第3話 教会のドン・キホーテ

 主よ、この罪ぶかい魂をお救い下さい。

 そう祈る度、司祭は胸の痛むような思いがしました。

 罪深いのはどちらでしょうか。人間が決めた罪の中には、いいがかりとしか思えないような罪もあるというのに。

 勝手な言葉で人を裁き、いともたやすく命を奪う、自分達は罪人ではないのでしょうか。


 今日の処刑は、その良い例でした。

 思想犯。自分の考えを口にしたから、罪人だ。そんな理屈をつけられて、まだ若い男は死刑を言い渡されたのです。

 粗末な木の台に乗った男の人は、一番前の列にいた女の人に目をとめました。何も話さず、ただやさしく笑ってみせるのです。それを見た娘は、つぶらな瞳をさらにまん丸にうるませて、そうして一つうなずきました。

 良く見られる光景でした。

 罪人が台の上に立ち、司祭はいつものように最後の祈りをささげている間、罪人はじっと人々の群れを見ていました。

 口の動きだけで、さようなら、とくりかえしながら。

 慣れたこととはいえ、やはりきまり悪いものです。司祭は早々に祈りを終え、罪人が首を落とされるのを見送りました。

 ギロチン。一瞬で人の命を消してしまうというこの道具。処刑という名のお祭り。

 人々は、このお祭りを好み、ギロチンを手を叩いて迎えながらも、ひとたびこの祭りが終わってしまえば、ギロチンを嫌い、大声で人殺しと責めたてるのです。

 それは、不思議な光景でした。

 司祭には、そんな仕打ちがどれほどおかしなことなのか、きちんと分かっておりました。もちろん、かしこい彼は、一言もそんなことを口にはしませんでしたが。

「司祭様」

「ああ、今日もご苦労様でした」

 そう頭を下げた瞬間、司祭は嫌な予感がしました。帽子を手にちょこんと立つ男の姿には、見覚えがあったのです。

「相談があるのです」

 やはり。

 心の中でそっとため息をつくと、司祭は近くに腰かけ、処刑人を見上げました。

「どのような事でしょうか」

 何となく、想像はついていました。

 この処刑人、普段は大人しく、人と話すことも苦手な男でした。だからでしょうか、司祭から見れば、ちょっと変わった好みを持っていたのです。

「うちの女房のことなんです」

 そっと息を潜め、後ろのギロチンを気にしています。

 知らない人が見たら、ただ仕事道具が傷つけられないか、心配しているだけに見えたでしょう。

 ですが、司祭には分かります。彼は「女房」の耳を気にしているのです。

「分かりました。後で、お一人で教会へいらして下さい。そこで伺いましょう」

 そう切り上げると、司祭は重たい身体を引きずって、一足早く教会へと戻ることにしました。


 ギロチンという首狩り道具を操るは、残酷な大男。

 そんな風にも言われる彼は、実のところ、少しばかり頭のネジがゆるんでいる、のろまな大男でした。

 人は良いけれども、考えが足らず。

 そんな処刑人が妻としたのは、鋭い刃で人を抱きしめ、一瞬にして天国へ送るもの。

 彼女に抱かれた者は、生きてはいません。文字どおり、たった一度の逢瀬、たった一度の臥所です。

 未亡人にたとえられるその道具の名は「ギロチン」と言いました。

 彼は人間ではなく、人を殺す恐ろしい道具をこそ伴侶に選んだのです。

 そんな恐ろしい未亡人を妻に迎えたその男は、約束通り教会に来ると、切々と語り始めました。

「最初、人が死ぬのが恐くて仕方なかったんです。俺はこの通り、なりはでかいけど、気は小さいんで」

 そうでしょう、と大きく頷き、司祭はこっそりとため息をつきました。

 大男がそんな風に身を震わせるのは、こっけいな光景でしたが、彼を良く知る司祭にとっては不思議でも何でもありません。

 処刑人は、本当に人の良い男で、いくじのない男でもありました。うじうじと悩み、そのくせ悩みに立ち向かうだけの勇気もないのです。

「それでも処刑人の息子に生まれちまったからには、親父の跡目を継がなきゃならない。凄く嫌でした」

「でも、今は大丈夫なんですか」

 司祭がたずねると、彼ははいと頷きました。「だけど、あるとき、ふと思ったんです。あいつは、ギロチーヌは、恐くないのかって」

「彼女は嫌がっているのですか」

「俺にも良く分からないんです。あいつはいつも何も言わないから」

 何を当たり前のことを。ギロチンは、最初からしゃべらないだろう。

 そんな風に毒づきつつも、司祭はふんふんとまじめな顔で聞きいっているようにみせます。

「いつも罵られて、最初は何とも思わなかったけれど」

 ふと、同情にかられたのだと言いました。それから、処刑人はいつも、処刑後にする手入れを、念入りに、声をかけながらやったのだと。

 そうしている内に、処刑人はだんだん仕事が怖くなくなったのです。

 もちろん、嫌だと思う時はありました。

 けれども、彼と仕事をしてくれる相棒がそこにいる。そう思うだけで、少し気が楽になったのだと、処刑人はそう言いました。

「ある時、処刑が立て込んでいる時がありました。お偉いさんの首を立て続けにはねる時があって、それで周りも皆、興奮していた。あいつをいつも以上に罵っていた。俺は情けないけれど、それをとめようとは思わず、さっさと仕事をすませようとしました」

 それは当然のことでした。

 とめる必要などありません。処刑とはそういうものです。だから、処刑人がそうしたのは正しいことでした。

 けれども、処刑人は浮かぬ顔でした。

「仕事を始めようと、ギロチンに手をかけた時です。あいつが、震えていることに気づいたんです」

「何と、言いましたか」

「いいえ、何も言いません。でも俺はやっと分かったんです。あいつは何も言わないけれど、本当はやりたくないんだ。それでも仕事だから、俺に心配をかけたくないから、あいつは何も言わないんです」

 処刑人の告白に、司祭の心は大きく揺れました。

 もしかしたら。

 悪い予感を裏付けるように、処刑人は司祭にこう訴えました。

「司祭様。俺、あいつの声を聞きたいんです。いつも黙ってばかりだから、何とかしてやりたいんです。でも、どうすれば良いのか分からない。結婚する時だって、一度身体を揺らして頷いたっきりで」

「何を……言っているのです?」

 処刑人はきょとん、と目を大きく瞬かせました。司祭はもう一度、繰り返します。

 何を、言ってるのですか、と。

「ギロチンはあくまで道具ですよ。道具に心など宿らないし、喋りもしないのです」

「司祭様――」

「しっかりして下さい!」

 びくりと処刑人が、子供のように怯えるのがわかりました。けれど、司祭は恐い顔のまま、彼を睨みつけました。

「貴方が満足なら、と黙ってきましたが、もう限界です」

 何故なら、司祭が考えていたよりも、現実は残酷だったから。

 司祭の予想も、大きく違ってはいませんでした。ですが、あるところが違うのです。

 処刑人は、ギロチンがまるで人間のように思えるのだ、と考えていました。全ては処刑人の空想の中、ギロチンは美しい妻として、優しく笑いかけてくれるものなのだ、と。

 ですが、違うのです。

 子供が人形に友情を見出すように、処刑人は物言わぬ、ただそこにあるギロチンの動きを愛したというのです。

 これはいけません。

 狂人ならば、司祭は温かく見守っていこうと思ったでしょう。空想の中、いくらでも彼は身勝手な愛を紡げるのですから。

 ですが、処刑人はそうではありません。ただ、物を知らぬだけ。誰かが教えなければ、応えてもらえぬ愛に苦しむだけです。

「道具は心など持ちません。それは、貴方の心にある恐れや願望が見せたもの。貴方が都合よく解釈しているに過ぎないのです」

 司祭は心を鬼にして、本当のことを告げました。しかし、処刑人もすぐには引き下がりません。顔を真っ赤にして、言い返してきます。

「では、ではあの時の震えは何だったのです!」

「人が声を上げると、物が震える。そういう現象があるのです。音には、物を揺らす効果があるのですから」

 このように、と傍らの紙を取り上げ、振るわせてみせると、司祭は重ねて言い聞かせました。

「人があれだけ集まって騒げば、それだけの音が出ます。あのやかましい声が、ギロチンを震わせただけ。ただ、それだけなんです」

「そんな――」

「ギロチンに心などありません。人間とは違うのです」

 処刑人はしばらく黙っていました。そうして教会の中がすっかり静かになった頃、彼はゆっくりと口を開きました。

「司祭様は良い方です。だから、俺のことを思って、言ってくれているんだと思います」

 まっすぐな目でした。まるで赤子のような、澄みきった色をしていました。

「でも、どうして物に心がないと言い切れるのです」

 彼は、懸命に言葉を選びながら、司祭に語りかけてきます。

「今日の罪人を見ましたよね。あの男は、話せない訳じゃなかった。だけど、話さないで死にました。弁解はせず、ただ口だけでさようなら、と」

 男の熱心な方便を聞いている内に、司祭はなんだか胸がむかむかしてきました。

 確かに今までも、司祭は何度かかんしゃくを起こしました。うっとうしく思ったこともあります。ですが、この男自身を憎んだことはありません。

 でも、どうしても許せないことが、司祭にもあったのです。

 司祭のそんな胸の内を知らず、彼は熱っぽく語り続けました。

「同じように、物にも心はあって、話すことが出来るのかもしれない。だけど、話さずにいるのかもしれないでしょう」

 男のその言葉に、司祭の中で何かがぷつりと切れてしまいました。

「そう思うならば、黙って話しかけていれば良いことです。私はもう知りません」

 司祭はそう言うと、ぴしゃりと彼を追い出しました。


 たとえ罪人とされていても、この時代では、罪と呼ぶにはあまりにむごいことで、多くの人が殺されていました。

 今日の男も、そんな一人です。ただ男は、自分が正しいと思ったことを口にしただけで、処刑台に送られたのです。

 愛した人を残し、どんな思いで彼は処刑台に立ったのでしょう。

 そんな男の心を思えばこそ、それを引き合いに出す処刑人の無神経さが、司祭には我慢ならなかったのです。

 彼等の恋を引き裂いた人間が、どうしてそれを語れるというのでしょうか。

 司祭の腹立ちは、しばらくおさまることはなかったのです。




 しばらくの間、二人は口をききませんでした。処刑人は何か言いたげな顔をするのですが、司祭はぷいと顔をそむけ、何も話そうとはしませんでした。

 しかしある日、司祭はあることを耳にしました。そうして、処刑人にこう尋ねてみたのです。

「そういえば、聞きましたか。死刑がもうすぐ廃止になるそうです」

 意地の悪いことでした。ですが処刑人は、顔を輝かせてこう言ったのです。

「じゃあ、あいつはもう人を殺さずに済むんですね」

「働き口を失うんですよ?」

「なぁに、その気になれば何だってやれますよ。こう見えても、俺は力だけはあるし、貯えもあります。何とでもなりますよ」

 ひとしきり喜んだ後、ふと処刑人は顔をくもらせました。

「あ……そうか。司祭様も仕事を無くすんですね」

「いえ、私は教会に戻るだけです。それが本来の仕事ですから」

「そうですか。なら、良かった」

 彼は一点の影もない、明るい笑顔でそう言うと、嬉しそうにギロチンを見上げました。その目に仕事を無くす不安などありません。

 ギロチンといっしょに、家路へとつく処刑人の背中を見ていた司祭は、かたく両手を組み、一心に祈りました。

「主よ、お許し下さい」

 どうして、彼が正しくないなどと考えたのでしょうか。

 誰も憎まず、妬まずに、ただ幸せを与えたいと願っただけの男を、どうして間違っているなどと思ったのでしょう。


 男は、愛を知っていました。

 物を知らぬ愚鈍な処刑人は、神の与えたもうた最大の奇跡を知っていたのです。

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