Prologue

重い病室の扉を、ゆっくりと開けて中へ入る。

どこもかしこも、目が眩みそうなほどに真っ白。清潔感が意志をもって汚れを追い出しているかのように。


部屋の主は、ベッドの上で目を閉じたまま静止していた。

真っ白でいて透明感のある髪が、胸のところまで伸びている。

陽ざしに照らされて、微かに煌めいていた。


「そろそろ髪、切ろうか?」

その傍らに佇む椅子に腰かけると、ぎしりと音を立てる。


「あ、来てたんだ、洸介。」

どこか軽快な声。

僕が無言でうなずくと、

「髪、まだ少しはいいや」

そう言って、彼女は両手で自分の髪を梳きはじめる。


「そう。随分伸ばすんだね」


彼女もうなずいて、

「うん。伸ばしたいというよりは切りたくない気分。

あ、そういえばあれ、持ってきた?」

と、待ちわびていたのかのように僕に尋ねる。


「もちろん。いつも持ってきてるよ」

カバンからパソコンを取り出して、膝に置く。


彼女は再び目を閉じて、こう続けた。

「今朝、やっと降りてきたの。このまま空虚な永遠が続くかと思っていたから。

だから、これを書き終えたら私は終われるんだと思う」


「終わり、か…」

ああ、『おわり』は、救いなんだろうか。

彼女はこの間、『おわり』は結果に過ぎないけど、どのような過程でそれを迎えるかに価値が生まれると話した。

生きるために生きている僕は、彼女みたいに自分のために価値を生み出そうとしているわけではないし、ただ、あの時の罪滅ぼし。


「私も、君も、とっくに終わっていたはずでしょ?」


後悔もなにも消えることはないのに。




昔のこと。

彼女は脳に重大な障害を負い、四肢の自由を失った。

そして、以来彼女はこの病院にずっと入院している。


その事故で、僕は軽傷だった。

何度、運命を、自分を恨んだだろうか。僕と彼女が逆であったらと。

いいや、これは断じてベタな展開などではなく、まごうことなき、冷たい現実だ。

というより、彼女は運動が苦手だった。

ただ、確かな文才があったというだけ。

彼女の描く物語は美しく、儚くて、読む僕の心を震わせる。


僕が度々、逆であったらというと、彼女は決まってこう言う。

「物語は、腕がなくとも紡げるから。だから、それを記録するために、君が私の腕になるの」

いいや、もちろん僕は自分の境遇を嘆かない。あの時で終わっていたはずというのは事実だし、僕は彼女の作品の最初のファンであって、誇らしささえある。そして、なによりもっと、『あの人』のためにも。

だが、彼女に物語を描く機能が残されたというのは、決して幸運などではない。

同時に神は彼女からそれ以外のすべてを奪ってしまったのだから。


「神様なんていないよ」

そっと、彼女がつぶやく。

太陽が雲間に隠れ、部屋が一瞬だけ暗くなったようだった。


「私は、ただ物語を描くために生まれて、それだけのために生きて、それだけのために死ぬの。ただ、その目的がたまたま明確にさせられちゃって。寧ろ好都合なくらい」


「でも、君の、」

と僕が言う間に、彼女は少しだけ声を大きくして、僕の声に重ねる。

髪を梳く手は止まっていた。


「ううん、それはいいの。

この世界に偶然なんてない。あるのは必然と自分の行動、そして意志。

運命も、奇跡も、神様も、存在しない。」

彼女はそう言ってから、


「だから、物語が面白くなるんでしょ?」

と微かな笑みを湛えながら言って、新しい小説の冒頭部分をゆっくりと語り始める。


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終天の夕方 @Pneuma

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