神経を巻き戻せ

むなく草

第1話(完結)

 6438日前、俺はきっと、多分、おそらく、メイビー沢山の人の祝福を受けながら、産声を上げた。その産声は正しく悲鳴だ。


 俺という存在がオブザーバブルな状態になった瞬間はその9か月ほど前に母親の妊娠が発覚した瞬間であろう。それまでは、ただの直径0.15ミリメートルほどの受精卵に過ぎなかった高分子化合物はにわかに俺という意味が与えられたのだ。

 俺という意味が与えられた以上、観測対象となってしまった高分子は凄まじい速度で意味が与えられ続ける。発生学が発達してしまった現在となっては無数の言語で、無数の観念で、俺という存在は分解され分解され分解されても余りあるほど無数の意味を与えられてしまった。もはや、この段階に至った時点で俺をバラバラに引き裂いて意味という意味を切り裂いても、可観測である以上、「存在する」という意味から逃れることは出来ないのだ。

 もっとも、結婚から三年、ようやく授かった待望の我が子である俺は母親の胎内でぬくぬくと守られていたので、バラバラに切り裂かれる可能性について心配をする必要など皆無であった。

 もはや、終わりを迎えようとする俺にとって始まりなど取るに足らないことなので気にしたこともなかったが神経系の発生は俺に更なる受難を与えた。それこそ経験である。


 ニューラル・ネットワークというAIに用いられる情報処理技術がある。目的とするプロセスのためのシステムの最適化を、サンプルデータなどを用いることにより、強化学習をシステム自身が行うことができるナウい技術だ。

 万人が知っている具体例として、将棋を指すAIが挙げられる。そのAIはプロ棋士の指した棋譜をたくさん読み、それを深化することで、皮肉にもプロ棋士に勝てるようになってしまったのだ。

 人はこのシステムを自分達の脳の神経細胞配列にヒントを得て構築した。プロセスのためのシステムの適化に最もそぐう存在は自分達の中に既に存在していたのだ。毒を制すには毒を、脳を制すには脳を、である。

 ではAIが将棋を学ぶのなら脳は何を学ぶのか? それはすなわち社会である。社会を学ぶためのサンプルを脳に無限に提供し経験させるために人がすねを組む場所、それが学校だ。

 経験、特に教育というシステムが脳に与える影響は凄まじい。それは教化と呼ぶにはあまりに暴力的な価値観の押し付けだ。人々が今まで維持してきた秩序と安寧を守るために、そのコスモス自体にどれほどの価値があるのかに疑問を持たず妄信し続ける。これは一種の政治だ。これは一種の宗教だ。堂々と公教育と政教分離を掲げるのは自己矛盾だ。

 しかし、奴らの、社会の巧妙なカムフラージュと欺瞞が俺の目を曇らせ続けることができたのは中学に入学するまでだった。


 中学に入るまでの俺は人畜無害な少年だった。海外に単身赴任する外交官の父親と教育熱心な母親に育てられた俺は勉強だけは抜きんでて優秀であり、教養も大事だと母に読まされた本の数では誰にも負けなかった。学校で面白くもない授業を受け、友達と昼飯を食べ、放課後はサッカークラブの練習に励む。そんな模範的一般生徒としての生活に少なくとも不満を抱いてはいなかった。しかし俺はある日を境に動物に対しては無害ではいられなくなってしまったのだ。


 1806日前、俺は猫を殺した。猫を殺すということが倫理観に反していたからだ。


 俺はその日、中学生になってからすぐ無理矢理受けさせられた模試の結果が芳しくなかったために、母親に大目玉を食らいイライラしていた。二つ下の妹が心配して様子を見に来てくれたのに、心に余裕のなかった俺は大声で怒鳴りつけて追い返したのをその時は酷く後悔したことをよく覚えている。

 気を紛らわせようと深夜に家を抜け出し、近所を散歩していた俺は足を休めようと人気のない公園のベンチに座り込み風に当たっていた。

 すると、どこからやって来たのか猫が俺の足元に寄ってきたのだ。真っ白な体毛が波打つように生えそろっている、ふてぶてしい猫だった。猫は首輪も付けていなかったが、人に慣れている様子を察するに、餌付けされるうちに人間に対する警戒心がなくなった野良であることが分かった。

 この町で野良犬や野良猫の類を見たことがなかったため、何か運命的なものを感じたのかもしれない。手持ちの金もなく、やれる餌も無かったが、俺は猫を撫でることで多少の侘しさが紛らわそうかと思い手招きしていると、野良猫は餌をくれるのかと思い素直に近寄ってきた。

 しかし、俺が撫でようと手を伸ばした瞬間、フギャーッと鳴きながら俺の手に噛みついたのだ。

「ぎゃあああああ!!」

 俺は手が焼けるような痛みを覚え、手を引こうとしたが、野良猫は思ったより強く噛みついていたのか離れることはなかった。指が千切れるのではないかと思った俺はパニックに陥り、咄嗟に逆の手で握りこぶしを作り、猫の顔面を思い切り殴りつけてしまった。

 しまった、と思った。

 猫は俺の腕を離れ、宙を舞うとワンバウンドしてベチャリと地面に叩きつけられた。俺は猫の様子を見るのが怖かった。怖かったが、その時に芽生えた妙な高揚感も忘れることができなかった。アリを踏み潰すのとも、ハトに石を投げるのとも違う奇妙な熱中。人気がないとはいえ、周りで誰かに見られていないか俺は辺りを見回した。この辺りは監視カメラもないはずだ。高揚感の原因の一つに誰かに見られてはいないかというスリルがあったことは確かだと思う。自分が動物虐待で通報される危険性がないことを確認すると、俺は生唾を飲み込み、地面に横たわる猫の元へゆっくりと近づいた。

 猫は数メートルほどの高さから落ちてもその三半規管の強さから安全に着地出来ると云われている。その猫が粘性の高い音と共に地面に叩きつけられたのだ。少なくとも重傷を負わせてしまったことは確かであった。

 横たわる猫の側にしゃがみこむと、猫の細い息の根が聞こえた。猫の片方の眼球は潰れ眼孔は窪み、止めどない血で白い毛並みは赤く染まっていた。月光の作る赤黒い影は木の洞のように何もかも吸い込んでしまいそうで、その怪しげな黒点に魅入られたのか、このとき既に俺は背徳感や征服感、その他正体不明の複数の黒い感情に身も心も踊らされていた。

 俺はゆっくりと味わうように猫の首元に手を伸ばした。猫の首まで垂れている赤い血に手を濡らし、それをなすりつけるように背中を撫でてやる。これは死にゆく身を清める儀式だ。この猫は白装束ではなく、血赤色をまとってあの世へ行くのだ。紅白の方が縁起もいいしあの世の沙汰も良くなるんじゃないか、なんて思った。猫はまたゴボリと新たな血を吐き出した。

 仕上げだと言わんばかりに猫の喉に手をかけた。徐々に締め上げを強くしていくと、それに従い気管が狭まったのか猫の息は笛の様な音をあげた。

 俺は一気に猫の喉を潰した。もちろん猫は死んだ。俺は今まで経験したことがなかった快感に打ち震え、恍惚の表情を浮かべた。脳が活性化しているのを感じる。エンドルフィンにアドレナリン。心拍数がどんどん上がって身体がぽかぽか温まっていく。大人に押しつけられた道徳を踏みにじり、施された教育を無に帰し原初へ帰っていく感覚。目が冴えわたるのを感じながら血に濡れた手を水道でよく洗い家に帰った。何度も猫の顔面を殴りつけたその感触を思い出しながら。


 翌日、俺は猫を殺した興奮も冷めやらぬままに登校した。この感動を誰かに伝えたい気持ちで一杯だったが、同時にこの気持ちは、この経験は主体になって初めて理解できるものだとも分かっていたため自重した。

 ウズウズしながら授業が終わるのを待ち望み、終業と同時に俺は駆け出した。

 その日の放課後から、俺は一人で自宅から5キロメートルほど離れた所にある裏山の小動物を殺して遊ぶようになった。最初はトカゲやカエルなどを捕まえて虐めてから殺していたが、すぐに飽きるようになった。最初はサイズが小さいのが問題なのかと思った。

 大きなアオダイショウを見つけて一瞬喜んだりもした。しかし、殺した後の高揚感は、猫を殺した後のそれに勝ることはなく、虐待する動物において重要なことは相手の動物に同情の余地がどれほどあるかであり、そういった意味で恒温動物が最も適していることが分かった。それから俺は小遣いを握りしめ暇さえあればペットショップへ行くようになった。

 それからは毎日が楽しかった。ハムスターが水を汲んだバケツの中に突き落とされて溺死するまでもがく様は愛嬌があった。もちろんハムスターは死んだ。罠にかけた雀を串刺しにして焼き鳥にするのも最後まで羽根をばたつかせる様が失笑を誘った。もちろん雀は死んだ。ネットで見て知ったヒヨコをミキサーにかける遊びは後処理が大変な上に一瞬で終わるために風情がなく不満が残った。もちろんヒヨコは死んだ。ハリネズミをダンベルで潰した。防御力低いなあと思った。もちろんハリネズミは死んだ。工夫して塚から掘りあげたモグラが手足を鋏で切り取られてから失血死するまでの様子は時間を忘れさせるほど飽きさせなかった。もちろんモグラは死んだ。

 様々な動物に俺の手のひらの上で惨めで可哀想な姿を晒させる背徳感は俺を昂らせ、ついさっきまで温かかった命が冷たくなっていくときに感じる哀愁は、いつも強かに俺の心を打った。命の灯はまるでバースデーケーキのろうそくのようだ。

 面倒だったが誰かに見つかる方が問題であったため、死体は全て裏山に穴を掘って捨てた。虐待に使う道具や動物にかかるお金は馬鹿にならず、たまに両親の目を盗んで財布からお札を抜くようになった。それでも、フェレットやチンチラ、ウサギなどの大型ペットを買えるような額を工面することは出来ず、ペットショップに展示されている大型ペットのケージの前に座り込んでは眼球をくり抜き肛門から木の枝を無理矢理入れて腸までズタズタにする妄想をしてはヘラヘラと締まりのない笑みを浮かべていた。妄想の中で何度も奴らは死んだ。死んでは生き返り、まるでRPGか何かみたいだと思った。


 しかし、俺の中で隆盛を極めていた虐待ブームも突如として終わりを迎えることになった。動物を殺すことが当たり前になってしまったからだ。殺す時に、いつも共にあった倒錯した快感が、自分の脳に刻まれた禁忌を揺り動かす興奮がなくなった今、俺に手間をかけて動物を殺す動機は無くなっていた。

 そして丁度俺の虐待ブームが過ぎた頃に家族が一匹増えた。妹が世話を全て引き受けるという条件で飼うことを許された雄のウサギである。

 そいつは俺が毎日のようにペットショップに通っていた頃によく眺めていた白い毛並みに赤い目をしたノウサギで初めて殺した猫にどこか似ていたため、何かの縁があるのかとも思った。その一方で、脳の片隅では家族にバレないようにウサギを殺すとしたらどうするか算段を立てていて、また脳の別の片隅ではそんなことを考えている自分の一部を他人事のように俯瞰していた。

 とにかく統合された意思としての俺は飼っているウサギを殺すリスクこそ高けれど、殺す理由も特にないため手を出すつもりはなかった。もちろん殺さない理由も特にない。妹はいつもウサギを自分の部屋で猫かわいがりしていて寝る時も一緒だった。


 それからというもの俺は特にやりたいこともなかったので母親に勧められるがままに勉強した。彼女は成績さえ良ければ大抵の欲求は満たしてくれるために励むインセンティブも無くは無かった。俺は母親の期待通りに進学校として名高い高校の入試に受かった。

 だが、そんな教育が裏目に出たのか、俺は勉強をすればするほど、読書をすればするほど社会や学校が嫌いになっていた。表立って体制に反発するほどエネルギッシュでもなかった俺は表面上交友関係も上手くいっていた。しかし論理的に物事を組み立てる癖がついた俺は何をするのにも結果が先行する社会において、その全てに内的な原因を求めた。


 俺には学校に行く理由がなかった。俺には社会が目指す秩序の必要性が分からなかった。そして、そう思う俺の帰納的思考の果てに辿り着くのは「何故命は生きることを選ぶのか」という宇宙論的証明における神のような究極原因であった。その問いに答えてくれる人は誰もいなかったし自分が生き続ける理由が分からなかった。

 一度この問いを妹にぶつけてみた。妹は少し考えたような素振りを見せた後に「死にたくないからじゃない?」と少しも考えていなさそうな答えを返してくれた。

 ソクラテスは「無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり」と言った。俺の知はまさに空虚だ。もはや罰と言っても過言ではない。この世に英知を持つものはいるのだろうか? そもそも英知とは存在するのだろうか?


 ストレスを抱え続け高校三年生になろうかという春休み海外で単身赴任している父親が久しぶりに一ヶ月ほどの長期休暇を取れたということで母親と夫婦旅行に行くことになった。ヨーロッパ諸国を二週間ほど回ってくるらしく、折角だし俺と妹も連れて行こうという話にもなったのだが、どちらも高校の授業がすぐに始まってしまうため、今回は夫婦水入らずで旅行することになったのだ。

 母親がいない間の家事は必然的に妹と二人でこなさなければならないのだが、俺は壊滅的に家事ができなかった。

 消去法で妹の負担は大きなものになり高校の入学の準備もあって忙しくなってしまい、結果として彼女が飼っていたウサギの世話が多少疎かになってしまった。俺がリビングルームでテレビを見ているとキッチンで洗い物をしていた妹の「ママが帰ってきたら今の分まで可愛がってあげなくちゃ」なんて独り言が聞こえて来て微笑ましい気持ちにもなった。

 妹がウサギを飼いはじめてから四年以上になるが、彼女の愛がなくなることは無かった。どこかの兄にも見習ってもらいたい博愛精神だ。母親は勉強があまりできない妹よりも俺のことを可愛がる傾向にあるが、俺なんかよりよほど「教化」を受けた妹の方が社会的意義の大きい存在だ。


 もちろんウサギは死んだ。

 妹は火がついたように泣き続けた。


 ウサギは寂しがると死ぬなんて話を聞いたことがある。人間以外がそんな高尚なクオリアを持ち合わせているとは思わなかったが、これはこれで面白いモデルだったので、いつも丁寧にブラシングをかけていた妹とウサギが触れ合った時間に反比例した量だけ、粉末状に磨り潰したハルシオンを与えようと思った。

 結果はある意味失敗だった。俺が投与量を誤ってしまったのか一日目でウサギが死んでしまったのだ。虐待していた頃は向精神薬なんて持っていなかったので、どんな効果が出るものか餌箱にたかっているウサギをリビングのソファに座りながら横目で見ていた。

 効果はすぐに表れた。ウサギの身体全体がプルプル震えたかと思うといつも開いているか開いていないか分からないような赤い目をギョロリと覗かせ、徐々に徐々にと身体の震えが収まっていった。俺は久しぶりに見る命の灯が消える瞬間に居合わせたことに軽い興奮を覚えていたが折角の大型ペットをこれだけの結果で逝かせてしまうことに少し後悔していた。食べ放題に来てまだ時間が余っているのに満腹感のため味わうことができない悔しさに少し似ている。

 ウサギの身体はまるでピンと張った弦を弾いたように徐々に弾性を失い動かなくなった。恐らく死んだのだろう。俺は興味を失い自分の部屋に戻ると、しばらくして妹が大泣きする声が聞こえてきた。獣医を呼ばれたら厄介だなと思いリビングに戻ると妹がウサギの亡骸を抱きしめたまま泣いていた。嗚咽混じりに「私が……私がちゃんと世話をしなかったから……っ、ごめんね、ごめんね」と冷たくなった肉塊に話し続ける妹は俺の庇護欲をそそった。

 いや、これは庇護欲なのだろうか。俺は妙な引っかかりを覚えた。だが、この引っかかりは地獄に垂れた一本の蜘蛛の糸である気がした。漆黒の闇夜に差した一筋の光明である気がした。そうか、これは破壊衝動だ。


 俺はやっと自分を理解することができたようだ。危うきものを見たとき、少し触れただけで均衡が崩れてしまいそうな、弱弱しい風前の灯を前にしたとき、人間は相反する二つの感情を抱く。一つはそれを守ってやらねばと、秩序の正義を信じようとする理性の使徒。もう一つはそれを滅茶苦茶にしてやりたいと、エントロピーが増大しきった状態こそが行きつく果てならば敢えてそこまで進もうと思う本能の使徒。

 俺は俺のために本能を体現しよう。理性とは経験の積み重ねを経て嘘を上塗りしたような人間を快楽から縛り付ける存在だ。原始こそ生の意味だ。英知だ。俺は英雄になったのだ。カオスに祝福された俺は目の前の理性的存在をその枷から救ってやることにした。


 一日前、俺は妹を殺した。妹を殺すということが倫理観に、とても反していたからだ。


 サイッコーーな気分だった。サイコじゃない、最高だ。俺の脳味噌の中は至ってクリア。目の前で信じられないようなものを見るような妹の目には、血を分けた片割れの首を絞める兄の姿が映っていた。その瞳に映る妹の瞳にはまた俺が映っていてその瞳にはまた妹が映っている。首にかけた手さえなければラブロマンスのクライマックスシーンのようだ。

 ウサギなんてそこら中にいるが、妹だけは本当に一人しかいない。俺は妹を大切にしないといけないんだ。俺の脳が経験することのできるサンプルとして、上書きされ続け社会に適合するように散々弄られたニューロンの結合荷重係数を胎児のときのそれに巻き戻すために、俺は妹を大切にしなければならない。

 だが、俺は次のフェーズに移る前にもっといいことを思いついた。

 善は急げ。思い立ったが吉日。ハリーアップ俺。ことを起こしてしまった以上、もう時を戻すことは出来ない。俺が首にかけた手の力を緩めた瞬間、妹が悲鳴をあげて近所にでもそれが伝わればおしまいだ。

 俺は妹の首を強く強く、命の温かさが少しでも俺に伝わるようにゆっくりと締め上げた。俺は今一度、身体を震わせる妹に問いかける。

「お前は何のために生きる?」

 妹の身体は痙攣を始め白目を剥いた。少し気持ち悪かったので俺は片方の手をほどき、瞼を閉じさせた。目を開いたまま逝くのは可哀想だ。俺は妹を愛していたので出来るだけ綺麗なまま死なせてやりたかった。

 それからすぐに妹は失禁した太ももから伝わった尿が床に水たまりを作り始める。それから糞便も垂れてきてリビングルームは異様な臭いで一杯になった。

 俺はその状況を甘んじて受け入れた。既に息を引き取っていた妹を横たわらせるとキッチンからウェットナプキンを持ってきて、粗相の掃除をした。寝ている妹の股からは糞尿だかなんだか分からないものが垂れ流れて続けたがその全てを俺は受け入れた。

 床を雑巾で拭き妹の部屋から替えのパンツを持ってきてやった。この歳にもなって自分でパンツを履こうとしない妹の足を通してやる。


 一日前、俺は妹の死体を犯した。妹の死体を犯すということが倫理観に、とてもとても反していたからだ。


 俺はわざわざ履かせたパンツを脱がせ、耳元で「大丈夫、優しくするからね」と囁きかけると既に怒張していたペニスを取り出し一気に突き入れたが、妹の膣内は全く濡れておらず、かなり痛かったので部屋からローションを持ってきて注入してやった。これじゃオナホールと変わらないじゃないか。

 しばらく抽挿を繰り返していた俺はしばらくしてから妹の膣から血が流れていないことに気づいた。妹は処女だと思ったのだが違ったのだろうか。それとも死体には処女膜はないのだろうか。硬直する以上あって然るべきであるような気もしたが、そんなことはどうでもいいかと思ったとき、俺は射精した。

 それからアナルに挿入すると糞尿のおかげか膣よりも滑りが良く物理的な快感はこちらの方がよかった。しかし、やはりペニスが他人の糞尿まみれになるというのは精神的によろしくないのかどこか気持ちも盛り上がらず、またそんなことを気にしていてはカオスの尖兵になれないと自分を叱咤した。

 そうしてどれだけ時間が経ったのだろうか、飽きるまで妹の身体を貪りつくした後、俺は泥のように眠った。

 あ、もちろん妹は死んだよ。


 そして、今日、俺は自殺する。自分を殺すということが倫理観に、最も反することだからだ。


 俺の人生の中で最も清々しい目覚めであった。そう言い切れるのは俺が今日死ぬからだ。俺の傍らで眠っている誰だか分からない死体には既に沢山のハエがたかっていたが関係なかった。

 俺は鼻歌を歌いながらシャワーを浴び身体の穢れを洗い落とし、クローゼットから高校の制服を取り出し正装を整えた。春とはいえまだまだ寒い季節だ。きちんとブレザーまで羽織り、胸ポケットに一振りの小刀をしまうと俺は意気揚々と町に繰り出した。

 本当は町に蔓延る理性的存在を一人でも多く救済してやりたかったが、すぐに追われる身になってしまうことを考えると、あまり悠長なことはしていられなかった。

 俺は燃え盛る正義心を胸の内にしまい、満面の笑みを浮かべながら最寄りの駅からどこか見晴らしのいいところに行こうとテキトーな電車に乗った。電車内はそこそこ混んでいたのに、なぜだか半径1メートル以内に人が寄ることはなかった。俺が選ばれしカオスの戦士だからか。不安そうな顔でチラチラとこちらを伺うような視線を無数に感じた。心配するな同胞よ、俺は盟約に従い己の為すべきことを成すまで。

 車窓から海が見えるようになった頃、実は景色なんてどうでも良かったことに気づき俺は理由もなく思い立った駅で降りた。

 近くに浜辺があるようなのでコンビニで缶コーヒーを買ってから向かった。店員がお釣りを渡すときの手は震えていて「冷房効きすぎなんじゃないですか」と温かな言葉をかけてやった。

 浜辺まで来たが、辺りにいる人といえば犬の散歩をしているお爺さんくらいだった。

 犬かあ、別に意識した訳じゃないけど犬は何故か殺さなかったな。しかしそれもどうでもいいことだった。

 俺は砂の上にドカリと腰を下ろすと別に飲みたくもなかったので買った缶コーヒーの中身を砂の上にぶちまけた。元々茶色い液体が砂の上に茶色い染みを作った。しかしそれもどうでもいいことだった。

 全てがどうでもよかった。俺は既存の価値観をぶち壊して生まれたままの何も分からない状態に還りたかった。その願望だけが頭に残っていればよかったし、逆にそれ以外のことは全て消え去ってほしかった、いや、消え去るべきなのだ。

 俺はさっさと事を済ませてしまおうと胸元から小刀を取り出した。正直緊張してきた。本当にどうでもいいとは思えなくなっていたかもしれない。いや、どうでもいいと思わなければならないのだ。意志も思想も、能動的なものは全てが無意味の混じり気ない白色の中に溶け込んで自分の何もかもが斬り殺されない限りは、単純な反射以外の全てが取り除かれない限りは、俺の残すべき唯一の理性が満足する果てまで行きつくことはできない。

 とにかくためらいが生まれる前にさっさと死なねばと思った俺は脳に命令されて小刀を右耳に当てた。

 ラストミッションだ。まず右耳をそぎ落とす。それから穴の空いた脳幹から神経細胞の束を抉り出してやれ。俺も悪魔の姿を一目見てみたい。

 俺は深呼吸した。聖戦の始まりだ。

 俺は裂帛の気合で右耳を引き裂いた。

 俺を襲ったのは未知の、いや、どこか懐かしい苦痛という感覚だった。

「うぎゃあああああああああああああ!!!」

 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。これは全くどうでもよくない。痛い痛い痛すぎる。死んじゃうよこれ、死にたくない。死にたくない? いや死にたいんだけどさ……。

 とにかく俺の脳は苦痛を感じる以外の機能を果たせなくなった。落ちた耳が見当たらない。それどころか視界が急にブラックアウトした。何も聞こえない。俺は多分悲鳴をあげているつもりなのに何も聞こえない。多分声帯のせいじゃない。俺の小刀を握っていたはずの右手の感覚も全くない。それどころか自分が座っていた砂の感覚もなく気分としては宇宙空間に放り出されたような気分だ。なんて比喩が頭をかすめる間にも意識の全てが苦痛に持っていかれる。痛い痛い痛い痛すぎる。

 痛痛い痛痛痛つの間にか痛痛俺痛の意痛痛痛痛識は痛なく痛痛痛痛痛なっ痛て痛い痛痛痛た。痛痛痛


 場面転換。

 俺は夢を見ていたような気がする。残酷で混沌に満ちた全てが苦痛に終わる夢。

 ここがどこだか分からなくて何も聞こえなくて頭を抱えたつもりになって震えていると目の前にぼんやりとした白い影が見えてきた。いや、俺は目を瞑っているはずだ。瞼の裏にタトゥーを入れた覚えもない。幻覚だ。

 幻覚は徐々に輪郭をはっきりとさせていく。猫だ。いつの日にか会ったことがあるような無い様な気がする真っ白な猫。そいつが幽鬼のように近づいてくるにつれ色彩を伴った。俺が殴りつけたせいで顔面が陥没し、全身を自分の血に濡らした猫。

 目を瞑っているのは俺で、俺がいるはずないのに目の前に頭を抱えたつもりになっている俺がいた。レースゲームの画面を見ているようだ。

 猫は俺にのっそのっそと近づいていくと何故か右耳のない俺の側頭部に器用に手を伸ばし俺の脳を爪で引き裂いた。

「ぎゃあああああああああああああ!!!」

 引き裂かれたのは俺が見ている俺のはずなのに、なぜか俺は酷い激痛を覚えた。猫の爪にはどろりとした灰白色の糸の束のようなものが沢山引っ付いている。脳だ、俺の神経細胞。


 場面転換。

 俺は夢を見ていたような気がする。残酷で混沌に満ちた全てが苦痛に終わる夢。

 ここがどこだか分からなくて何も聞こえなくて頭を抱えたつもりになって震えていた。

 すると何故かまなじりから白い影が現れた。徐々に形取って徐々に色づきを持って近づいてきた。それは俺の妹だった。

 妹は何故かこれもまなじりから現れた俺の分身を抱き寄せると「なんで命が生きるのを選ぶのか分かった?」と微笑みながら問いかけた。俺は黙っていたが、眼球に張り付いた俺の分身は答えた。

「それは死にたくないからだ。苦痛が嫌だからだ」

「じゃあ苦痛を伴わないなら命は生を選ばないの?」

「それも違う。全ては陰謀なんだ。脳が、神経細胞に予めコマンドされた命令だ。神経細胞は苦痛を嫌うから手段として生を選ぶように奴隷である身体を動かすんだ。学校に行かせて社会に送って食べて寝てセックスして神経細胞を喜ばせることが俺達に与えられた命令で、奴隷は従わないといけないから俺達は生きるんだ」

「そう、悩みが解決して良かったねお兄ちゃん。ところで――」

 そう言葉を切って優しく手を俺の分身の目の上に置いた。俺が俺で分身は分身のはずなのに俺の視界は真っ暗になる。

「私を抱いた感想、教えてよ」

 そう言って視界が開かれたとき、俺は凄まじい苦痛に襲われた。右側頭部から何かが入り込んだ異物感。ダイレクトに脳の一部を、銀糸の束を抜かれた俺はかろうじて維持できた視界の中に白目を剥いた妹の姿を認めた。

 妹は何度も何度も俺の頭の穴から神経を引き抜き千切ってはバラバラにした。その度に俺という意味は要素に分解され、意味という意味は引き裂かれ、やがて脳の全てが彼女の手の中で原子単位まで引きちぎられたとき、俺という意味は「存在すること」そのものまで還元された。

 ここに至り、初めて俺の渇望は満たされた。いや、俺という意識が認知できる限りにおいてその目標が満たされることはなかったが、向かう先のユートピアを想えただけで最後の俺の一欠片は満足してくれた。


 場面転換。

 場面転換。

 場面転換。場面転換。場面転換。場面転換。場面転換。場面転換。場面転換。場面転換。場面転換。場面転換。場面転換。場面転換。場面転換。場面転換。場面転換。場面転換。場面転換――――



 神奈川県相模湾沿岸で救急に保護された17歳の少年は脳死と診断され、「奇跡の回復」を待つことを選んだ母親は延命措置を望んだという。

 俺だけは死ねなかった。

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