ある証明


「ボクは証明してみせようと思うんだ」

 魔女は言う。

「人は、幸せになるために、生きるのだと」

 魔女は言う。

「けれど、同時にこうも思うんだ」

 魔女は言う。

「保証なんてない。人が生きることに意味なんてない。……恐ろしいことにね」

 魔女は言う。

「だから、信じるんだよ」

 魔女は言う。

「ボクは信じるんだ」

 魔女は言う。

立花たちばなちゃん、立花雫ちゃん、君はボクに訊いたよね。ここで何をしているのかって」

 魔女は言う。

「その答えは、つまりそういうことさ。広い意味では――本当に、広い意味では、ボクはそれを証明しようとしている。それを信じようとしている」

 そうして、「そのために」と前置きしてから、魔女は言った。

「台風を喚んでいるんだ。きっともうすぐここまで来る」


 その全てを、私は黙って聞いていた。



 *



 魔女の住処は橋の下にあって、そこは意外なほどきれいに整理されていた。

 二、三人は入れそうな立派なテントが、どういう仕組みかしっかりとコンクリートの地面に固定されていて、煉瓦を積んで作られたかまどの傍にはピカピカのケトルとランプが置いてある。不思議と周囲に埃っぽさはなく、その代わり、橋の上を車が通る度にエンジン音がズンズンと響いた。

「うん、まあ二週間くらいは寝泊まりするつもりだったからね。金はないが、なぁに、物を作るのは得意なクチなんだ。こいつなんて良くできてるだろう?」

 言って、彼女はランプを手にとってみせた。それは黒と銀色が混ざりあったような不思議な色の金属でできていて、ガラスの管の中で小さな火がゆらゆらと揺れている。

「消えない火を使ってもよかったんだが火事にでもなったら厄介だしね。代わりに減らない燃料というものを作ってみたんだが、いやあこれはこれで実に厄介だった。一週間くらい近所のホムセンに通い詰めて材料を買い漁ったんだが、今にして思えばその材料費を宿泊費にして安宿を探した方が良かったんじゃないかと思うね!」

 魔法の材料は近所のホムセンで揃うのか。というかこの魔女は一体どこから来たのだろうか。

「八王子だが」

 隣町だった。

「えっ、じゃあ、あの、隣町の? 橋の下に? キャンプしに来たんですか? 台風来てるのに? わざわざ?」

 思わず驚きの声をあげてしまった。その様子を見て、ケケケ、と魔女は笑う。

「そういうことになる。……ああいや君、そんなあからさまにウワァみたいな顔しないでおくれよ。ボクは読心の類は苦手なんだが、それにしたってさっきからわかりやすすぎるぞ君は」

 そういえば最初からそうだった。私が泣いていた理由も、彼女は最初から知っていた。声に出さなくても心に思い浮かべただけで何となく会話が成立してしまうなんてまさに魔法だ。

「よしよし、落ち着いたみたいで何よりだ。いかにもボクは魔女だが、別段人間を辞めたつもりもないからね。号泣しながら歩いてる女の子なんて、ほら、放っておけるわけがないだろう?」

 そう言われ、あのぐちゃぐちゃな感情がきれいさっぱり無くなっていることに気付く。

「その気持ちは、別に無くなったわけじゃないさ」

 魔女は私に背を向けてテントの中に潜り込み、しばらくすると金属製のマグカップを二つ手にして外に出てきた。

「無くなったわけじゃない。過去は消えない。気持ちも感情も。多分、君はずっと今日のことを覚えているだろうし、時々は思い出すだろうさ。そういうものだよ」

 そうなのだろうか。よくわからない。ただ、そうだったらいいなと思う。だって、あの時の感情はきっとあの時だけのものだ。終わってしまったことは無為かもしれないけれど、そこに価値はないのかもしれないけれど、無為であっても無二のものなら、大切にしたっていいと思った。子供の頃に道ばたで拾った変な形の石を何となく捨てられなかったような、これはそういう素朴な気持ちだ。

「いいかい立花ちゃん、終わってしまったことは無為でいい。全ての経験に価値があるなんて嘘っぱちだ。けれど、それは過去を忘れるべき理由にはならない。終わった何かを尊ばない理由にもならない。特にこの手の思い出は大事だよ。心を育て損ねると人生悲惨だぜ?」

 つらつらと語りながら、魔女はケトルの中身をマグカップに注ぎ込む。ほのかに湯気を立たせるそれはどうやらコーヒーであるらしく、香ばしい香りがふわりと鼻先をかすめた。

「風も強くなってきた。これから少し寒くなるからね。飲むといいよ」

 すでに暴風と言ってもいいほどに風の勢いは強まっていて、私は少しだけドキドキした。台風の直前はどうして心が踊るのだろう。

「あの、魔女……さんはこんなところにいて大丈夫なんですか? 川、流されるかも」

 マグカップを受け取りながら訊ねると、魔女は呑気に笑って答えた。

「何も心配はないさ。ボクはね、立花ちゃん、の魔女なんだ。流れるものなら大抵は操れるし、川の流れなんてどうってことはないんだよ。それに、この台風は風こそ強いが雨はそれ程でもないからね。そうでなきゃこんなところでキャンプなんてしないとも」

 どうやらそういうものらしい。それはそれは胡散臭い話だったが、現実にこの魔女は何度も私の心の中を読み取って会話をしているし、ホムセンで揃えた材料で妙なランプも自作しているのだから、気味が悪くても多少の不思議は納得せざるを得ない。


 一口すすったコーヒーは薄くて、あまり味がしなかった。いつの間にか風に混じって雨まで降り始めていて、私はどうやら本格的に帰るタイミングを逃してしまったことにようやく気が付いたのだった。

「夜までここにいるといいよ。その頃には台風も通り過ぎているだろうし……ボクの用事も終わるからさ」

 言って、魔女はマグカップを片手に橋の下から空を覗き込む。その姿が、どうにも何かを待っているかのようで、私はどうしても気になってしまった。

「こういうこと聞いていいのかわからないんですけど……魔女さんはどうしてここにいるんですか? ここで何をしてるんですか?」

 魔女がここにいる目的、理由。そういったものが、私にはどうしてもわからなかったのだ。テントやキャンプ道具を持って、わざわざ台風が直撃する日を狙って隣町の橋の下でキャンプをする理由なんて、当たり前だがわかるわけもない。

「そうだなあ、ボクは君に出会うためにここまで来たんだ! なんて言ったら信じるかい?」

 ウワァ。

「その顔はさっきも見たね!」

 振り返り、魔女はまたゲラゲラと笑った。

 彼女の背後では大粒の雨が河川敷の芝生を叩き続けていて、風はまるで巨大な空気の壁のようになって草木や水面をぐねぐねと揺らしている。

 世界を構成する材質が何もかも灰色になってしまったように見えた。川も、草も、雨も、風も、空気も、コンクリートも、全てが荒々しい灰色になってしまった世界で、小さなランプの灯だけがチラチラと揺れている。

 橋の下の魔女の住処、この場所だけが安全地帯であるかのように静かで、私は少し安心して、それから何故か寂しさを覚えたのだった。

 何故か。多分、孤独だったからだ。

 全てを灰色に染めてしまう台風が世界をまるごと飲み込んでしまって、それでもなお、この場所だけはランプに照らされ色を失っていない。だったらここは世界の外側で、聖域のような、牢獄のような、流刑地のような、特別な場所で、台風に飲み込まれたあの世界とは透明の何かで隔てられた、名前のないなのではないだろうか。

「そんなことはないさ」

 その透明の何かに触れるように、魔女は橋の下から雨の中へ手を伸ばす。彼女の言う通り、その腕は何に遮られることもなくあっさり雨と風に晒され、ほんの十数秒でびしょ濡れになった。

「もう何年前だろう。五年か十年か、それとも二十年か。ボクはね、立花ちゃん、雨の終わる場所を見たんだ。暗い夜道だったのに、はっきりとそれがわかった」

 魔女は振り返る。指先から水滴が落ち、コンクリートの地面にポツポツと水玉模様を描く。

「世界には隔たりなんてなかった。雨も風も嵐も驚くほどに日常と地続きで、ボクを囲む世界は流れるように続いていた。嬉しくて、同じくらい悲しかったことを覚えてる」

 魔女は笑う。小さく、静かに、彼女は雨音のように笑った。


「ねえ、立花ちゃん」

 私の目を見つめながら、魔女は一歩後ろに下がった。

「ボクは証明してみせようと思うんだ」

 もう一歩。

「人は、幸せになるために、生きるのだと」

 次の一歩で、彼女の体は橋の下から外へ出た。たちまち雨風が魔女の全身を打ちつけ、銀色の髪がぱぁっと空中へ散らばった。

「けれど、同時にこうも思うんだ」

 手を広げ、空を見上げる。頭上の三角帽は今にも吹き飛ばされそうだったが、何かで固定しているのか、ピタリと頭から離れない。

「保証なんてない。人が生きることに意味なんてない。……恐ろしいことにね」

 魔女の両手が何かを手繰り寄せるように何度も動き、その度に風の音は強くなった。

「だから、信じるんだよ」

 それ程大きな声量でもないのに、彼女の声ははっきりと私の耳まで届く。まるで雨音の隙間を縫うように、その声はしなやかに響き、流れる。

「ボクは信じるんだ」

 噛みしめるように、魔女はそう繰り返した。

「立花ちゃん、立花雫ちゃん、君はボクに訊いたよね。ここで何をしているのかって」

 魔女は言う。

「その答えは、つまりそういうことさ。広い意味では――本当に、広い意味では、ボクはそれを証明しようとしている。それを信じようとしている」

 そうして、「そのために」と前置きしてから、魔女は言った。

「台風を喚んでいるんだ。きっともうすぐここまで来る」


 その全てを、私は黙って聞いていた。


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