魔女、旅に出る


 荒唐無稽な話をしよう。

 それは魔女の話だ。魔女と、魔女と、魔女と、魔女と、魔女と、魔女と、魔女と……たくさんの、無限の魔女の話だ。

 その魔女は、かつては少女だった。

 それは例えば、十七歳の夏休み最後の日、できれば誰にも会わないようにと祈りながら川縁の道を歩くような。やけに夕日が眩しくて、それがどうしようもなく悲しくて、涙をボロボロ流して、それでも橋に差し掛かる前には何とか泣き止んで、そうして自宅に帰り着いて、翌日には何事もなかったかのように新学期を迎える。そういう少女だ。

 彼女はやがて大人になる。受験を経て都内の大学に進学して、泣いたり笑ったりして、悩んだり、迷ったり、怒ったりして、時には人並みに恋もして、またある時は別れも経験して、そうやって大人になる。ただ生きているだけで、人は否応なく成長する。積み上げた時間は経験の総量と言ってもいい。そういう意味では、彼女は実に一般的で、普遍的で、当たり前な、どこにでもいる一人の人間としての経験を重ね、歳を取る。

 人は幸せになるために生きる。彼女もまたそのように生きる。ただ自然に、幸福な人生、幸福な日々を思いながら生きる。



 *



「ボクは彼女のことを伝聞でしか知らないけれどね。ただ人並みの幸福があればそれでいいと言うような、普通の人だったらしいよ」

 遠いどこかを眺めるように目を細めて、魔女は話を続ける。

「けれど、彼女は不幸になった。それが具体的にどういう不幸なのか、それはボクも知らない。ただ少女は不幸になったんだ。不幸のズンドコに陥って、何をどうしても幸せにはなれなくなった。どうにもならなくなった」



 *



 人は、幸せになるために生きるのだ。彼女はそう思っていて、けれど現実はそうならなかった。理由もボクは知らない。言ったろ? 伝聞なんだよ。

 そうして、いつかどこかで彼女は魔女になった。の魔女だ。彼女は時間の流れを誤魔化して過去の自分に会いに行った。不幸の芽を摘むために。人は幸せになるために生きるのだということを証明するために。

 けれど、その試みは失敗した。未来の自分に出会ったは、それでもやっぱり不幸になった。だから二人目の彼女もいつかどこかで魔女になって、最初の彼女に出会うより前の自分に会いに行った。もうわかるだろ? そうとも、それも失敗した。三人目の彼女もいつかどこかで魔女になって、同じようにして四人目、五人目、六人目と、どんどん過去に遡って行ったんだ。

 不幸の芽がどこにあるのか、その最初のきっかけは何なのか、まるでわからないまま、彼女たちは――ボクたちは、人生の総点検をすることになった。ボクが何人目かなんてのは全然わからないし、多分、今話したことだって、きっとどこかで捻じくれて伝わっているところもあると思うのだけれど、少なくとも、ボクの前に現れた魔女はそういう話をしていたように思う。



 *



「何代も何代も試行錯誤を繰り返して、そうしてやっと、ボクの前の代の魔女が一番最初の不幸の芽を見つけたんだ」

 魔女はそう言って、私に向かって右手を差し出した。彼女が掴んだ、それは白い帽子だ。

「バタフライエフェクトってやつかね。今日この日、十七歳の夏休み最後の日、もしもがこの帽子をテニスコートに忘れなかったら……。五年後か、十年後か、あるいは二十年後か、そう遠くない未来のどこかで、君はきっと不幸にならない」

 途方もない話だと、私は思った。途方もなく、わけのわからない話だと。

 けれど私の目を見つめる魔女の瞳は真剣で、だから私はどうしていいのか全くわからなくなってしまった。

「ま、ボクにとっても眉唾なんだけれど。だって、ボクも同じことを言われてこの帽子を受け取っているからね。だから伝聞なんだよ。ボクは不幸にはならなかった。この帽子をなくしてしまったことで降りかかる不幸を、ボクも知らないんだ」

 人は、幸せになるために生きるのだ、と、魔女は言っていた。それを証明してみせる、とも。だから、きっとこれはとてもシンプルな話なのだと思う。

「……よく、わからないんですけど」

 言葉を選びながら、私はおずおずと声を出す。考えて、けれど適当な表現がどうしても思いつかなくて、仕方がないので、思ったことをそのままに。

「その帽子を受け取ったら幸せになれて、受け取らなければ不幸になるんですか?」

 魔女は頷く。その目を見て、私ははっきりと確信する。

「嘘ですよね?」

 どこが、とは言わなかった。何故なら、多分この魔女はたくさんの嘘をついている。一つ一つ全てを確認することは出来ないけれど、例えば、ついさっき彼女が言ったことだ。

「魔女さんはきっと不幸になったんだ。その不幸を知らないなんて嘘。だって、そうでしょう? あなたが不幸を経験していないとして、だったらどうして魔女になったの? 魔女さんは魔女さんの過去の何を変えるためにここに来たの?」

 先代の魔女が不幸の芽を見つけ出したとして、今目の前にいる魔女が、自分で言うように不幸にならなかったとして、。その女性は不幸にならず、過去を変える必要もない。だから魔女にもならない。


 魔女は答えない。答えずに黙って、ただその帽子を私に向かって差し出している。今答えるのは自分の方ではないと、そう言っているように思えた。

 だから、私ははっきりと答えることにする。

「私はそれを受け取りません」

 だって、終わってしまったのだ。それはもう終わってしまって、だからきっと、無為なのだ。取り返しのつかないことは取り返しのつかないまま、大切な何かをなくしてしまった後にも、マイナスはただマイナスのまま、何の容赦も猶予もなく人生は続く。多分、それに意味はない。人が生きることに意味なんてなくて、帽子をなくしてしまったことも、いずれ魔女になってしまう立花雫の人生も、何もかも等しく終わってしまえば全ては無為だ。

 けれど、だからこそ、人は幸せになるために生きるのだと思う。

 終わってしまった全ては無為だとしても、翻せば、終わってしまうまでの全てのことには、きっと意味があるのだから。

 幸せになることは、だからきっと、私の人生にとってそれ程大きな意味を持たない。私は、幸せになるために生きるのだ。幸せに生きるのではない。幸せになるために生きるのだ。

 そういうことを、あなたは言ったじゃないか。

「それはもう失くしてしまったものだから、私は受け取れないです」

 もう一度、はっきりと言う。

 それを聞いて、魔女はあっさりと右手を引っ込めた。彼女は一度俯いて、何度か首を振り、それから顔を上げ、「そりゃそうなるよねー!」とゲラゲラ笑った。

「そうとも、ボクはたくさん嘘をついた。心を読めるなんて真っ赤な嘘だ。だって、ボクはその時が何を考えていたか逐一全部、ちゃんと覚えてるんだ」

 私は頷く。

「それに、確かにボクはこの帽子を受け取らなかった。君と同じように考えて、君と同じように結論を出した。それが正しかったか間違っていたかなんてくだらない話をするつもりはないけれど、ただボクはそうした」

 それから、それから、と。魔女はこの数時間の間についたいくつかの嘘について、一つずつ私に説明してみせた。減らない燃料なんてないし、消えない火だって存在しないし、当然隣町から来たというのも嘘だ。その全てを聞いてから、私は訊ねる。

「ねえ、魔女さんは今幸せ?」

 魔女は答える。

「まさか! 笑っちゃうくらい不幸のズンドコだよ。だって、考えてもごらんよ。何がどうなったら人間が魔女になるのさ」

 いつの間にか、風は幾分弱まっていた。雨粒もずっと小さくなって、その代わり、街は灰色から夜の紺色に移り変わろうとしていた。

 残り時間はどのくらいだろう。多分それ程多くはないと思う。だって、私はこれから雨の終わる場所を見るのだ。この雨が止んでしまう前に、私はきっとこの川の傍リバーズ・エッジから去ることになる。

 だから、私は訊ねる。

「じゃあ、もう幸せになれないと思う?」

 魔女はにんまりと笑い、堂々と答える。

「それもまさかさ。保証なんてない。だから信じるんだ」

 一息。

「ボクは信じているんだよ。人は、幸せになるために、生きるのだと」

 きっともう時間は残されていないから、次の質問で最後にしよう。私はそう決めて、足元を見て、川面を見て、何を訊くべきか考えた。

 魔女が小さな声で何かを言って、私はゆっくりと前を向く。


 そこに、魔女の姿はなかった。



 *



 それから、私はまずお母さんに電話をした。

 台風で帰れそうになかったから今まで雨宿りをしていて、これから帰るから心配ないよ、と伝えて通話を切り、次に橋の下をぐるりと見渡した。

 ついさっきまで確かにあったはずのテントもランプもケトルも、まるで最初から存在しなかったかのように影も形もなくなっている。その代わりに埃っぽくジメジメした空気が淀んでいるように感じられ、私は直感的に、あの魔女に関わる何もかもが無かったことになったのだと理解した。

 橋の下を出るともうすっかり陽は落ちてしまっていて、遊歩道に沿って等間隔に並んだ街灯が降りしきる雨粒の中でチラチラと輝いている。魔女がいなくなったせいだろうか。雨も風も台風と呼ぶにはいささか弱々しく、もしかしたら台風そのものも消え去ってしまったのかもしれない。

 そんなことを考えながら、私は街灯の光の下を商店街の方へゆっくりと歩いた。舌の奥の方が少しだけ熱くて、けれど涙はもう一粒も出なかった。

 遊歩道を逸れて商店街のアーケードに入り、人気のないシャッター通りを抜けると、雨はもう上がっていた。



 *



 翌朝は快晴になった。

 昨夜の内にベランダに干しておいた洗濯物はまだ少しばかり湿っていたけれど、その中に白い帽子がちゃんとあることを確認して、私は小さく口角を上げた。

 せっかく学校まで取りに戻ったのにまた無くなってしまっては困る。

 だって、私は幸せになるために生きるのだから。そのためには、少しくらいしたたかでなくては。


 家を出て、いつもの通学路へ。すぐに大きな橋に出て、それを渡るとしばらくは川沿いの遊歩道を歩く。

『君の出番だよ』

 そう言って消えてしまった魔女のことを覚えている。

 風の輪郭が少しだけ柔らかくなって、昨日より僅かに彩度を落とした空に、鮮やかな飛行機雲が一筋走っている。


 そうして、十七歳の夏は終わっていく。

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リバーズ・エッジ 水瀬 @halcana

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