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 〝餓える堕天使〟。夫が追っているはずの、敵の名だ。これまで人間の前に現れたいかなる魔物とも違う、奇妙きてれつにして巨大な怪異。話を聞けば誰もが、そんな魔物がいるものかと嘲って笑い、しかし惨状を見て笑えなくなる。


 姿は、がりがりに痩せた人間に近い。手と足と胸は、骨と皮だけ。髪はない。下腹部だけが不健康に膨れている。すべての血を失い、体液を失い、そして心を失った人間は、あんなふうにもなるだろうと、どこかの賢者が言っていた。


 目は深く落ち窪み、眼球のあるべき部分は灰色の皮膜で覆われている。視力は全くないらしい。鼻には、骸骨のように三角の穴がひとつ、だらしなく開いている。そして、歯がむき出しの口からはいつも腐臭を発しており、その臭いにひるんだ者は、次の瞬間細長い手に捕まって、骨ごと食われてしまう。そう、奴は見境なく生き物を、とりわけ人間を好んで食らうのだ。


 そんな奇怪で残忍な魔物が、堕天使なる名を頂戴した、人智の及ばぬ特徴がみっつある。


 まずはその大きさだ。馬五頭分の背丈だという。巨人だ。人間など、ひとつかみひとのみだ。


 ふたつめは皮膚だ。なまっちろく見えて、鉄より硬いそうだ。多くの冒険者が身を賭して挑んだが、ひとつの切り傷も与えていないらしい。


 みっつめ、人々を苦しめる最大の理由にして、堕天使たるゆえんは、奴の持つ翼だ。白鳥のごとく白く美しく、しかし皮膚同様傷つけることはけしてできない。奴はそれを広げて空を飛び、神出鬼没に現れる。どこから来て、どこへ去るのか、誰も知らない。およそひと月に一度、農場や町を襲っては、馬や牛を、犬や猫を、そして人を―――逃げ遅れた子供や、挑みかかる冒険者どもを食らっている。


 近在では、空を飛ぶ堕天使の姿を見たことのない者はなく、みなおびえきっていた。もしも自分の住まう土地が奴の狩場に定められたら、家や洞穴に逃げ込むほかはない。しかし奴は、家を壊し、山を崩してでも、自分の腹を満たすまでは決して狩りをやめないのだ。


 平穏が奪われている―――この事実が、夫の闘争心に火をつけた。


 〝餓える堕天使〟の出現情報が、私たちの町に最初に伝わったのは、二年前のことだ。息子の子育ての手がようやく離れた頃だった。夫はそろそろ屋内の仕事に飽いてきて、庭で剣を振り回すようになっていた。そして話を聞いたとたんに目の色を変え、昔の仲間を呼び集め始めた。


 「居場所さえわからないのに、いったいどうする気」


 「探し出して、戦うのさ」


 「勝つあてはあるの」


 「勝ち目なんてのは、戦ってみてから決めるもんだ。やるだけはやる」


 「……でも」


 あたしのおなかには、ふたりめの子供が宿っていた。


 「魔物は魔物だ。倒せないはずがあるものか。眉間に一発。たいがいはこれでしまいさ」久しぶりに聞いた口癖は、彼の揺るがぬ決意を示していた。


 「約束は、どうなるの」あたしは、尋ねた。


 「子供たちを、守るためさ」夫はうそぶいた。「もしこの町が襲われたら、犠牲になるのは子供たちだ。だから俺は行く」


 わかりきったことだった。止めたって、涙ながらに訴えたって、聞くわけないって。


 自分の中の愛情が、恋慕が、どんなに悲鳴をあげても、あたしは覚悟を決めざるを得なかった。いつものように、冒険者をひとり送り出さなくてはならない。それがあたしの仕事。生きて戻ることなど期待せず……。


 こぼれ落ちそうになる涙を拭って、言った。


 「かわいい女房と、それから、守る子供がふたりになるんだから。ちゃんと帰ってきてよ」


 「もちろん、帰ってくる。心配するな」


 旅支度はすぐに整い、多くの仲間も彼のもとに再び集った。彼の表情が自信で輝くほどに、あたしの心には影が差しこめた。


 「不安なのよ……悪い予感がする」


 「心配性だな。自分の亭主を、ちゃんと信じていろよ」


 あたしにキスをして、そして出ていった夫は、二年間、帰ってこない。便りがあったのも、最初の数ヶ月だけだった。


 以来誰も、堕天使に挑むとは言い出さなくなった。


 それどころか、店の常連の誰かがあたしに気を遣うよう言い含めているのだろう、夫のことも、堕天使の話さえも、店では禁句になった。


 だが、堕天使による被害は、二年のうちにはるかに拡大した。未だ被害のない我が町に難民が流入し、うれしくないことに店はひどく忙しくなった。あたしは、夫の行方を気にもかけないふりで、愛想笑いを振りまいて、毎日立ち働いていた。

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