リバーズ・エッジ

水瀬

リバーズ・エッジ

 できれば誰にも会わないようにと祈りながら川縁の道を歩いた。


 あれは夏休み最後の日の夕刻のことで、私は十七歳で、間近に迫りつつある台風が空気から熱を奪う力がそのまま落ちてきたような、灰色の風がごうごうと吹き始めていて、肩から提げたずっしりと重いラケットバッグの中には、もう二度と使うことはないだろうソフトテニス用のラケットが二本と、空っぽになった水筒と、数枚のタオルと、汗でびしょ濡れになったユニフォームと、後輩から手渡された寄せ書きと、あとは何だっけ、とにかく色々なものが入っていたと思う。

 高校から始めたソフトテニスは特別上手くも下手にもなれず、思い返せばこの三年間ひたすら練習が辛かった割に努力らしい努力をしたような実感もなかった。

 高校最後のインターハイ予選は地区大会の二回戦で負けていたから、部活自体は三ヶ月前には既に引退していたのだけれど、私の通う高校のソフトテニス部では夏休みの最後に一、二年生と三年生で試合をする伝統があって、だから今日が本当の意味での引退試合だった。

 朝から夕方までみんなで丸一日試合をして、私の戦績は三戦二勝一敗という、悪くはないが手放しで喜ぶほど良くもない結果で、それはまるで私の高校生活そのものみたいに思えた。

 けれど最後の最後に後輩から寄せ書きを渡された時、私は強く歯を食いしばって涙をこらえていて、部室を出るまでの僅かな時間、私の心はまるで振り幅の大きな振り子のように自己嫌悪と感動とを行ったり来たりしていたのだった。


 そういう、身体的にも精神的にも忙しかった一日の終わり。

 現役だった頃と同じように、私は三年間ペアを組んでいたクラスメイトの色葉いろはと共に学校から駅までの道のりを並んで歩き、普段は石のように無口な色葉が一言「しずくちゃん、お疲れ様」と小さく呟いてから改札を通り抜けていく姿を見送った時、私の心の中にあった何かが『ばつり』と音を立てて吹き飛んだのがわかった。

 踏切を越えて商店街のアーケードを抜けて川沿いの遊歩道まで。二百メートル程の距離を脇目もふらずに走り抜け、誰もいない川縁までたどり着いた時、私の顔は自分でもびっくりするくらい涙でぐしゃぐしゃになっていて、何がそんなに悲しいのか、それとも嬉しいのか、悔しいのかもわからず、その内、真っ直ぐに続く遊歩道の上に誰もいないことや、遠くに見える鉄塔から伸びた電線が風に煽られてゆらゆら揺れている光景や、分厚い雲のせいで自分の影が消えてしまったこと、いつの間にかほどけてしまった靴紐のこと、小学四年生の頃にデパートの屋上で見た美しい夕焼けのこと、コートの隅のベンチにお気に入りの白い帽子を忘れてきてしまったこと、そんな些細なことが次々と心の表面にぶくぶくと浮き上がってきて、その全てに対して、私は多分、言葉にならないたくさんの感情をぶつけたかったはずなのだけれど、そのために何をすればいいのかがまるでわからず、わからないので、大声を上げて泣き出してしまったのだった。

 何か大切な、取り返しのつかないものが終わってしまったのだということだけははっきりしていて、その大切な何かがなくなってしまった後にも、まるで行き先の見えない人生は続く。

 そうだ、私はきっとそれが怖かった。

 終わってしまったことそのものではなく、終わってしまった後も人生は続くということ。取り返しのつかないものは取り返しのつかないまま先に進むしかないということ。川は流れ続けるということ。


 しばらく歩けば大きな橋に出る。橋を渡ればすぐに家に着いてしまうし、人通りが多くなるし、きっと誰かに見られてしまう。それまでには泣き止もう。

 鼻をすすって、足元を見て、目をこすって、川面を見て、そう決めて、前を向いた。


 そこに、魔女が立っていた。





「詮索するつもりはないんだが……」

 彼女は少しばかりバツが悪そうな表情を浮かべ、わざとらしく目をそむけながら続ける。

「ほら、よく言うだろ? 全ての経験には意味があるとか、人生において無駄なことなんてひとつもないとか、あらゆる過去には価値があるとか。ボクはさ、そんなの全部嘘っぱちだと思ってるんだよ」

 それは、少女のようにも老婆のようにも聞こえる、不思議な声色だった。彼女は少しだけ考える素振りを見せ、「いや」と一言前置きしてからまた口を開く。

「より正確に言えば、そう信じてるんだ。ねえ君、ボクはね、終わってしまったものくらいは無為でいいと思うんだよ」

 その女性は深黒色の大きな三角帽をかぶっていた。それだけで、私は彼女のことを魔女だと思った。それは有り体に言って不審者だったが、帽子の中から腰まで長く伸びた髪はわずかにくすんだ銀色で、私は銀髪の人間というものを生まれて初めて目撃したのだった。

 しかし不審者は不審者だったので、私は思わず真顔で「えっ誰?」と訊ねてしまい、魔女は魔女で「そりゃそうなるよねー!」とゲラゲラ笑った。


 私たちは、そういう風にして出会った。

 八月の終わり、風の強い夕方のことだ。

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