の頃から目をかけてくれている唯一の人物である。


 出征した先で、叔父は片方の脚を失った。健康面にも不安があり結婚はしないから、と聡二郎に養子の話が出たこともある。

 結局それは立ち消えになったが、実の両親が手放してくれたらよかったのに、と今でも思わずにいられない。


 ほかの親族は皆、似たり寄ったりだ。

 不満があるなら放っておけばよいものを、矯正してやろうと余計な世話を焼くから手に負えない。先日など、縁談まで持ってきたのだからますます閉口する。


『聡二郎さんも、お嫁さんを迎えたら変わるのじゃないかしら』 


 本当は優秀な兄のほうに縁付けたかったけれど、と言いたげな遠縁の伯母から押し付けられた釣書は開いてもいない。

 一族に名を連ねてはいるが、名実ともに名前だけだ。

 こんな自分に何を求めて嫁いでくるのかと訝しく思うだけで、逃げるようにこの調査旅行へと旅立ったのだった。


 夕焼けの名残りが一層鮮やかに空を染めていく。

 その頃になってようやく、少し先にある岩の隙間に平らになっていそうなところを見つけた。


 ――あそこならマシか。


 暗くなったら動かないほうがいい。

 このまま山中での野宿を覚悟してそちらに足を向ける。狭いが、どうにか落ち着けそうな塩梅だった。


 硬い岩の上に腰を下ろし地図を鞄にしまうと、懐中電灯を取り出した。カチリとスイッチを入れて周囲をぐるりと照らすと、ほっと安堵の息が出る。

 灯った明かりは光量が十分とは言えないが、あるとないでは心持が違う。念のため持ってきて正解だった。


 しかし、明かりを点けたことによって、かえって周囲の闇は濃くなった気がする。

 変わらず流れ続ける水の音ばかりがやけに響いて聞こえ、ひゅう、と冷たく吹き付ける風もどこか居心地が悪い。

 その中に、何か生き物の気配が感じられた。


 ――気のせいだ。人がいるはずがない。


 これほど歩いて、ただの一人とも行き会っていないのだ。

 猪か何かだろう。そう言い聞かせても、胸の底を落ち着かなく揺さぶる動悸は止まない。

 怖いというよりは畏れの感覚に近いだろうか。

 聡二郎は懐中電灯を岩の上に置くと、肩を竦め膝を抱え直す。身じろぎをすると、カサリとポケットで音が鳴った。

 そういえば、飴が――


「……あの」

「っ!?」


 暗がりの中から声がしたのは、取り出した飴を一つ、口に放り込んだ時だった。


「ご、ごめんなさい! 驚かすつもりはなくて」

「ゲホッ、い、いえ……ケホッ」


 喉に引っかけた飴でゴホゴホと咽る聡二郎に、女は申し訳なさそうにした。


「家から明かりが見えて……夫が、仕事から戻ってきたのかと思って」

「そ、そうでしたか」

「でも、違いました」

「……すみません」


 いかにも気落ちした様子で人違いを謝られ、自分が目当ての人物でなかったことに罪悪感を抱いてしまった。

 囲むように背後と横に立つ岩壁に反射した明かりが、ほんのりと二人を照らす。

 現れたのは、色の白い美しい女だった。

 纏う銘仙めいせんの着物は地味な色合いなのに、なぜかそうは見えず目が惹きつけられる。

 女性のことなど分からない聡二郎だが、自分と変わらない年齢のように見えた。


 周囲に家などあっただろうか。

 だが、光というのは案外遠くまで届くものだ。特に、街灯一つないこんな山中なら、懐中電灯の小さな明かりでもすぐに気付くに違いない。

 それを見て慌てて飛び出してきたのだろう。

 長い髪を下ろしていて、すっかりくつろいでいたところだったのかもしれない。


「いえ、今日帰ってくるはずはないのです。でも、もしかしたら、って……あの、ここで何をなさっておいでですか?」


 残念がる声に、少しの怯えが混ざる。

 里の者の身なりをしておらず、釣り竿や猟銃を持っているわけでもない聡二郎は、たしかに山中にふさわしくない人物だ。見慣れない人間に警戒心を抱くのは当然だろう。

 取り繕うことはせずに、調査目的で訪れていたこと、同行者と別れて渓谷へ行こうとして道に迷ったことを告げた。


「ああ、渓谷へ。山桜と白い大岩の分かれ道がありませんでしたか?」

「どうやら霧で気付かなかったようで」

「まあ」


 女は得心がいったように頷くと、月が昇り始めた空と聡二郎の服や持ち物をちらりと見比べて、小首を傾げる。


「道案内はできますが、もうこの時間では……我が家へお越しになりますか」

「えっ、いや、しかし」

「我が家なんて言っても、大層なところではなくて。狭くて、お客様を迎えるような支度もなにもございませんけれど、ここと違って屋根と壁はありますし」


 正直に言って、非常にありがたい申し出だ。

 だが、夫の留守中に若い細君だけの家に上がり込むのは、果たしていかがだろうか。

 それに、聡二郎のような者がここにいるのもおかしいが、このような女性が山で暮らしているとはにわかに信じがたい。

 改めて見れば、身に馴染んだ銘仙こそそれらしいが、白い指先にも手の甲にも荒れひとつない。

 肩も薄く、この細腕では沢の水を汲むのにも苦労するだろう。

 そんな違和感には、懐中電灯の光にきらと返した帯留めが答えをくれた。


 翡翠――ああ、採掘師の妻か。


 この山では翡翠が採れる。

 しばらく前までは採掘をしに山に入る人々もいた。だが戦争が終わり、近代化が進むとともに環境に関する意識も変わった。

 この辺り一帯は近々、国の保護区になることが決まっており、それに伴い一切の鉱物採掘が禁じられたのだ。

 翡翠を採ることも罰せられるようになったため、採掘師は国の決定に従って山を去った……というのは、表向きの話だ。


 保護されるべき自然も国の資源も大事だが、入手が困難になったからこそ欲しいという者もおり、市場での値も上がっている。

 犯罪行為と分かっても隠れて採掘する者がいるのは事実で、夫の「仕事」というのも、それに違いない。

 そうでなければ、翡翠のような高級品をただの普段着にさらりと着けられるわけがなかった。


 闇取引を防ぐ手立ても講じてはいるが、いたちごっこなのだ、と叔父の聡一は嘆いている。

 この地域を保護区にしようと最初に国に働きかけたのは、誰あろう叔父なのだ。


 叔父は、かつて民俗学の学者として全国を回っていた。

 その際にこの山地一帯のありように深く惹かれ、足しげく通うようになったのだと聞いている。

 論文を幾つも書いていたが、召集令状が届いて研究は中断された。だが、戦時中も叔父の心からはこの山のことが離れなかったのだという。


 終戦後、怪我を負って復員した叔父の耳に入ったのは、山を削る開発の噂。

 それも流行りに乗っただけの、一時的な利益しか見込めない場当たり的な計画だったという。

 この地をあるがままに守りたい。そのためには一学者では無理だ。

 そう判断した聡一は政の世界へと身を移し、それは熱心に取り組むようになる。元学者という変わり種ではあったが、その手腕はさすが一族に連なる者との声が高かった。


 闇採掘師は、法だけでなく叔父の政策にも反する。

 この妻はきっと普段は町で暮らして、夫が採掘から戻る日を見計らい、こうして山中に来て出迎えるのだろう。もしかしたら、取引相手との繋ぎ役もしているかもしれない。

 そんな者の世話になるわけにはいかないが、しかし――


「それに、この時期は熊が」

「お、お邪魔いたします」


 背に腹は代えられぬ。

 熊と聞いたとたん渋っていた態度を翻した聡二郎に、女は少し目を見開いてくすりと微笑む。


「では、どうぞ。珠江たまえと申します」

「月城、聡二郎です」


 そうして、冴え冴えと輝き始めた月の下、くるりと背を向けて歩き始める珠江の後を慌てて追ったのだった。










ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも あたらしき君が老ゆらく惜しも(万葉集十三・3247)

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