第14-1話


「……わかりました。未来のために、私はパルティアに残ります」

「よかった……。ありがとう、サラマンド!」


 クレイアはサラマンドを思い切り抱きしめると、しかしすぐ真面目な表情で言った。


「そうとなれば、すぐに動きましょう。今すぐ支度をしてピュロスへ向かいます」

「今すぐですか!? 明日以降でも……」


「明日になれば、衛兵がここへやってくるでしょう。ブラハムの奴隷はいるかと。あなたの存在は近隣に知られているのです。反乱に参加しなくとも、ブラハム人というだけで連れていかれ尋問されることでしょう。それになにより……」


 そこでクレイアは言葉を切った。


「せっかく決断してくれたあなたの決意を鈍らせたくない」


 クレイアはそう言うと、急遽屋敷の人間を集めて告げた。


「これから私とサラマンドはピュロスに行きます。あなた方の何人かは一緒に来て欲しいのです。申し訳ありませんが理由は今は言えません」


「私はクレイア様と共に行きますぞ」

 そう真っ先に答えたのは年配の女中だった。


「ありがとう。でもあなたにはここに残って欲しい。牧場や屋敷の管理をお願いしたいの」


 そのクレイアの言葉を聞いて、女中は心底がっかりした様子だった。


「……ぬううぅ、承知しました。この私が責任をもって屋敷をお守りしましょうぞ」

「もし今夜、何者かが訪ねてきてサラマンドのことを訊かれたら、正直に王都へ向かったと答えてください。いいですね」

「承知致しました……」


 そして数人の若い女中と御者がともに王都へ行くこととなった。


「ではみなさん、すぐに準備を!」




 暗闇の中、一台の馬車が駆けてゆく。


 都市を抜けて、もう辺りにはまったく人気がない。風は勢いを増し、生ぬるい空気を激しくかき混ぜ、さらには幌を剥がさんとばかりに叩きつけてくる。


 もう夜半はとっくに過ぎているだろう。そんな風のざわめきも馬車の揺れもよそに、ついてきてくれた女中たちはみな寝てしまったようだ。


 今頃港はどうなっているだろうか。もう反乱は始まっているのか――。遥か離れたこの場所からは、もう窺い知ることもできない。


 そんなサラマンドの気持ちを察してかクレイアが優しく声をかける。


「辛いでしょうがサラマンド、今は耐えてください」


 サラマンドは己の拳を固く握り締め、甲に爪を食い込ませていた。その痛みが焦る心をほんのわずかだけ和らげてくれた。


「振り返らないでください。あなたはまっすぐ前を見つめて……」



 やがて東の空が白み始めた。


 長い長い夜が明けようとしていた――。








 そして五年の月日が流れた。


 王都ピュロスの王立図書館の入り口で、サラマンドは館の司書と長く語らっていた。


「そうですか……、しかし残念です。今度はどなたに師事されるのですか?」

「ここを離れて、しばらく学んだことを整理しようと思います。またこちらに寄ることがあれば顔を出しますよ」


 サラマンドはそう笑って答える。


 深い紺色の長衣を纏い、邪魔にならぬよう袖を絞って止めていた。長身ゆえに周りから浮いてしまうが、身なりの良い若き学者見習いという出で立ちだった。


 サラマンドは図書館を出て大理石の階段を下りる。と、そこで待っている者がいた。


「長くお世話になった大図書館にお別れはもう済んだのですか?」


 クレイアだった。髪は肩よりも短く、落ち着いた色合いの簡素な衣に身を包んでいる。派手な服装を好む王都の婦人の中では目立たない格好だが、そこには品のよい美しさがあった。


「ええ。本当に思っていた以上のすごいところでした。いまだに入るたびに圧倒されるのですから。始めの頃、全ての蔵書を読破してやろうなどと思っていた自分が愚かしいです」

「ふふふ、そんなことを思っていたんですか、あなたは」

「パルティア市民であれば、望めば誰でも知識を身につけることができる。たとえこの都市が戦火に焼かれることがあっても、このパルティアの英知だけはなんとしても守らねばなりませんね」

「……戦火に焼かれるなど、あまり物騒なことを言わないでください」


 クレイアがそう言って口を尖らす。


「でも、誰もが知識を望んでいるわけではありませんし、誰しもがそこまで知識を得られるわけでもありませんよ。あなたは本当によくがんばりました」


 クレイアは呆れながらも、そうサラマンドの努力をねぎらった。


「私も軽く挨拶してきますから、ちょっとだけここで待っていてください」


 クレイアはそう言うと背負った荷物を降ろし、図書館への階段を上っていった。


 サラマンドはその背中を見送ってから空を仰いだ。よく澄み渡った初夏の深く蒼い空。旅立つには申し分ない清々しい空気だった。


 そう思っていたところに、突然声をかける者がいた。見ると行商人風の男であった。


「ぶしつけで失礼だが、兄さんはひょっとしたらブラハムの出身かな?」

「ええ……、そうですが」

「やっぱりそうか、南方肌だったんでなあ。いやちょっと懐かしく思ってね。俺のところにも以前ブラハムの奴隷がいてさ。すごい働き者で、まあ助かってたんだ」


「そうでしたか」

 サラマンドは当たり障りのない言葉で返す。


「でもある日突然いなくなっちまったんだ。店の金もなくなっててさ。思い出すたびに残念に思うんだよ……」


 男はため息をついてから、目を細めて遠くを見つめている。


「それは、同じブラハム人としてなんだか申し訳ないです」


 そのサラマンドの言葉を聞くや、男はしばらく怪訝な顔をして慌てて言い直した。


「違う違う。金を持っていかれたことじゃないんだ。どうせ一日分の店の売り上げだ。たいした額じゃない。むしろその程度の金しか渡してやれなかったことが悔しいんだよ……。色々事情があったんだろう。正直な胸のうちを言ってくれてたら、俺は喜んでその三十倍の金を渡して笑顔で送ってやったのに……」


 俺には信用がなかったんだな、そう言って男は淋しそうに笑った。


「変なこと言ってすまなかったな。若い学者さん」

「あの、ひょっとしてあなたは以前……」

「サラマンド! お待たせしました」


 クレイアが踊るように階段を駆け下りてくる。


「じゃあな。しっかり学びなよ」

 行商人の男はそう言って去って行った。


「今の方は?」

「いえ、ちょっと立ち話を……」


 クレイアの問いにそう答えながら、サラマンドは慌てて男の背中を目で追っていた。だがすぐ雑踏に紛れ見えなくなった。


 しばらくサラマンドの様子を気にしていたクレイアだが、ひとつ咳払いすると気を取り直し明るい声で言った。


「ではサラマンド、いよいよ行くのですね!」


 クレイアは目を輝かせてサラマンドを見る。


「はい、アガルフルスへ行きます! その超大国と言われる所以を見て、知りたいのです。私はまだブラハムへは帰れません」

「まったく、熱心なことで」


 そう言ってクレイアは笑った。


「では、私もお供します」



 そして二人は北東の大国へ向け旅立っていった――。


 サラマンドたちがブラハムの地を再び踏むのは、また後のことである。








      百人殺しのサラマンド〈終〉

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