第4話 火刑場のドン・キホーテ
主よ、主よ、全能なる御方。
どうして、何も語っては下さらないのですか。
全能なる我等の父よ。
貴方がそこにいるのなら、どうしてこのようなことを許しておかれるのでしょう。
主よ、主よ。
何故、神の子を見捨てたもうか。
――主よ。
どうして、等しく愛を与えて下さらないのです。
貴方がお造りになられた、この世界の全てのものに。
急げ、急がなくては。
司祭は広場に向かって、走っていました。息が上がり、今にも倒れそうでしたが、それでも彼は走り続けました。
人々の叫びが、司祭の耳にもはっきりと届くまでになりました。
「火をつけろ!」
「壊してしまえ!」
恐ろしい声が、地鳴りのように辺りを揺らしています。
まるで悪徳の町のようだ、と心の中で呟き、あわててその考えを振り払いました。
いけません。いくら自分と違うからといって、軽々しく悪という言葉で縛りつけるのは、とても良くないことです。
確かにその方法は、司祭と違っているかもしれません。
しかし、こうして集まった人々の意思、それ自体はとても尊いものだったのですから。
死刑をなくそう。
首をはねるなどという、野蛮な行為はもうやめよう。
そう訴える人々の運動は、初めこそ小さなものでした。ですが、悲しい出来事を沢山重ね、そんな辛い声を束ね、ようやく実を結ぶことが出来たのです。
死刑をやめる、という法律が通ったのは、つい数日前のこと。その時、司祭もまた、その報せを喜ばしく聞いたのです。
ですが、それがこんな騒ぎになるなんて、その時の司祭は予想もしていませんでした。
司祭は忘れていたのです。あまりに処刑という儀式に近過ぎて、普通の人間が持つ感情をすっかりなくしてしまっていました。 この死刑という呪われた祭りは、悲しい思いを背負い過ぎていたのです。
神は憎むなと仰います。教会も、そのように説きます。けれども、たった一つだけ、抜け道があるのです。
それは、神の敵を作ることでした。
神の敵ならば憎むことが出来ます。神の敵ならば、殺すことが出来ます。
だから彼等は、こう叫べたのでしょう。
「壊してしまえ、その”魔女”を!」
何しろ相手は、人ではないのです。いくら断罪したところで、心も傷も痛みません。血も流れませんし、誰も悲しむはずがない。神だって、きっと怒りはしないでしょう。
ですが、司祭は知っていました。
他の人も知っていたはずです。
けれど、知ることと分かることは、悲しいけれど、違うことでした。
「燃やしてしまえ、その”魔女”を!」
激しい声が飛び交います。
司祭は人込みをかき分け、前に出ようとしましたが、それは多くの手によって阻まれました。
「止めろ!」
汚い罵声をさえぎるように、何度も何度も聞こえたその声に、司祭は必死に追いすがろうとします。けれど、人波を越えるのは、司祭の身体にはとても無茶なことでした。
それでもやらねばなりません。
司祭は誓ったのです。あの時、あの最後に別れたときに、誓ったのです。
泳ぐようにして、なんとか騒ぎの中心が見える位置まで出た時には、既に司祭はもみくちゃにされており、見ただけでは神父様だとは分からないくらいでした。
「やめなさい! それは……」 司祭の声は、多くの声にかき消されていきます。
獣のように猛る人々の群れ。司祭はその間から、一人の男の姿を見出すことが出来ました。
処刑人は、彼女を守るように立ち、周囲の手から彼女を庇い続けていました。
腕を振り上げることはなく、武器も持たず、ただ声を限りに。
この大男を前に、人々は近寄ることが出来ずにいました。
せいぜい出来たのは、遠巻きで野次を飛ばすことだけです。中には知恵を絞り、猫なで声を出し、上手く男を騙して退かそうと苦心する者もおりました。
何たる体たらくでしょう。
皆、意気地のない男だと、頭の足りない男だと、散々馬鹿にしてきたものでした。
けれど、その男がこうして怒りを顔に出して立ちはだかれば、誰も手を出すことが出来なかったのです。
不毛な駆け引きは、ふいに終わりを告げました。
「よくもお父さんを!」
それは、一つの投石でした。
「そんなもの、壊れちゃえば良いんだ! 父さんの首を切ったやつ、皆!」
子供が投げた石に、男がほんの少しひるんだ様子を見せたのを皮切りに、人々はさまざまなものを手に取り、一斉に投げ込み始めたのです。
泣きながら、石を投げる子供。それに乗じて、石を投げる大人達。
その中には、まだ年若い娘がいました。老人がいました。そして愛する誰かを奪われた怒りがありました。
けれども、それでも司祭は同じことを叫ぶのです。
「やめなさい、それは彼の……」
確かに、それはただの物でした。人の命が奪われた、そのことに比べればなんとちっぽけなものでしょう。
それでも司祭は、信じました。そして、信じ続けると誓ったのです。
「彼の大切な伴侶だ!」
けれど、投石が止むことはありませんでした。
石の雨から、ギロチンをかばうように身体を投げ出す男。その彼の姿を目に入れながら、助けられない司祭。
処刑人はしばらく耐えていました。けれど、さしもの大男も、ひときわ大きい石の直撃を受けた時には堪らず、ふらつきながら首を載せる台の真上に倒れました。
まるで、女のひざにもたれかかるように。
次の瞬間、女のつんざくような声が響きました。
「きゃあああああっっ!」
まるで、キスをねだるように。
処刑人の伴侶は、倒れこんだ夫の首へとめがけ、勢いをつけて頭を寄せたのです。
もう良いのだと、そっとなだめるように、抱き込んで。
司祭は、声を聞いたような気がしました。意味は分からなかったけれど、確かに彼は聞いたのです。
鋭い刃を落とす音は、命を断つことしか知らない女が持つ唯一の言葉でした。
愛をささやく時、その男は息絶える。そう宿命づけられた女が、最後の最後に打ち明けていった想いの丈。
どんな言葉も介さない、音。
流された血に、場は一気に盛りあがりました。
民衆は一気にギロチン台へと殺到し、それを地面へと叩きつけます。
司祭があげた声は、ついに届くことはありませんでした。多くの荒々しい手が、司祭を引き回し、聞くに耐えない罵声を浴びせました。頭をかばうようにして、なすがまま、ぐるぐると人波に揉まれ。
ようやく立ちあがった頃には、司祭はもうぼろぼろでした。それでも司祭は、よたよたとギロチンを追って、人々の後からついていくのです。
やらなければならないことがありました。
「主よ――」
引き降ろされたギロチンは、斧で、剣で、棒で、足で踏みにじられていきます。そして、広場へと連れて行かれるようでした。人々の波が、さっとそちらへと引いていきます。
ゴミや残骸が散らばるその場所で、司祭は彼を見つけました。
転がっていた首は、思った通りの表情を浮かべていました。
「嬉しかったんですね」
首をその辺りに転がっていた布切れで包んでやると、司祭は優しく言ってやりました。
「貴方は正しかった。彼女は、確かに自分の意志で動いた」
風か、ぶつかった弾み。そう言ってしまうのは簡単です。けれど、こう考えてはいけないでしょうか。
これは、彼女が初めて、誰に命じられた訳でもなく行なったことだった、と。
「貴方がたは、確かに絆で結ばれていた」
物は物です。何も語ってはくれません。心などない、まがい物の恋です。
それでも、この中にいるどれだけの人間が、本当に誰かを愛したことがあるというのでしょう。
男は欲望に目を光らせて女を奪い、女も自分をひきたてる男を品定めしています。どうしてそれが、本当の愛と呼べましょう。
よしんば本当の恋をしたところで、恋人の全てなど、誰にも分からない。
広場へと引き出されたギロチンに、火が放たれました。赤く燃え上がっていく未亡人達に、人々は歓喜し、かちどきをあげます。
司祭は首を抱えたまま、それを眺めていました。
「彼等の罪を赦してください」
ゆらゆらとぼやけていくギロチンから、決して目をそらすことなく。
「地獄に落とされることなく、煉獄に留まることもなく、貴方の御許に導かれますよう」
ただ、無心に祈り続けたのです。
馬車に乗り込む、ひどいあばずれ女よ
お前の渇きは男で癒される
家に帰って眠れば、飲み干した血のことも忘れる
それは、一人の「未亡人」と、恐ろしい処刑人の恋物語。
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※引用文献
ダニエル・ジェルールド著/金澤智訳『ギロチン-死と革命のフォークロア-』青弓社
新共同訳『聖書』日本聖書協会
処刑場のドン・キホーテ 川根ゆさき @kawaneyusaki
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