訳も知らないで
台風を喚んでいるのだ、と。魔女はそう言った。
私は最初、その言葉の意味するところが今ひとつ理解できなかった。だって、意味がわからない。その、幸せになる? ために? 台風を喚ぶ? 何故?
それ以前に、台風って喚んだら来るの? それはなんというか、その、すごくない?
「言ったろう? 私は流れの魔女なんだ。空気の流れを手繰って台風をここまで喚んだのさ。二週間もかかってしまったよ」
ゆったりとした口調でそう言った魔女は、先程からじっと空を見上げ続けている。
いよいよ本番とでも言わんばかりに雨も風もごうごうと吹き荒れていて、そんな中に立ち尽くす彼女は見ているだけでかわいそうに思えるほどずぶ濡れの有様だった。
「ねえ! どうして台風なんて喚んだんですか? 幸せとか、保証とか、そういうの、全然わかんないんですけど!」
風の音に負けないように、私は大きな声で問いかける。魔女の言うことは、思えば最初から掴みどころが無くて、けれど何となく納得できるような、そういう優しい言葉だった気がするのに、どうしてか今だけは全然意味がわからなかった。
「君のためだ!」
魔女が叫んだ。
三角帽の下で、ダークブラウンの瞳が真っ直ぐに私を見つめていた。
「ボクのためだ!」
もう一度叫び、魔女は空へ向けて真っ直ぐに右手を伸ばす。
一際強い風が吹いて、橋の下にまで雨粒が吹き込んできた。私は思わず腕で目を覆って、その暴風が収まるのを待った。それは一瞬の出来事だったような気もするし、あるいは何十秒もそうしていたような気もする。どちらにせよ、その間、魔女は何も言わずにじっと私を見ていた。
「……本当はね、立花ちゃん」
私が目を開くのと同時、魔女は静かに口を開いた。静かで、丁寧で、少しだけ悲しそうな声だった。
「ボクは言わないでおこうと思っていたんだ。ボクの時はそうじゃなかったから。あの台風の日、この台風の日、ボクの前に現れた魔女は全部を話してしまったから」
魔女が何を言っているのかはよくわからなかった。わからなかったけれど、私は黙って彼女の言葉を待った。
「あれはズルだとボクは思った。不公平だと思った。真摯じゃないと思った。だからボクは、本当は、これから話すことを、君に言うつもりはなかったんだ」
右手を空に掲げたまま、魔女は少しだけ俯いて、それからゆっくりと顔を上げた。帽子のつばから水滴が一粒落ちて、私は一瞬だけそれに気を取られた。
「ボクは流れの魔女だ。流れるものなら大抵は操れる。川も、風も。あるいは――時間だってそうだ」
一息。
「ボクはね、立花ちゃん。五年後か、十年後か、あるいは二十年後か、いずれにしてもそう遠くない未来から来たんだ。時間の流れをどうにか誤魔化してね」
嘘だと思った。
心を読んだり、減らない燃料を作ったり、あるいは台風を呼び寄せることだって、百歩譲って魔女の力でどうにか出来たとして、タイムスリップなんて出来るわけがない。それはあまりにも常軌を逸している。ルールを違反している。ズルで、不公平で、真摯じゃない。
「もちろん簡単なことではないよ。何年もかけて準備をしたのに、いざ決行してみればこの通り、流れるものの傍から離れられない欠陥つきだ。ボクは
その瞬間、何の前触れもなく風がぴたりと止まった。まるで世界中から音が消え去ったような静寂があり、魔女はもう一度真っ直ぐに上を見上げた。
「だからこうする必要があった。台風を呼び寄せて、強い風をたくさん集めて、そいつをまとめて、流れを作って、こいつをここまで飛ばさせたんだ」
狙いすましたかのようなタイミングで上空からふわりと何かが落ちてきて、魔女の右手はそれをしっかりとキャッチした。
直後、一際大きな風が橋の下を駆け抜け、何事もなかったかのように暴風雨が戻ってきたのだった。
「ボクは、これを君に渡すために来た。そのために台風を喚び寄せた。だから、これが君からの質問に対する回答だ」
魔女は右手で掴み取ったそれを私に向けて差し出す。雨風に晒されてぐっしょりと濡れてしまったそれは、白い帽子だった。引退試合を終えた後、コートの隅に置き忘れたままにしてしまった、お気に入りの白い帽子。
「ボクは、君を幸せにするために来たんだ」
そうして、その魔女ははっきりとそう言った。
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