第9話 勝利の鐘声

 アイザックは眩暈を覚えた。

 地に両足を突っ張って、やっとの思いで立っている状態であった。

 瞠目した彼が唖然と開けた口から、「おれ――」という、うわ言のような一言を発するのにいくらの時間を費やしたことか。


 振り返った先、そこにいたのは、深く俯き、左胸に血華を毒々しく咲かせた自身であった。


 アイザックは急いたように自分の胸に両手を這わせたが、そこに剣は刺さっていなければ、血液一滴出ていない。

 それだけでなく、怪鳥たちを始めとする化け物たちとの死闘のあとすら、破れた衣服の中から跡形もなく消え去っていた。

 だが、目の前にいるの全身は、数々の死闘を物語る大怪我に見舞われている。

 白いシャツを突き破って露出した剣の先は血に曇り、胸が激しく上下するたびに赤が滴っていた。


 は俯いたまま、口から赤黒い血の塊を吐くと、ゆっくりと顔を上げた……。

 己自身と視線が絡み合ったその刹那、アイザックは冷静さを誇るその相好を困惑と悲痛に歪め、今にも泣き崩れそうに瞳を濡らしながら、を口にした。


「マリア……!」


 たちまち、傷だらけのの姿は、魔法が解けるようにその輪郭を歪ませ、愛しい母の姿へと変貌を遂げた。


 彼女は、アイザックの魂に絡みついた執念深い魔手の呪いの影響で死んだ。

 おそらくその魂は、術者である下級の餌食となってしまったはず。だのに、マリアは下級悪魔の呪縛から抜け出し、ここまでやってきたというのか。


 アイザックは様々な感情が心の中に渦を巻き、双眸から滝のように涙が流れるのを止めることはできなかった。


「うそだ、マリア、何故……あああああ!」


 別れの言葉も交わさないままこの世を去った愛しい人の姿を前にし、アイザックは迸る声を闇の世界に響かせた。


 胸が抉れる想いだ。再会できた大切な人と、このような形で相対することになるなんて……。

 傷だらけの身体。見るに耐えぬ傷跡から零れる大量の血液はマリアの足元にじわじわと広がってゆく。


「何をしているの……。早く行きなさい。出口はすぐそこよ……」


 マリアは、唇の周りを真っ赤にしたまま、息も絶え絶えに言った。

 咳き込んで、また吐血する。


 アイザックは、マリアにそっと手を伸ばした。

 彼女も連れて行きたい。そう思ったのだ。しかしマリアは彼の手を拒むように首を振った。


「行くのよ、イザーク。早く! 二人を連れて行くの」


「マリア……嫌だ、そんなの」


「私は行けない。ここまでしかだめなの。もうだめよ、私はいなくなる。もうすぐ、もっと強い力を持った化け物たちが押し寄せてくるわ。これ以上は護ってあげられない。ここが限界。ほら、現世まであと十歩もないわ。行けるでしょう、イザーク! 」


 ウノははっとした。

 

 ――そうか、さっき怪鳥ばけものから私を護ってくれたのは……!


「でも、マリア……」


 未だ迷いを断ち切れないでいるアイザックの腕を掴んだのは、アランだった。


「何をしている。母親に救ってもらった命を、彼女の目の前で捨てる気か!」


 アランの叱責は、ぐちゃぐちゃに渦を巻いていたアイザックの心を強く打った。

 たちまち、嵐のように荒れ狂っていた心が収束してゆく。


 母親マリアに救ってもらった命――。

 アイザックは、そっと心臓の上に手を置いた。

 激しく脈打つ鼓動。これが、マリアに与えられた命の証。


 熱した脳が急速に冷静さを取り戻してゆく。


 アイザックは胸の中で様々な後悔を抱きながら、ウノの手を引いた。

 溢れ出す涙で視界を歪ませながら、迷いから逃げ出すように走った。


 ウノは冷たい手に引かれながら、マリアを振り返る。

 彼女は笑っていた。しかし、泣いてもいた。様々な感情がないまぜになった表情は、ウノの心を深く穿った。


 遠退いてゆくマリアの姿は、致命傷を受けてぐらりと前に傾いだ瞬間、霧散して消えた。

 残った剣だけが道の上に落ちた。


 いつの間にか彼らを囲んでいた怪異は姿を消し、辺りは静寂に包まれていた。


 三人は、化け物の小道を抜けた――。



 殺した! と思った。

 アリスターには確信があった。悪魔の身体ちからを三分の二有した自分に、人間の若者一人殺せぬはずないと思っていた。だが、化け物の小道の上に立った彼は、その確信が薄れゆくのを悟ると、激しく動揺しはじめた。


「おかしい! 私の剣は間違いなくあいつの心臓を貫いたはずだ。仕留めたに違いないのに、どうしてこいつだけがここにあるのだ」


 アリスターは汗ばんだ手で剣を拾い上げようとして、背骨が凍てつくような強烈な怖気を感じ、動きを止めた。


 そっと振り返って、そこで下級がにやにやと笑いながら、立っているのを見つけて、今度こそ全身が凍りついた。


『君の息子は無事に現世へ帰ったようだ。よくやった、拍手を贈ろう!』


 下級は渇いた拍手を、下も上もあるのかわからない暗闇に高く反響させた。やがて、その虚しい拍手が止むと、下級は今度は落ち込んだように肩を落とした。


『さてアリスター、ここで残念なお知らせをせねばならない。ああ、誠に申し訳ないが、君との契約は不成立だ。残念だったな、アリスター・オルコット。君の負けだ。息子の方が、大半悪魔な君より持っているものが多かったみたいだ。ちからの話ではない。あんたの中途半端なちからは、母子のという不確かなものより劣っていた。それだけの話だ。さ、ここから大事な話をしよう、アリスター・オルコット。たかが人間如きに敗北を喫した君に、これ以上オレ様のちからを与えてやることは出来ない。君ら親子の勝負、君が負けた場合の代償は大きい。非常に、残念でならないよ』


 まるでそうは思っていないであろう表情――下品な乱杭歯を噛み鳴らす。


『して、君に支払ってもらう代償だがね』


 ――まずい。


 アリスターは、全身から血の気が引くのを食い止めることが出来なかった。

 すぐ傍の未来で待ち受ける己の結末を悟り、地に両膝を着いて、命乞いの言葉をその口から零した。


「頼む、殺さないでくれ。チャンスをくれ。次は必ず、息子あいつの魂を差し出す。一度目の失敗くらい許してくれ、頼む」


 下級はきょとん、と目を丸くした。


『一度目の失敗? ? 何を言っている、アリスター。君は既に、一度目の失敗を見逃してもらっているだろう。忘れたのか、二十年前の話だ』


 アリスターは、はっとする。

 そうだ。自分は一度、息子の魂をこの悪魔に献上し損ねていたのだ。失念していた。

 二十年前、あいつは死ななかった。あの、マリアとかいう女に救われたせいで! だからこの二十年、血眼になってあいつを探していたのではないか。

 

 下級は、ようやく理解したか、とばかりに笑みを深め、すぃと右手を持ち上げた。


『代償は、なんだと思うね?』


 へのカウントダウンが始まる。


 ――やめてくれ。


 その声すら、渇いた喉に張り付いて剝がれなかった。

 下級は心底楽しそうな笑顔をさっと引っ込めると、残酷なまでの無表情で男を見下ろした。


『そこんところがなんだよ、アンタ。そんなお願いを悪魔にするのは間違いだ、そうだろ?』


 無慈悲な瞳が、跪いたアリスターを睥睨する。


『そういうのは神様に言ってよ』


 ぱちん。渇いた音が化け物の小道のどこまでも響いた。

 その瞬間、心臓を大きな掌に握り締められているような苦痛が、アリスターを襲った。


 信じられない苦しみだった。

 どくどくと脈打つ心臓は、この世のものとは思えない力で押さえつけられ、全身に渡る筈の血液が身体の中心で強制的に停止させられる。

 物凄い耳鳴り。視界がぐらぐらとゆれ、気持ち悪くなってきた。


 黒い瞳に白い膜がかかる。

 徐々に死が迫ってくる。

 死が、手を差し伸べてくる。

 やがてアリスターの身体は白光する小道に転がった。

 下級の、冷たそうな革靴を目の前で見つめていると、急激に意識が遠退いてゆく。

 自分の急いた呼吸だけが耳元で聞こえる……。


 せめぎ合う死の気配を押しのけて、死そのものがアリスターの目の前に立ちはだかった。


 差し伸べられた死の手に魂を刈り取られる直前、アリスターはこんなことを考えていた。


 ――か……。良い名前だ……。


 ……。


 間もなく息絶えたアリスターの瞳からは、一筋の涙が零れていた。

 死を目前にして、ようやく己の愚かさに気が付いたのだろうか……。


 下級は氷でできた彫像のように冷たく元の主を見下ろしたまま、溜息混じりに言った。


『神様にお願いしても無駄だな。悪魔に魂売った禁忌の子なんか、神様どころか誰も助けてくれるはずない』

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