幕章 さらば、呪われた名無し子よ
翌日、エレジー家の前に集まったウノ、ジェイク、シエナは、旅立つアイザックを見送るべく、白日の下に勢揃いしていた。
「行ってしまうのね」
ウノが寂しそうに言った。
笑ってはいるけれど、それは意に反して無理に口角を上げ、目を細めている偽りの笑顔であった。
「ああ」
今日ばかりはアイザックも元気がない。昨日、下級の口から知った結末。そして世話になったエレジー家との別れは、感情表現の乏しい彼をもってしても、落ち込まずにはいられなかった。
復讐を誓った憎き父が殺された。父を狂わせた悪魔の手によって。
復讐のために費やしてきた四年間は、このような形で水泡に帰してしまったのだ。
だが、この魂に絡み付いていた悪魔の手は跡形もなく消えた。だからなのだろうか、復讐にしがみつき、あれほどまでに己を狂わせていた殺意や憎しみが、信じられないほどに薄れてしまっている。
マリアを間接的に殺したアリスターを許したわけではなかった。ただ……この胸には殺意や憎しみ以上に色濃く残った一つの感情があったのだ。
空っぽだ。
一番の目的を失ったことによる虚無感である。
復讐は何も生み出さない。多くの人間がそういう。けれどアイザックは、「何かを生み出すために復讐するのではない」と思っていた。もちろんそうだ。復讐は生み出すものではないことなど、自分が一番よく知っている。
復讐は、己を
――空っぽだった。けれどそれは、時間をかけて自分で埋めてゆきたい。
そのためにアイザックは再び旅に出る。
ウノと同じように、心残りがあるように微笑しながら、アイザックは深く頭を下げた。
「この恩は忘れません」
「行く当てがなければ、ずっとここにいていいんだよ」
ジェイクが諭すように言うと、アイザックはそっと顔を上げながら、申し訳無さそうに声を潜めた。
「すみません、おれは……」
ウノは、今すぐアイザックに抱きつきたい衝動に駆られた。
この手で捕まえておきたい。そんな風に思って手を伸ばしかけ、我慢するように引っ込める。それでも、その思いを言葉にするのは歯止めが利かなかった。
「行かないでアイザック。ずっと傍にいて」
言葉で訴えることしか出来ないもどかしさに、涙が込み上げてくる。そしてこの願いに対するアイザックの返答も、幼い胸に宿る青い恋心を傷つけた。
「ごめん」
優しい、残酷な謝罪。
わかっていたけれど、こうやって直接目の前で言われると、我慢していた涙が瞼の縁から零れ落ちる。
「泣かないで」
そっと伸びた無骨な手が、ウノの鳶色の髪を撫でた。
「おれは行く。ちゃんと大人になるために。四年経ったら、必ずまた会いに来る。それまでにお前も立派なレディになっているだろ? その時会うのは、復讐心なんて微塵もない、ただのおれだ」
ウノは、頭にアイザックの手の温もりを感じながら、黒い瞳を見返した。
「必ずよ。約束を破ったりなんかしたら、許してあげない」
アイザックは柔らかく微笑んだ。
「おれは嘘は言わない」
ウノは泣きたいような笑いたいような、複雑な感情をその相好に浮かべた。
潤んだ瞳から溢れた涙が、頬を流れた。
それでもこうして、無理矢理に笑顔を作るのは、愛するアイザックの心をここへ残してしまわないようにするためだった。
素気無い素振りばかり見せる男ではあるが、その内にある心はとても情に厚い。今ここでウノが泣き喚いて縋ってしまえば、アイザックは心を残したままここを去ることになる。
これからの四年間を、ここに縛り付けたまま送らせることになってしまう。それが申し訳なかった。
「また会いましょう、アイザック。再会するとき、私は今のあなたと同い年ね」
溢れ出す涙を堪え、代わりに見せた愛らしい顔は、時に無骨で活発な少女の、儚げな色を漂わせた満面の笑顔だった。
・
・
・
道の先に商店街が見えてくる。
左側から臨む大海原は陽光を受けてきらきらと輝きながら、爽やかな潮風でアイザックを出迎えた。
昨日までの寒気は嘘のように鳴りを潜め、身を包む外套が少し暑いとさえ思える。アイザックはシャツの袖をまくりながら、「外套も脱いでしまおうか」と呟いた。
その時、前方から妙に気取ったように歩く少年がやってくるな、と思ったらそれはアランだった。
手には大きなバスケットを提げ、中には沢山のレモンが詰め込まれている。
アイザックは立ち止まって、アランが傍にやってくるのを待った。
アランは気取ったように微笑み、
「行くのかい?」
と言った。歩き方だけでなく、口調もやけに気取っている。
「ああ」
「そっか。気をつけろよな」
「ありがとう。ウノのこと、頼んだよ」
アイザックは、アランの傍を通り過ぎるとき、その肩にポン、と手を置いた。
「……あんたが手を引くなら、ウノは俺がもらう。嫁にする」
アランが動揺を誘うかのような挑発的な口調で言うと、アイザックはそっと立ち止まった。
何か言うかと思ったが、一向に口を開かないので、アランは続ける。
「あんたにウノはやらん」
「……結婚祝いでも用意しておくよ」
その台詞を最後に、旅人の足音は徐々に遠ざかって行く。
アランは振り返らない。
ただ、彼の足音が完全に聞こえなくなった頃、泣きそうな顔で微笑みながら、海に向かって独り言を言う。
「その必要はないよ。いくら俺が口説いたところで、ウノはあんた以外の男の恋人になる気はないだろうから」
恋の敗北を悟ったアランは、籠の中のレモンを見下ろして、歩き出した。
「せめて、ウノの親友になれるようにがんばるかな」
ウノの家へ向かって。
アイザック―呪われた青年・完
アイザック―呪われた青年 駿河 明喜吉 @kk-akisame
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