最終章 青い果実 その四
蛇時雨の北東に位置する迷いの森は、春の盛りだった。
暖かい陽光を受け、青々と育った木々の下、
迷いの森と呼ばれるのは、立ち入ると出る事が難しく、反対に再び訪れようとすると、何故か辿り着けない事から、そう呼ばれるようになった。
森の存在を知る蛇時雨の住人は、子供であっても付近には近寄らないが、事情を知らない旅の者が時折訪れ、難儀してしまう。
深更の空に満月が照り、人の目でも歩くに難儀しないその日の夜、ハルの暮らす小屋を和装姿の若い夫婦が訪ねてきた。
「どうされました?」
ハルが出迎えると、夫婦は二人で息を合わせたようにお辞儀してきた。
「妻と旅をしているのですが、夜道で迷ってしまい、難儀しています」
「それは大変だ。さぁ、どうぞ」
ハルが夫婦を小屋の中に迎え入れると、二人は草鞋を脱いで居間に上がった。
今の中央にある囲炉裏の前には、紬が座しており、夫婦を見やって会釈した。
「妹さんかしら?」
妻の方が尋ねると、ハルが答えた。
「ええ。母違いの」
「だから髪と瞳の色が違うのね。北方の方かしら?」
「妹の母が、そうでした」
ハルは、木匙と漆の椀を四つずつ持って紬の隣に胡坐をかくと、囲炉裏の自在鍵にかかっている鍋を指差した。
「さぁ、どうぞ。口に合うかは分かりませんが」
ハルの勧めで夫婦な遠慮がちに、ハルと紬と向かい合うように並んで座した。
夫の方が鍋を覗き込むと、中ではシチューが煮立っている。
「こりゃ珍しい。洋風の料理ですか」
「妹の得意料理でしてね」
夫婦は、漆の椀と木匙を受け取り、シチューをよそい、口に運んだ。
「美味しいわ。妹さん料理上手なのね」
「こりゃいいお嫁さんになるよ。うちのにも見習ってほしいよ」
「失礼ね!」
夫婦のじゃれ合いを嬉々として眺めながら紬は、シチューを一匙、口に含んだ。
その途端、微笑は消え失せ、紬は立ち上がると、押し入れに向かって歩き出した。
ハルもシチューに口を付けるや、眉尻を下げ、不快感に唇を歪めている。
「紬、やはりシチューはまずいな」
「そうかしら? とても美味しいですよ?」
「僕は、気に入りましたよ」
訝しむ夫婦を見つめながら、ハルは手にしていた木匙をシチューの入った鍋に投げ捨てた。
「僕たち二人には、俗世の喰い物が如何にまずいかを知らしめる手段なんです。食とは、快楽ですよ。紬、そうだろう?」
「ハルさんの言う通り」
頷く紬の手には、錆びた鉈が握られている。
「真の美味を知れば、人は抗えないのです」
夫婦が狂気の存在に気付き、生じた数瞬の怯み。
人の反射速度すら置き去りにして、紬は距離を詰め、鉈を振るった。
精霊と化した膂力は、錆びついた鉈を名刀の切れ味と等しく変じさせ、夫婦の首を一撫でに切り落とした。
噴き出た鮮血がシチュー鍋に注ぎ、紅色に彩っていく。
紬は鉈を捨てて、右手で夫の襟首を持ち、左手で落ちた首の髪を鷲掴みにした。
ハルは、妻の方を同じようにして持ち、二人は小屋を後にする。
二人の足が向いているのは、迷いの森の北東。
紬の髪と同じ色の月光が降り注ぐ中、一時間ばかり歩くと人の背丈ほどの小さな木が一本、赤い花に囲まれて生えている。
赤い花は、十三の菱形の赤く小さな花弁で、紬の目線の高さにある。
花自体の大きさは、紬の小指の爪ほどで、茎も針金のように細い。
輪廻草である。
その中央にある木は、大人の男の腕ほどの太さで、捩じれながら伸びている。
枝には、葉が一枚も生えておらず、傍目には枯れ木に見えた。
紬とハルが、夫婦の亡骸を木の根元に置くと、根が蛇のようにうねりながら幾百も地面を突き破り、夫婦の亡骸を貪るように包み込んだ。
暫く待つと、根は解けて地中に帰り、残されたのは、夫婦の着ていた着物の切れ端だけであった。
さらに待つと、一番太い枝先に小さな青い果実が二つ実ってみるみる膨らみ、ハルの手に余る程大きく育っている。
紬とハルは、一つずつ手に取ると、たまらない様子でしゃぶり付き、青い果汁で口元をべしょべじょに濡らした。
果実は、ものの数秒で二人の手の内から無くなり、掌に残った汁を名残惜しげに舐めながら紬が言った。
「もうなくなってしまいました」
「心配は、いらないよ。また人がここに来るはずだ。一度迷い込んだら出られない」
ハルは、輪廻草の一輪に手を伸ばし、切なげな指付きで花弁を撫でた。
「人の血を吸って育つ輪廻草は、精霊を惑わせず、人をよく惑わせるんだ。辿り着きたい者は辿り着けず、辿り着きたくない者は辿り着く。故にあの人狩りは、ここへは来れない」
ヒスイは、一度小屋を訪ねて以降、二度と来る事はなかった。
辿り着きたい者は、辿り着けない故だろう。
しかし紬は?
逃げ場所を求め、走り続ける内に、ハルと出会った。
紬は、精霊成りだが、根本は人のまま。ならばハルの元に辿り着いたのは、ここが紬にとって辿り着きたくない場所だからではないだろうか?
「紬に出会えてよかった」
それでも紬の居場所は、ハルの傍しかない。
ここで生きる以外、狩られずに済む場所はないのだから。
「果実の甘露を分かち合えるのは、紬だけだ」
ハルは、紬に向き直ると、あどけない身体を抱き寄せ、愛でるように背中を擦った。
「どこにもいかないでおくれ。ずっとここに居ておくれ。僕は、紬が居ない日々を思い返すと、寂しさに殺されそうになる」
「……紬の居場所は、あなたの隣だけです。どこにも行きませんよ」
狂気の群れに飲まれようとも、紬が居られるのは、ここだけ。
ただ一つ、不満があるとすれば、
「けれど、最近は、お腹が空いて仕方ありません」
「ああ。収穫が少なく、腹が膨れないね。何故だろう? 何時もなら、もっと人が来るのに」
ヒスイの来訪から数週間が過ぎた頃から、迷い人の来訪がめっきり減ったのである。
紬がハルと暮らし始めた頃には、一日置きに迷い人が訪れ、青い果実をたらふく食する事が出来た。
しかし人の迷い込む間隔が開いていき、今では青い果実を食べるのは、週一度か、そこら。
収穫がない時は、当然果実以外のものを食する。
迷いの森は、肥沃な土地で、冬ですら食べるものには難儀しない。
だから最近は、春の豊かな食材を使い、さまざまな料理を試していたが、二人の舌が満足する事はなかった。
ある日は、紬が問ってきた桜鱒を炭火で塩焼きにしたが、
「まずいですね」
「ああ、果実が食べたい」
ある日は、ハルが取ってきた山菜を天ぷらにしてみたが、
「油がくどくて美味しくないです。果実が恋しい」
「食べられたものじゃないな。果実はまだか。旅人はまだか」
ある日は、卵焼きを作ったが、これもやはり、
「甘くてもどしてしまいそう。果実が欲しい」
「ふにゃふにゃと、くちゃくちゃと、気持ちが悪い食べ物だ。果実が喰いたい」
どんな美味でも二人の舌は、まったく受け付けず、あの夫婦を最後に旅人が来ないままま、気付けば夏になっていた。
夕焼けの日差しに蒸された小屋の中で、紬は痩せ細った身体を横たえて天井を見やり、ハルは土間にしゃがみ込んで、虚ろな瞳で玄関を眺めている。
迷い人は、来ないものか。
果実の材料は、いつ来るか。
あの豊満な果実にかぶりつき、青い果汁で唇を汚したい。
そんな日々を過ごしていたある日、紬の鼻腔にかぐわしい香りが滑り込んできた。
「この匂い……」
肉の焼ける匂いのようであった。
何と甘美で、蠱惑的なのだろう。
干からびた口内が数ヶ月ぶりに唾液で潤っていく。
「ハルさん、美味しそうな匂いが」
「匂い?」
「外から」
「本当だ。美味そうだ」
「ええ、美味しそうな――」
紬は、自分の感覚を疑った。
青い果実以外は、身体が受け付けなかったのに、何故肉の焼ける匂いをこうも愛おしく思うのだろう。
どうして今更肉などを美味そうだと思うのだろう。
違和感に背中を押され、紬は、裸足のまま小屋を飛び出した。
匂いを辿り、迷いの森を走り抜ける。
慣れた道故、今の紬は、迷わず森のどこへでも行けた。
匂いが強くなる内、比例して紬の不安が膨らんでいく。
所々に生える葦の葉に擦れ、手や足首が切れる。
けれど痛みを感じられないほど、紬の頭は、一つの事柄に支配されていた。
匂いのする先にあるモノ――。
「ああ! そんな!」
青い果実のなる木と輪廻草が燃え盛り、空に向かって、白煙を上げている。
呆然とし、紬は、その場に膝から崩れて落ちた。
「どうした紬!」
背後から春の声が響き、紬が振り返ると、彼も焼ける木と輪廻草の姿に瞳を揺らした。
「なんで、こんな事に? 僕の大切な……」
木が無くなっては、もう二度と、あの美味を味わう事は出来ない。
あれ以外は、身体が受け付けないのに。
誰が焼いたのだ?
どうして焼かれたのだ?
あれほどの美味をどうして失う必要があったのか?
「ハルさん……これからどうすれば?」
青い果実が食べられないのなら。餓死する以外に道はない。
空腹のせいで解決策が浮かばず、ハルを頼る以外にないと思った。
しかし――。
「紬……お前のせいだ」
ハルの瞳に暗い情が宿っている。
数ヶ月の暮らしの中で、初めて紬に向けられる感情だった。
「父さんや爺さんが大切にしてきた木を……お前が来たせいで、こんな事に」
殺意。
敵意。
害意。
全ての責を紬にあると思い、人の持ち得るあらゆる後ろ暗い気配をぶつけてくる。
――殺される。
紬の脳裏を予感が過り、気付けば紬は、地面を蹴り、宙を舞っていた。
――殺されるぐらいなら。
眼下のハルを目掛け、落下の勢いを活かして突き出した右手は、ハルの腹部を容易く穿った。
傷口から弾ける臓腑に爪を立て、力の限り引きずり出す。
ハルは、痙攣する両手を紬に伸ばし、潰れた声で懇願した。
「助け……」
紬の耳には、届かなかった。
精霊と化した膂力は、容易く人体を腑分け、ついにハルは、肉塊へと変り果てる。
両手にまとわりつく血を舐め取り、紬は、小腸へと手を伸ばした。
そぶり、と噛めば、甘く美味な油が口へと広がる。
――肝臓はどうか?
こびり付いた土を払い、歯を立てると、これまた得も言われぬ上品な歯ざわりだ。
脳も。
――美味也。
目玉も。
――美味也。
胃も。
――美味也。
どれも得難い美味也。
――嗚呼、甘露。
月が中天にかかる頃には、ハルであったものは、全て紬の腹の中に納まっていた。
血の塩気が喉を乾かし、水気を欲しがらせた。
紬は、満腹感に腹を擦りながら森を南下する事にした。
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