最終章 青い果実 その五

 迷いの森の南側には川が流れており、ハルと暮らしていた頃は、いつもそこで飲み水を汲んでいた。

 裸足には川辺の小石は鬱陶しいが、紬は、気にせず川縁まで歩き、しゃがみ込む。

 月光の跳ねる水面は、鏡のように紬の姿を映し込んだ。


 銀色だった髪は、根元から黒に染まり、毛先以外は、精霊成りとなる以前に戻っている。

 輝くように白かった歯と瑞々しく輝いていた爪は、果実の汁で蒼く染まり、すずから譲り受けた桜色の小袖は果実の汁で紫に、藍色の袴は土と乾いた血の茶に染まっていた。

 北方の民と見紛う程の碧眼も、今は褪せて薄黒く色づいている。


「なにこれ?」


 紬の見つめる異形は、人でも、まして精霊でもない。

 しいて言い表す言葉があるなら、人の黒い想いと、精霊に力に溺れて成れ果てた者。

 これを人は、精霊成りと呼んだのだろう。

 

 だからヒスイは、狩ろうとしたのだ。

 浅ましと化す前に、綺麗なままの紬を守るため。

 紬は、水面に映る自分から逃げ出すように駆け出した。


 小石に、小枝に、木の葉に、足の裏がズタズタと引き裂かれ、血が滲んでも止まらずに。




 日が昇り、落ち、また昇り、けれど一睡もせず、止まらずに。




 空腹に耐えかねた胃に穴が開き、渇きに喉が裂けても、止まらずに。




 間もなく初秋に差し掛かる頃、見慣れた景色にようやく足を止めた。




 故郷の村を去る時、通ってきた大樹の若木の森である。

 紬が木々の一つに歩み寄り、目を凝らした。

 木肌は、磨いた白石のような艶がありながら、ざらざらと蠢いている。

 大樹の若木であると確信し、紬が森に入ると、足元で軋むような音が鳴った。

 時折水の流れるような音が耳まで登ってくる。

 大樹の若木が道案内をしてくれているのだ。

 案内に従い、紬は歩を進めた。


 空は葉と枝に覆われ、太陽の輝きは届かないが、葉の一枚一枚が白く淡々とした光を放ち、昇り始めた朝日のように眩しかった。

 光に目を細めながら、紬は、想う。

 故郷に帰ったら何をしよう?

 何処から話せばいいのだろう?

 何を話せばいいのだろう?

 こんな浅ましい姿と化した娘を愛してくれるのか?


 自問しても答えは出ない。

 けれど大樹の若木が案内してくれるのならきっと、そこには紬にとって素晴らしい事が待っているはずだ。

 そんな願いが叶ったかのように、故郷へと道に立ちはだかる男が一人。


「……ヒスイ様」


 懐かしい人の手には小銃が握りしめられ、けれど紬を見つめる翡翠色は、慈愛に満ち溢れている。


「……久しいな」


 紬にあるのは、安堵であった。

 だから恐れず、あの頃のような笑顔で。


「はい……どうしてあれっきり来なかったのですか?」

「輪廻草に阻まれて入れなくてな。ここで待っていればと思ってね」

「……何でもお見通しなのですね、ヒスイ様は」

「違うさ。あの男が何をしているのか、知ったのは森を出た後だった。迂闊だった。もっと注意を払うべきだった」

「青い果実の木に、火を点けたのはヒスイ様ですか?」

「土竜の大将に頼んでね。彼も相当苦労して、ようやくたどり着けたのさね。あれは、大樹が突然変異して生まれた産実うぶみと言ってな。根で人の血肉を分解し、果実として再構成する。あれになる実は、人の赤子の味がするという」

「……ああ、そうなのですね」

「やはり食べたのか?」

「はい……ご覧のとおり。いくつもいくつも食べました」


 ハルの肉を喰らった時、青い果実と同じ充実感と美味が紬の身体を震わせた。

 あの特有の甘露は確かに、同じものであったのだ。


「ヒスイ様。私の心は、壊れています」


 抗えなかった。あの美味に。ヒスイに狩られる死への恐怖に。

 だから森に残り、ハルの狂気に加担した。自分の欲の為だけに。


「私は……ヒスイ様が想っていた通りの、化け物でした」

「紬……違うさね。お前は、化け物なんかじゃないさね。人とは、そういうものなんだ。黒くもあれば、白くもある。自分の行いを後悔している時点で、やはりおまえはどうしょうもなく人なのだ……紬、すまなかった。俺が最初から事情を話していればよかったのだ」

「いいえ。ヒスイ様は、最善を尽くしてくださいました。自分の起こした結果は、自分で背負います」


 紬は、小袖の懐に手を入れ、薄汚れた浅黄色の巾着袋を取り出した。

 すずが、村を出る直前、渡してくれた遅れ米が収められている小袋である。


「ヒスイ様。私を狩ってください」


 紬が小袋を差し出すと、ヒスイは受け取り、中の遅れ米を改めた。


「これで……足りますか?」

「……ああ。十分さね」


 ヒスイは、小袋を握り締めながら頷くと、紬に銃口を向けて、引き金を引いた。

 胸を食い破り、突き進む熱が堪えがたい苦痛を与えたのは数瞬にも満たず、全身から力が抜け出すと同時に、紬は安息に落ちていく。

 死への恐怖はない。あるのは、怪物が葬られていく安堵だった。

 意識を黒く塗り潰され、崩れ落ちる紬を支えるように地面から大樹の根が伸び、抱き留める。

 ヒスイは、槓桿こうかんを引き、飛び出した薬莢を拾い上げた。

 紬の右手を開き、薬莢を握らせると、大樹の根は繭のように紬を包み、地面へ引きずり込んだ。


「紬。おやすみ」


 ヒスイは、真っ白な表情で、そう呟くと、大樹の若木の森の奥へと消えて行った。




 ――――




 月下の銀世界を貫くように生えた無数の稲穂が、ずっしりと頭をもたげている。


「珍しい。この間出来たばかりなのに、また遅れ米か」

「しかも今年は、稀遅れだ」

「めでたいのう。めでたいのう」


 村の者は、嬉々として盛大な宴に身を委ねている。

 遅れ米は、時折誰も精霊成りにしないで実る時があり、これを稀遅れと呼ぶ。

 その土地を故郷とする精霊成りが完全な精霊へと変じた時、起こるとされ、精霊成りが二度と帰れぬ故郷へする恩返しとも言われていた。

 宴会の会場に向かうべく、すずと団蔵が雪道を行く。

 ふと、すずが田畑を見つめると、たわわに実った稀遅れの稲穂の海でたたずむ、犬とも猫とも狼ともつかない獣が居た。

 ふんわりとした毛並みは、雪の輝きと月明かりを混ざり合わせ、染めたような色をしている。

 恐らくは精霊であろう。


「この辺りまで、あんなに大きな精霊が下りてくるのは珍しいな」

「ええ、本当に」


 すずが足を止め、精霊を見つめていると、精霊もすずを見つめ返してくる。

 蒼い瞳は、獣の躯体とは異なり、人のようであった。

 

「ありがとう」


 すずは、精霊に頭を下げ、団蔵の後を追い、歩き出す。

 精霊は、すずと団蔵の姿が見えなくなるまで見送り、風が穂を一撫ですると、いつの間にか、その姿を消していた。

 以後この村では、二度と遅れ米が実る事はなかったが、あらゆる作物の育つ肥沃な土地に生まれ変わり、村の者は、豊かに暮らし続けたという。

                                   おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人狩り 澤松那函(なはこ) @nahakotaro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ