レプリカの悪魔

〇一.小さな庭で雨宿りを

 扉が開いて、少し怪訝そうな顔が覗く。

 繊細で薄い顔立ち。威圧感は全く感じないが、意外と高身長。

 写真より髪が少しボサボサで、疲れた顔をしているけれど、間違いなく資料で見た顔だった。


「あの……泊めて貰えませんか?」


 もう夜の11時、大雨で水の滴る服と髪。それに大きなボストンバッグ。

 下心があろうが無かろうが、この格好なら入れてもらえる公算は高い筈。


 そう思ったが、彼の表情はみるみる困惑し、明らかに動揺しているのが分かった。

 想像していた反応と違ったが、それでも結局彼は入れてくれるだろう。


 それが”彼”という人間なのだから。


〜〜〜〜〜〜


「今月もちょっと良くないね……」


 上司に呼び出されて机の前まで行ってみれば、またいつものお小言だった。

 パワハラ対策か言葉こそ柔らかいが、その眼は『これ以上結果を出せないなら身の振り方を考えろ』と言わんばかりで、口から出て来る枕詞まくらことばなんかより、遥かに雄弁に俺の立場を物語っていた。


* * *


「あ~なんでこうなるかね~」


 雨の中の帰り道。意味も無くぼやいてみる。


 人生における壮大な目標も、やりたい事もない。

 ただ自分の生活の糧と、奨学金を返済するためだけに、やりたくもない営業周りを延々と繰り返す日々。

 短大を何となく卒業して、何となく受かった会社に入って、何となく仕事をこなす。そうやってもう4年の歳月が過ぎていった。

 たまの休みになると、何かやろうという気持ちはあっても、結局普段の疲れと惰性に流され、気付けば一日が終わっている。

 こんな自分を何とかすべきなんだろうとは思いつつ、結局何も変わらない自分がまたそこにいる。


 ——もっと自分に合った仕事に就けていれば

 ——学生時代に資格の一つも取っておけば

 ——いきなり宝くじでも当たって億万長者になれたら


 そうやってしょうもないことを一瞬考えて、すぐにやめる。

 そんな非現実的な夢に逃げたって、手に伝わるスーパーの袋の重みすら——忘れられやしないのだから。


 アパートの鍵を開けて中へと入り、疲れた革靴を脱ぎ捨てて、8畳一間の居住スペースへと伸びる短い廊下を、まるでゾンビのように進んでいく。

 朝家を出てからここまで、まるで自分がプログラム通りに動くロボットの様に、毎日全く変わらない動きを思考停止したまま完遂する。

 いや、家にいる時の行動だって、毎日大して変わらない。

 違うのは着ている服と、晩飯の総菜位か。


 そう言えば今日はいつもと違う事がもう一つ。

 大雨警報が出ていたお陰で、他の社員が足早に帰る波に、うまく乗れた事だ。

 時計は午後8時を回ったところ。いつもは10時近くに帰って来るので、スーパーの割引シール付き弁当が定番だが、今日は珍しく材料を買ってきて料理をする事にした。


* * *


 外は徐々に雨脚が強まり、強風を伴って窓を叩いた。

 そんな中を、うまくもまずくもない焼きそばを食べながら、残った僅かな今日という時間をげらげら笑うタレントを眺めて消費し尽くそうとしていた。


 そんな時、不意にインターホンが鳴った。


 最近何かを頼んだ覚えはないし、自分にものを送ってくるような身内もいない——というかそもそもこんな時間に宅急便なんて来ない。

 悪質な勧誘だって、流石に今日は店じまいだろう。


 そうして思い当たる節もないままドアを開けた俺は、彼女とのファーストコンタクトを果たすことと相成った。


* * *


「あの……取敢えず入れてもらえませんか? 寒いんですけど」


 まっすぐこちらを見つめて来る彼女に対して、こちらは目が泳ぎっぱなしだ。


「えっと……君……誰?」


 頭の中は、全く予想していなかった状況に完全にパニックだが、なんとかそれだけ絞り出す。


「入れて貰えたら、話しますから」

「…………」

——なんか、怪しい。


 見た目はどう見ても家出娘だが、何故わざわざこんな天気のこんな時間に、男一人住まいのボロアパートのドアを叩くのか。

 普通は友達の家とか、インターネットカフェとかに行くもんなんじゃないのか?

 かと言ってずぶ濡れな彼女は色々と透けて目のやり場に困る有様だし、このまま追い出したらそれこそどんな目に遭うか分かったものじゃない。

 それに梅雨入り前のこの季節、昼は温かいが夜はまだまだ肌寒い。


「あ~……うん、分かった。

 泊めるのはあれだけど、まあ拭くもの位なら貸すよ」


 相変わらず怪しさ全開だが、とりあえず俺は彼女を中に通す事にした。


 時間と共に雨脚は益々強まり、用が済んだら傘の一つも渡してお帰り頂く計画だったのに、どんどん追い出しずらくなっていく。


 最初はタオルを渡して終わりのつもりだったが、流石にこのままでは風邪をひきそうだったので、シャワーを貸すことにした。

 結果、風呂場かの水音が鳴り響く間中、激しい煩悩と格闘する羽目になった。

 まあ俺ごときチキンに覗きなんて芸当、出来る筈もないんだが——。


* * *


「私、家出して来たんです」


 シャワーを浴びて来た彼女は、フライパンに残っていた焼きそばを食べつつ、半ば予想通りの現状を簡潔に述べた。

 それはいいのだが、今の彼女は何故か俺のジャージを着ている。下着は流石につけているんだろうが、あの大仰なボストンバッグには着替えの一つも入っていないのだろうか?

 しかしさっきはずぶ濡れで気付かなかったが、彼女の容姿はまるで人形のそれを思わせた。

 白磁の様に白い肌。肩口までの黒い髪。そして首も手足も片手で折れそうな程細い。

 身長は155cm位だろうか。長いまつ毛の奥に見える黒い瞳は、その容姿と得体の知れなさが相まって、なんだかガラス球でも入っているかのような、奇妙な空虚さと透明感を持っていた。


「晴れていたら夜でも気付かれそうだったので雨の日にしたんですけど、失敗でしたね。強風に煽られて途中で傘が折れてしまって、結局ずぶ濡れになっちゃいました」

「そりゃ、難儀だったね」


 彼女はそう言って小さな口にまた一口、焼きそばを頬張った。

 こんな大雨の夜道を歩いていた理由としては、至極ありきたりで納得も出来る話だ。

 しかしそれでは説明の出来ない事が山盛りだ。

 何故見ず知らずの男の家なんぞにお邪魔しているのか。なんで着替えの一つも持って来てないのか。


 しかし何より謎なのは、目の端に映り込んでいるボストンバッグだ。


 必死に目を逸らして見ない様にしている——今はファスナーが開いて中身が覗いているが——はてっきり家出用のお泊りセット一式が入っているものとばかり思っていたのだが、実際に入っていたのは——札束の山だった。


「とりあえずお互い、自己紹介しようか」


 その得体の知れない札束はひとまず考えないようにして、俺は当たり障りのない自己紹介をして場をつなぐことにした。

 それに彼女の事か少しでも分かれば、この訳の分からない現状も少しは把握出来るかもしれない。


「俺は……」

滝口たきぐち みつる、24歳独身。都内の業務用空調機メーカーで営業部に勤務。現在成績不振でクビも危うい身の上だとか」

「は?」


 あまりの予想外の割り込みに、一瞬思考が停止する。

 そして数秒後、怒涛のように再び押し寄せる疑問の数々。

 その疑問の山で、俺の言語野は完全にパニックを起こしていた。


「え……っと、なんだかよく分かんないけど……君の名前、教えてくれる……?」


 余りのパニックで、それだけ言うのが精一杯だった。なんか脈絡がおかしい気もするが、気にしない。

 それでも要件は伝わったらしい。彼女はボストンバッグのポケットから財布を取り出し、その中から身分証らしきものを一枚抜き出した。

しかしそこで またしても俺の常識の斜め上を行く回答を見せた。


「えっとですね……。あ、そうそう! 私の名前は木月きづき 亜紀あきって言います」


 …………。


 なんで自分の名前を名乗るのに身分証を確認するのか。ていうか『あ、そうそう』ってなんだ。


「ちょっとその身分証、見せて貰ってもいい?」

「はい、どうぞ」


 にっこり笑って身分証を渡してくる彼女に対して、こっちは困惑しっぱなしだ。

 それにしても彼女、最初は人形みたいでなんだか得体の知れない雰囲気に感じたが、喋ってみると案外普通だ。

 そんなどうでもいいことを頭の端で考えつつ、受け取った身分証を確認する。


——どうみても普通の健康保険証にしが見えない……。


 もう訳が分からない。

 ただでさえパンク寸前でほとんど働いていない頭が、完全にハンズアップしてしまった。

 だというのに、本能だけはさっきから最上級の危険信号を発し続けていた。


「えっと……君は何者なのかな?」


 落ち着いたのか、諦めたのか。自分でもよく分からないが、少しいつものトーンに戻った声で、まるでアニメのヒーローに助けられた一般人みたいな質問を口にする。


「家出娘ですよ? あ、この間19歳になりました」


 確かに生年月日には5月23日と書いてある……。


 …………。


 もう無理だ! 完全にキャパ越えた!

 もう今日は一晩泊めて、明日お引き取り願おう!


「もう分かった! 今日は泊ってっていいから! 俺明日も仕事だからもう寝よう! 今布団出すから」


 完全に思考する事を諦め、明日の仕事に備えて煎餅布団を引っ張り出す。


「僕ので悪いけど、布団使って。シーツは今新しいの出すから。

 悪いけどうち一部屋しかないから、俺はこっちの端で寝るから。

 もし何かあれば明日聞くから、それでいい?」


 矢継ぎ早に説明をしながら、新しいシーツを掛けて表面上だけでも人が寝れるように整える。


「そうですね。今日はもう遅いですし、明日にしましょう」


 何かとても不穏当な事を言っているような気もしたが、それも考えない事にする。

 とにかく寝よう。明日になればこの訳の分からない状況も終わる。

 こんな年頃の女の子が横で寝ていたんじゃ満足に寝れるとも思えないが、少なくとも彼女と話しているよりは精神衛生には優しいだろう。

 つい数時間前にはこんな状況を夢見ていたような気もするが、今は只々退屈な日常へと回帰する事ばかり考えていた。

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