14.そう言ったのは貴方だよ

 そっと扉を開けた。部屋の隅に、整えられた寝具が残っていた。


「へぇ、ほんとに戻ってきたんだ」


 声に振り返ると、今入ってきた戸口から少年が顔を覗かせていた。小屋に入ったときは完全な空き家になったかと思ったが、相変わらずの神出鬼没ぶりに、ユズは苦笑した。


「おかげさまで」


 狩人の襲撃騒ぎに乗じて、ユズは数日したら戻ると書き置きをして町へ下りた。何らかの監視はあったかもしれないが、少なくとも無理やり連れ戻されることなく目的を達成した。


「ほんとなら、襲撃受けた居場所は即時撤収なんだぞ」


 色眼鏡に隠されていない口元が尖り、少年のわざとらしい不満を見せ付けられた。

 盲点だった。


「ごめん。特に問題なかった?」


 素直に謝ると、意外そうな顔をされる。そんなに驚かなくても、と思うと腹立たしいが、彼らにとっては僅かなことも命取りになると知ってしまった今では、問題が起きていないかどうかの方が重要だった。


「さすがに奴らも、今回は打撃が大きかったから。しばらくは大丈夫だろう。って、マサキの判断」

「マサキさんは」

「夜には戻るって。ねぇちゃん、何か持ってる?」


 ふんふんと少年が鼻をひくつかせた。重いのを頑張って運び上げたことを思い出し、ユズは荷物を開けた。


「頂き物のおすそ分けだけど。食べる?」


 赤く熟れたリンゴを見て、少年の表情がたちまち明るくなった。


「うわぁ。こんなにたくさんもらっていいの?」

「どうぞ。食べきれないくらいもらっちゃったから」

「ありがとう。みんな喜ぶよ」


 小柄な少年の顔がすっぽり隠れてしまうようなリンゴを両手に持ち、嬉しそうに鼻を押し当てている姿などは、やはり町によくいる六歳、いや、十歳児と変わらなかった。さらに彼は、赤い実を床に並べ始めた。

 ふと、少年が肩から大きめの鞄を斜めに提げているのに気が付いた。


「すぐにでも、ここを片付けるの?」


 少年は首を横に振った。ふいに彼は真剣な面持ちでユズを見上げた。


「もう日が暮れるし、今夜はまだ居るんだろ」

「まあ、そっちが良ければ」


 町からこの小屋まで、途中記憶が曖昧になり迷いながら上ってきたため、通常より時間がかかった。慣れない山をひとりで歩けば、ぱっくり開いた亀裂に落ち込んだり、地盤の緩いところで崖崩れに巻き込まれたりしかねない。おまけに今の月は細い。足元が暗い中、町へ戻るつもりはなかった。


「じゃあ、マサをよろしくね。俺、今日は他んとこ泊まるから」

「え、どういう」

「マサを、慰めてあげて」

「そんな、あんたが慰めてあげればいいじゃない」

「俺じゃ、ダメなんだ」


 薄い色レンズ越しに注がれる視線は、真面目そのものだ。真意が分からずうろたえるユズから、少年は顔を背けた。鼻先が赤い。唇を噛み締め、拳を握った。


「ダメなんだ。マサは、俺の前じゃ強いとこしか見せようとしない。今まではだから、コウが居てくれたのに」


 そのコウは。


 地郷公安部が実験的に使用した砲台の惨劇が蘇り、ユズは一時目を閉じた。

 捜索を指揮する間も、作業の間も、マサキは一粒の涙も流さなかった。少年の口調では、それ以降もずっと、悲しみを一人で抱え込んでいるのだろう。


「ねぇちゃんになら、もしかしたらって」

「どうして。サクラに似てるから?」


 ふるふると、茶色の短い毛が震えた。


「ねぇちゃんと居るときのマサ、俺といるときと、違ったから。コウといるときと、似てたから」


 それは単に子供か大人かの違いではないかと思うが、何かを確信した上で懸命に頼み込む少年の表情を見ていると断れなかった。


「分かった。期待通りにいかないかもだけど」

「ありがとう。じゃ」


 荷物を担ぎなおし、すぐにでも走り出しそうな背中を呼び止めた。


「あんたは、大丈夫なの?」


 一瞬、少年の顔が曇った。しかしすぐに、満面に笑みを浮かべた。


「平気。慣れてる」


 その言葉の異常さに気付いているのかいないのか。少年は軽やかに走り去った。


「さて」


 わざと声に出し、ユズは天井を仰いだ。

 一般的に女が男を慰める行為をしろというのか。それを十歳ばかりの子供から頼むことはないと思いたい。


(どうしろってことよ)


 むしゃくしゃと栗毛を掻き毟った。髪が触れた左手甲に痛みが走り、慌てて手を止めた。

 まだ生々しい火傷が、ある紋をかたちどっていた。



 夜中に、物音で目が覚めた。

 暗くなってもマサキが戻る気配もなく、さては騙されたかと寒さしのぎに寝具に包まっている間に眠ってしまっていた。


 小さく金属音がした。

 いつかの夜と同じように、廊下側の壁から光が漏れ出ていた。不穏な気配はないが、金属音は思い出したようにカチリと鼓膜を震わせる。


 ユズは身を起こし、光を辿って台所だった部屋の扉をノックした。


「起こしてしまったか」


 淡く笑みを浮かべたマサキが、招き入れてくれた。

 椅子も机も撤去された部屋は、悲しくなるほど広かった。大きめの木の盥を逆さにしたものの上でランプが光を放つ。床に直接胡坐をかくマサキは、揺れる炎の明かりのせいもあってか、疲労の色を濃くしていた。


 それでも、口調は穏やかだった。


「食事は」


 まだだと答えると、火を使わなくても食べられるパンやチーズを差し出してくれた。水筒から注がれる茶が、ぽこぽこと和やかな音を立てた。


 礼を言って食べるユズの前に、見覚えのある小さな箱が置かれた。


「戻ってきてくれてよかった。これを、ユズさんに」


 どぎまぎしていると、マサキは開けてみろと促した。

 中の物が光を反射させ煌く。銀の台座に、平らに加工した石が嵌っていた。不透明な石の色はランプの灯りでは分かりにくいが、桜色なのだとマサキが教えてくれた。


「あの」

「ここを」


 指輪を手にしたマサキが、台座を捻った。ごく小さな音がして、石の下から針が飛び出す。ユズが覆面の狩人と思しき人物から渡された毒針だった。


「あ、そういう」

「カラクリ氏に細工してもらった。予備針は中敷の下にある」


 持ち上げられた底に、付け替えやすいよう細工された針が四本、綺麗に並んでいた。


「なんだ。ちょっと期待しちゃった」


 笑って誤魔化したが、当の本人はきょとんとしている。もしかしてダイチがフウカへ指輪を用意していた意味すら、分かっていなかったのか。


「あの文書は?」

「もらっておいた。必要なら返すが」

「いや、いい。それより、毒針の出処については訊かないのね」


 束の間、マサキの手元が止まった。そうだな、と呟くと、口元を和らげた。


「話したければいつでも聞く」


 元の通り整えられた箱を手にした。両手に包み込む。


「手、どうした」


 眉を顰められ、ユズは、ばれちゃった、と舌を出しておどけた。


「『藤紫』の紋よ。囲いはないけど」

「そのために、町へ?」


 このままただの民として戻れば、ここで気付いたこと、感じた痛みをすぐに忘れてしまうだろう。

 地球人種でありながら蔑まされる花街の者たち。自分もその一員として地郷社会を底辺からもっとたくさん見て、考えたかった。誰かのために何かが出来るとは思っていない。ただの自己満足だと自覚している。

 フウカと、彼女の娘のことも気がかりだった。近くで見守らせてもらいたかった。

 

 しかし、それらの理由は口にしなかった。


「店も丁度空きが出たところだったし、店主にはフウカや兄との繋がりは言っていないし。身を隠しての社会復帰には丁度いいかなって」

「そうかもしれないな」


 マサキは先ほどから続けていたらしい作業に手をつけた。


「それ」


 逆さにした盥の底板に並んだ大小さまざまな形の金属部品が、揺れるランプの光を反射させていた。

 ため息のように、マサキが答えた。


「昨日、仲間が見つけたんだ。着弾場所から離れた茂みで」


 かちりと、部品がはめ込まれた。彼が手にするのは、見たことのある銃の一部だった。


「他は全部粉々に吹き飛ばされたのに、無傷なんだ。約束を、果たそうとしたんだろうか」


 末尾は独白に近かった。

 深皿に張った水の中に部品のひとつを沈め、軽く漱ぐ。茶褐色の汚れが広がり、馴染んでいった。水気をよく切って柔らかな布で拭いたものを、並んでいる部品の列に加えた。


 簡単な食事を終える頃に、コウの愛用した銃は元の形を取り戻した。

 指先で輪郭をなぞりながら銃を見つめる眼差しに、ユズは茶の器を置きながら言い捨てた。


「泣けばいいじゃない」


 随分ぶっきらぼうな口調になってしまった。そうしなければ自分が泣いてしまいそうだった。


 しかし、言われた方は僅かに眉尻を下げて微笑んだだけだった。


「それよりも、あの子を心配してやってくれ。一晩寝て立ち直れるような痛みじゃないはずなんだ。俺は、いい」

 膝の上で開いた掌に視線を落とし、マサキは穏やかに続けた。

「一度は捨てようとした命だ。あの子のためなら、どんな覚悟も出来ている」


 ユズも、彼の掌を見つめた。


 この手で、何人を殺めたのか。

 襲い掛かってくる狩人だけではなかった。裏切った仲間の制裁も、やらざるを得なかった。

 しかし、どんなに汚れていても、その手が掴み取ろうとしているものは、ユズが追うと決めたものと同じなのだ。


 厚い皮の手に、自分の手を重ねた。


「そんなに強くないでしょ、マサキさんは」


 手の下に、僅かな振動を感じた。そのまま、ユズはゆっくり彼の背後へ回った。広い背中を抱きかかえる。


「何の、つもりだ」


 警戒を含む声に構わず、堅い髪がちくちくする項へ頬を寄せた。


「どうして、ひとりで全部抱えてしまうの。もっと仲間や、あの子にすがればいいのに」


 じわりと伝わるマサキの体温に、ユズは目を閉じた。

 少年に頼まれたからではない。この人の抱える重すぎる荷物を少し、預けてもらいたいと思っていたのは、自分自身だったかもしれない。


「花街に来る客は」


 瞼を開くと、上着の肩口に新たな裂け口を見つけた。ユズは考えながら言葉を紡いだ。


「時に抱えきれない胸の内を、女に置いていくんでしょ。一夜限りの相手だからこそ、吐き出せる苦しみもあれば、受け流す余裕もある」


 腕の中の背中が強張る。肩越しに見える拳が、より固く握られた。負けじと、ユズも強くマサキを抱えた。


「泣きたいときは、泣けばいいじゃない。私にそう言ったのは貴方だよ。ね……マサ」


 肩が震えた。

 手首に熱い滴が落ちる。


 目を閉じ、自分の肩とマサキの背の間に顔を埋めた。


 そのまま、腕の中の震えが収まるまで、マサキの気がすむまで、ユズは腕を放さなかった。

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