13.どうして
足の動かないユズも、腕を引かれた。
悔しさで目の前が霞む。低木に身を隠し、岩を迂回し、斜面を駆け上がった。
激しい銃声が背後で鳴り始めた。
足の動きより引かれる腕が速く、何度も前のめりになりそうになった。それまでは、マサキたちがユズの速さに合わせてくれていたのだと気が付く。
転げそうになる度、腕にマサキの指が食い込む。それでも彼は足を緩めない。
(もしかして)
思い当たるものに、ユズは気を引き締めた。一度勢いをつけて息を吐き、弾みをつけて吸う。
(舞い人の脚力、見せてあげようじゃない)
持てるだけの筋力を駆使して、ユズは自ら駆け出した。
山頂に近付くにつれ、身を隠せる木立や茂みは目に見えて減った。草すら少なくなり、靴底はごつごつした岩を踏んだ。
小さな岩陰を伝って走り、谷へ向けて張り出した一枚岩の背後に回る。そこでは、なだらかな斜面に辛うじて枯れた草地が広がっていた。
先にたどり着いたカゲの他にも、数名が待機していた。
「本隊の目的地到達まで、あと一分ほどです」
イヤホンを耳に報告しながら駆け寄る男が、マサキの背から少年を下ろすのを手伝った。
「半数は本隊の援護に回れ。残りはこの場で待機」
言いながらマサキは、少年を男に託した。そのまま、踵を返す。その意を察した男が叫んだ。
「無茶だ」
引き止める腕を払い、それでもコウを助けに戻ろうとしたマサキが、びくりと動きを止めた。
暁の雲が一瞬光った。
直後、重い音が腹に響いた。
「伏せろ」
身を翻し、男と少年に覆いかぶさる。
ユズにも、側に立っていた女が持っていた上着を被せた。
地面が大きく揺れた。突風が吹きつける。
上着を通し、バチバチと音がした。しゃがんだ足元をみると、砂が降り注ぎ、草の上を小石が跳ねていた。
辺りがようやく静まったとき、谷の方から鬨の声が上がった。
「本隊、目的地に到達しました」
見張りの声は、沈痛と歓喜を含んで裏返っていた。あちらこちらで身を伏せていたカゲたちが動き始める。
慌しく人々が行き交う中に、マサキは放心状態で立ち尽くしていた。
並んで尾根を見下ろし、ユズは口元を覆った。
桜は、変わらず静かに枝を揺らしていた。
しかし、コウが残った尾根線は、跡形もなく崩壊していた。
新たな土や岩が露出し、茂みを作っていた低木は砕け散り、生々しい髄を見せていた。枝を広げていた木々は、むき出しの根で天を掴もうともがくように、逆さになって斜面の中ほどに横たわる。
争いの音がこだまする谷の対岸にあって、そこは死の静寂に包まれていた。
程なく指笛が高らかに鳴り、制圧完了の声が上がる。湧き上がる歓声にも、マサキは反応しなかった。
足元で小さな呻きが上がった。
のっそり身体を丸め、腕を突っ張るようにして座り込んだ少年が、瞼を半分しか開けられずにいた。ゆらゆらと辺りを見回し、ようやくマサキを認めてよろめきながら近付いた。
力なく垂れたマサキの指を、小さな手が握る。
「マサ。コウは?」
マサキは無言で少年の肩へ手を載せた。軽く、尾根が見えるところまで押しやる。
変わり果てた尾根を、少年はしばらくぼうっと眺めていた。
やがて、ゴーグル越しにも分かるほどはっきりと目を見開き、前のめりになる。
キッと振り返られたマサキが、静かに首を横に振った。
再度尾根へ顔を向けた少年の足が、ふらりと踏み出された。
数歩進み、止まる。その場に膝を落とし座り込んだ。
いたたまれなくなり、ユズはそっと後退した。
岩の下方で、共に逃げてきたカゲが集まっていた。尾根を静かに見つめている。敬礼を捧げる姿もあった。嗚咽をもらす者もいた。
「やめろ」
突如響いたマサキの叫びに、ユズは弾かれたように振り返った。
少年が、自らのこめかみに銃口を当てている。
引き金が引かれるより速く、マサキの腕が伸びて銃身を握った。
もぎ取られ、多々良を踏んだ少年は足を踏ん張ると滅茶苦茶にマサキへ殴りかかった。
「なんで。なんでだよ」
マサキは避けようとしなかった。
「奴らの狙いは俺だろ。俺が死ねば、終わるんだろ。そのほうがみんな、いいじゃないか」
毎日のように鍛錬に明け暮れた腕だ。細いが相当な力がある。
にもかかわらず、マサキは浴びせられる拳を敢えて身体に受けていた。顔を伏せ、両腕をだらりと下ろし、ただ立ち尽くしている。
「コウが死ぬことないだろ。ねぇ、なんで助けなかった。どうして引きずってでも来なかった。俺だって手伝えたのに」
殴られ、蹴られ、掴まれた上着を揺さぶられても、マサキはただ、なされるがままに足を踏みしめ、立っていた。
「さっさと俺を突き出せよ。それで終わるなら、構わないよ。俺、弱っちいだけじゃん。コウの方が大事じゃん。そうだろ、マサ。親友だったんだろ」
ただ、少年の吐き出す胸の内を、余さず受け止めようとするかのように。
「なんで、だよ。どうして。いやだよ。なんで、みんな、いなくなっちゃうんだよ」
繰り返される少年の殴打は、次第に弱くなっていた。それでも尚、彼はマサキを打ち続けた。
肘でマサキに寄りかかりながらも、手の先を振り上げ、叩きつける。
「なんで。なんで俺なんか。こんな、放っとけよ。俺に構うなよ」
泣きすぎて、声が枯れている。
「もう、やだよ。俺、もう」
声がくぐもった。
「なんでだよぉ」
少年はマサキの腹に頭を押し付け、俯いて喘いだ。
滴が足元の岩肌を打つ。
笛のような音が、細い喉から発せられる。
小さな両の拳に握られたマサキの上着が、グッと皺を深くした。
腹の底から搾り出される慟哭。
マサキの腕が重そうに上がった。
そっと、そしてきつく。全身で泣く少年の肩を、抱きしめる。
己の胸に顔を埋めるまで俯いたマサキの声が小さく、少年の慟哭に被さった。
ただ三音。
恐らくそれが、少年の本当の名だろう。
ユズは顔を背けた。
どうして。
ダイチの謀反が判明してから、ユズも繰り返し思った。どうして、と。
しかしそれらは、今になって思うと少年の「どうして」とは比べ物にならないほど軽かった。
どうして。何が原因で。
どうしたらいい?
岩を回って、さらに十数名のカゲと思しき者たちが集まってきた。状況を聞き、痛ましそうに少年を見上げる。
彼らの頭上で、長い初春の夜が白々と明け始めた。
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