鴉乃雪人

 夜の河川敷が、その一ヶ所だけぼんやりと赤く染まっていた。花のように夜の上に咲く小さな炎、その横には背の高い黒い影――人。

 僕はそれを、遠くから眺めていた。


    ***


「あの」

 本屋の帰りだった僕は、橋の上から見えるその炎に無性に心をくすぐられて、ついには河川敷に降り立ってしまった。近づいて来る僕をその人は気付いていたようだが、声をかけるとは思わなかったらしく、不意を突かれたような表情で僕を見た。

「それ」

 僕は炎を指差した。ぱちぱちと、小さな火花が散っていた。

「どうしたんですか」

 言葉にしてから、僕はその人――すらっとした、髪の長い、丸眼鏡の人。多分、男の人だ――の左手に紙の束が握られているのに気付いた。遠くからは分からなかったが、足元にはさらに、厚みも様々な紙の束がたくさん積み上げられていた。

 彼は、ふっ、と表情を崩して。

「ああこれ――」

 左手の紙の束を、僕に見せつける様にゆらゆらと揺らして、躊躇いなく、流れるように、炎の中に放り込んだ。

「――儀式みたいなものだよ」

 紙の束はゆらめく炎に包まれて、どんどん、侵食されて、瞬く間に、消えてしまった。

 僕は少し近づいて彼の足元の紙を見た。一番上に積み上げられた束の一枚目に見えたものは、小説のタイトルのような文言と、その左側をびっしりと埋め尽くす小さな文字だった。

「燃やしちゃうんですか、全部」

 彼はかがみこんで積み上げられたそれの一番上の束を取り上げ、再び、躊躇なく――

「うん。こいつらは、そうだな、夢の残りかすだよ。僕はこいつらを、輝かせれなかった。だからここで、最後の、本当に最後の煌めきを、こいつらに与えるんだ。この炎はきっと、明日からの僕を照らしてくれる……」

 じっと炎の中に目を向けて、彼は独り言のように語った。丸眼鏡は時折目の前の炎を映し出していたが、その後に覗ける瞳は酷く乾いて見えた。


 僕はとっさに紙の束をいくらか手にとった。彼は驚いたように僕を見て、低い声で尋ねた。

「どうしたの」

「あのこれ、貰っても良いですか」

 彼は目を細めて、それから何かを言おうと口を動かして、しかし何も言わなかった。

 しばらく、沈黙が訪れた。風もなく、辺りには車通りも、人の気配もなく、ただ目の前の小さな炎だけが、ゆらめいて、音を立てていた。何事か、僕らに語り掛けているような気さえした。

「これ、小説ですよね。僕好きなんです、読むの。だから――」

「面白くないよ」

 彼はぶっきらぼうに言った。

「それは、言うならば僕の老廃物だ。だからこうして火にくべて、綺麗にしたいんだ」

「でも勿体ないです。せっかく時間をかけて書いたものなら……」

 彼は俯いて、少し苦しそうな表情を見せてから、「ああもう」とぼりぼり頭を掻きだした。

「駄目ですか」

 どうしてそんな事を言ったのか、どうしてそんなに強気なのか、自分でも分からない。ただ、夢の残り滓だとか、老廃物だとか、そういう言葉を否定したいと、そんな思いに駆られていたのは確かだった。


「……分かったよ。好きにしな。未来ある若者の糧となるなら、それはそれで満足さ」

 彼は諦めたようにかぶりを振ってそう言うと、用意してあったバケツを持ち上げ、中の水を勢いよく火にかぶせた。少し気持ちの良い音と焦げたような匂いを遺して、夜の花は散ってしまった。

 急に彼がぐっと近づいてきたので僕は身構えたが、彼は真剣な眼差しで僕の肩をぽんぽんと叩くと「いいかい、種を見つけるんだ。きっと美しい花を咲かすのだろうと、確信できる種を。そしたら、急げ。時間は、あると思ってるうちに消えていくから」と残して、踵を返した。

 炎の消えたこの河川敷は、文字通り真っ暗だった。彼の姿もまた、闇に溶け込んでいきそうで、そうなる前に僕は声を張り上げて「ありがとうございます、おじさん」と言った。

 闇の中からは「色々と、頑張りなよ」という声と、「おじさんは余計だ」が少し遅れて響いた。


 僕の手元には、夢の種が残った。

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鴉乃雪人 @radradradradrad

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