第10話 闇が明ける
化け物の小道を抜けてしばらくの間は、何もない真っ白な空間をただひたすら走り続けた。
疲労なんて感じている余裕すらない。
この白い闇から一瞬でも早く抜け出したくて、足を止めることなど出来なかった。
なんとしても現世に戻らないと。アイザックは今にも踵を返してマリアの魂を連れてきてしまいたい……そんなことは不可能だと理解していても、そうしたいという思いは、心の片隅でいつまでも大声を上げていた。
走る。
木霊する足音の中を、三人は無我夢中で走った。
ふと我に返って、世界が緑に満ちていることに気が付いた時、ようやくアイザックは背後を振り返った。
森の中だ。
泉の近く。木々の間に、陽光に煌く泉が見えた。
頭上には青い空が緑に丸く縁取られ、その中を時折、野鳥が囀りながら横切って行く。
「戻ってこれたの?」
ウノが膝に手をついて、息を切らしながら言う。
「そうみたいだ」と、アラン。彼も同様に激しく息を切らしている。
戻ってきた。自分たちの住む世界に。
化け物の小道への入り口はもうどこにもない。
どこを見渡しても、そこには爽やかな生命の息吹に満ちた森が続いているだけで、禍々しい黒手の気配も、怪鳥の断末魔のような声も聞こえない。
ものすごく晴れやかな気分だった。
木々を揺らす心地よい微風が、高く結い上げた夜色の髪を靡かせる。
アイザックは胸の真ん中にあった、冷たくどす黒い憎しみの塊が、湯をかけた氷塊のように溶けてゆくのがわかった。
この若者の全身を蝕み、憎悪の化身たらしめていた深い怨嗟の念に曇っていた心が、信じられないことだが、嵐の翌日の空のように気持ちよく晴れ渡っているのだ。
アイザックは、すっきりとした胸に手を置いた。
今までこの中の全てを支配していた復讐心や憎しみなどという感情が、信じられないほどすっきりと姿を消してしまったのである。
心に大きな穴が空いたようだった。ぽっかりと開いたその穴を、爽やかな森の風が通り抜けてゆく……。
アイザックは兎のように赤くなった涙目で、ウノとアランを振り返った。
全てから解放されたような、安堵した顔で、
「帰ろう」
三人は言葉少なのままウノの家へと歩き出した。
ふと、アイザックは立ち止まって、深まる森の彼方へと寂しげな視線を送る。
この森のどこかに存在した魔物の世界。人と相容れぬ闇の世界。
「マリア、そんな救いのない
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アイザックは両親の元へウノを返すと同時に、その場で土下座をし全員を瞠目させた。
「アイザック、何をしているの!」と、ウノ。
「顔を上げなさい!」と、ジェイク。
シエナとアランは唖然とし、言葉も出ない。
土下座という文化のないこの国でも、彼の見せた謝罪の方法が最大の謝罪の意を示すスタイルであることは理解できた。
「おれは、醜い復讐心なんかのためにウノを危険な目にあわせてしまった。どう償ったらいいか……」
「いいえ、アイザック! あなたは悪くない。私が悪いのよ。あなたは私を巻き込まないようにしてくれた。それなのに、私が無理矢理付きまとってしまったから」
「君は悪くない」
アイザックはウノの言葉を遮るように言った。
頑なな彼は、頭を下げてから一度も顔を上げず、額を木の床に押し付けている。
「アイザック……」と、シエナは子どもに言い聞かせるような優しい口調で言う。そっとしゃがみ込み、剣を振るうがっしりした肩に手を置くと、青年の肩はびくりと揺れた。
「あなたは悪くないわ。こうしてウノを元気なまま連れ帰ってくれた。償うだなんて……」
一度言葉を切ったシエナは、でも、と続ける。
「その代わりに、教えてほしい。アイザックのこと」
アイザックはそっと顔を上げる。怯えた子どものように視線を揺らしながら、ゆっくりとシエナを見上げた。
「あなたがここへ来た理由。旅に出た理由を教えて。それが、答えなのでしょう?」
アイザックのこと……。
ウノの心臓が大きく脈打った。
それはアイザックも同じであった。
ずっと己の心の中にだけしまっておいた、イザークという男の記憶を初めて語るときが来たようだ。
ウノに語ったのはほんの一部のことである。
しかし、今これから語るのは、イザーク・ハーレイの全てだ。
「おれは――」
その唇から紡がれる呪われた過去に、全員が耳を傾けた。
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翌日、アイザックは汽車を乗り継いで、マリアの眠る霊園へとやってきた。
肌身離さず携えていた剣は、今日は置いてきた。
その代わりに、胸にはチューリップの花束が抱えられている。マリアが好きだった花だ。
ここへ来るのは四年ぶりだ。
復讐の鬼と成り果て、心を醜く食い荒らされたアイザックは、マリアの前に立つのを恐れ、長らくここへ足を運ぶのを避けていた。
けれど、今回はどうしても会いに来たかった。
質素な墓石に刻まれたマリアの名前。この下に、彼女の遺体が静かに眠っている。
アイザックは墓石に微笑みかけながらゆっくり跪くと、照れくささを感じながらも口を開いた。
「来たよ」
辺りには誰もいないので、アイザックの声は静寂の中にぽつりと落ちた。
「長いこと会いに来ないでごめん。ずっと会いに来たかったよ。でも、どうしても足を向けることが出来なかったんだ。おれのせいでマリアが死んで、それで……復讐するためにマリアから教わった剣を取った。実父を殺したいだなんて、こんな醜い心を持ったまま会いに来たくはなかったんだ。正直、復讐を果たしてから会いに来るのも怖かった。人を殺したおれは、あなたに顔を見せる勇気なんてなかっただろうから。でも、今日、こうして会いに来れたのはどうしてなのか、おれにもわからないんだ。どうしても会いたくなったんだ、母さん」
アイザックは花束を置いた。
「“私のために人殺しなんてするな”って言うでしょう? おれは良い子じゃないから、そんな言葉聞き入れてあげないよ。必ずアリスターは殺す。あなたの敵を取るため、そしておれが安心して生きるために。でないと、あなたに二度も救ってもらったこの命も、今までの四年間も無駄になってしまう。許して、マリア。たった一人の息子が、父親殺しの罪人となってしまうことを」
長い間、そこにいる母親に語りかけていたアイザックの言葉が不意に途絶えた。
背中に感じる冷たい空気。
首の後ろに氷の鏨を差し込まれたような怖気が襲った。
誰かがいる。そんな気配がする。何かよくない気を放って、アイザックの背中を見つめている……。
アイザックは緊張に全身を強張らせながら、おもむろに振り返った。
「お前は――!」
そこにいたのは、ものすごい四白眼に、乱杭歯の男――下級だった。昨日切り落とした指は、元通りくっついている。
アイザックは立ち上がると、目を吊り上げて下級を睨みつけた。
『やあ、昨日も会ったね』
「何の用だ!」
警戒心を露にするアイザックに、まるで下級は幼い頃からの親友に対するみたいに気さくに口を開く。
『そんな怖い顔しないで聞いてくれたまえよ。どうしても伝えたいことがあって会いに来たんだ』
「伝えたいこと?」
アイザックは訝しんだ。
『アリスター・オルコットは死んだ』
……アイザックは表情一つ変えず、そっと瞬きをした。
「嘘だ」
『嘘じゃない。奴は死んだ。オレ様が殺した』
アイザックは瞬きも、呼吸すらも忘れて立ち尽くしている。
『あいつは君に負けた。オレ様に悪魔の三分の二のちからを与えられておきながら、たかが人間の若者に敗北した。そんな男に、オレ様はちからを貸す気にはならない。そして昨日がタイムリミットだったんだ。何の? 君の魂の提出期限だよ。あいつは相当自信があったんだろうな。だから君に“逃げてみろ”なんて愉快な寝言のようなことを言ったんだ。まさかあいつは、君に母親という味方がいるなんて思いもしなかったんだろう。己の甘さが招いた結果だ。アリスターは己を過信せず、あの場所で君を殺しておけばよかったんだ。そうすれば、確実に悪魔の仲間入りを果たせたのに。あいつは半分以上悪魔になっても、所詮は人間から生まれた子だ。そんな出来損ないにちからを貸し与えていたなんて、不名誉な事実だ。だから手を下した』
アイザックは、下級の話し声をぼんやりと聞いていた。……聞こえてはいたけれど、それは頭の中で整理されることなく消失した。
ただ、復讐を誓った相手――父親がこの悪魔によって殺されたという事実だけが、アイザックの頭の中をいつまでもぐるぐると彷徨っていた。
自分の声がこの若者に届いていないとわかっていながら、下級はなおも続けた。
『すまないことをしたな、アイザック。君の敵はもういない。もし、君から生きる目的を奪ってしまったというなら謝る。だけど、またお母さんが助けてくれたんだから、これからの長い人生、楽しめよ』
アイザックは目を見開いた。
「マリアが助けてくれたことを知っていたのか」
『まあな』
「どうして……」
『どうしてお母さんの邪魔をしなかったのか聞きたいのか? そんなの、単なる気まぐれさ』
下級は目を細めて笑った。
『血の繋がっていない母子の絆を見てみたかったのさ。いや、素晴らしかった。感動したよ。この下級を感服させられる人間はなかなかいない。美しい親子愛だった。そうそう、母親といえばね』
下級は、ほんの少し寂しげな顔をする。
『君の本当の母親だって、君を守るために一生懸命だった。生まれたばかりの君をたいそう可愛がってた。たったひとりで君を立派に育て上げる決心をした女性なのだからね。それは忘れないでいてあげてよ。秋坂・ハンク・玲二』
「レイジ……?」
『君の本当の名前さ。レイジ、イザーク、アイザック……沢山名前があるな、君』
下級は服の中から懐中時計を取り出すと、時刻を確認して、
『用はそれだけ。今日はただ、生まれた瞬間から実父の殺意の中心にあった哀れな青年に、この素晴らしいニュースを知らせに来ただけさ。その心臓に絡みついていた呪いも、もうない。さようなら、アイザック。もう二度と会うこともないだろう』
……気が付くと、もう下級はいなかった。
マリアの墓の前で、表情の抜け落ちた青年は、ただ立ち尽くしていた。
陽光が西に傾きかけても、その姿は絵画の中に描かれた人間のように、一点を見つめたまま動かなかった。
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