第14-2話


「それはできません……。私は仲間のために港へ向かいます」


 長い沈黙の後、クレイアは短い嗚咽を漏らした。


「そうですか……。わかりました。サラマンド、これ以上はお引き止めしません」


 クレイアはその場で崩れるように膝をついた。


「どうか……、どうか、必ず生きて故郷の地へ戻ってください」

「はい。あなたのような主に仕えることができたのは、私の誇りです。今までありがとうございました」


 サラマンドはクレイアと同じように膝をつき深々と頭を下げた。それはブラハム式の最敬礼であった。


「剣を一本だけ頂いていきます、一振りだけ。きっと亡きご主人もこの剣が血で染まることは望んでいないはず」


 サラマンドは最初に手にした剣を掴むとそのまま部屋を出ていく。


「いつか、あなたにもブラハムの国を見て欲しい……」


 最後にサラマンドはそう言葉を残していった。



 サラマンドは闇夜をひたすらに駆けて行った。音も立てずに、されど猛然と。


 反乱は必ず成功する。確信があった。


 身体のどこにも痛みはない。先の戦を含めても、今宵の自分こそが最も強いと、そう思えたからだ。




 ――その夜、港はまったくの静けさだったという。


 大騒ぎになったのは東の空が明るみ、気の早い海鳥たちが埠頭ふとうの上を舞い始める頃。一人の衛兵が港にある船が忽然と消えているのに気づいてからだった――。




 銀色に輝く空から大海原に光が差し込んでいる。日はすでに高く昇り、水平線の彼方には青空も見えていた。


 春の嵐は過ぎ去って、心地よい風が頬を撫でていた。


 地中海をゆったりと進む商船の甲板で、サラマンドは形を変え続ける波模様を眺めながら物想いに耽っていた。


 そこに男がやってきて隣に並ぶ。


 しばらく二人で海原を眺めていた。


「おまえ、残らなくてよかったのか」

 マジドがそう声をかけた。


「意地の悪いやつだな、おまえは。それは船が出る前に言えよ」

 サラマンドはマジドの方を向きながら、片眉を動かしてそう言ってやった。


「そりゃ俺だっておまえには、俺たちと一緒にいてもらいたいからな」


 そう笑うマジドは上機嫌だ。それも当然で、味方の死者は一人も出ず、怪我人もたいした傷ではない。反乱は大成功だった。マジドのことは名軍師と皆が褒めそやした。


「どうせ主のことを考えていたんだろう?」

「……ほっとけ。おまえこそ何を考えていた? まだブラハムに着いたわけじゃない、あまり浮かれ過ぎるのも考えものだぞ。名軍師どの」

「ははは、おまえまでおだてるな。俺も考えていたのは主のことさ。俺の出来の悪い主のことさ」


 意外な言葉にサラマンドは少し驚いた。


「港は大混乱になると思っていたからな。混乱に乗じた市民に盗まれないように、店の金を隠しておいたんだ。暗号を残してな。あの間抜けな主が金を見つけられてればいいんだが……」


 主のことを語るマジドは実に楽しそうだった。


「いい主だったんだな」

「ああ、お人好しなうえに間抜けときてる。ありゃ商売には向かねえ。俺のいなくなったあの酒場が心配だよ」


 また二人は黙って海を眺めていた。


「……パルティアに勝てると思うか」

 サラマンドはかつての問いを再びマジドにぶつけた。


「策がたしかならな……」

「次負ければ国が滅びるかもしれないんだぞ!」

「国の存亡を懸けての戦いなら、なおさら勝たにゃならん」

「それはそうだ。でも今戦うのは得策ではない」

「それは同感だ」


「主と話をしたんだ。ブラハムを千年続く国にすると」

「そうしたいな」

「マジド、おまえの力を貸してくれ」

「構わんぞ。で……、何をしたいんだ?」



 薄雲も晴れた澄み渡った青空のもと、順風満帆で商船はブラハムを目指す。うっすら見えていた大陸がはっきりとその姿を現した。



 商船は無事にブラハムの港に着くと、生き残った戦士たちの帰還と知った町人たちが大騒ぎで歓迎した。

閉じ込められていた船員たちはすぐ解放され、本来の目的地へまた出航したという――。








 そして九年の歳月が流れた。


 ある夏の日、二人組の男がクレイアの家を訪ねてきた。二人はサラマンドの使いだという。


 熱気のこもる狭い部屋で、クレイアはその証となるナイフを手に取りしげしげと眺めていた。


 質素な麻の衣を身に纏い、やや汗ばんだその顔は、化粧っ気はまったくなかった。男の一人が羊皮紙に描かれた人相書きと目の前の女を見比べる。似てはいるがどうも目の前の女からは品を感じない。男は悟られぬよう小さくため息をついた。


「っ!」

 突如、隣に座る壮年の男が足を踏んだのだ。ため息をついた若い男は全力で背筋を正す。


「間違いありませんね。この埋め込まれた宝石といい、たしかに昔私がサラマンドに買ってあげた物です」

「では、最初に申し上げたブラハムへ行く件、考えておいて下さい。半月後にまた参りますゆえ」


 壮年の男はそう言うと、ためらいがちに「ときに……」とつけ加えた。


「この家にはお一人で住んでおられるのですか?」

「いえ、ばあやといいますか、年の離れた女友達のような者と二人で住んでいますが」


 それを聞いた男は思わず語気を強めて問う。


「お屋敷はどうされたのですか?」

「おや? なぜあなたは屋敷のことを知っているんですか?」

「あ、いや……。サラマンド様から屋敷に住んでいるはずだと言われたもので」


 壮年の男はうろたえながらそう答えた。


「ふうん? まあいいでしょう。お返事ですが、待つ必要はありませんよ。ええ、行きますとも!」

「そうですか……。では主にはそのようにお伝えしましょう。半月後にお迎えに参ります」

「いえいえそんな悠長なことを言わず、今すぐ行きましょう」


 それを聞いた二人の男は同時に素っ頓狂な声を上げてしまった。


「いや……、準備が必要でしょう。それにお友達にも伝えなくていいのですか?」

「そんなもの書き置きを残せば大丈夫です」


 そう言うやクレイアは部屋を飛び出し、一時もかけずに荷造りを終えて再び姿を見せた。


 相変わらずの粗末な衣装にわずかの着替えだろうか、麻布に包んだ荷を背負い、胸の前で縛って留めていた。


「さあ行きましょう。連れていってくださるのでしょう?」

「はあ……」


 男たちは顔を見合わせそう答えた。




 ブラハムへ向かう船上、甲板の上は強い夏の日差しが照りつけていた。若い男が汗を拭いながらもう一人に訊いた。


「変わり者とは聞いていましたが、何者なのですか、あの女は……」

「聞こえるぞ、静かにしろ」


 壮年の男がそう言ってたしなめる。


 そこへ近くにいたクレイアが声をかけてきた。


「やっぱりお尋ねしてもいいでしょうか。あなたは、ハーンさんですよね?」

「……」


 壮年の男は黙っていた。


「覚えていらっしゃいませんか? 私はあなたに三回お会いしているのですが。妙によそよそしいので、あえて何か意図があるのかなと訊かなかったのですが、やはり気になって」

「……私も今は部下のいる身でして、あなたには昔情けないところを見られていますから」


 それを聞いた若い方の男が驚いて大声を張り上げる。


「た、隊長、まっまさかこの方は隊長のかつての……!?」

「馬鹿か貴様! そんなわけがあるか!」


 ハーンが一喝し、クレイアは大笑いする。


「ハーンさんも、もうそういう立場なのですね。偉くなられる、良いことではないですか」


 クレイアはまだ笑いを引きずっていたが、何か思い当ることがあったのか、急に声を上げた。


「ああ! じゃあサラマンドもひょっとして出世して将軍とか?」

「答えません」

「じゃあ大富豪とか?」

「答えません」

「国の、すごく偉い人とか……?」

「答えねえって言ってんだろ! 察しろ!」


 それを聞いてクレイアがまた笑う。


 楽しみです、サラマンド――。


 あなたを育んだブラハムの地が、私に何を見せてくれるのか。今のあなたがどうしているのか。


 こんな抑えられない気持ち、久しぶりです――。


 吹きつける熱風も焼くような日差しも気にならなかった。


 次第にくっきり浮かび上がるブラハムの大地を、クレイアは子供のような気持ちで今か今かと眺めていた。








      百人殺しのサラマンド〈終〉

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百人殺しのサラマンド なりた @-NARITA-

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