〇二.朝焼は夕暮れの始まり
大雨が降りしきり、ノイズのような雨音が耳を支配する。
視界に靄がかかったように一面白んだ世界の中、全身をその雨に晒しながら目的のアパートを記憶だけを頼りに探し回る。
ただでさえこんなに重いバッグを肩に掛けているのに、張り付いた服と強風で、動き難いし不快だった。
それでも何とか目的のアパートを見つけ、雨宿りできる所まで入るとボストンバッグを下して一息ついた。
念のため郵便受けを確認すると、確かに103号室には”滝口”とある。
一安心して床に置いたバッグを開けて中身を確認する。防水のものを選んで貰ったが、やはり濡れている様子はなかった。
中には余すところなく札束が敷き詰められ、それ以外には殆ど何も入っていない。最初は何日分かの着替え位は持って来るつもりだったけれど、結局諦めた。
中身の確認を終えて、改めて自分の格好を見下ろす。薄手の白いワンピースは雨でびっしょりと濡れて体に張り付き、下着が完全に透けていた。
こんな格好で初対面の男の部屋に転がり込むなんて、襲ってくださいと言わんばかりだ。傍から見れば正気を疑われるだろうけど、今更貞操だの身の危険だの言われても笑ってしまう。
むしろその為にこんな服装を選んで、傘も途中で捨てて来たのだから。
とはいえ、あの人は相当奥手のようだから、ここまでしてもそういうことにはならなそうだけれど。
なんにしても、ここで追い返される訳にはいかない。とにかく入れて貰えるためなら何でもするつもりでいた。
彼には――何としても新しいお兄様になって貰うのだから。
〜〜〜〜〜〜
まず感じたのは違和感——。
いつもより直に感じる床の感触。
次は鈍い痛み。こここで自分がいつもの敷布団ではなく、冬用の毛布の上に寝ていることに気付く。
そしてそれとほぼ同時に思い出す、昨晩突然の来訪者——。
毛布から飛び起き、目をこすってぼやける視界を整えると窓際へと向けた。
——きっとあんな突拍子もないこと、夢に違いない。
毛布に寝っ転がっていたのだって、きっとただ寝ぼけて敷布団と毛布を間違えただけだ。
こんな夢を見るなんて、きっと俺も色々溜まっていたんだろう。
そう思って見た窓際には、昨日までの雨など嘘のように、建物の隙間を縫って差し込む僅かな朝日に照らされて、彼女が穏やかに眠りについていた。
「はぁ……」
期待を裏切られ、脱力したままスマホを手に取る。時間はまだ5時過ぎ。
さっきまでの興奮が通り過ぎ、途端に眠気がやって来る。結局ろくに眠れず無駄に早起きしたという訳だ。
しかし彼女がいる横で二度寝なんてしても余計疲れるだけだし、脱力しているばかりでもしょうがない。せっかく早起きしたのだから、この時間を使って彼女にはとっとと出ていって貰うことにする。
「おーい。朝だぞ! 起きろって」
その為には、まず起きて貰わないことには話にもならないのだが、体を揺すって起こすのも気が引けて、少し離れて声だけかけるに留まる。——しかし、一向に起きる気配がない。
再び溜息を漏らす。
早々に妙案は頓挫し、仕方ないので起こすのは諦め、自分の支度に取り掛かる。
それにしたって、彼女は随分無防備だ。
いくら疲れているとはいえ、横で男が寝ている状況でこうも熟睡するとは、警戒心がなさ過ぎる。――と言うか俺の精神衛生に悪すぎる。
寧ろ俺は男として認識されていないのか?
彼女――
顔を洗ってひげを剃り、髪を整えて戻っても、まだ出るまで1時間以上も余裕がある。
何故か昨日から引き続き料理をしたい気分だったので、朝食にピザトーストを作ることにして、近くのコンビニに向かった。
そこでパンやらサラミやらとろけるチーズやらを買ってきて、スマホを見ながらパンに載せて焼いてみる。
思いの外うまそうに出来たそれと、コーヒーの入ったマグを持って部屋に戻る。
とりあえずコーヒーを一口啜るが、少し砂糖が足りなかったのでキッチンまで取りに戻る。
「あつッ!」
すると後ろから、つい今しがたまで熟睡していた筈の彼女の声。
戻ってみると、ピザトーストを皿ごと持ち、その端っこを今まさにかじっている彼女と目が合った。
「おふぁようごぁいまふ」
彼女は悪びれる様子もなく、一口目を何とか飲み込むと「ふーっ、ふーっ」とピザトーストを冷まして、小さい口を目一杯開いて更に一口かじりついた。
「……」
——まあ材料はあるし、また焼けばいいか。
「おいしい?」
「なかなかいけますよ」
感想だけ聞くと、とりあえず自分も一旦彼女の向かいに座り、コーヒーを手元まで引き寄せる。砂糖を足して一口啜ると、ちょうどいい甘さと苦味が口の中に広がる。
「おはよ。
で早速だけと、いつまで家にいるつもりなのかな?」
ピザトーストは食べられたが、お陰で彼女は起きてくれたので、当初の目的を実行する。
本当は今すぐ出てって欲しいが、そんな剣呑な言い方も出来ないので、自分にできる精一杯の強い言葉を選ぶ。
「私、出て行くなんて言いましたっけ?」
しかしそんな努力も虚しく、不思議そうな顔で返答されただけで、それはあっさりと暗礁に乗り上げてしまった。
「いや……言っては……なかったと思う、けと」
「ですよね?」
確かに彼女は「出ていく」とは一言も言っていない。——けど普通に考えればまさかそのまま居座るなんて思わないだろう。
けどよく考えれば、あれだけ俺のことを調べて来た彼女が、一晩泊まって札束と偽の身分証らしきものを見せびらかすだけで帰るのも、不自然な話ではある。
「いやだからって、まさかここに住む気じゃないよな? こんな8畳1Kに二人で住むなんて、今どき学生カップルでもやらないぞ」
「確かに。ここに二人で住むのは――流石に厳しいですね」
俺の返しに、彼女は部屋を一回り見回して答える。
「だろ? よくわからんけど、そんなに金もあるんだし、どっかにアパートなりなんなり借りればいいだろ」
いくら入ってるか知らないが、なんなら家一軒くらい買えそうな額が入っていた筈だ。
「う〜ん……。私はマンション買っちゃった方がいいんじゃないかなって思うんですけどねー」
「いや、それは好きにしたらいいだろ。自分が住むんだから」
「わかってますよ? だからお兄さんにも聞いてるんじゃないですか」
「は?」
「自分が住むんですから、私一人で勝手に決めたら悪いでしょ?」
――彼女は何を言っているのか?
「え、何? 俺が……住む?」
「はい」
彼女はにっこり笑って即答する。
昨日から俺の理解の斜め上を楽々飛び超える超回答を量産する彼女は今日も健在らしく、その言葉で俺の思考は再び、いとも簡単にホワイトアウトした。
「お兄さんの言う通り、二人で住むにはここは狭いですからね。せっかくですから2DKは欲しいところです。
となるとやっぱり、マンションを買った方が結局安く上がると思うんですよね? 即金ですし」
呆然とする俺を他所に、彼女はまるでもう引っ越すのが決まったかのように、これからのプランを話しだした。
「俺、引っ越すなんて……言いましたっけ?」
呆気にとられたまま、俺はおうむ返しのようにさっきの彼女が発した言葉を引用する。
「え? お兄さん来ないんですか?」
彼女は心底不思議そうといった顔で俺を見てくる。――て言うか不思議なのはこっちなんだが。
それに若干の怒りを覚え、それが止まっていた思考を少しだけ働かせる。
「いや、誰が行くって言ったよ?!」
「それは確かに言ってませんけど――。
でもお兄さんはどの道近々クビですよ?」
「は?! クビ?」
「ええ。今お兄さんの会社では、業績不振で人事整理が始まっていて、兄さんもそこに名前が上がっていますから。
ここに残るのは自由ですけど、職が無くなったら、どの道ここには住めないんじゃないですか?」
「いや、待て待て。俺がクビ?
で、でたらめ言うなよ……」
「まあ、信じないのはお兄さんの自由ですけど。こんな狭い家に住んで、やりたくもない仕事をするより、私と来た方がきっと楽しいですよ?」
「俺がどう生きようが、俺の勝手だろ……」
「確かにそれはそうですけど——」
彼女は少し考える素振りを見せた。
「そうしたらこういうのはどうでしょう?」
「何?」
「私の条件を飲んで貰えるなら、このバッグの中のお金、全部差し上げます」
「は? いや、差し上げますって……」
「大体八千万円くらいあります。これならマンションを買っても暫くは働かないでも暮らせますし」
「は、はっせんまん?!」
そんな金額、ニュースくらいでしか聞いたことないぞ。
「いやいきなりそんな大金、渡されても困る。
大体なんでただの家出娘が、そんな大金持ち歩いてるんだ?」
「ただの家出娘だって、色々事情があるんですよ。
なので私のことを詮索しないのも、お金を差し上げる条件にしますね」
ただの家出娘が、八千万円を持って男の家に来るだろうか……。
彼女自身もめっぽう怪しいが、目の前の大金は輪をかけて怪しい。確かに魅力的ではあるが、こんなものを受け取ったら後でどんな厄介事に巻き込まれるか、わかったもんじゃない。
君子危うきに近寄らず、だ。
「せっかくだけど、こんなのおっかなくって受け取れな……」
「なんでですか?」
断ろうとした俺の言葉を遮って、彼女はいきなり机に手をついて俺の方にグッと顔を寄せて来た。
「クビになる確証がないからですか?
私の素性が不明だからですか?
お金の出処が怪しいからですか?
今の仕事が好きなんですか?
この家が気に入ってるんですか?
奨学金の返済義務があるからですか?」
「い、いや……」
思わず、たじろいでしまった。
いきなりまくし立てられたのも、しれっと話してもいない奨学金の話が出て来たのもそうだが、何より彼女の目が——恐ろしかった。
さっきまでは世間ずれしていて少し子供っぽいが、無邪気そうなごく普通の少女だった。
けれど今、まるでガラス玉のように俺を映し出す双眸からは生気と言うか、人間味と言うものを全く感じさせなかった。
その只々真っ黒な瞳に、背筋が冷たくなるのを感じた。
「じゃ、じゃあそまずの条件ってやつを話してくれよ」
耐えられなくなって視線を外しながら、俺は話を進めるよう促すことしかできなかった。
正直これ以上ごねたら、何をされるかわからない。そういう眼だった。
「そうですねー……」
すると彼女の表情は一瞬でまたさっきまでのものに戻り、天井を見ながら顎に手を当てて何かを考えているようだった。
「とりあえず”滝口 満”をやめて貰います」
そして口にした彼女の言葉は、またしても全く意味がわからなかった。
笑顔の彼女の顔を見ながら、俺はきっと心底間の抜けたアホ面を晒しているのだろう——そう思った。
レプリカの悪魔 弦 @nowhere_and_nowhere
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