影踏鬼 ~かげふみおに~
海には鳥居。山には
海は神のもの。山は鬼のもの。そしたらどこが人のもの?
神から恵みの幸を得て、鬼から奪った森を拓いて、里にしたところが人のもの。
――今年最初の鬼は誰にしよ?
去年の祭りはつまらなかった。死にたがりの大人じゃなくて、今年はだあれか子供がいいな。追いかけっこはできるけど、なあんにも知らない子供がいいな。
「
寂れた空き家の隣の家から、甘えたな女の子の声がする。ちょいと覗いて見てみよう。
「見て見て、似合う? 渡留にいちゃん」
赤い絞りの
「馬子にも衣装」
「これっ、渡留、ちっちゃくても女の子はちゃあんと褒めたり!
母の手にべしり、とはたかれた渡の身体に、今まさに飲もうとしていた麦茶がばしゃり、と零れた。
「ちょっ、おかあ、何しよん!」
「ああ、悪い悪い」
「大丈夫? 渡留にいちゃん」
「あかん……、中までべしょべしょや」
お茶も滴るいい男になった渡留は、立ち上がってしゅっと帯を解き、麻の葉柄の白い浴衣を脱ぎ捨てて、褌姿で庭に下り、手押し
――にいちゃん、にいちゃんて、馴れ馴れし。余所者が。
ああそうや。そんなに渡留が好きならば、ずっとずうっとこの島におれるよう、余所者でなくしてやろう。
本土の街から汽車と船とを乗り継いで、親戚の家に遊びに来てる、あの子にしよう。そうしよう。
*****
どん、どん、ぱらり。
どん、ぱらら……。
ずれた轟音響かせて、次々開く菊と牡丹。見えない月が昇る真夏の夜空に、儚い光の花々が咲く。
「ああもう花火、始まってしもた!!」
麦茶でしとどに濡れた渡留は、あれから二度目の水浴びをして、露芝の浴衣に着替えていた。四つ離れた従妹の朝香を連れて、潮騒のする海沿いの道を行きながら、余計な時間を食ったせいで、夜祭りに出遅れてしまった渡留の気は急いている。
渡留は右手に下げた提灯を、行く手にずいと突き出して、履き慣れない下駄にもたついている、朝香に向かって発破をかけた。
「急げ急げ、朝香。お祭り広場はもうすぐそこや!」
「待って、待って、渡留にいちゃん!」
渡留の背中に遅れること数歩。懸命に追い縋る朝香の頭上に、黄色い芯に赤色の、丸い牡丹が花開く。にわかに明るくなった夜道に、朝香の影が黒々と落ちた。
「――影踏んだ」
その声が脇から掛けられた途端に、渡留の後を追いたい朝香の両足は、ぴたりとその場に縫い止められてしまった。壊れたからくり人形の如くに、ぎこぎこぎこと首を動かして、朝香は声の主を振り返る。
「……だあれ?」
知らない子。
夏休みが始まってすぐ、この島へ遊びに来てから今日までに、朝香が会ったことのない女の子。
渡留と同い年位に見える、硝子玉みたいな目をした綺麗な子――。
「なあに?」
その子が、にい、と笑うと、吊り上がった口の端が耳の下まで裂けた。
「次は、あんたが、鬼」
「きゃあああっ!!」
朝香は叫んで思わずしゃがんだ。目を閉じてがちがち震えていると、渡留が飛んで戻って来た。
「何や朝香、どないした!?」
「渡留にいちゃん、お化けっ……! お口のお化けが出た!」
「お化け?」
「うん。お化けが朝香の『影踏んだ』って、朝香走れなくなって、それで……」
そろそろと開けた目で、しゃがみこんだ自分の足元を見て、朝香はもう一度、気がふれたように悲鳴を上げた。
「渡留にいちゃん、朝香の、影が無いよう!!」
「……なんやて?」
提灯をかざして朝香を照らし、渡留はそれを食い入るように確かめてから、自分の身体も光の中に入れ、怖い顔をしたまま朝香に言った。
「踏め」
「何を?」
「俺の影や、何でもいいからとにかく踏め!」
渡留に引っ張り上げてもらった朝香が、恐る恐る伸ばした片足でちょんと渡留の影を踏むと、それは生き物のようにぞろりと這って朝香の足元にへばりついた。
その足に履いた下駄をからころさせ、上下に両手を振ってみると、影は何事も無かったかのように、朝香とぴったり同じ動きをした。
「くっついた……」
ほっとしたのも束の間のこと。たいへんなことに朝香は気付く。朝香が取ってしまったせいで、今度は渡留の影が無い。
「影踏鬼や……」
二人並んだ足元に、並ばない一人ぼっちの影。あるはずのものが無い地面を眺めながら、渡留がぽつりと漏らした言の葉を、朝香はこわごわ繰り返した。
「かげ、ふみ、おに?」
「そや。影踏鬼。影追い祭りの夜に、出るんや、鬼が。影追い祭りいうんはな、御山の鬼と影踏みして遊ぶ、悪鬼祓いのお祭りなんや。年に一回遊んでやらんと、鬼は
「鬼と遊ぶ……? 遊んであげるだけでいいの? 影踏鬼に鬼にされたらどうなるの?」
「大人は死ぬ。子供は御山に連れて行かれる。去年は
「できししゃって?」
「溺れた人の死体のことや。溜め池に浮かんで死んどったんや」
「ちなつちゃん、て?」
「千夏、は――」
渡留はぎゅっと、切なそうに眉を寄せた。朝香の胸まで、つんと痛くなるような面容だった。
「……隣の子。俺より一個上の、隣の家に住んでた女の子。一昨年の影追い祭りの夜におらんくなった」
「じゃあ、今年は朝香が連れて行かれるの?」
「そんなん、させへん!」
きっぱりとそう言い切って、渡留は腰をかがめ、怯える朝香と瞳を合わせた。
「今は影の無い俺が鬼や。朝香はもう、鬼やないから安心しぃ」
「嫌っ!」
頼もしく笑ってくれる渡留の袖を、朝香はぶんぶんと首を横に振って引っ張った。
「渡留にいちゃんが、いなくなるのも嫌だよう!」
ぐずる朝香を勇気づけるように、渡留は朝香の頭をぽんぽんと叩いた。
「俺かて連れて行かれとうない。ええか朝香、よう聞き。みんなで助かる方法はある。花火の終わりが祭りの終わりや。その時に、影踏鬼を鬼にして、御山に還ってもろたらええんや」
「鬼をまた鬼にするの……?」
「そや。けど、影踏鬼は影踏鬼やてなかなか人にはわからへん。十人しかおらんはずの所に十一人おっても、なんや全員知ってる気ぃして、誰が影踏鬼やかわからんのや。ただ、影踏鬼に影を踏まれた人間と、その時そいつに触れてた人間だけが、そこに片足だけでも付けてる間だけ、鬼が本当の鬼やてわかる。なあ朝香、まだ覚えてるか? 影踏鬼はどんな奴やった?」
そう言われてみれば、あれから朝香が動かしたのは、渡留の影を踏んだ側の片足だけだった。先ほど見た鬼の顔を思い起こして、朝香はぶるりと身震いをした。
「うんとね……、ぱっと見とっても可愛いけど、お口がこーんなとこまで開く怖いおねえちゃん」
両手で両耳の下を指差して、一生懸命朝香は伝えた。
「おねえちゃん? 女なんか?」
「うん、渡留にいちゃんぐらいのおねえちゃん。髪の毛おさげにしてて、向日葵の浴衣を着てて、黄色い帯くくってた」
「……嘘やろ?」
それだけの朝香の説明から、すんなりと連想されてしまった鬼の姿に、渡留は青ざめ息を詰めた。その否定の理由は知らず、朝香は唇を尖らせる。
「朝香嘘なんてついてないもん」
「それはわかってる。けど……嘘や」
信じたくないことは嘘――。得体の知れない影踏鬼の予想図を、渡留はそんなはずはないと打ち消して、吹き出た嫌な汗を拭い、空いている左手で、朝香の右手をぐいと掴んだ。
「朝香、こっからは手ぇ繋いで行こ。俺に影踏まれてしもたら、すぐに俺の影踏み返すんやで。さっきは一人で先、先行って、怖い思いさしてごめんな」
「ううん」
汗ばんだ渡留の大きな手を、朝香は強く握り返した。『渡留にいちゃん』と一緒なら、暗い夜道も影踏鬼も、怖いけど、怖くない――。
*****
遠くに聞こえていた祭り囃子が、いつしか波の音を上回り、はっきりと耳に届くようになっていた。人気の無かった夜の先に、太鼓の乗った祭り櫓と、吊り下げられた提灯と、その下に集う村人たちの人波が見えてくる。
「あっついのー」
お祭り広場手前の四つ辻で、渡留と朝香はお調子者の
「千夏の次は従妹の子ぉか。渡留はまたまた女とあっちっちやのう。千夏が御山で妬いとるぞー」
「あほ抜かせ、銀児。そんなやない。影踏鬼が出たんや。朝香みたいなちっちゃい子、はぐれたさしたら危ないやろ」
「影踏鬼て――うおっ、今の鬼お前か! 渡留!」
銀児は興奮しきりにそれを確かめると、己が提灯を使って、渡留の足元に影を伸ばした。
渡留の意図せぬことであったが、踏まれたことになった銀児の影は、踏んだ渡留の影となる。
「ひゃあー、俺の影ほんまにのうなったぞ! なんや身体が軽なった気ぃするなあ!」
「なにしよんねん銀児!」
「なにて、これで
鬼になった銀児はにひひと笑って、朝香の手に提灯を押し付けて、ひょいと身軽に蜻蛉を切ってから、お祭り広場に向かって駆け出した。
「ちょっ、待て! 銀児! いきなり権太なんか鬼にしたら、大騒ぎになるやないか!」
慌てる渡留を振り返り、銀児は高く拳を突き上げて、
「あほかあ、渡留! 出たぞて騒いで、追いかけ合って、ぎゃーぎゃー叫んで影踏みせんと、影踏鬼が交じりに来れんやないか! これからみんなで、度胸試しの肝試しぃや。ぼさっとしてんでお前らも早よ来いや!」
ほれほれ鬼が来たぞーと、蜘蛛の子を散らしながら銀児は、一足早く人いきれのする夜祭りに紛れていく。しばらくすると、銀児の標的通りに次の鬼にされたらしい権太の、強面の餓鬼大将にはそぐわない、恐怖に竦む金切り声が轟いた。
おんおんと泣きながら子供らを追い掛ける、影の無い権太を尻目にして、渡留と朝香はお祭り広場に提灯を飾る。
そうして影踏みが始まったお祭り広場は、阿鼻叫喚の地獄絵図、かと思いきや――。
賑々しい祭り囃子に煽られる中、時にラムネや蜜柑水を飲み、焼きとうもろこしやいか焼きを齧り、射的を打ち、ヨーヨーを釣り、打ち上げ花火を見上げて、替わりばんこに休みもってする命懸けの影踏みを、村の子供たちの多くは、戦慄しながら面白がっていた。
時間制限あり、最後の鬼になってしまえば万事休すという緊張感に、その仲間に入れてもらった朝香の背中も、ずっと泡立ちぞくぞくとしている。それがふとした瞬間に
終了間際は恨みっこ無しになるように、全員物陰から飛び出して影踏みだ。人に紛れた鬼の子に手招きされて、童心に戻った大人たちも夢中になって遊んでいる。これだけ大勢の人たちに、本気で遊んでもらえれば、鬼だってきっと本望だろう。
*****
どどどどん。
夜空いっぱいに広がる大玉花火。
辺り一面を昼のように明るくして、真っ白眩しい柳が幾重にも垂れる。
祭りの終わりを告げる連続花火に、人々の影はこの夜一番濃くなった。
「――影踏んだ」
手を引いてくれる渡留の隣で、取ってもらった赤いヨーヨー風船を大事に持ちながら、呆けてそれに見惚れていた朝香は、影踏鬼が自分の真後ろに忍び寄っていたことに、まるで気付いていなかった。
「今年は、あんたが、贄――」
あの時と同じ声で、少し違った言葉をかけられて、再びその場に縫い止められた朝香の目前は、絶望で真っ暗になった。
「やっ……!!」
「ふざけんなやっ!!」
朝香を自分の影に入れて、それを朝香に張り付けて、渡留は影踏鬼の影を踏み締めた。
その足元に、寂しく弱まりゆくしだれ柳の光に合わせて、徐々に薄れる影踏鬼の影が移る。
「影踏鬼! 今年最後の鬼はお前や! 千夏の姿で、千夏の声でっ、朝香まで御山に連れてくなっ!!」
「なら、渡留が一緒に来てくれるぅ?」
心蕩かすような鬼のいざないに、朝香の手をしっかりと掴んでいた、渡の指の力が不意に緩んだ。
「千夏……なんか……?」
「駄目!! 渡留にいちゃん!!」
必死の思いで朝香は、渡留の胴に抱き付き顔を埋める。その温もりに引き止められ、左手で朝香を抱き返しながらも、半泣き顔になった渡留は影踏鬼に右手を伸ばした。
「あほやなあ、渡留」
宵闇に透けてゆきながら、震える渡留の小指に冷たい小指を絡め合わせて、いなくなった時のままの、千夏の顔した影踏鬼が、草深百合の花笑みをする。
「千夏やけど、千夏やないんよ、もう……。来年も遊ぼね、渡留……」
花火の。
最後の一欠けらが消えると共に、指切りを切った影踏鬼も跡形なく消失した。影踏鬼は次の鬼を掴まえられぬまま、御山の深くに還ったのだ。
「千夏っ……!」
人でないものの冷たさが、ひんやりと残る右手を握り締め、朝香の小さな身体に縋りながら、渡留はおいおいと泣き崩れた。よろめきそうになりながら、朝香は懸命に踏み止まった。自分が動いてしまえば、記憶から抜け落ちてしまう儚い約束と微笑みを、せめて涙枯れるまで、渡留が覚えていられるように。
歳時鬼 桐央琴巳 @kiriokotomi
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