I am...

@I_M_EMA

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 何年ぶりだろうか。都内の大学に進学して以来、青森に帰ってきたことは一度もない。

 そうそう帰ってこれる距離でもないし、帰る理由も大してなかったし。

 だが、そんなのは後付けでしかない。実家に帰らなかった本当の理由は……いいや、そんなものは存在しない。

 なんとなく。

 都内の大学に進学したのだって、上京して夢を追いかけるだとか、都内の方が何かと便利だとか、そんなことは微塵も考えなかった。

 そんな自分が久方ぶりに青森に帰ってきたのは、大学院を卒業して、就職が決まったからだ。少し長めの春休み。バイトで幾分か金銭的な余裕もあったし、少しくらい顔を見せに帰るのもいいか、なんて思って。

 実家は今どき珍しいくらい山奥にあって、バスも数時間に一本。絵にかいたような田舎だ。おかげで上京する際も苦労したものだ。

 七年前のことを思い出しながら、窓の外に見える、どこまでも続く田んぼを眺めていた。

 変わらない。東京なんて、たった七年でも大きく変化していくというのに。

 ふと、空を見上げてみると、今にも降り出しそうにどんよりと雲が広がっていた。

 しまった。最寄りのバス停から家までは、それなりに距離がある。もうすぐ社会人だというのに折り畳み傘の一つも持ち合わせていないため、帰るとすれば雨の中を歩かなければならない。

 できれば勘弁願いたいな、どうか降ってくれるなよ。

 祈りむなしく、数分後にはぽつぽつと、雫が窓に爪を立てた。


 ◆


 最寄りのバス停は、よくテレビなどで見るような『田舎のバス停』そのものといった様相で、トタン屋根とブロック塀で囲われた小さな空間に、ベンチが二つ置いてあるだけの質素なものだった。

 バス停に着くころには雨も酷くなっていて、さすがにこの中を傘もささずに帰るのは無謀だと、仕方なくベンチに腰を下ろす。

 改めて、自分が十八年間を過ごしてきた地をぐるりと見渡す。どこを見ても雪の残った山、山、山。その山を切り崩し作られた田んぼがいくつか散見するも、それだけだ。人が住んでいそうな気配は、ここからもう少し山の中に入っていかないと感じることはできない。

 よくこんなところに暮らしていたよなと、東京で暮らした日々を思い返す。

 東京は便利だった。どこに行っても人で溢れかえっていて、どこに行っても生活に困ることはない。

 バスに乗り遅れないために三十分も余裕を持つ必要はないし、万が一乗り遅れてもすぐに次のバス、電車がやってくる。

 本当……、

「窮屈だったな」

 そう、結局、七年もの時間を東京で暮らして得た感想といえばそんなもの。

 どれだけ馴染もうと努力しても、田舎育ちが都民と同じように暮らすことなど叶わなかったのだ。

 思えば、だからこそ一度青森に帰ってきたのかもしれない。

 就職先は神奈川の企業だ。東京ほどではないにしろ、否応に都会での生活を迫られる。たったの七年ですら窮屈だったのに、これから先一生を都会で過ごすなんてできるのだろうかと、弱気になってしまったのか。

 げーこげーこと蛙の声がする。みーんみーんと蝉の声が……それはしなかった。

 さて、雨が落ち着くまでどうしようか。スマホの充電残量を確認してみれば、残り五〇%。バッテリーが劣化している状態でのこれは信用ならない。最低限、連絡が取れるくらいには余裕を持っておきたい。

 そんなわけでスマホで時間を潰そうという考えは無し。では読書でもしようか? いいやだめだ。人並に読書はするが、こういう時に読んでも集中力が続かない。

 結果して、暇だ。

 こんなところで寝れば風邪を引くだろうか。どうせ風邪を引くならば、この雨の中を濡れて帰った方がマシではないか。

 なんて、どうせ行動を起こす気力もないくせに、頭だけはやけに回る。どうしようもないことばかり考えて気が滅入りそうになった、その時だった。


「私も良いですか? 雨宿り」


 まさか、誰かが来るとは思っていなかったために完全に無防備な姿を晒してしまった。これが田舎にいる凡百な女性ならばまだ良かった。

 しかし、声をかけてきた女性は凡百などとは口が裂けても言えぬような姿をしていた。

 雨に濡れてはいるが、なお輝きを失わぬ流麗なブロンド。肩口で揃えられたそれが揺れるたび、アメジストのように透き通った紫紺の瞳が見え隠れする。

 端正な目鼻立ち。鼻だけが少々高く、それこそがこの女性は日本人ではないと主張している。

 白いワンピースから覗く、絹のような肌。この雨のせいだろう、女性の風貌にはやや似つかわしくない黒のスニーカーは薄く汚れていた。

「すごい雨ですよね。ちょっと前まで雪が降るような天気だったので、ちょっと肌寒いです」

「そ、そうですね……」

 女性に見とれていたため、話しかけられても上手く切り返すことができない。

 はて、と記憶を掘り返す。こんな美人、七年前にはいただろうか。そうして記憶を辿っているうちに、再度女性が話しかけてくる。

「この辺じゃあまり見かけませんよね。どこから来たんですか?」

「えっと、東京から」

「東京!」

 女性は声を弾ませ、その美麗な顔に笑みを浮かべる。

 今の問いからして、やはりこの女性は近辺に住んでいる者だ。東京にいた七年のうちに移住してきたのだろうか。

 その答えを、すぐに知ることになる。

「言っちゃなんですけど、何にもないですよここ。なんでわざわざ?」

「ああ……実家に里帰りです。ちょうど休みなので、いい機会に、と」

「あら、でしたら私、なんて失礼なことを」

「気にしてません。何もないとこ、なんて、俺もよく知ってますから」

「あはは……私も長いこと住んでましたけど、本当に何もないですよね。だから私、ちょっと楽しみにしてるんです」

 そう言って目を輝かせる女性の横顔は、不思議なことにどこか見覚えのあるものだった。

 途端、古い記憶が蘇る。

 ああ、そういえば。

 女性の口ぶりから、自分がいなかった七年間のうちに移り住んできたのではないと予想できる。そうでなければ「長いこと」なんて言葉は出てこない。いいや、それも人の感性によるだろうが、もっと、そうではないと断言できる記憶が、自分の中にはあったのだ。

「もしかして、ですけど……あなたは、ミア、って名前じゃないですか……?」

「え? いや、私は……っ?」

 間を置き、隣に座る男性の顔をまじまじと見た女性は、その表情を驚きに染めていく。

「……とし、あき……くん?」

「そう、そうだよミア! 久しぶり、ものすごく!」

 そうだ、どうして忘れていたのだろう。

 自分が――俊明が子供の頃、こんな何もない田舎での生活を苦に思わなかったのは、一人の女の子がいたからだ。

 ミアという、妹の療養のためにと移り住んできた少女がいたからだ。

「全然気づかなかった、大きくなったね」

「それ、は……お互い様、でしょ? 俊明くんこそ、見違えるほど……でもそっか、そうだよね。もう十年以上経ってるんだもの」

 でも、十年経っても、この田舎では強烈なインパクトを与えた特徴的なブロンドを、紫色の瞳を忘れることはない。どうして一目で気付かなかったのかと不思議なくらいだ。

「ごめん、気付かなくって」

「それもお互い様。私だって気付かなかったし。でも、うわ、すごい偶然。雨降ってサイアクと思ってたのに、また会えるなんて」

 こうして話していると、子供の頃の楽しかった記憶が次々蘇ってくる。

「よく蛙を捕まえてミアのお母さんを困らせたりしたよな」

「ええ、ママったら、もうホント信じられない! いい加減にしてよ! って、怒ってた。基本的には優しいし、私と一緒に遊んでくれる俊明くんに感謝してたけど、蛙だけはダメだったみたい」

「はは、そりゃあ悪いことした」

 こんな風に笑ったのはいつぶりだろうか。東京にいた頃は、大学に通っていた頃は、周囲に合わせるので精いっぱいで、屈託のない笑顔というのは久しく忘れていたかもしれない。

 バス停に着いた頃は重く沈んでいた心も、ミアと話すうちに随分と軽くなっていた。

 ミアとは本当に、いろんなことをして遊んだ。その中には、今みたいなイタズラも多分に含まれている。

 でも、そんな日々は唐突に終わりを迎えた。

 妹の具合がだいぶ良くなったから、と。ミア一家はまた、元住んでいたところへと帰っていったのだ。

 それが、俊明が十三歳の頃。

「……妹の具合は、どうなんだ?」

「うん、あれからは随分調子も良くて、最近だといろんなところに遊びに行ってるよ。今日なんか朝早くに出かけてった」

「元気そうで何より。結局、ミア達がこっちに住んでる間はマトモに話すことも無かったしな……」

 俊明がミアの妹を見たのは、ただの一度きり……だったはずだ。

 ミアの家に遊びに行った際、母親に車椅子を押され、庭でつまらなさそうにしていた。

「……でも妹は存外、俊明くんのこと、気に入ってたよ」

「え、なんで」

「だって姉がいろんなことを話したから。今日はどんなことをして遊んだ、どこどこに冒険しに行った、とか」

「なんだミアのせいか……」

「ひひ、エマ、ものすごく楽しそうに話を聞いてくれたよ」

 そこで、一度会話が途切れる。

 しとどに降り注ぐ雨の中、周囲はこんなにも騒がしく様々な音が響いているのに、二人の間はとても、とても静かだった。

 ふと、ミアが口を開く。

「……ねえ、俊明くんって、好きな子、いる?」

 先ほどまでの、柔らかな笑みはそこにはなく。

 ただただ真剣な表情のミアが、そこにいた。

「……どうだろう。確かに大学には気になる子もいたけど、結局声をかけることすら叶わなかった。なんか、乗り気になれなかったんだよ。でも、そうだな……うん、いるよ、好きな子」

「――そう、そっか。そうだよね、もう大人なんだし……」

「ミア、きみのことだ」

「え?」

 面食らったようなミアに畳みかける。

「ずっと窮屈だった。どれだけ便利だろうと、どれだけ退屈しない毎日だろうと、まったく楽しくなかったんだ。東京にいた七年間は。でも今ミアと話してたら、そんなもの全部吹き飛んだ。楽しかったんだ、すごく。きっと俺は、きみと一緒に過ごしていたときから……ずっと、きみのことが好きだったんだ」

 あの頃は気付けなかった。気付いたとしても伝えることができなかった。だが今は、驚くほど素直に、ミアに対する好意を伝えることができた。

 なぜなのかはわからない。だけど、

「きみが構わないなら……俺と、付き合ってくれませんか……?」

 まくし立てるように、俊明は告白した。

 それを受けたミアは、

 どこか、

 ――寂しそうに。

「……ごめん、私は君と、付き合えない。こんなこと聞いておいて、まるでその言葉を引き出そうとしてたみたいで、本当にごめんなさい。でもありがとう、その気持ちは、ちゃんと伝えておく」

「――――」

 まさか今の流れで断られるとは思わず、呆然としてしまう。

「私ね、もうすぐ結婚するんだ」

「け、結婚?」

「そう、すごく、優しい人。文句なしに人間のできた人。だから不満なんてない、のに……どうしても、結婚に踏み切れなかった」

 ミアは立ち上がり、

「でももう大丈夫。今ので踏ん切りがついた。結婚前に、短い時間だったけど私が過ごしたところを見に来たら何か変わるかなって思ってたけど、来てよかった。私が結婚に乗り気じゃなかったのは、初恋を忘れられなかったからなんだってわかったから。利用したみたいで本当にごめんなさい。そして、」

 どこか、泣きたいのを我慢しているような笑みを浮かべながら、

「ありがとう、俊明くん」

 そう、言った。

「あ、バス来た! それじゃあ、私はあれに乗って帰るから。雨宿り、付き合ってくれてありがとね」

 自分たちはどれほど長い時間話していたのだろう。時刻表を見れば、昔に比べ本数は増えたものの、それでも二時間に一本、多い時間帯で一時間に一本だ。

 やってきたバスに乗り込もうとするミアが、振り返り呟いた。

「私はね、楽しそうな二人の話を聞くの、好きだったよ。そして、その話に出てくる男の子を……好きになったんだ」

 その呟きは、確かに俊明の耳にも届いて。

 バスは去っていく。

 そして――、


「――『  』っ!!」


 大事な何かに気付いた俊明が、彼女の名前を呼ぶ。

 しかしその声は、未だ止みそうにない雨にかき消された。

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