-3-

 その日は、月の明るい夜だった。子供らを寝かしつけた後、あたしはいつものように店で接客を始めていた。


 なんの前触れもなかった。


 月光の中に現れた黒い影。〝餓える堕天使〟が、ついに狩場をこの町に定めたのだ。


 急降下してきた堕天使は、町の中央広場の石畳舗装を粉々に砕いて地に降り立ち、家もなく野宿していた難民たちを、いきなりひっつかんで、むさぼり食った。広場に満ちた悲鳴が、眠りにつきかけていた町をまとめて叩き起こした。


 あたしの店も例外じゃなかった。隅っことはいえ広場に面しているから、悲鳴は遮るものなく伝わった。


 たむろしていた冒険者たちの眼の色が変わった。……それは、時来たれり、いざ戦わんというものではなかった。数多くの冒険者、そしてあたしの夫をして生きて帰さない堕天使の到来に、青ざめているのだった。


 「何してンのッ!」


 あたしは怒鳴りつけた。


 「冒険者は、何のためにいるのよッ! 臆病者は二度とうちの敷居をまたぐなッ!」


 「で、で、でもよぅ、おかみさん……」


 彼らが怯むのも無理はなかった。窓から見ると、広場は地獄絵図と化していた。血の匂いに満ち、叫び声とうめき声が地を這っていた。誰もがしり込みし、あたしも言葉を失った。


 何人かが既に剣を振るい魔法を駆使して立ち向かっていたが、堕天使にはまるで通じなかった。打ちかかる者を蠅のように振り払い、炎も冷気も蚊が刺したほどにさえ感じていなかった。手のつけられない圧倒的な強さだった。


 堕天使は無表情のまま、人間を捕えてはばりばりとむさぼった。時に手を止めて、ぐるりと辺りを見回した。なんでもないしぐさだのに、手の中の哀れな肉片と、口元にこびりついて月明かりに黒々と反射する血液が、周囲を威圧した。やがて戦える者も戦えない者も、その姿を遠巻きに見つめ、飢えが満たされるのを待つばかりになっていた。


 と、堕天使が突然顔を天に向けた。顔を何度か揺らし、人間なら匂いを嗅ぐようなしぐさをした。それから、もう一度ぐるりと顔を回した。……あたしの店を向いて止まった。


 一瞬、窓越しに目が合ったような気がした。堕天使には眼球などないというのに、その落ち窪んだ目の奥に、あたしは妖しい光を見た。


 堕天使はぶわと翼を広げた。ほんのわずかに飛んで、遠巻きにしていた人の輪を越え、───あたしの店の屋根に下りてきた!


 木造の建物は、重みに耐えられなかった。屋根板が割れ梁が折れ、あたりにどっと天井裏の埃が舞い落ちてきた。


 店内にいた者は、みな悲鳴を挙げて外に飛び出した。「おかみさんも早く!」その声に応じてあたしも逃げ出そうとして、だが足が止まった。奥の寝室では、まだ子供たちが眠っている。


 外でどすんと大きな音がし、逃げた者たちの悲鳴が聞こえた。屋根の崩壊でバランスを崩した堕天使が、広場の側に落ちたのだ。いくつか甲高く引きつった悲鳴が混じる。また何人か食われたのかもしれない。


 人間というのは、こんなときどうしようもなく身勝手なものだ。今がチャンスだと思った。他人のことなんかどうでもよかった。当たり前じゃないか。愛する我が子が危険なんだ。誰が助けるんだ。親が助けなくて他の誰が助けるんだ。


 あたしは、厨房に置き放してあった包丁を引っつかんだ。それしか判断できなかった。鎧とか盾とか、身を守ることは何も考えなかった。


 子供たちの寝室は、一階の一番奥。昔増築した一角で、二階建ての母屋からは突き出たように建っている。そちらはまだ無事に見えた。あたしは折れた梁を乗り越え、歪んだ天井の下の廊下を走った。


 だが、あと少しでたどり着くというとき、行く先の天井がめきめきと崩れるのが見えた。堕天使が再び飛んで母屋を回り込み、子供部屋の屋根に手をかけたのだ。あたしは慄然とした。あの小さな離れが、奴には弁当箱に見えているのだ。弾ける木片、舞い踊る埃の向こうで、子供部屋の扉が歪み、掛け金が弾け飛んで開いた。部屋の中から光が漏れ出す。娘が闇を怖がるので、完全に寝つくまではランプを点けたままにしているのだ。その弱い灯火とともに、鋭い爪の影が伸びて這い出してきた!


 奴が天井を割って手を差し入れたのだ。我が子を獲物にしようとしているのだ。やだ。冗談じゃない。おなかを痛めた大事な子供たちだ。食われて、食われてたまるか!


 「きぃぃえええええええええっ」


 自分にもどこから出たかわからぬ奇声を発しながら、包丁を思いきり投げつけた。包丁は回転しながら飛んでいき、白くやせこけた手に当たって、だが、弾かれた。


 何かが触れた感覚はあったのか、堕天使の動きがわずかに止まった。あたしはその間に、廊下を突っ走って子供部屋に飛び込んだ。だがベッドサイドにたどり着く前に堕天使の手が再び動き出す、間に合わない!


 そのときあたしは、堕天使の手が同じようにまたわずかにひるむのを見た。妹を後ろにかばいながら、息子がおもちゃの木刀を、めくらめっぽう振り回していたのだ。歯を食いしばって、だけど目はかたくつむったままに。


 弱々しい打撃が何の妨げにもならないと気づいたのか、堕天使の手が部屋の中深くに入り込む。子供たちをその手に握ろうとする寸前に、あたしはふたりに覆いかぶさるように床に転がり込んだ。そのまま両脇に抱えて、堕天使が陣取っていない側の窓に駆け寄る。頭突きで掛け金を弾き飛ばして窓を開けた。


 だが、窓枠を飛び越えようとしたそのとき、あたしの腰を堕天使がぐっとつかんだ。


 逃げられない。あたしは反射的に、子供らを部屋の外に投げ捨てた。窓の外の花壇に、ふたりは転がった。


 「逃げなさい! 急いで!」


 「おかあちゃん!」


 窓枠をつかんで耐えようとしたが、子供らの顔を見、声を聞くことができたのは、一瞬だった。窓枠が脆く砕けて、あたしを部屋の中に引き戻したのだ。窓枠の破片をその指先に叩きつけて、どうにかその手からは逃れたが、あたしはたったひとり、堕天使と対峙することになった。

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