最終章 青い果実 その三

 闇の中で甘美な匂いが香っている。

 紬は、匂いを辿って歩いていた。

 眠っていたはずなのに、気付けば森の中を歩いている。


 ブーツを履き忘れて裸足であったが、夜の土の冷たさも、足が汚れる事も構わなかった。

 とにかくこの匂いを追いかけなければならない。そんな衝動が紬を突き動かしていた。

 微かに灯る青い月明かりを縫って進んでいくと、視界いっぱいを赤色が埋め尽くす。


「輪廻草?」


 輪廻草が生い茂る中心に、一本の枯れ木が佇んでいる。


「甘い匂い……ここから……」


 鼻で呼吸する度、胸が締め付けられる。

 切なくて、恋しくて、しょうがない。

 紬の人生で、初めて覚えた飢餓感であった。


「この木……どうして私は……」


 枯れ木に一歩、また一歩近付いた。

 香りが強くなっていく。嗅ぎ覚えのある香りだ。


「これは……あの時の?」


 青い果実の香り。けれど青い果実は、塩味の強い味だった。

 匂いだって、やたらに金臭かったはず。


 枯れ木が香ってくるのは、濃い金気の匂いと何かが腐った匂い。紬の周囲にあるのはそういう匂いだけで、甘い匂いなんて欠片も存在していない。

 だが紬は、それらを甘美な匂いだと感じていたのだ。


「どうして私は、ここに?」


 枯れ木の根元から、匂いが強く香ってくる。

 紬は膝をついて、地面を掘り返した。

 掌で土を掘る度に、香りが強くなっていく。

 やがて紬の指に何かが絡み付いた。


 それは碧色の着物の切れ端であった。

 土で汚れているばかりでなく、赤黒い染みがついている。

 鼻に近づけてみると、一層強く金臭さと腐臭を感じた。


「この匂い……なんだっけ……」

「思い出してごらん」


 紬が振り返ると、ぼんやりとした人影が立っていた。

 ハルである。


「ハルさん……この匂いはなんでしょうか? 私はこれを知っていたはずなんです」

「よく思い出してごらん」


 ハルに言われるまま、考えてみる。

 嗅ぎ覚えるのある香り。青い果実の香りであるばかりではない。青い果実が何かの香りに似ているのだ。

 やがて、思い至る。


「血の……匂い?」


 着物の切れ端。そこについている赤黒い染み。この匂い。


「私は……」


 ようやく気付かされる。

 一体何を食べさせられたのか。

 一体何を食べてしまったのか。

 どうしてハルの父親が人狩りに狩られたのか。


「父さんが狩られた後、僕が引き継いだんだよ。この青い果実のなる木をね」

「ハルさん……私が食べた青い果実のあの味は……」

「ああ。そうだよ。あれは、人の肉の味だ」


 胃の中に残っていたモノが喉まで込み上げてくる。

 けれど紬は、咄嗟に両手で口元を覆った。

 吐き出したい衝動を上回る感情に支配されていたから。


 ――もったいない。あんなに美味しかったのに。


 自分が何を考えているのか、理解し、絶望する。

 けれど抗えなかった。どうしても吐き出せない。吐き出したくない。

 あんなに食べ物を美味しいと思ったのは、紬の人生で初めての経験だった。


「わ、私は……」

「紬。君はもうこれなしでは生きていけないよ。僕もそうだった。一度食べてしまうとね。もうダメなんだ」

「私も、この木の……肥料にする気だったんですか?」

「いや。この木はね、精霊成りは受け付けないよ。だから、君にした行為は善意からだったんだ。君を殺すつもりなんてない。でも一緒に分かち合う人が欲しかったのかもしれないね」


 そう語るハルの表情は、狂おしい程に穏やかだった。


「だからね、紬。君にも手伝ってほしいんだ。君のその力は、君が一番望む事に使うべきじゃないかい?」


 紬がそう望むように、果実を喰わせたのだ。

 罪を共有させ、欲に抗えなくさせる。


「紬……君にはもう僕しか居ない。理を外れた者は、外れた者同士で群れて生きてゆくしかないんだよ。そうやって僕達は生きてきたんだよ」


 ハルの言う通り、紬は理から外れている。

 だからと言って許されるのか?

 既に一つ外れているから。全てを野放図にしてもよいのか?


「紬。今すぐに答えを出さなくてもいい。でも君は抗えなくなるはずだ。君は、この手を一度とってくれたのだから」


 そう言ってハルは、笑顔で手を差し伸べてきた。

 紬は、目をつぶり、拒絶する。

 その行為がどれほど無意味か知りながらも、そうせずにはいられなかった。




 ――――




 紬は、囲炉裏の前で身体を横たえていた。

 全身が鉛になってしまったように重い。

 腹が悲鳴を上げている。胃を針金で縛り上げられているような感覚が昼夜を問わず、襲ってきた。

 やはり完全な精霊と成る事は出来ないのだと、実感させられる。


「紬。食事にしよう」


 毎日ハルは、食事を用意してくれる。

 一つは、シチュー。もう一つは、あの青い果実だ。


「さぁ食べよう」


 紬は、椀によそったシチューを匙で口に運んだ。


「うえっ!!」


 口に入れた瞬間、もどしてしまう。

 まずくて食べられたものじゃない。

 ハルがわざと不味く作っているのではない。大抵の人間が美味と断じる味のはずだ。

 しかし紬には腐った乳を口にしたようで、とても飲み込めるものではなかった。


「無理はいけないよ。これを食べてみないかい?」


 そう言ってハルは、青い果実を勧めてくる。

 紬は果実から視線を逸らし、椀のシチューを一気にあおった。けれどやはり呑みこめず、椀の中に吐き戻してしまう。

 あの日以来、身体があらゆる食べ物を受け付けない。一つの例外を除いては――。


「紬、痩せてしまったね。君はただでさえ華奢なんだから、ちゃんと食べないとすぐに飢えてしまうよ」


 ハルは心底、紬の事を心配している風に言った。

 自らの言葉が、どれほど尋常を逸しているかを理解していない。紬の目にはそう見えた。


「あれは人を食べるに等しいものです……それは禁忌というのではないですか?」

「君は……人狩りと一緒に居たんだよね。ならば彼の行為はどうなんだろう?」

「ヒスイ様の?」

「本来狩りというのは、自分が食べるものを取るために行う行為だ。食べもしないのに、命を奪う狩りなんて無意味だとは思わないかい?」

「理を……守るためです」


 そう言った紬は、すぐ矛盾に気付いた。

 自分は一体どうなのだと。


「紬……」


 ハルは容赦なく、


「彼から逃げた、精霊成りの君が理を口にするのかい? それなら君は今すぐあの男に狩られてもいいのかい? 嫌だと思ったから逃げてきたし、ここに居るんじゃないかい?」


 突いてくる。


「理などという誰が決めたのかも分からないモノを守るために命と奪う人狩りと、命を繋ぐために人を狩り、果実にして食べる僕と一体どちらがよりという言葉に忠実なんだろうね」


 誘おうとする。ハルの理に。


「君は精霊成りだから、人よりも頑丈に出来ている。人ほど頻繁に食べなくても生きていける。でも成りそこないの君に残った人の部分がそれを許さないんだよ」


 生きるために、ヒスイの元を逃げ出した。

 生きるためには、食べなければならない。

 精霊に成れない紬は、食べなければ生きてゆけない。

 けれど今紬が身を置いている世界で食べるという行為は――。


「私は……食べません」

「それは君の自由だよ。僕は強制しない。ただ僕は君がどんな選択をしても蔑まない。それだけは分かってほしい」


 甘い言葉は毒だ。

 罪を罪と認識させなくなる。空腹に負けそうになる。




 ――――




 食べる事を止めてから、どれほどの月日が流れたのだろうか。

 最近は、よく夢を見るようになった。あの青い果実にむしゃぶりつく夢。

 枯れ木がたわわに青い果実を実らせている。

 一つをもいで、じゃくりと噛めば、果汁が溢れ出す。金臭い匂い。塩味の強い味。全てが愛おしくてたまらない。


 ――嗚呼、甘露


 あまりの美味に身体の芯が震える。

たまらない。

 もう一つ。またもう一つ。

 止まらない。

 大丈夫、これは夢なのだから――。


「紬」


 もしもこれが夢でないのなら。


「僕は、どんな君でも受け入れるよ」


 ――だからどうか、夢であってください。


 紬は願いを込めながら、青い果実を齧った。

 頬を伝う涙は、とても温かかった。

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