第2話 『BBA』という集合体
隣を見ても、先程と同じように騒音を奏でるおばさんの群れが目の前にあるばかりである。
「待て、おばさんたちを見て何の得がある?」
俺は、自分の瞳の奥に不快な集団の映像が映るのを嫌った。
「待て、俺の主張をおばさんの集団をモデルケースにして展開してみたい」
「ほほう」
「仮におばさんの集団を『BBA』としよう」
「『BBA』?」
「ネットスラングの用語で『ババァ』のことだな」
Kが隣の集団を横目にみながら、囁くように言った。
「なるほど」
「ここでは『BBA』という言葉を、おばさんの集団と定義する」
「ふむ」
「それからおばさん一人一人を仮に『B』と名付けよう」
「なるほど、『B』とは『ババァ』のことだな?」
「まさにそういうことだ」
俺が『B』を理解したのを喜んでいるのか、Kが顔をほころばせながら、派遣の仕事をしていた時よりも活き活きと話を続ける。
「一つの『BBA』が作られる時、その中にいる一人の一人のおばさんは、『BBA』という集合体を構成する『B』という一つ一つの元素に過ぎないという訳だ。」
「ババァが元素~?」
俺は、思わず『B』のことをババァと口走ってしまった。隣の『B』の視線が絡みつくような気がしたが、俺はとりあえず目を合わさないようにした。
「……今回の『BBA』は8つの『B』で構成されているから、『B8』と名付けることが出来るな」
Kは警戒したのか、「隣の」という言葉は使わずに、「今回の」という言葉を採用した。更に、Kの言う『BBA』や『B8』といった造語は、隠語のような性格を帯びつつ、まるで化学用語のようにも聞こえた。
「この時に、『BBA』そのものに知性や精神といったものが生まれるという訳なんだ」
「う~ん」
「逆に言うと、この時にいる『B』は他の『B』と同じ性格や性質を帯びているように見えてしまうものなんだ」
「しかし一人一人の『B』には、各々に性格や個性があるんじゃないのか?」
俺はそう答えてみたものの、改めて隣の『BBA』を見ると、目の前には、脂肪の量の違いくらいしか判断のつかない『B』の群れがあるばかりであった。
見た目だけでは、「この『B』とこの『B』はここが違う!」といった明確な相違点を挙げていくには、判断の材料が乏しいような気がしていた。
「まあ、それはそうなんだが『BBA』の中に包含されると、その性格や個性といったものが封じられやすい傾向があると思うんだ」
「しかし、東大出身の『B』と、つまらないだけの高校を出て、昼間はせんべいを片手にサスペンス劇場を嗜むような『B』を同列に加えることはできないだろう?」
「その意見は、余りにも学歴だけの画一性で女の人を判断していると思うが……」
「でもさ、それが同じ集団の中にいると、『東大B』も『せんべいB』も同じ性格や性質になってしまうだなんて、あんまりだと思う訳で……」
俺は、隣に居座る『B』たちの人生を勝手に無想した。東大出身者という『B』には勿体ないくらいの輝かしい捏造を与えながら、果敢にKに反論した。
途端に、俺は本当に東大を出たことのある全国の『B』に申し訳ないような気分に陥った。
「ちょっと待て!」
突然、Kが俺を制止した。俺は何事かと思ったが、にわかに『BBA』の声のトーンが高まっていることに気付いた。
「……うちも最近、息子夫婦と同居を始めたんだけどさ。ゴミの出し方がまるでなってないのよ」
「あら、うちんとこもそうなのよね。金曜日に缶のゴミを出すんだけど、うちの嫁ったら、前の日の夜中に出すのよお。それで次の朝遅くまで寝てて、朝食もちゃんと作らないのよお。まったく、どういう躾を受けて来たんだか……」
Kは『BBA』の話題の中心が『嫁』になっていることを、あざとく突き止めた。
「いいぞ! お待ちかねの『ルサンチマン』の登場だ」
Kは弾むような声を上げたが、俺は、特に待ち兼ねてはいなかった。
「はあ? 『ルサンチマン』?」
「つまり『嫁』という存在は、姑にとって必ずしも『敵』である訳ではないが、将来的に衝突の可能性のある危険因子であることには変わりはない。嫁姑問題とかな」
「ああ、まあな」
嫁を持ったことのない俺は、童貞で女とのセックスを知らないままのKに相槌を打った。
「まあ、そういうのを『仮想敵』と想定するとだな。『嫁』という『仮想敵』であったものが、『敵』として認識され、『BBA』の攻撃の射程に入ったという訳なんだよ」
「ふ~ん」
学者気取りで専門的な言葉を使おうとするKが不愉快で、俺は気のない返事をぶつけてみた。
「まあ……つまり、これからここで繰り広げられるのは、『BBA』の意志が『嫁』を『敵』とみなすことによって起こる欠席裁判だ。今から『嫁』が跡形もなく『BBA』に打ち砕かれていく様が見物出来るぞ?」
俺はファミレスという名のコロシアムで、不在の『嫁』を粉砕せんとする『BBA』の模様を観戦することになった。
「……まったくそうよね。うちの嫁もゴミばかりか、生活の何から何までだらしなくてさ~結局、ウチはわたしがいないと回らないのよね~」
「そうなのよ。ていうか、うちの嫁、不細工なのにやたらと美容院に行きたがるのよね。お金が勿体ないわ~」
「そうよね~うちの嫁もやたら厚化粧だけど、そもそも元が悪いんじゃ、何塗ったって変わりゃしないのにさ~」
「そうよねえ~!」
最後に『BBA』から一致団結の声が合唱のように上がり、俺は思わず息を飲んだ。
「みたか? まるで公開処刑だな」
Kが思わず嘆息を漏らす。
「なるほど、凄まじいスパイラルだな」
「ああ、『ルサンチマン』は、常に敵を想定し、自己の正当性を主張する」
「最初の方はゴミがエサになっていたようだが、いつの間にか『嫁』が不細工であるというところにまで話が進んでいたな」
Kが小難しいことを言い始めたので、俺は構わずに自分の感想を述べていくことにした。
「『嫁』を悪の元凶に仕立て上げ、自分たちを『善人』にすることによって、自分たちの無力感を誤魔化そうとしているんだよ」
「まるで定番の奴隷根性だな! お前の会社に対する恨みつらみとそっくりじゃないか」
自分の言葉がKの心に与える禍々しさに俺は興奮した。
「お前に言われたくないわ!」
「そうかすまん」
Kの図星をついた俺は適当に謝罪した。
「でも明らかにさっきの『B』の息子たちの方がひどいことをしていたと思うんだが」
「『BBA』は各『B』の息子を、敵とみなしたがらない傾向があるようだな」
Kの口振りには、K自身に心当たりのあるような部分を含んでいるように聞こえるものがある。
「しかし『姑』はなぜ、ここまで『嫁』を攻撃しなくてはならないんだ?」
俺は、まだ見ぬ将来の嫁の身の上を、失業者の立場でありながら心配になった。
「ああ、『姑』は、どこか『嫁』に対して無力感を感じているんじゃないか?」
「無力感?」
「『姑』は、最終的に自分の息子の『嫁』に対してどうすることもできないんじゃないか?」
「それは息子を取られている以上はってことか?」
何を悟った気なのか、Kは静かに頷いた。
「そうか、だから『BBA』は『嫁』の悪口で盛り上がるしかないのかな……?」
「母親はいつも息子の奴隷だな」
俺はAV育ちで女の香りを知らないKの母親のことを思うと、言い知れぬ哀愁を感じずにはいられなくなった。
俺たちが物思いに耽る間もなく、『BBA』の動向は、新たな局面を迎えようとしていた。
「……ねえ、大谷さんもそう思うでしょ?」
「う~ん……でもウチの嫁は、割合にきちんと家のことをこなしているけど……」
「え? そうなのお?」
「でもさ、結構、ズボラなところもあるでしょ?」
「う~ん、私の方が結構ズボラだからね」
「あ~らそお~? 良かったわねえ。大谷さんはお嫁さんがゴリッパで」
「えっ?」
「ホントねえ。大谷さんはお嫁さんがしっかりしていて、自分がズボラでもいいんだから楽でいいわよねえ……」
「あら、そんなことないわよ。世間には、いいお嫁さんだっているでしょ?」
「あ~らそうかしら? じゃあ皆に聞いてみる?……」
『BBA』の中で不穏な空気が漂い始めていた。
「お、一人の『B』が『同調』に逆らったな」
「『同調』?」
「うん。『嫁という存在は悪の元凶である』という事実に同調しろというムードが漂っていたからな」
「おまえ、まるでスポーツ中継の解説者みたいだな」
俺は呆れたように言った。
「それなのに、あの『B』は『BBA』が既に敵と想定している『嫁』を擁護してしまった。これは『BBA』に対する重大な造反行為につながるな」
まるで帝国に叛旗を翻した謀反人であるように、Kはこの『B』を表現する。
「だけど、実際に良い『嫁』だっているだろう? それに良い『姑』と『嫁』の関係だってあり得るだろうし……」
「確かにそれは真実なのかもしれないが、『BBA』にとってはそのような真実など邪魔なだけだ。『BBA』にとっては、自分たちに都合のいいレッテルこそが、真実として認めるところなんだ」
「……ねえ、あなたもそう思うでしょう?」
「……う~ん、私のとこはお嫁さんが来てないけど、確かに若い女の人でだらしない人って多いわよね」
「そうよねえ~わかるわあ」
「でもさあ、良いお嫁さんだっているわよね?」
「……う~んそうねえ、でも確かにだらしない人って多いかもね……」
「そうでしょう、そうでしょう? ほんとああいう子が人の親になるかと思うと、ゾーッとするわあ~」
「なんかシラケちゃったわねえ」
「どうしてかしらね?」
「そうねえ、誰かさんが変なこと言ったからかしらねえ」
「たまに好き勝手な人が一人いると、全体に迷惑がかかるのよねえ」
「ホントそうよね」
「そろそろ、ここ出ようかしら?」
「そうしましょうか」
「行きましょ、行きましょ」
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