15.もう一度ここで

 風はすでに、春を囁いていた。桜の枝先はふっくらと丸みを帯び、濃い灰色の幹に赤みがにじみ出ている。


 ユズは、大木に手を合わせた。

 サクラに、ダイチに、そしてコウとレンに。


 根元の土は、目を凝らさなければどこを掘り返したか分からないほど綿密にならされていた。


 砲弾に抉られた尾根線からは、湿った土の臭いが漂っていた。そちらにも手を合わせ、ユズは斜面を下っていった。


 疎林に降り注ぐ日差しも柔らかさを増した。踏み歩く草が萌黄に染まる。春先に咲く野の花が、白い小さな花を風に揺らしていた。下っていくほどに春めいていく景色を楽しむ余裕もあった。


 不意に枝がざわめいた。予感はあった。驚くことなく、ユズは足を止めた。


「ねぇちゃん」


 目の前に降ってきた少年は、珍しく半開きの口で喘いでいた。肩を大きく上下させ、必死に呼吸をしている。全力で追ってきたのか。ユズは笑って見せた。


「追いつけたんだね」


 少年は一度唾で喉を湿らせ、ユズの手元へ顔を向けた。


「ほんとに、流花、行っちゃうの?」

「うん。だけど、通いだから。休みのときは遊びに来てあげてもいいわよ」

「ちょっとは期待したんだけどな。仲間になってくれるって」


 口を尖らせ俯く額を、指で弾いた。


 当然避けるものと思っていた。なのに中指に確かな肌を感じ、少年が派手にのけぞった。目にも留まらぬ狩人の攻撃は見切るのに、何故でこぴんは避けられないのか。


「……いてぇ」


少年は赤くなった額を押さえ、涙声になっている。


「買いかぶりすぎ。そんな度胸も覚悟も持ってないよ」


 まだ何か言いたそうな少年を見下ろし、ね、とユズは膝を曲げて彼と目の高さをそろえた。


「あんたの本当の姿、もう一度ここで見せてもらっていい?」


 彼は顎を引き、あからさまに警戒して周囲を窺った。


(やっぱり、ダメか)


 諦め、膝を伸ばそうとした耳に、いいよ、と小声が聞こえた。


「……ほんとは、ダメだけど。ねぇちゃんは特別」


 少年は肘を上げ、反対側のゴーグルの下部へ指をかけた。鬘ごと一気に剥ぎ取る。

 現れた細い癖毛が、軽く振った頭の動きと風によって軽やかに揺れた。


 木漏れ日を受けた髪は緩やかにうねり、夕焼けをはらんだ雲の輪郭のように煌めく。金色の瞳に光が溜まり、澄んだ朝日を閉じ込めた玉があるならこのようなものかと思われた。肌の白さも相まって、そこだけ周りより光を多く集めているようだった。


「触っていい?」


 引っかかりのある許可を得て、金の髪に手を伸ばす。触れた瞬間、びくりと身を縮める姿は、昔飼っていたネコを連想させた。


「きれいね」


 指で揺らすと光も揺れる。これほどに美しいものを、どうしてあの夜、おぞましさにはね退けてしまったのだろう。


 柔らかな弾力の後に到達する頭皮が温かく湿っていた。

 撫で続けるうちに、指に絡む金の髪が次第に少なくなった。毛先だけが指の腹をくすぐる。肘を伸ばし再度頭に手を載せるが、それも徐々に遠ざかる。不審に思い少年の顔を覗き込むと、彼は落ち着きなく金の瞳を動かしていた。

周囲を警戒しているのかと思いきや、色白の頬が朝焼けのように染まっている。

照れているようだ。


「もういい?」


 ユズの手から逃れ、少年は濃い茶色の鬘を被った。「ハヤト」の姿になり、ホッと息をついてゴーグルを手にする。依然、恥ずかしそうに目を逸らせているのを見ると、ユズの悪戯心が首をもたげた。


「ありがとう、……ハジメ」


 途端に、獣の獰猛さが瞳を支配する。ギラリとした目が逡巡するように揺れ、あのとき、と舌打ちした。

 頷くユズに、ハジメは肩をすくめた。


「なにげに耳がいいよね。油断ならないな」

「褒めても仲間にならないわよ」

「言わないでよ。名前もキミツジコウなんだから」

「カゲの中でも?」

「そう。知ってるのは、ほんと一部だけ。だいぶ、減った」

「分かった」


 さらさらと風が梢を揺らした。足元で光の粒が踊る。


「じゃ、またね」


 軽く手を挙げると、ハジメも同じように応えた。


「うん。……生きてたら」


 ひときわ強い風が木漏れ日を揺らした。ハジメの笑顔が、ふいに陽だまりに溶け込みそうになり、思わずユズは手を伸ばした。

 指先を掠めたのは、どこからか風に吹かれてきた、早咲きの桜の花弁だった。彼の姿はすでにない。


「ハ……ヤト!」


 木立にこだまする呼び声に答えたのは、鼻歌だ。はるか離れた枝で、軽やかに回る影が見えた。


 一瞬、ユズは我が耳を疑った。


『桜舞』。彼が再現しているのは間違いなく、兄の鎮魂のため、あの夜に舞ったものだ。月夜の桜の下で、ただ一度だけ。


 ハジメも、あの場にいたのだ。ふたりに気取られないよう、身を隠して。サクラを想いマサキが流した涙も見たに違いない。頑なに縛っていた彼の悲しみがほんの刹那綻んだのを、見ていた。

 だから、ユズならマサキを慰めることができると考えたのか。


「かなわないなぁ」


 声に出した呟きを笑うように、また花弁がちらちらと落ちてきた。

 受け止めようと掌を近づけるが、気まぐれな風が思わぬ方へ持っていってしまった。


 握った拳には何もつかめなかった。

 しかし、ユズは満足してひとつ頷くと、町へと足を踏み出した。







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花の面影 かみたか さち @kamitakasachi

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