恋祈願 ~こひきぐわん~

 お手々繋いだ形代かたしろに、名前を書いて願いましょ。

 恋淵神社の神様、神様。

 どうか私とあの人の、縁を結んで下しゃんせ。

 乗せて沈めるお賽銭。これでよろしく頼みます――。




 朝にとんどが行われ、淑気薄まる小正月。黒々とした墨絵の空に、ぽっかり浮かぶお月様、こうと映した深潭しんたんの、水面みなもにすいーとささ波立った。

「ああ、もたれた……」

 お手々繋いだ形代を、漏らさず呑んで丸々と、膨れた腹をくねらせて、ずるり、ぞろり、とうわばみが、淵の縁から這い上る。真白の鱗をきらめかせ、朱赤の鳥居をくぐった主は、腰から下はじゃのままで、白い直衣のうしこうぶりの、赤目のおのこに姿を変えた。

「正月はいかん……。食い過ぎる……。どいつもこいつも、我欲まみれの形代を、ほいほいほいほい投げ込みおって」


 暗い暗い水底の、深い深い淵のほとりに建てられた、恋淵神社の主祭神は、淵の主たるうわばみである。昔々の大昔、ひでりの夏でも枯れない淵に、村に恵みの雨を乞う、人身御供が投げられた。長寿の白蛇がそれを呑み、神とも呼ばれる化生けしょうになった。


 ……捧げられたる人の身は、いつしか半紙の形代と化した。そこに棲まいしうわばみに、願うは雨から縁になった。




「愛だの恋だの良縁だの、ぐだぐだぐだぐだ書きおって、そんなもん勝手にしくさらせっ!」

 本殿脇の絵馬堂に、所狭しと奉納された、絵馬に書かれた願い事を読み上げて、主はぶつぶつ悪態をつく。人が頼むは縁結び。治水の進んだ現生げんせいなれば、水神祭りは続いていても、雨乞いの絵馬など一枚もない。


ふち様、淵様やあ」

 堂外から呼び掛ける配祀神の声に、うんざり顔のまま主は振り向いた。

「なんじゃい、狐之葉このは

 巫女装束に黒髪白肌、斜めに被った狐面の下から紅の唇覗かせた、狐之葉は油揚げをつまみにして、己の小ぢんまりした社の前に、片膝立ててお行儀悪く座り込み、お神酒をぐびぐび飲んでいる。

「ほうれこの音、聞いて下しゃんせー。今年も淵様のおこぼれで、あての賽銭箱もたーんまりー」

 へべれけ狐之葉はご機嫌で、小さな賽銭箱を持ち上げて、じゃらん、じゃらんと振り回した。

「かーっ。そないにか! 狐之葉がここに、配祀されとる理由かて、ろくすっぽ知らんやろうに!」


 油揚げをつまみ終えた手指をぺろりと舐めて、狐之葉はお神酒の入った瓢箪片手に、主の近くへふらーりふらりとやって来る。

「今時の人っ子には、そないなことどうだっていいわいなあ。祀られておったら神様で、それが祟るモノかもしれんのに、ご利益願って縋るのよ。家内安全、商売繁盛、学業成就に厄除け祓い……、まあ祈るだけなら勝手よのう。ほいでもってこなたの神社の売りは、何といっても縁結び! ずらずらずらずら並べ立てた、派手なのぼりで煽っておることやしのう。あてが聞くのも十中八九はそればっかり」


「けっ。あのど腐れ神主めが……! われにばくばく形代を、食わせるだけでは飽き足らず、こんな下品な桃色絵馬で、金儲けなんぞしよってからに」

 主は桃色に塗られ赤い紐で吊るされた、猪目いのめ形の絵馬の群れを憎々しげに睨みつけた。今の神主に代替わりをする前は、他の願いを書いても違和感がない、白木のままの家形の素朴な絵馬だった。

「ほっほっほー、桃色おみくじに桃色御守り、桃色破魔矢もあるぞいなあ。ようよう見てみいほれここに、淵様の絵が描いてあるぞいな」

 狐之葉がとんと指先当てた桃色絵馬の表には、『恋淵神社』『縁むすび』の文字に挟まれて、ずんぐりむっくりとしたつぶらな赤目のとぐろ巻く白蛇の絵。


「……のう、狐之葉」

「何じゃいな? 淵様」

「われはこんなに寸詰まりか?」

「近頃はのう、そうじゃのう……」

 下膨れした主の顔を、ぽよんと突き出た主の腹を、狐之葉は酔ってとろんとした目で、ためつすがめつ眺め回した。

「えろう丸なったのう、淵様。水神様でいらした頃には、荘厳な凍滝いてたきの如くしゅっともすっともしとったのに……」

「わっ、われは今でも水神じゃあっ!! 恋愛成就の願いときたら、甘いし、重いし、くどうてかなん! 一体何が悲しゅうて、水源りを片手間にして、人っ子どもの色恋ばかり叶えてやらにゃあならんのじゃ!」


 主はつちのこのように丸々肥え太った、我が身を嘆いておいおいとのたくった。

 だがしかし……、古人の切実な雨乞いと、自然への畏敬の念が主を水神にしたように、主が今、霊験あらたかな縁結びの神様として、淵に男女の名前を記した恋祈願の形代を投げ込まれるようになったのにも、それなりの起源というものがあるわけで。

「喰い意地の張った淵様が悪いのう。あの時宿六と一緒くたに、あてを丸呑みしてしまうから」

 妖狐であった己の死に様を回顧して、呆れたように狐之葉は言った。




 狐之葉は昔々の小昔、小股こまたが切れ上がった美女に化けた格好で、ちょいとからかってやった若者に惚れられて、人と夫婦になった狐女房だ。見るなの禁止を破ったこの若者が、二股の尻尾を出した狐之葉を追い掛けて、捉えて落ちたが主の棲まう淵ときた。

 すは、久方ぶりの人身御供――! とばかりに、主はこれらを諸共に、大口開けてばっくりと呑み込んだ。一人とそれから一匹足して三日三晩、このくらいが妥当かと、ざあざあざあざあ雨を降らせた。若者と狐女房の入水じゅすいを知った村人たちは、添い遂げることを許されぬ悲恋の夫婦を、淵の主が憐れんで、天が泣いたと噂した。

 それから……、いくら経ってもどうしても、上がらぬ二つの亡き骸に、いつからともなく主の淵は、恋し合う者たちを分かたぬ淵と、ながに結び合わせる淵と、すなわち恋淵と呼ばれるようになったとな。




「……腹が減っておったんじゃあ」

 あの、唯の一度のうっかりで……。主はしょんぼり肩を落とす。名も無き淵に恋淵と、名前が付いたその時から、主もまたその言霊に縛られた。

「あの時あての尻尾を掴んで、足を滑らしおった宿六だけで、我慢しといてくれりゃあのう……。あては命辛々逃げ切って、今頃ここに建っておるのは縁切り神社じゃったのに」

「縁切り神社?」

「そうじゃよう。白いうわばみの淵様やあ、悪縁絶ってくだしゃんせー。灰色絵馬に灰色おみくじ、灰色御守りも灰色破魔矢もあるぞいなー」

「あー……、桃色が灰色になるだけで、ど腐れ神主はど腐れ神主か」

「そやそや。縁結びも縁切りも、どちらも需要はあるぞいな」

 裂けた口角吊り上げて、狐之葉は妖しくにぃと笑う。人の女のふりは狐之葉には、あなをかしな遊びであった。


 ばれてしまった異種婚を、恥じて逃れた狐女房と、それでも女房を諦めきれなかった若者の心中劇の真相は、性悪狐とそれに弄ばれていたことを知り、怒り狂った若者の、追いかけっこの果ての勿怪もっけである。実のところは滑稽な、恋淵に纏わる異類婚姻譚は、捻じれ捻じれて今に至る。

 二尾の妖狐であった狐之葉は、死して後にお狐様と崇められ、祟りやしないかと懼れられて、今も恋淵神社の一隅に稲荷明神として祀られている。心ならずも伝説を作ってしまった若者も、主に喰われたことで人柱と化し、ぶすくれた顔つきで、産土うぶすなと外との境界を守る神霊のいつとなっていた。


「縁結びじゃろうが縁切りじゃろが、人っ子に祈願されたれば、淵様が腹減りになることはないわいなあ。大飯喰らいで福々しい淵様には、縁切りよりも縁結びの神様の方が似合いじゃろ」

 主と人とは持ちつ持たれつ。人の心と血肉が生んだ神ゆえに、その信心が絶えたなら、主も消えゆくのみである。もしも名も無き淵の水神のままでいたならば、主は雨乞いの風習が廃れた今の世で、小さく萎んでいたかもしれない。


「腹に重たい恋祈願じゃが、縁切りよりは軽いかのう……。まったくもって世知辛い」

「淵様が、律儀に縁を結んでやるものだから、参詣者がどんどん来るんじゃよ。形代を全部呑むのを止めたらいいのに」

「淵を穢されるのは我慢ならん」

 そう言って主は直衣のたもとから、淵の底から浚えてきた賽銭の山を取り出した。主が無造作に撒いたそれは、本殿前の賽銭箱の中に吸い込まれてゆく。

「神というに、因果なことで」

「水神なんじゃよ、われは……」

 人の願いが移ろうと、そこは決して譲らぬ主に、狐之葉はわらって、ほれ一献、とお神酒を勧めた。




 ――今年参った初詣。かなたの神社の由来は何ぞ?

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