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天井も壁もほぼ壊れた子供部屋。武器などあるはずもなく、小さなベッドは、隠れ場所にも盾にもならないだろう。あたしは、さっき投げつけた包丁を拾った。
部屋を灯していたランプが床に落ち、燃え広がり始める。さっきの木刀や、片づけ忘れたおもちゃを火に包んでいく。炎の中に立って、あたしは呆然と堕天使を見上げた。
堕天使が、顔をぐっと下ろし、天井から部屋の中を覗き込んだ。ばりばりと壁を砕いて顔の位置を下げ、顎を床につけた。子供が猫を脅かすようにはいつくばる姿勢をとり、その生気のない皮膜の目であたしを見つめた。
奴にとって、あたしは猫はおろか虫以下の存在だろう。圧倒的だった。どうにもなりそうになかった。その顔の長さだけで、あたしの背丈の倍近くあった。壁に、邪悪な死神の彫刻を刻み込んだようだった。
こんな途方もない相手を、どうやったら倒せるというのだ。あたしは、体中から力が抜けていくのを感じた。
子供らはちゃんと逃げたろうか。もう声が聞こえてこないから、きっと逃げたのだろう。言いつけを聞かないときは、ひどくぶん殴っているから、人智の及ばぬ堕天使より、鬼気迫ったあたしの方が、あの子たちにはよほど怖いはずだ。
……何を考えてるんだろう。自嘲気味の笑みと、涙が、同時にこぼれた。夫もこうして、誰かのことを想ったのだろうか。
そうだ。きっと夫も、同じようにこいつに挑んで、そしてやられたのだ。そう悟った瞬間、体の中身がすべて涙に変わっていきそうな、そんな感覚にとらわれた。
勝てっこない。あんたが勝てなかったのに。あたしに勝てるわけ、ない。
でも。でも。子供たちを守りたい。
どうすればいいの、あんた。
夫の顔が、脳裏に浮かんだ。
『魔物は魔物だ。倒せないはずがあるものか。眉間に一発。たいがいはこれでしまいさ』彼のその声が、突然頭に響いた。そうだ眉間だ。この巨体、眉間に一撃入れるなら、こうして建物の中を覗き込んでいる今しか、チャンスはない。
眉間。眉間。眉間といっても、このでかぶつ相手では、広すぎる。
あんた。このだだっぴろい眉間の、どこを狙えばいいのさ。
腐臭が奴の口から流れ出した。あたしは思わず顔を背けて床にしゃがみ込んだ。―――背けた瞬間に、目の端で何かが光った。
今のは何だ。あたしは目を凝らした。奴の目にあたる場所、そこを覆う皮膜の、ぎりぎりはじっこ。人間なら涙腺のある場所から、部屋を焼く炎を受けて、別の輝きが放たれている。むろん奴は涙を流すようなお上品じゃない。じゃあ、何が?
腐臭にひるんだと見てか、あたしを食らおうと堕天使の手が伸びる。いちかばちか、それをかわし逆に間を詰めて、鼻っ面にとりついた。鼻にあたる位置にある穴は、ただのくぼみだった。ちょうどいい手がかり足がかりになった。
奴の目に光っていたもの―――それは宝石だった。宝石がいぼのように突き出ていた。
手を伸ばしてむしり取った。わずかに抵抗があったものの、引き抜いて握りしめると、それは指輪の形状をしていると感触でわかった。そこにほんのわずかな傷口があり、中に至るようにリング部分が差し込まれていたのだ。抵抗を感じたのは、傷の開口部にリングが引っかかったからだ。
なぜ、指輪がここに?
鉄よりも硬い堕天使の皮膚。だが、人間と同じように、いちばん薄い部分は目の周りだと読んで、今のあたしのように鼻にとりつき、かすかな傷をつけた者がいる。
その者は、しかしながら、傷を広げられなかった。力尽きたのか、剣を取り落としてしまったのか、それはわからない。その者は、次に挑む者のために、傷の位置に印をつけるべきだと考えた。剣も使えないその状態でできたのは、指輪を外して傷に差し込むことだけだった。
その者は、輝いて場所を示すように、宝石部分を外に、つっかいになるように、リング部分を中にして、傷にねじ込んだ。
その者は。
あたしは手を開いて指輪を確かめた。―――背筋が、ぞくりと震えた。
指輪にはめられた、丁寧にカットされた石。カットのしかたに見覚えがある。当たり前だ。あたしがいま指につけているものとそっくり同じだ。
同じカットができる宝石職人など何人もいる。だが、そのように石をカットした指輪を、この場所にねじ込める人間は、ひとりしかいない。少なくとも、あたしの胸の中には。
今まで、何人がその輝きに気づいたかはわからない。けれど、手に取る位置まで近づけたのは、たぶんあたしが最初。
あたしは、ぐっと包丁を右手に握り直すと、傷にその切っ先を差し込んだ。―――どんなに硬いものも、一度傷がついてしまえば脆いという。じゃあああっと、布を引き裂くような音とともに傷は裂け、広がった。
傷口の中は空虚だった。奴には肉がなく、細い糸状の、筋張ったものが何本もその中を通っていた。あたしはできた傷口の中へ、左腕を突っ込んだ。
と、突然自分のからだが締めつけられた。堕天使が、その骨張った手で、さっきより数段強い力で、あたしの胴を引っつかんだのだ。肋骨が砕ける音がした。細い、刃のような爪が、腰に、乳房に食い込み、皮膚が裂け、血がだらだらと流れ出した。なんとしてもあたしを顔から引き剥がそうとしていた。
だが、あたしは離れなかった。左手で、中にある筋をひっつかんで支えとした。
ふぉおおおおおおおおおおおおおおお―――堕天使が咆哮し、立ち上がった。その翼を広げ、月光の中へはばたこうとした。
あたしは、力ずくで引っ張られながら、割れた天井板に背中を裂かれながら、そしてどうっと冷たく押し寄せる夜風にさらされながら、それでも左手を離さなかった。筋をつかまれることが、奴には苦痛らしかった。
包丁を持つ右腕もねじこんだ。顔も空虚の中に突っ込んだ。左手がつかむ筋に、包丁の刃を当てた。振り上げて、叩きつけた。
あっけなく、筋はぷつりと切れた。
ふぉおおおおおおおおおおおおおおおうぅぅぅぅぅぅ―――再び、堕天使が咆哮した。今度の咆哮は、少しずつ力を失っていった。翼の動きが止まり、地に降り立ち、ぐらりと体が揺れ、膝をつき、手をつき、ごとりと横たわった。
夜を震わす咆哮が、月光に溶けて聞こえなくなったとき、長きに渡り世を苦しめてきた〝餓える堕天使〟は、完全に沈黙したのだった。
堕天使が倒れるとき、地面にひどく叩きつけられたけれど、あたしはふしぎと意識を失わなかった。燃え続ける我が家から、どうにか自力で逃れ、戦いを遠巻きにしていた者たちの中に、我が子らの不安げな、けれど確かに生きている血の通った顔があるのを見て、そのとたんに意識が遠ざかっていった。
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