パトリック・ソローの素晴らしき夜

千葉まりお

パトリック・ソローの素晴らしき夜

   一

 

 私は夜を所有している。

 ブラウニーフォート刑務所を退職した日に、彼から贈られたものだ。

 縦二十インチ、幅二十インチ、厚さ二インチ。部屋の飾りにちょうどいい大きさだ。

 月は含まれていなかったが星の一つ一つが明るく輝いていたので物足りなさは感じなかった。強く揺さぶれば一面に流星の雨を降らすこともできるそうだが、やろうとは思わない。力の加減を間違えれば夜から星が全て流れてしまい、あとには闇だけが残るのではないかと怖かったからだ──私は、何よりも闇を恐れている。


 赤ん坊の頃、目の周りについた引っかき傷から悪い菌が体内に入り、高熱に苦しめられたことがある。熱は二日間私の体内に留まり、私の両目の視力と共に去っていった。私は失明したのだ。夏の空のように青く美しいと評判だった私の瞳は、真っ白に変色してしまっていた。この時の恐怖は赤ん坊だった私の脳に張り付き、今もまだ離れないでいる。

 祖母が正しい対処をしなければ私の視力は今も回復していなかっただろうし、こうして美しい夜を見つめることも、彼と出会うこともなかっただろう。縁とは奇妙なものだ。


 私はL・スミス社製の高級な額縁に夜を嵌め、寝室の壁にしっかりとネジ止めした。

 これは本物の夜なのだと妻に打ち明けると、彼女は「パットったら」と目を回した。

「これはトリックアートよ。ビーズが混じった特別なインクをガラスで挟んでいるの。ミルクレープみたいにインクとガラスを交互に重ねているから遠近感が生まれて、本物の星空みたいに見えるのね。昔、デパートで同じ物を見たことがあるわ。でもがっかりしないでね、私のハニーアイ。本物じゃないにしても素敵なことに変わりはないわ」

 星々が平時よりも強く瞬いてみせたのは妻の言葉に対する抗議だったのだろう。だが妻は「ほらご覧なさい」と自信たっぷりに夜を指差し「本物の星はこんなにうるさく光らないでしょ? 中にLEDが入ってるんだわ」と軽快に笑ったのだった。


   二


 彼と出会ったのは一九七六年の冬の始め。私は二十二歳。看守になってから三カ月を過ぎ、制服を自分の皮膚のように感じ始めている頃だった。

 大抵の刑務所と同じように、ブラウニーフォート刑務所にも囚人の職業訓練プログラムがあった。人気が高い順に電気技士、配管技士、事務経理と続いて、最も不人気だったのが家具職人の訓練プログラム。私はその見張りを担当していた。

 参加者はいつも片手で数えられる程度しかおらず、その日も木工所にいたのは指導役の家具職人とスミスという内気な囚人と私、そして身長が私の腰までしかない赤毛の小男だけだった。机と椅子の高さがあわないため小男は椅子の上に立ち、偉そうに腕を組んで職人の「正しい椅子の作り方」の話しに耳を傾けていた。

 私は囚人全員の顔を覚えていたが、彼を目にするのは初めてだった。新しい囚人が入ったとも、入院していた囚人が戻ってきたとも聞いていなかったので、私は妙だと思った。

 私は彼に近づいて声をかけようとしたが、小男が突然「四流職人め、我慢ならん!」と怒鳴って両手を広げたので、驚いて言葉を飲み込んでしまった。

 小男は机に並んでいた木材を手に取ると、定規で測ったり印をつけたりはせずに鋸を引き始めた。私は自分が看守であることを忘れて彼の技に魅入った。躍動の火花が小男の腕や指先で絶えることなく迸っていた。小男は優雅に鋸を引き、華麗に金槌を振るい、最愛の人を愛撫するようにヤスリを滑らせ、粗悪な木材を世にも美しい椅子に作り変えてみせた。しかも信じがたいことに、小男はそれを秒針が一周する間におこなったのだ。

「これが椅子だ!」小男は家具職人に見せつけるように椅子を掲げたが、家具職人もスミスも小男に顔を向けようともせず、完全に無視していたので私は呆気にとられた。

「パトリック・ソロー。俺がお前なら声は胸に留めておくだろう。狂ったと思われたくはないからな」小男は「返事がないのはいつものこと」と持ち上げていた椅子を下ろし、私に顔を向けた。年は四十を少し越えたくらいで、品が良いとは言えない面構えだった。酒場で歌手が陰気なバラードでも歌おうものならビール瓶を投げつける類の顔だ。

「婆さんに感謝しないとな。彼女がヴィヴィアンの蜂蜜を塗らなかったら、あのチビに盗まれるのは瞳の色だけじゃ済まなかっただろうよ。あの泥棒は赤ん坊を毒爪で引っ掻いて熱を出させ、潤んでふやけた目玉から瞳の色を剥がし取っていくのさ。すばしっこくてとても捕まえられん。あいつに追いつけるのは流れ星くらいのもんだ。今頃お前から盗んだ青で羽根を染めてご満悦だろうよ。まぁ、そんなことは今更どうでもいいか。結果だけで言えばお前は得をしてるんだからな。その目のおかげで俺の姿を見ることができるんだ」


 どんな家にもその家の者だけが語り継ぐ不思議な話しがあるものだが、ソロー家の不思議な話しとは私の目にまつわるものだった。私が失明した時、祖母は様々な草花を細かく刻んで混ぜた蜂蜜を自分の髪の毛で作った筆で私の瞼に塗り「この子の目が綺麗だから、妖精が色を盗んでいってしまったんだわ。でも大丈夫。湖のヴィヴィアンが作り方を教えてくれた薬を塗ったから、これからは蜂蜜が目の代わりになってくれるはずよ」と言った。母が戸惑いながら「母さん、何を言っているの? ヴィヴィアンって誰?」と尋ねると、祖母は「ヴィヴィアンは森の湖に棲んでる精霊に決まってるじゃない。それから私はまだ十歳よ。あなたの母さんじゃないわ。変な人ね」と答えた。

 両親は私の失明に加えて祖母の痴呆という不幸の連打にうろたえたが、それは一晩だけの悪夢で済んだ。翌朝になると祖母はイギリス在住の十歳の少女から、アメリカに移住して数十年が経つ老夫人に戻っており、私の視力も完全に回復していたのだ。ただ、目の色は蜂蜜と同じ黄色に変わってしまったまま、遂に元には戻らなかった。

 小さい頃はお化けの目だとからかってくる相手に「精霊がくれた目なんだぞ!」とこの話しを聞かせたものだったが、大人になるに従って段々と口にしなくなっていった。「ご両親は素敵なお話で君が劣等感を抱かないようにしてくれたんだね」と都合のいいように解釈されてしまうのが常だったし、自分自身でもそう思うようになっていたからだ。


 だから彼がソロー家の物語を口にした時、私は心の底から驚愕した。

「心配事が多い毎日を送っているようだな。母親が死んでから呑んだくれになった父親が心配だし、家の周りの治安が悪くなっているのも心配だ。夜中に近所で銃声がするのを今週だけで二回も聞いたし、銃声は近づいてきている。それにダイナーのウェイトレスに恋人がいるのか気になってしかたない。挨拶がわりに教えてやるが、今はいないよ。去年、彼女にはちょっとした不幸があってね、恋愛ができる程立ち直っちゃいないのさ」

 私はすっかり血の気が引いて、言葉を発することすらできなくなっていた。

 小男は「さて、今回は前払いだ」と言うと、空中から握り拳程の大きさの石を取り出し、弧を描くようにして私に投げた。私は何も考えず──考えることができない状態でもあったが──それを受け取った。石は酷く歪ではあったが心臓の形に削られていた。

 私が視線を戻した時には小男もあの素晴らしい椅子も忽然と姿を消していた。

 プログラムが終わった後で私はスミスを呼び止め「さっき木工所にいた赤毛の囚人を知っているか?」と聞いた。スミスはおどおどしながらこう答えた。

「ソローさん。あそこにいた囚人は俺だけですよ」


 その日の夜。家に向かって夜道を歩いていた私は三人組の暴漢に襲われた。目出し帽で顔を隠した男達は私に銃を突きつけ、財布とコートを渡せと怒鳴った。私は言われた通りにしようとしたのだが、なぜか暴漢の一人が突然引き金を引いた。衝撃が胸を突き抜け、私は地面に倒れた。男達は「なんで撃つんだ!」「弾は入ってないって言ったじゃないか!」と怒鳴りあい、財布を取ることもコートを取ることも忘れて走り去っていった。

 私は痛みが酷くなる前に意識を失いたいと願いながら倒れていたが、その内、痛みがそれ程には──少なくとも死んでしまう程には──酷くないと気がついた。私は体を起こし、撃たれた胸に手をやった。

 穴の空いたコートの胸ポケットの中で、小男から受け取った石が粉々に砕けていた。 


   三


 次に彼と会ったのは、胸にできた痣が薄くなり始めた頃だった。

 私は刑務所の運動場を囲むフェンスの外側に立っていた。ライフルを手にフェンスに沿って歩き、囚人を見張るのが私の役目だった。注意は怠っていなかったので、突然フェンスの向こう側に小男が現れた時、悲鳴をあげそうになった。

 小男は笑いながら「前払いは役に立ったようだな」と言った。「撃たれると知っていたのか?」と私が聞くと、彼は「まさか! 乾いた土の上で枯れかけている花を見れば水が必要なのだとわかるように、俺は相手を見れば何が必要なのかわかるってだけさ。あの日、お前に必要な水はあの石だった」と答えた。

 私達はフェンスを挟んで歩きながら話し始めた。私以外に彼の姿が見えないのはわかっていたので、私の言葉は少なく、声は小さかった。ライフルを手にした看守が目に見えない誰かに向かって話している姿程、囚人達に不安を与えるものはないからだ。

 彼が自らをブラウニーと呼ばれる妖精の一人だと言った時、私はかなり驚いた。人間でないことは察していたが、まさか家主が寝ている間に靴を作ってくれるというあのスコットランドの妖精だとは思わなかった。大き過ぎるし、第一に可愛くない。

 ブラウニーは「アメリカでは何でもデカくなるのさ。自由の女神しかり。ブラウニーしかり。それに俺は見慣れりゃ可愛いよ」とうそぶいた。

 なぜスコットランドの靴の妖精がコロラドの刑務所にいるのかと聞くと、彼は「俺は靴の妖精じゃない。物作りを司る、全ての職人の師だ。お前が思うより偉大なものを作ってきたんだぞ。あと俺はアイルランド産のブラウニーだ」と訂正してから、ブラウニーフォート刑務所の歴史を語り始めた。

 ブラウニーフォート刑務所は一八六〇年代にアイルランドからやってきた大工や石工達の手によって建設された。彼らは故郷を思いながら土台を組み、故郷の歌を歌いながら石を積んだ。やがて職人の一人がほんの悪戯心で廊下の床にタイルでブラウニーの姿を描き残したのがきっかけとなって、職人達はこぞって故郷の妖精を刑務所の中に隠し始めた。最初は面白半分だったが、次第に刑務所を建てるついでにブラウニーを描いているのか、ブラウニーを描くために刑務所を建てているのかわからなくなる程真剣になっていった。強力な魔法とはいつもこうやって遊びの中から始まるものなのだとブラウニーは言った。

「そしてこの刑務所はブラウニーフォート城塞という名前になり、名付けと共に魔法は完成し、俺は遥か遠いアイルランドの地から城主として召喚されたというわけさ。俺はここを気に入っているが、足りないものがあってね。ずっとお前のような質のいい目を持ち、中と外を行き来できる奴が来ないかと思っていたのさ。お前には色々な物を調達する運び屋になってほしい。見返りとして俺はお前に必要な物を与えよう。お前が乾いた土の上で枯れないようにな。言っておくが、断ったらこの間の前払い分は返してもらうことになる。石が砕けちまったのは知ってる。だからお前の心臓を頂くことになるよ」

 ブラウニーの緑色の目は有毒ガスに引火した炎のように揺らめき、笑った口からはカミソリのように鋭く尖った歯が見えた。その恐ろしい顔が見えたのは一瞬だけではあったが、私を震え上がらせるには十分だった。私は恐怖に握りつぶされそうになりながらも、どうして自分で外に出て取ってこないのかと聞いた。

「ブラウニーが家を出るのは二度と戻らないと決めた時だけだ。俺が出て行ったらこの刑務所はたちまち衰退して廃墟になっちまうよ。俺はここが気に入ってるんだ。気に入ってる囚人もいるしな。例えばルーク・スミス。あれはいい職人になるぞ。いい職人が鋸を引き、金槌を振るい、ヤスリをかけ、皮を伸ばす音は俺への賛美歌なんだ。ここは音楽が足りない。だからルーク・スミスに歌わせるのさ。それから他の連中にも」


 ブラウニーが最初に私に持ってこいと言ったのは、カービングナイフと荒さの違う紙ヤスリ三十枚だった。紙ヤスリはともかく、囚人に刃物を渡すなんて正気ではない。

 しかし、私に他の選択肢はなかった。私はブラウニーにどうか考え直してくれと訴えたが、彼は聞く耳を持たずに私からナイフと紙ヤスリを取り上げた。

「俺は全ての道具の王だぞ。俺がこのナイフに木以外は一切傷つけるなと命じればそうなるんだ。お前が心配することは何もないよ。それからルーク・スミスがこっそり木片を持って帰ろうとしても、これからは気がつかないふりをしろよ」

 ブラウニーはそう言ったが、私はいつスミスがナイフを持ち出して暴れまわるか、あるいは手首でも切って自殺するか不安で仕方なかった。だから数日が過ぎた頃、私は意を決してスミスの独房にゆき、「持ち物検査を行う」と告げたのだ。

 私はぐずるスミスを独房から追い出して、ナイフを探し始めた。布団をめくり、ベッドの下を探り、洗面台の裏を覗き、遂に壁の煉瓦が一箇所だけ外れるようになっていて、小さな空間に繋がっているのを発見した。私はそこに手を突っ込み、裂いたシーツに包まれたナイフと紙ヤスリ、それから──木製の薔薇の彫刻を見つけたのだ。

 「お前が作ったのか?」と聞くとスミスは頷き、ある朝起きたら枕元に煉瓦が落ちていたのだと訴えた。

 壁から外れたのだと思って元に戻そうとした時、穴の中に紙ヤスリとナイフが隠されているのに気がついた。看守に言えば責め立てられるだろうし、他の囚人の手に渡ることがあれば殺傷沙汰が起きるかもしれない。だから隠し持ち続けていた。彫刻を始めたのはナイフと紙ヤスリを見ている内に自分は彫刻をする運命にあるんじゃないかと思い始めたからだと彼は言った。嘘じゃないんですと涙ながらに訴えた。

 私は「二度めはないぞ」と言い、取り上げたナイフをポケットに入れるような身振りをした。房を覗き見ていた囚人達にはそのように見えただろうが、実際には私はナイフと彫刻と紙やすりを元の場所に戻したのだ。

 スミスの横を通り過ぎる時、私は小さな声で「確かにお前はその運命にある」と囁いた。あの薔薇を見れば、誰もがそうするだろう。 

 

   四

 

 こうして私は運び屋になった。様々な道具は私からブラウニーへ、ブラウニーから相応しい者の元へと運ばれ、囚人達は次々と一流の職人へと変貌していった。

 夜になると彼らは自分の房でそれぞれの天職に取りかかったが、それが看守や他の囚人達に咎められることはなかった。監獄内にノミを打つ音や、金槌を振るう音が連夜響いているというのに誰もそれに気がついていないのだ。囚人達が作った物を回収して売り払うのも私の役目だったが──売り上げは新しい木や石や革を買うのに使った──それもまた誰も気にしていなかった。ブラウニーは「ここは俺の城で、俺の職人達は俺の庇護下にあるんだ。誰にも手は出せないぞ」と自慢げだった。

 彼は職人達の奏でる賛美歌を聴きながら「これぞ俺の求めていた音楽だ! 俺の職人達はここで永遠に物を作り続け、俺を讃え続ける! 生きてる間も死んだ後もだ! 俺は永遠の聖歌隊を手に入れたぞ! 俺の愛しい職人達よ! お前達はもうお前達自身のものではない! お前達の全てが永遠に俺のものだ!」と指揮者のように腕を振った。

 この特別な仕事の報酬もまた、特別なものばかりだった。

 例えば幼児が描いた絵のように輪郭が歪んでいる銅のカップ。これは父を酒飲みの地獄から救い上げた。私が眠っている間にキッチンでウィスキーを飲もうとした父は、近くに置いてあったそのカップにウィスキーを注ぎ、口をつけた。

「生まれてから犬のションベンだけを飲んで育った犬がしたションベンを飲んだのかと思った」とは父の談だ。カップの中に塗られていた艶出し剤が安物のウィスキーと悪夢のような化学反応を起こし、味を変えたのだ。以来、父は八十七歳でこの世を去るまで一切酒を口にしなかった。

 例えば不細工な兎が刺繍されたハンカチ。これは私と妻を結びつけた。

 ブラウニーが言い当てた通り、当時私はダイナーで働いていた妻に好意を寄せていた。だが女性に好意を伝えるのが苦手だった私は、ダイナーの常連客とウェイトレス以上の関係に踏み出せなかった。

 ある日、私はダイナーのテーブルにこのハンカチを置き忘れたまま帰ろうとした。すぐに彼女が気がついて「忘れましたよ」と私を呼び止めたのだが、彼女は私にハンカチを渡そうとそれを手にした後、突然泣き出したのだ。一体何事かと慌てふためいた私に、彼女は一年前に病気で亡くなった妹が描いていた兎の絵にそっくりだったから、感情が高ぶってしまったのだと言った。私は彼女が落ち着くまでカウンターで話しを聞き、そのハンカチを彼女にプレゼントした。以降、私達は親しくなり、一年と経たずして夫婦になった。

 悲しみにつけこんだようで私はこのきっかけが好きではなかったのだが、妻が「私はあなたが初めてダイナーに来た時からずっと好きだったわよ。いつまでもくっつかないから妹が痺れを切らしたのね。あの子はそういう子だから」と言ったので、それ以来あまり気に病まなくなった。ブラウニーがいるのだから霊もいるに決まっているし、妻の妹の霊なのだから善良な霊に決まっているのだ。

 報酬はいつも不出来で不恰好な何かの失敗作だった。なぜなのかと聞くと、ブラウニーは「お前に与えている報酬は世界中の職人達が『こんなものはもう見ていられない』と投げ捨てた処女作だからだ」と答えた。優れた職人は時に魔法の宿った物を作り出すことがあるが、それでも運命を変える程の魔法を宿すのは最初の作品だけなのだそうだ。

 私が「お前にも処女作はあるんだろう? 何を作ったんだ?」と聞くと、ブラウニーは意味ありげに笑って夜空を眺めたのだった。


   五


 私はブラウニーと二回だけ激しい喧嘩をしたことがある。

 刑務所に職人以外の囚人を住まわせたくなかった彼は、職人ではない囚人に首を吊らせようとしたり、看守に見つかるように脱獄させて射撃の的にしようとしたのだ。しようとしただけではなく、実際にやった。死んだら次の囚人がくるので、『アタリ』を引くまでそれを続けようとしたのだ。

 私が激怒するとブラウニーは「だって、あいつらは職人じゃないんだぞ」と、なぜ私が怒っているのかまるでわからないという顔で言った。その態度は私の怒りに油を注ぎ、私は運び屋を止めると彼に怒鳴った。報酬が貰えなくなることに不安はあったが、それも長く続かなかった。不安と共に生きるのは当たり前のことだと思い出したからだ。

 ブラウニーは恐ろしい顔で私を脅したり、報酬をつり上げると申し出たりしたが、私が「職人じゃない囚人を殺さないと誓うまで運び屋はしない! 次に私と同じ蜂蜜の目をした看守がくるまで木工所でベニヤ板でも撫でて過ごすんだな!」と怒鳴ると真っ青になり、決して職人ではない囚人を殺しませんと誓いを立てたのだった。

 私は運び屋を再開したが、彼から報酬を受け取るのはきっぱりやめにした。ブラウニーがかなり訝しんだので、私は「お前から貰いすぎると自分の人生を生きているのか、お前が決めた人生を生きているのかわからなくなるし、いずれお前から離れられなくなりそうだから」と正直に答えた。ブラウニーは全く悪びれることなく、それどころかやや戸惑った顔で「そりゃぁ、そのために与えてたんだからなぁ。お前もわかってると思ってたよ」と言った。この時ほど彼を恐ろしいと思ったことはない。

 二回めの喧嘩はルーク・スミスを巡って起きた。

 スミスは通りすがりの女性に対するある非常に残酷な行いによって無期懲役となった男だった。彼は自分は無実だと言い続けてきたが、誰も彼を信じなかった。私もだ。彼の物静かな気質を好ましく思っていたにせよ。

 ところが一九九六年に事態は急変した。新しく導入されたDNA鑑定により、彼の無実が証明されたのだ。真犯人は別の事件でカリフォルニアの刑務所に収監されており、スミスが罪を背負わされていた陰惨な事件は自分がやったと自供もしていた。お陰で特に揉めることもなく、スミスは全ての罪で無罪が認められ、刑務所を出ることになった。

 私は胸騒ぎを覚え、釈放がほぼ確実となってからスミスから目を離さないようにしていた。そして悪い予感は的中した。刑務所から別の場所に移される前日、ブラウニーはスミスに手首を切らせ、その魂を永遠に刑務所に縛り付けようとしたのだ。スミスの元に駆けつけるのが少しでも遅れていたら、きっと手遅れになってしまっていただろう。

 「二十年も冤罪だった男になんてことをするんだ!」と怒鳴った後で私は気がついた。ブラウニーは人間のことなら何でもわかる。私の目のことも全部わかってた。つまり、スミスが濡れ衣を着せられていることも彼にはわかっていたに違いないのだ。

 私が怒りで声を震わせながら「知ってたな?」と聞くと、ブラウニーは「だってあいつは職人だぞ。俺のものなんだ」と、やはり悪びれずに答えたのだった。

 私は警棒片手にブラウニーを刑務所中追いかけ回し──彼は姿を隠そうとしたが、本当に怒った私の目は欺けなかった──、他の看守に取り押さえられて救急車に叩き込まれた。そして精神が落ち着くまで二ヶ月間の自宅謹慎を言い渡されたのだ。

 謹慎が解けた後も私はブラウニーを無視し続けた。ブラウニーは最初怒っていたが、やがて寂しげに肩を落とすようになり、その内私の前に姿を表さなくなった。

 半年程過ぎた頃。木工所で見張りをしていた私の前にブラウニーは突然現れ、分厚い紙束を押し付けてきた。私は突っ返そうとしたが、その時にはもう彼の姿はなかった。

 紙束は刑務所に収監されている無実の囚人達のリストだった。職人である囚人も職人ではない囚人も両方入っており、無実を証明するにはどこに行って何を調べ、誰に会って、何を話せばいいのか全て書いてあった。それぞれに適した弁護士の連絡先まで。

 当然、私はやるべきことを全てやった。時間はかかったがリストに書いてあった囚人達は全員釈放され、自由の身になった。

 最後の一人が釈放された日、運動場の見張りをしていた私の前にブラウニーがやってきた。木工所で会ってから何年も経っていたので、私は驚いた。それに表情にこそ出さなかったが、実はまた彼と会えて嬉しかったのだ。

 ブラウニーは咳払いをしてから「あー。色々考えたんだが」と話し始めた。

「どんなに考えてもお前が何を怒っているのか俺にはまるでわからない。それでもお前が怒っているのは事実だし、俺と口をきいてくれなくなったのも事実だ。それで、なんというか、お前が色々な物を調達してくれないのは困るが、そういうことではなくて、俺は、お前と話せなくて俺は、まぁ、ちくしょう、寂しいんだよ!」


 その夜。すっかり音の減った職人達の賛美歌を私達は二人並んで聴いた。

 悪くはない夜だった。それから私が退職を決めるまで、悪くはない夜はずっと続いた。


   六

 

 刑務所を定年退職する日、ブラウニーは私に夜を差し出した。

「これが俺の処女作さ。最初に作った夜だ。特別な品だが、お前にやろう」

 私は身にあまる物を差し出されて困惑していたのだが、ブラウニーは私が警戒していると勘違いして「お前を俺や刑務所に縛りつけようってんじゃないよ。これは本当に贈り物だ。こうやって揺すると星が流れる。綺麗だろう? いつかその時がきたら思いっきり振って流星群を起こすといい。その時がくればわかるはずだ」と言った。

 私は夜を受け取り、別れの握手を交わした。私の後任は決まったのかと聞くと、ブラウニーは「お前がくるまで百年ばかりかかったんだ。あと百年は気長に待つさ」と笑った。

 「お前は職人ではないし、俺のものでもないが、俺の友達だよ、パトリック・ソロー」


   七


 ホリデーシーズンに入り、娘夫婦が半年前に生まれた孫を連れて訪ねてきた。

 妻は何かと娘の抱く孫を覗き込んでは「なんて綺麗な目なんでしょうね」と繰り返した。確かに孫の目は美しかった。夏の晴れた日の青空のように。

 昼食を終えた後、娘が「前に話してた退職祝いを見たい」と言ったので私は孫を抱いた娘を部屋に招き、夜を見せることにした。

 娘は「よくできてるわね」と言い、孫は不思議そうな顔をして手袋で覆われた小さな手を夜に向けて伸ばしていた。どういうわけか最近顔を引っ掻く悪癖がついてしまったから、収まるまで手袋が欠かせないのだと娘は言っていた。

 夜は小さな客人を楽しませるため、いつもより優しく星々を輝かせていたのだが、突然その輝きを刃物のように鋭く尖らせた。何事かと思う間もなくしっかりと留めていたはずの額が突然壁から外れ、夜は真正面から床に落下した。音に驚いて孫は泣き出し、娘は慌てて「ああ、どうしよう。触ってなかったのに!」と弁明した。

「きっと留め具が緩んでいたんだろう。怪我はないね?」

 私は星々の無事を確かめようと、しゃがみこんで夜の縁を両手で持ち、床を向いていた夜の顔を自分に向けた。私は思わず息を飲んだ。星々は夜の中で白い炎の矢を思わせる流星となり、人差し指ほどの大きさの何かを追いかけ回していたのだ。

 蝶のような羽根とカマキリのような尖った腕を見て私は最初、その何かを虫の一種だと思った。夜が落下した時に真下にいて潰され、そしてそのまま夜の中に吸い込まれて出られなくなってしまったのだろうと。だがそれが虫であるはずがない。羽根と腕以外は人間によく似ていた。妖精だ。夏の空のように美しい青色の羽根。尖った腕の先端にある黒い毒爪。孫の顔の周りの引っかき傷──全てが頭の中で一つに繋がった。こいつだ。

 私は夜を持ち上げると、そのまま思いっきり上下に振った。流れる星々は勢いを増して泥棒に襲い掛かり、その燃えあがる炎によって泥棒を跡形もなく消し去った。殆どの星が流れて消えた後、ブラウニーの髪色を思わせる赤い星だけが夜に残った。

「真っ暗になっちゃったわね。受け止められればよかったんだけど」と残念そうに娘は言った。何も見えてはいなかったのだろう。

 私は一つだけ星の残った夜を再び壁に戻して言った。


「真っ暗なんかじゃないさ。これはこの世でもっとも素晴らしい夜なんだ」

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パトリック・ソローの素晴らしき夜 千葉まりお @mario103

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